マイペースな僕ら
02
 にっこりと微笑むその顔は、まぎれもなく僕自身……古泉一樹の顔だった。なんだこいつは、と混乱しつつも、油断なく身構える。もうひとりの僕は片手を振って、僕を押さえるような仕草をしてみせた。
「ああ、警戒しなくて大丈夫ですよ。あなたもおそらく察してはいるでしょうが、僕は長門さんがおっしゃるところのα世界に属する、1年と少し前に涼宮さんのお力によりあなたと入れ替わることになった、古泉一樹です」
 なるほど、と、僕はとりあえず警戒態勢を解いた。つまりこの古泉一樹≠ヘ、あの世界で会った彼≠ェ、一樹、と呼んでいた人物ということか。
「今、我々がいるここは、両世界の長門さんが協力して作り上げ、維持してくださっている疑似空間です。あまり長くはもたないようなので、さっさと用件に入らせていただきますね?」
「用件って……」
 なんとなく、何を言われるかを察して身構える。古泉一樹≠ヘ組んでいた足をほどき、また笑った。
「もちろん、あまりにふがいないあなたに活を入れに来た、と解釈してくださってかまいませんよ。この1年、一体あなたは何をしていたんですか」
 そいつが椅子から立ち上がると、椅子はいつの間にか姿を消した。近づいてきて僕の目の前に立ち、腕を組んで睥睨するように僕を見る。
「せっかく去年、僕らがお膳立てしてキスまでは進められたのに、その後手も出せないなんてヘタレにもほどがあるでしょうが」
「……あなたには関係ないでしょうっ」
 上から目線で言われて、ついカチンと来た。なんでこんなことを、こいつに言われなきゃならないんだ。これはこの世界の僕と彼の問題だ。いくら異世界の自分自身とはいえ、はっきりいって大きなお世話というものだ。
「彼が、まだ僕と先へ進むことを望んでいないんだから……無理強いなんてできないし、したくない。僕は別に、彼とそういうことをしなくたって」
「一緒にいられるだけで満足、ですか?」
 やれやれ、と古泉一樹≠ヘ肩をすくめて首を振る。……自分ながら、なんだかむかつく仕草だな。
「僕を誰だと思ってるんです? 界が違い、彼との関係性も多少違うとはいえ、あなた自身なんですよ? そんな……言わば自分自身に、見栄張って嘘ついて何になるんです」
「嘘なんかじゃ……!」
「古泉一樹」
 ふいに、そいつの目が真剣な色を帯びた。どこかふざけた調子だった口調が、いきなりあらたまって僕を呼ぶ。
「なん……」
「嘘を、自分自身で真実だと信じ込むのは、僕の……あなたの悪い癖です」
「…………!」
 真剣なまなざしは、そこまでだった。再び少しふざけたような笑顔になって、異世界の僕は先を続けた。
「と、彼によく言われるんですよ。お前のそれは役目上しかたないのかもしれんが、俺の前ではやめろ。嘘つくなら嘘らしく、うしろめたいと思いながらつけってね。片っ端から見破ってやるから覚悟しろ、ともおっしゃってましたねぇ」
 まいりますよね、まったく、とぼやくその顔は困ったようにしかめられてはいたものの、いつか見た写真みたいに幸せそうだ。僕は毒気を抜かれて、ただそいつを目をしばたたいて眺めるのみだった。
「まぁ、なんだかんだと言っても、あなたは僕自身ですからね。気持ちもわかります。彼にあんなことを言われれば、我慢だってしちゃいますよねぇ。でも……」
 意味ありげに、そいつは僕に流し目をくれる。
「彼がね……ああ、この場合は僕の最愛の人であるこちらの世界の彼のことですが……、ここ数日すごいんですよ」
「……すごい?」
 何が? という無言の僕の疑問に、異世界の僕は楽しそうに答えた。
「もう毎日のように、僕とセックスがしたくてしょうがないみたいでね。受験生であるにもかかわらず連日僕の部屋に来ては、抱いて欲しいって色っぽくせまってくるんですよ。しかも僕のが中に欲しいからってゴムを使わず生でしたがって、1回終わってもさらに2回も3回もおねだりを痛い痛い痛い痛いですっ」
「ちったあ表現を抑えることを学べこの馬鹿がっ。脳みそ絞り出して代わりに綿詰めんぞ」
「だから、僕のクッション化計画はやめてくださいって〜」
 いつのまにやらそいつの後ろに現れ、こめかみを拳でぐりぐりと挟んでいるのは、1年ちょっと前のあの日以来忘れたことのない、異世界の彼≠セった。
「よう。久しぶりだな、古泉。元気だったか?」
「あ……」
 彼≠ヘちょっと照れたような顔で、僕に笑いかけてくる。元気です、と答えたら、そっかよかったとうなずいてくれた。なつかしさに、熱いものが胸にこみあげてくる。
「すまんな。コイツがアホで」
「いえ……」
「アホとはなんです! 僕はただ真実のあなたの姿を、異世界の僕に教えようとですね」
「言い方ってもんがあるだろうが!」
 ぐりぐりぐりと容赦なく拳に力を入れて、彼≠ヘさらに異世界の僕に悲鳴をあげさせている。でも、今の言い方だと……。
「それじゃ、言い方はともかく、その彼が言ってること自体は本当なんですね?」
「う……ま、まぁな」
 真っ赤な顔で、彼≠ェ恥ずかしそうに目を逸らす。だが……それは仲がよくてけっこうなことだと思うが、僕になんの関係があるというのだろう。まさか、ただ惚気を聞かせにきたのか?
「共振作用、なんだってよ」
「は?」
 そっぽを向いたままそれだけを言って口をつぐんでしまった彼≠フかわりに、その腕の中で古泉一樹≠ェあとを引き取って解説を始める。痛いと言いつつ嬉しそうなのが、なんだか腹がたつな。
「つまりですね、去年のバレンタインに僕らに共振してあなたたちがキスをしたのと同様に、こちらの世界の彼の気持ちが、僕の最愛のこの彼に影響を及ぼしているんですよ。つまりどういうことなのか……わかりますよね?」
 彼≠ェこいつとセックスしたくてたまらなくなっているのが、こちらの世界の彼の影響……ということは。つまりこちらの彼は、それほどまでに強く僕と……えええええー!?
 頭に一気に血がのぼって、真っ赤になったのが自分でわかった。異世界の僕はわざとらしく、困った顔で首を振る。
「そういうことですよ。おそらく初キスが去年のバレンタインだったせいでしょうね。今年もその日が近づくにつれ、そちらの世界の彼の気持ちと期待が高まっていって、僕の彼がその影響でこうも積極的にいやらしく痛い痛い痛いやめて脳みそ出ます〜」
「懲りねえなお前は! ……だからな、古泉。こっちの世界の俺、は、お前としたくないわけじゃないと思うぞ」
「で、でも……」
 信じられない、とつぶやくと、彼≠ヘ肩をすくめて苦笑した。
「むしろ今は、そのことしか考えられなくて悶絶してるんじゃないか。俺の今の状態から察するとな。とりあえずお前がなんとかしてくれると、俺が助かる」
 これでも受験生だしな、という彼に、僕はあいまいにうなずいた。
 まさか、本当にそうなんだろうか。真実、彼がそう思ってくれているのなら、僕の方に躊躇する理由はひとつもないのだが。
 半信半疑で考えを巡らせつつ、だけどもうひとつ問題があることに気がついた。
「あ、でも森さんが……」
 いつ森さんが乱入してくるかわからない場所で、ことに及ぶのは危険すぎる。そう思ってから、ふと、こちらの2人はどうしているのかと聞いてみた。
「確かにこちらの世界でも、森さんは同じマンションに住んでいますけどね」
「俺が通うようになってからは、あんまり来なくなったなそういえば」
 顔を見合わせて、2人はうなずきあっている。
「別に関係がばれてるわけじゃないと思うんだが、ときどき差し入れを持って来てくれるくらいにとどまってるな。まぁ、彼女、ちょっと味覚が変わってるみたいで、妙な差し入ればっかりなんだが」
「そうなんですか?」
「ああ。牡蠣フライとか山芋おろしとかウナギの蒲焼きとかは嬉しいんだが、すっぽんとか丸ごと持ってこられてもな。料理法にも困るっつーか。飲み物はたいてい栄養ドリンクだしな−。まぁ、受験勉強には必需品だけどさ」
 あのー……それ、たぶんバレてます……、と喉まで出かかって、彼≠フ後ろで異世界の僕がそっと人差し指を唇にあてているのに気づく。そいつは僕に向けて器用に片眼を瞑ってみせてから、いかにも可愛いというまなざしで彼≠見ていた。
「たぶん、大丈夫じゃないか」
 異世界の僕のそんなまなざしに気づかず、彼≠ヘ難しい顔でそう言った。
「こっちの森さんと、俺たちの世界の森さんが同じような趣味ならな。今年のバレンタインは、たぶんそれどころじゃない」
「へ?」
 どういう意味だろう、と首を傾げたとき、どこからともなく長門さんの声が聞こえた。
『疑似空間の安定レベルがマイナスに移行。これ以上の空間の維持は困難』
「わかった。ちょうどこっちも、話が終わったとこだ。すぐに戻るから、もうちょっとがんばってくれ、長門」
『了解』
 ああ……帰るのか。少し残念な思いで見返すと、彼≠ヘもう一度笑ってくれた。
「それじゃ、俺たちは帰るな。がんばれよ、古泉」
「はい……」
 異世界の僕も、笑顔で僕に手を差し伸べる。
「あなたの彼≠大切にしてあげてくださいね。あ、これはプレゼントです」
 握手しようと差し出した手に、なにやらふくらんだ紙袋を押しつけられ、思わず受け取ってしまった。そうしているうちにも、疑似空間とやらはどんどん崩れ、彼らの姿も見えにくくなってくる。
「じゃあな、古泉。元気でな!」
「あ……あの!」
「ん?」
 これだけは言わなくては、と僕は叫ぶように彼を呼び止めた。
「僕、あなたにお礼を言わなくちゃって、ずっと! 告白できたのも、キスもみんなあなたのおかげで……」
「バカだな」
 崩れゆく空間の狭間で、彼≠ヘ肩をすくめた。ああ、彼のお得意のポーズだ。
「俺たちはほんのちょっと、背中を押しただけだ。頑張ったのはお前だろ、古泉」
「でも……!」
「自信を持てよ。大丈夫だ。世界は違ってもお前は、俺の大好きな古泉一樹≠ネんだからな」
 縁があったらまたな、という声を残し、彼らは消えた。ありがとうございました、と最後に叫んだ僕の声は、彼の耳に届いただろうか。
 気がつくと僕は、冷たい寒風の吹きすさぶ図書館の石畳の道に、1人で佇んでいたのだった。


******************


 礼として、駅前のラーメン屋の無料券を渡してやると、長門はさっそくそれを持って、一樹の部屋を出て行った。無表情のままではあったが、心なし目が輝いてた気がするな。どうでもいいが長門、渡してやった10枚をいっぺんに使おうとするんじゃないぞ。ラーメン屋のオヤジが、たぶん泣くからな。
 長門のつくってくれた疑似空間とやらから戻った俺たちは、一樹の淹れたコーヒーを飲みながら一息ついているところだ。お節介だったような気もしないでもないが、ひさしぶりにあっちの古泉の顔が見られたのはちょっと嬉しかったかな。
「とりあえず、あとはあいつら次第だろ」
「大丈夫でしょう。うまくいきますよ。彼も古泉一樹≠ナすしね」
 その返事にほんのちょっとだけトゲを感じて顔を上げると、一樹は組んだ手に顎をのせ、にっこり笑顔だった。……ん、ああ。
「なんだ。妬いてんのか、俺が最後に言ってやったやつに」
「まぁ……少しだけ」
「アホか。あれは、間接的にお前に言ったようなもんだろうが?」
「そうですけど〜。なんか納得いかないです。僕にも言ってくださいよぅ〜」
「はいはい、大好き大好き」
 なんですかその適当なの〜! とか言いながら、抱きついてきてぐりぐりと頭をすりつける図体のでかいガキの額をぺしぺし叩く。
「やめんか。コーヒーがこぼれる」
 叩いても離れようとしない男を片手でいなしつつ、俺は熱いコーヒーをすすって、大きく溜息をついた。しかしまぁ、あいつらがこれでうまくいってくれれば、ようやく俺が連日悩まされた性欲の暴走もおさまるだろう。やれやれだ。
「僕としては、ちょっと惜しいんですけどね」
 いまだにぺったりと人に張り付いたまま、不満顔で一樹が言う。
「お前な……」
「だって、あなたからのお誘いやら積極的な態度なんて、普段はめったにないことじゃないですか! もったいないなーというのが、正直な感想ですよ」
 ぎゅうぎゅうと抱きしめる腕に力をいれて、一樹はしょんぼりと落ち込むフリをしている。まぁ……普段、あんまりサービスできてないのは自覚してるんだが。こういう性格なんだからしかたない。
 それでも今回、一樹は俺の不安を解消させることの方を優先してくれた。受験勉強に響きますからね、なんて言ってたが、俺のことを心配してくれたんだってことは、もちろんわかってるさ。
「あー……一樹」
「はい?」
「その……ありがとな」
 あらためて言うのは照れるな、と思いつつそう言うと、一樹はにっこりと嬉しそうな笑顔になって、どういたしまして、と返してくる。その腕の中に身体をもたせかけて、ついばむようなキスを何度か繰り返した。
 本当に、自分は一体どうしちまったんだろうって、ちょっと怖かったからな。自分で制御できない情動ってのは、恐怖なのだとしみじみ思った。
「淫乱、ってのも立派な病名だってのは聞いたことあるが、それとはちょっと違ってたからなぁ」
「どのあたりがです?」
「ああいうのは、相手は誰でもいいからセックスしたいっていう衝動なんだろ? 俺の場合、対象がお前だけだったからさ。むしろ、お前のこと好きすぎてどっかリミッターみたいなもんがはずれたのかとか思ってた」
 いきなり一樹が息を飲んで黙り込んだ。なんだ? どうかしたか?
「……そういう無自覚なところが、凶悪なんですよねぇ、あなたって人は」
「あ?」
 まぁいいです、と一樹は溜息をついて、俺を抱いていた腕を腹のあたりにずらし、肩口に顔をうずめた。なんだ急にと思いつつ、そういえばと、ちょっと気になってたことを口にしてみる。
「なんですか?」
「いや、俺はあんなに影響受けまくってたのに、なんでお前は平気だったんだろうと思ってな。間違いなくあっちの古泉も、そのことが頭から離れなかったはずだと思うんだが」
「そんなの、あたりまえです」
 やれやれと肩をすくめて、一樹は何を馬鹿なことをと言わんばかりだ。
「あなたとキスしたい、抱きあいたい、セックスしたいと常に考えているのなんて、僕のごく普通の状態ですよ。言わばデフォルトというやつです。いまさらあっちの僕がそんな状態になろうと、変わりようがありませ痛い痛いですってもうコレやめてくださいよマジでシャレにならないくらい痛いんですって〜!」
「うるさいわこの変態が!」
 そんなこと言いつつ、なんで嬉しそうなんだお前は。ドMか。やってるときはどっちかっていうとSっぽ……ああいや今のナシだナシっ!
「痛たたた……あ、そうだ。変態ついでに、ご褒美をねだっていいですか」
 ふいに何か思いついたように、一樹は腕を今度は肩のあたりに回して、耳元で悪戯っぽい口調でささやいてきた。というか変態でいいのか。
「ご褒美?」
 なんだか嫌な予感しかしないんだが……とりあえず言ってみろ。
「明日のバレンタインに、どうか夢のチョコプレイをっ」
「はぁ!?」
「ずっとやってみたかったんですよ、チョコプレイ! 一度でいいので、男の夢を叶えさせてやってくださいませんか」
「お前な! 食べ物で遊ぶなと……」
「ですから、使うのはデコペン1本で、もちろん1滴残さず食べ尽くすと誓います!」
 デコペンってのはあれか。クッキーとかケーキとかの上に文字を書く用の、チューブに入ったチョコじゃなかったか。妹がときどき菓子作るのに使ってるやつ。
「それですよ。あれならベッドも汚れませんし」
 ほんっとに変態だなお前は。あっちの古泉の可愛らしさをちょっとは見習えよ。
「あっちの僕だって、そのうちこうなりますって」
「不吉な予言はやめろ。俺の夢を壊すな」
「いいじゃないですか。バレンタインは年に一回しかないんですよぅ」
 だからその、捨てられた子犬みたいな顔やめろ! お前俺がそーいうのに弱いの、わかってやってるんだろ。……あーもうわかったわかった。
「……えっ?」
「なんだよ。わかったって言ってるだろうが」
「え、ホントにいいんですか!?」
 自分で言いだしておきながら、俺が了承したらまるで天変地異が起こると聞かされた人みたいな顔でのぞきこんできやがった。
「まさかあなたがそんな……」
「うるさいな。文句があるならやめるぞ」
「えっ、いえ、ぜひお願いします!」
「言っとくが今回だけ、特別だからな!」
 了解です! さっそくデコペン買って来ますね! と立ち上がる一樹。ちょっと待て、お前が買うのか。いいのかそれで。
「あなたの気が変わらないうちにねっ。あ、バレンタインは明日ですが、繰り上げて今夜ってわけには……」
「お断りだ!」
 きっぱりと断ってやると、一樹はちょっと残念そうな顔になってから、ではお楽しみは明日までとっておくことにします! と宣言して、サイフだけもって部屋を飛び出していった。ホント、どこまでもマイペースなやつ……。
 まったく、どうして俺はあんなのが好きなんだ。
あっちの世界の純情古泉も悪くないとは思いつつ、やっぱり俺の一樹の方がいいんだよなと思っちまうあたり、終わってるぜ……いろいろとな!

 そんなわけで俺は、翌日のバレンタインに一樹の要望通りのその……ナントカプレイとやらをしてやるはめになった。
 最初はアホかと思ってたんだが、そのうちに俺もなんだかノってきて、終いにはもう思い出すと恥ずかしくて奇声を発してそのへんを破壊してまわりたくなるようなことをしちまったのは、たぶんまだ共振作用が働いてたせいだな。
 うん。そういうことにしておいてくれ。
 ……頼むから。


******************


 彼≠ェ言った、森さんが今年はそれどころじゃない、という言葉の意味がわかったのは、土曜日の昼前に森さんの部屋へ客用布団を借りに行った時だった。昨日の反応ではもしかしたら来ないかもしれないと思った彼がゆうべ遅く、明日は昼飯食ってから行くからというメールをくれたので、一応準備しておくことにしたのだ。
 無駄と思いつつ、彼と勉強する予定なので、今日は乱入してくるのはやめてくださいねと釘を刺してみたら、森さんは今日はそんなヒマないわよ! とやけに気合いを入れて断言した。
「デ、デートの予定でもあるんですか」
「えーそうねー気持ち的にはねー」
 にゅふふふふ、と聞こえる妙な含み笑いを発しながら耳打ちするように教えてくれた森さんの本日の予定は、なんと、とあるアイドルグループのバレンタインコンサートなのだそうだ。森さんにそんな趣味があるとは、今まで知らなかった。
「じゃあ、今日は帰りが遅くなるんですね?」
「今日は帰んない」
「え?」
「コンサート終わったあとは、ファン仲間とオールでカラオケって決まってんのよ! あ、チョコは明日回収するから、ちゃんと取っておきなさいね。ゴディバとか隠したら許さないから!」
 僕がもらったバレンタインチョコは、奪って行く気満々らしい。ホントに困った大人だ。これでいて、閉鎖空間では鬼指揮官に豹変するのだから、女性というのはまったく不思議な生き物だと苦笑する。
「わかりましたよ。では、布団はお借りしていきますね」
「使ったシーツはクリーニングにまわしときなさいね」
「了解です」
 ご機嫌でそのグループのものらしき曲を口ずさみつつ、服を選ぶ森さんにそう言って、僕は彼女の部屋をあとにした。
 さて、これであと残る問題は……と、テーブルに置きっぱなしの、別れ際にあちらの世界の古泉一樹≠ェ押しつけるように渡してきた紙袋を見る。
 昨日、自習室に戻ってからなんだろうと中身を取り出そうとして、途中で気がついてあわてて袋の口を閉めた。危なかった、と冷や汗をそっと拭うような……まぁ、そういった品物だ。気が利くと感謝すればいいのか、気の回しすぎたと呆れるべきか。あの人は確かに異世界の自分で、いわば分身ともいうべき存在なのに、まったく何を考えているのかわからない。
 枕元に置いておくべきか、それともどこかに隠すべきかと、袋を持ったまま部屋の中をうろうろしていたら、やがてチャイムが鳴った。どうやら彼の到着らしい。必要になるかどうかはこのあとの展開しだいだが、とりあえず僕はそれをベッドヘッドに無造作に放り投げて、彼を迎えるべく玄関へと足を向けた。
「いらっしゃいま……」
 ドアを開けた途端、鼻先に思い切り何かをぐいと突きつけられて、思わずのけぞる。なんだこれ、と思ってよくみるとそれは茶色の包装紙で丁寧に包まれ、赤いリボンとピンクの造花で飾られた小さな包みだった。
 耳まで真っ赤に染めて目を逸らしつつ、無言で突きつけている彼の態度を見るまでもなく、それはバレンタインのチョコレートだと察せた。去年はどう頑張ってもポッキーが限界だった彼が、こんないかにもなチョコを買うにはどれほどの勇気がいったことか。あまりに感動した僕は、黙ったままで玄関先に立ち尽くしてしまった。
「……いらないんなら、妹にやってくる」
「え、ちょっ、待っ、待ってください、いりますいります欲しいですっ!」
 いきなり踵を返そうとした彼をあわてて止めた。彼は、ならやる、とつっけんどんに言い放って僕にチョコを渡し、さっさと靴を脱いで部屋に上がっていった。
 そのあとを追ってリビングに戻ると、彼は入り口付近で足を止め、ベッドの上に重ねて置いてある客用の布団を見つめていた。表情は見えないが、その背中から緊張が伝わってくるようだ。僕はわざとそれに気がつかないふりで彼の脇をすり抜けて、キッチンに向かう。用意してあったお茶とケーキをテーブルに運んで、いまだ佇む彼の背中に、一息入れてから問題集でもやりましょうかと声をかけた。
「ああ……入試はもうすぐだし、いまさらジタバタしてもしょうがないけどな」
 なんでもない顔で振り返って、彼はそう言った。そして自分に用意されたケーキが、少し凝ったチョコレートケーキであることに気がついたらしく、サンキュと小さくつぶやいてくれた。

 それから僕たちはそれぞれに普通の状態を装って、問題集をやったり息抜きと称してゲームをしたりと、どこかぎこちなく午後を過ごした。
 夕飯は約束通りに彼がカレーを作ってくれて、それはとてもおいしかったのだけれど、僕も彼も緊張していてあまり喉を通らず、かなり残ってしまった。彼は、まぁカレーは二日目がおいしいんだよと肩をすくめ、僕が後片付けをしている間にバスルームを使いにいった。彼のあとに僕も入浴し、出てみると彼はまた、ベッドの横に立って客用の布団を見つめていた。
 あちらの世界の彼≠ェ言っていた、むしろそのことしか考えられなくて悶絶してる、という直截な言葉を唐突に思い出し、また動揺する。本当に彼は、そんなことを考えてくれているのだろうか。いくら彼≠ニあちらの僕に保証されても、いざ確かめるのは怖い。とりあえず客用布団は敷いておくべきだろうかと考えて、背後から彼に近づいた。
「……っ!」
 足音に気がついたのか、彼がすごい勢いで振り返った。怖がらせたか、と一瞬思ったのだけれど、彼の顔に浮かんでいたのは、どちらかというと驚きと……羞恥? だった。……なんか赤くなってる?
「足音忍ばせて近づくな! びっくりするだろ!」
「え? いえ、普通に歩いてきましたが……」
「そ、うか? 聞こえなかったぞ」
 たぶん、なんらかの考えに没頭していたせいだろうとは思ったが、言わずにおいた。それはすみませんでした、と謝罪しつつベッドの上の布団を抱えて床におろすと、彼はそれと玄関の方を見比べながら言う。
「そういえば、森さんこないな。チョコ奪いに来るんじゃないのか?」
「ああ、今日は森さんはコンサートに出かけられたみたいです。終了後はオールでカラオケとか言ってましたから、帰るのは明日でしょうね」
「そっ……か……」
 ますます気まずげに、彼は目をそらす。その顔は、風呂上がりだからと言い訳できないほど、ますます赤く染まっていた。時計を見ればまだ宵の口で、明日が休みの高校生にとってはベッドに入る時間にはほど遠い。だけどなんとなく、もう引き延ばすのは意味がない気がしてきた。
「……昨日、あなたが帰られたあと、めずらしい方々にお会いしたんですよ」
「え?」
 ふいに変わった話題にとまどったのか、彼がこちらを見た。笑いが消えているだろう僕の顔に、さらにとまどいを深くする。
「去年、涼宮さんのお力で僕が入れ替わることになった世界の……長門さんがおっしゃるところのα世界の僕と、あなたです」
「えっ、あいつら? なんかなつかしいな」
 とまどいの消えない彼の目に、追憶の色が入り交じる。彼は自分自身である彼≠ニの面識はないはずだから、あちらの古泉一樹≠思い出しているのだろう。それにしてもどうやってこっち来たんだと不審そうな彼に、長門さんがどうにかしたようですよと説明すると、彼はますます首を傾げた。
「そんなことまでして、わざわざ何しに来たんだ? あいつら」
「僕のあまりのふがいなさに、活を入れに来てくださったんだそうです」
「活っ、て……」
 一拍の間を置いて、彼の顔に理解の表情が浮かぶ。気まずげにうつむいた彼にずいと近づいて、二の腕を両手でつかむ。驚いて顔を上げた彼を見つめながら、逃がさないという意味をこめて、その手に力を入れた。
「ええ。わざわざ長門さんにお願いしてまで、言いに来てくれたんですよ。……いつまでプラトニックでいる気だ、いい加減にしろ、というようなことを」
 それに何か言い返そうとした彼の唇を、唇でふさぐ。そしてまだあたたかい風呂上がりの身体をぎゅっと抱きしめ、勢いでそのままベッドの上に押し倒した。
「ちょ……っ、こいず、み」
 舌をからめるキスの合間に、彼が僕の胸を押し返しながらそうつぶやく。でも胸に感じる力はごく弱くて、本気でやめさせようとしているわけではないとわかった。
「……ダメですか?」
「だってお前……昨日は……」
「あちらの僕が伝えてくれたことが、もうひとつあるんです」
 疑問をうかべる彼の顔を、上から覗き込むように見つめる。頬をうっすらと上気させ、うるんだ瞳で僕を見る彼の表情が、ひどく僕を煽っていた。
「あちらの彼≠ヘここ数日、なんというか……とても、積極的になっていたのだそうです。つまり、セックスに対して常にないほど貪欲なご様子で、本人も困っていらっしゃいました。彼が言うには、それは去年のバレンタインに僕らに起きた共振作用と同じものなのだそうです」
 つまり、と僕は続ける。
「あなたが、胸の奥深くで強く抱いている気持ちが、あちらの彼≠ノあらわれたのだ、と……」
 要領を得ない表情を浮かべていた彼の顔が、理解と同時にみるみる真っ赤に染まる。もはや首筋まで赤くした彼は、必死に手元に枕をたぐりよせて顔を埋めた。
「違いますか……?」
「…………っ」
 組み敷いた彼の身体は熱くて、手のひらに心臓の鼓動が伝わってくる。それはものすごい勢いでフル回転していたが、僕だって似たようなものだ。ドキドキが激しすぎて自分でもうるさいくらいでどうしようもない。その状態でじっと返事を待っていたら、彼はやがて枕に埋まったまま、小さくつぶやいた。
「……違わ……ない」
「え」
 思わず聞き返すと、彼はがばっと枕から顔を上げた。
「違わねぇって言ってんだろ! 俺だってずっと、お前としたいって思ってたよ! そんなの去年、はっきり言っといたろうが!」
 半ば怒鳴るように、彼はそう言い切った。だけどすぐに再び枕に顔を伏せて、さらに恥じ入るように埋めてしまう。
「たぶん……あっちの俺たちが言ってたっていうそれは正解だ。バレンタインが近いってのもあって、この頃はずっとそんなことばっかり考えちまう。つきあいはじめて1年ちょっとでそろそろ次の段階に進んだっておかしくない頃合いで、カラダだってなんだってもてあますお年頃なんだから、しょうがないだろ!?」
「では、なぜ……」
 今、聞くことではなかったかもしれない。だけどなぜ昨日は、すぐにうなずいてくれなかったのか。まだしたくないのだと僕が思ってしまったリアクションはどうしてだったのか、つい気になってしまった。
「俺がおかしいからだよ!」
 ヤケクソのように、彼は叫ぶ。
「お前と……するところとか想像したとき、なんでだか自分が女役やってるとこしか浮かばねえんだ。俺だって男なのに、立場的にはどっちだっていいはずなのに、どうしたってそれしか考えられなくて、しかも経験なんてねえのにやたらリアルに想像できちまって、俺は一体どんな変態なんだと思って」
 もう俺はダメだ、と勝手に落ち込んで、彼は枕に突っ伏す。
 なんだ、と思った。そんなことで、彼は躊躇していたというのか。いや、そんなことで、というのは彼に失礼かもしれない。自分の性癖が普通とは違うのかもしれないという恐怖は、僕だって彼を好きになった時点で経験済みだ。彼はもうその点は乗り越えたのだろうが、またさらなる恐怖に出会ってしまったということなのだろう。
 ああでも、僕との行為を想像してくれていたのだということだけで、もう嬉しくてたまらない僕はやっぱりひどいだろうか。
「……古泉?」
 ちらりと顔を上げて、彼が僕を伺い見た。どうしたんだ、と尋ねるように首を傾げる上目遣いが可愛らしすぎて、いてもたってもいられなくなる。部屋中走り回って壁に額を打ち付けたい衝動に駆られたが、まぁするわけにはいきませんよね。
 僕は必死に理性を総動員して、にっこりと微笑んでみせた。
「なんでもないです。あー……おそらくそれは、あちらの彼≠フ影響だと思いますよ? 彼≠ヘ、あちらの僕の言い方を聞いた限りでは、どうも受け身側のようでしたし」
「え、そう、なのか……?」
「おそらく、相互に影響を与えあっていたのでしょう。もともとはあちらの方が優位性が高いと、長門さんもおっしゃっていましたし……」
「そっか……なんだ」
 あきらかにホッとした顔で、彼は枕を抱く手をゆるめた。その隙にすかさず枕を取り上げて、頭の方に放り投げる。あ、と伸ばそうとした手をベッドに押さえつけ、僕は彼に顔を近づけた。
「安心しました?」
「まぁ、な」
「では……いいです、か……?」
 ほんの少し逡巡したあと、彼は目をそらしてこくりとうなずいた。
「うん。それなら……好きにすればいい」



 もちろん僕も、そしておそらく彼も、すべてが初めての行為だ。
 頭の中では何度もシミュレーションしたことはあるが、当然現実とはいろいろ違うだろう。だから僕は、キスしながら彼のスェットを脱がせたあたりまでは、必死でぐるぐると手順を考えていた。
 少しでも彼に、気持ちいいと思ってもらいたい。痛かったり辛かったりするような、嫌な思い出にはしたくない。そう考えて一生懸命だったけれど、いざ彼の一糸まとわぬ姿を見て、どことなく居心地悪そうにもぞもぞしながら僕を呼ぶ彼の声を聞いたとたんに、なんだかいろいろなものがはじけ飛んでしまった。
「あ……、ちょ……っ」
 本能の赴くままに首筋や胸にくちづけて舌を這わせ、脇腹をなで上げる。あせったような彼の声にかまっている余裕はなかった。脱がす前に灯りを消せと言われたので、部屋の中は、今は闇に沈んでいる。最初はまっ暗で何も見えなかったが、すぐに目が慣れたので問題ない。うっすらと薄闇の中に浮かび上がる彼の肌は、触ると張りがあってなめらかで、心地よかった。
 僕の手が触れるたびに彼の身体はびくびくと震え、喉の奥から押し殺した声があがる。彼が自分の口を両手でふさいで耐えているのに気がついて、もしやくすぐったいのかと一端離れてみる。だけどそれは間違いだということを、触ってもいないのにすっかり勃ちあがっている彼の性器が教えてくれた。
「気持ち、いいんですか……?」
 低い声でささやいて見ると、彼は口を手でふさいだままこくこくとうなずいた。目尻に浮かんでいる涙をなめとって、よかったと溜息をついた。
「声、我慢しないで……。僕しか、聞いてませんよ」
「んっ……や……」
 それでも彼は、声を出すまいと頑張っている。無理強いはよくないかなと、すぐにあきらめて愛撫を再開した。すっかり硬くなっている性器に触れると、それは勃っているだけじゃなくすでに先走りでとろとろの状態だった。裏の部分を根本から先端へとこすりあげたら、耐えきれなかったのか彼は高い声をあげ、そこからは透明な液がさらにとぷりとあふれる。その反応が嬉しくて、僕はなんの抵抗もなく彼のそれに舌を這わせていた。
「な……っ! こいず……そんな」
 止めさせようとしたのか、彼の手が僕の頭を抑える。だけどそれには力が入らなくて、舌で彼の性器を舐め、咥えて唇でしごくのになんの妨げにもならなかった。
「は……っん……や……あっ……」
 じゅぷじゅぷと濡れた音が響く。抑えることもできない彼の声とともに聴覚を刺激して、どんどん興奮が高まっていくのがわかる。こんな時になんだが、同性はわかりやすくていいなと思う。どこをどうすれば気持ちいいのか、自分に引き比べてみればわかるのはとても助かる。
「っあ……! こいず……だめ、もう……っ」
 ぎゅっと僕の頭を抑えていた手に力がこもった。途端に彼の身体が大きく痙攣し、咥えていた性器から白濁した液体が吹き出す。それは一部が口の中に、残りの大半は顔にかかった。全部口で受け止めるつもりだったのにタイミングがずれてしまった。
「ごめ……がまんでき、なかった……」
 はぁはぁと肩で息をしながら、彼が手を伸ばして僕の顔を拭おうとする。僕が笑いながら、飲もうと思ったのに残念ですと言ったら、彼の顔はまた赤く染まった。
「お前さ、なんか慣れてねぇ……?」
 くたりとベッドに身を横たえ、彼が拗ねたような声で言う。僕はとんでもないと、激しく首を振って否定した。
「初めてですよ! 慣れてるはずないでしょう」
「だって、なんか余裕あるし……」
「ないですよ。いっぱいいっぱいです。そういうあなたこそ、初めてにしては感度がいいというか……」
 緊張しながらも、すぐに快感を拾って反応しはじめた気がする。僕らは互いに顔を見合わせて、苦笑した。
「これもあっちの影響なのかな……なんかフクザツだぜ」
「まぁ、失敗するよりはいいと思っておきましょうか……」
 インターバルを置いて落ち着いたのか、彼の顔に笑みが戻る。が、身動いたはずみに足に僕のそれが当たったらしく、途端に彼はぎょっとした顔になった。
「す、すごいな。ガチガチだ」
「それはそうですよ」
 まだ履いたままだったパジャマの下の布を押し上げるものに、彼の手がおそるおそる触れる。思わず声をもらすと彼はあわてて手を離し、ためらいがちに聞いてきた。
「……続き、するんだろ?」
 たぶん、知識はあるのだろう。挿入するのか、と聞いてくれている。それはもちろんしたいが、彼の方が負担が大きいのは確かだから無理はさせたくなかった。
「あなたが無理そうなら、しなくてもいいですよ」
 なぜかそこで、彼はまた赤くなった。フイと顔をそらして、大丈夫だと思う、とつぶやく。それならばと僕は、ベッドボードに放りだしてあった紙袋に手を伸ばし、中からプラスチックのボトルを取りだした。それはなんだと言いたげな彼にボトルを見せながら、ローションですよと答える。
「よ、用意いいな」
「はは……。実はこれ、あちらの世界の僕からのプレゼントなんです」
 あとこんなものも、と紙袋の中から小さな箱を取り出す。興味津々な顔で彼が手を伸ばしたそれは、いわゆるコンドームと呼ばれるものだ。
「なんかこー、無性に余計なお世話だと怒鳴りたい心境なんだが……」
「確かに、必要なものではあるんですけどね……」
「とりあえずこれ、箱は開けとかないとまずくないか」
 そういえばそうだ。いざ使用する段階で、箱からあけていたのでは時間がかかりすぎる。彼はパッケージを破り、中から個別包装されたものを引き出して、つながっている部分を手で切った。そしてひとつを手に取り、まじまじと眺めている。
「う〜ん、前に谷口のアホに見せびらかされたから見たことはあるが、まさか使われる側になるとは思わんかったな〜」
 しみじみと感慨にふける彼には悪いのだが、コンドームをもてあそぶ彼という絵面は非情に心臓に悪い。インモラルな仕草が視覚を刺激して、ドキドキしてきた。
「うお! なんで突然でっかくしてんだお前っ」
「あなたがいけないんですよっ!」
 ぐいと足を持ち上げて、そこにローションを垂らしてみる。冷たかったのか、ひゃっと叫んで身をすくめる彼にかまわず、ぬるぬるした液体をそこに塗り込んだ。体温で温まり、なじんできたところを見計らって、彼の最奥を探ってみる。ちらりと顔を上げてみたら、さすがに直視できないのか、彼はきつく目を閉じて歯を食いしばっていた。
「ゆっくりしますから……」
 本来、何かを入れる用途には使わない場所だ。無理をすればきっと痛いだろうと思ったので、ゆっくり慎重に指を一本だけ差し入れてみた。
「……れ?」
 思ったより抵抗なく、指は入ってしまった。ローションですべりがよくなっているとはいえ、ずいぶん楽だ。彼自身もまるで心得ているかのように、そこに余計な力を入れていない。念のためにローションを足してもう少し奥へ進めてみても、やっぱり指は難なく奥にもぐり込んでいく。なんだろう、この……慣れている感じは。
「…………っ」
 僕の怪訝な様子に気がついたんだろう。瞑っていた目蓋を開き、僕と目があった彼は、赤い顔のままであわてて視線を逸らす。気まずそうなその顔を見て、そうかと察しがついた。
「こっち……で、してみたんですか? ご自分で……?」
「う……っ」
 どうやら図星らしい。しかもこの感じは1回や2回のことではなさそうだ。
 なんとなく嬉しくなって、僕はローションの助けを借りてさらに指を出し入れしつつ、彼にのしかかって耳元でささやいてみた。
「前だけじゃ、物足りないんですか……?」
「ち、違……っ」
 必死に首を振って否定するけれど、僕の指が動くたびに、その身体は小刻みに震える。彼が、その行為で感じているのは確かだった。
「もしかして……僕のが……入るところを、想像した……?」
「し、てねぇ……っ!」
 かたくなに首を振っても、身体は正直だ。ぐぷぐぷと、音がするほど激しく僕の指でかきまわされるそこはどんどんやわらかく蕩けてゆき、彼はそこからもたらされる快感に、殺しきれない声をあげ続ける。とても気持ちよさそうだ。
 たぶん、あちらの世界の影響で受け身側でしかセックスを想像できなかった彼は、おそらく最初は好奇心から、それを試してみたのだろう。彼がどんな風にしていたのか思い浮かべると、ものすごく興奮する。
「嬉しいです……」
「な……」
「本当に、僕としたいって、ずっと思ってくれてたんですね」
「……っあ!」
 指がどこかのポイントに触れたのか、彼の身体が大きくはねた。その場所をさらに攻めたててみたら、彼はもう声も出せずに、足を限界まで広げたままガクガクと身を震わせる。いつのまにかまたイッたらしく、腹のあたりを白い液体がべっとりと汚していたが、それでも彼の性器はまだ上を向いていた。そこにローションを垂らして後ろと一緒に刺激すると、一際高い嬌声が喉からあふれた。
「ぁ……も……俺……っ!」
 息を詰め、シーツをぎゅうとつかんで、彼はまた射精した。
「は……こい……ずみ……」
 はぁはぁと荒く息をつきつつ、うっとりとしか言えないような顔で僕を見上げる彼が可愛すぎて、もう理性はちぎれる寸前だった。もうこれ以上は、我慢できない。思わず乱暴に彼の両足を持ち上げて肩にかけ、片手で自分のパジャマのズボンと下着をまとめて引き下ろした。痛いほどに張り詰めているのが、自分でもわかる。
「挿れま……すっ」
 小さな彼のうなずきを了承の合図と解釈し、はじけ飛ぶ寸前の理性を総動員して、ゆっくりと彼の中に侵入を開始する。かなり慣らされてはいるけれど、指より大きなものが入るのははじめてのはずだ。痛がらせないよう、傷つけないよう、限界まで耐えつつじりじりと押し入った。
「痛……たっ、痛い……っ……うくっ……っ」
 それでもやはり、痛いものは痛いらしい。彼は目尻に涙をためながら歯を食いしばり、無意識に逃げようとする身体を必死で押しとどめている。あまりに辛そうで、半分ほど入ったあたりでやめましょうかと言ってみた。
「や……嫌だ……っ」
 上擦った声で叫び、彼はぐいと僕の腕をひいた。強引に唇を重ねられ、隙間から彼の舌が入ってくる。肺から絞り出すような呼吸をしているせいでうまくできないキスの合間に、彼は絶対やめんな大丈夫だからとかすれた声でささやいた。
 それが強がりだなんてことはわかっている。だけど彼のその決意が嬉しくて、僕も覚悟を決めた。あともうちょっとだったそれを、思い切って一気に押し込んだ。残りの半分がようやく中に飲み込まれ、同時に彼が引き攣るような声をあげた。
「入り……ました……よ」
「ぜ、ぜんぶ?」
「はい……ぜんぶ」
「そっか……」
 痛みとか色んなものに耐える彼の顔に、満足そうな幸せそうな笑みが浮かぶ。胸がきゅうっとしめつけられて、僕の中も幸福感でいっぱいになった。
「……やっと、お前を捕まえられた気がする」
「僕は、もうとっくにあなたの虜ですよ……?」
「虜ってお前……まぁ、わかってるけどさ。でもな……」
 こんなときに、他人の名前を出すのは無粋でしかない。それでも彼が気にしているのが涼宮さんのこと、あるいは機関のことだというのはわかっていた。彼女の力がある限り、僕が機関の一員である限り、逃げられないしがらみが僕にはある。わかっていても、もう覚悟は決めていても、僕たちにはどうすることもできないのがくやしかった。
「そんな顔すんなよ、古泉。俺は大丈夫だから」
「はい……」
「いいから、動けよ。そのまんまじゃ辛いだろ……?」
 確かに、じわじわと締め付けられ、這い上ってくる快感は耐え難い。僕は彼のその言葉に甘え、そろそろと動きだした。
「うわ……!」
 彼の中はすごくきつくて、全体をしめつけられる感覚がたまらない。すぐにでもイッてしまいそうで、僕は必死に快感に耐え、彼にも気持ちよくなってもらおうとポイントをさぐった。
「う……っあ! こ、いずみ……そこっ……」
 ぐっと身体をのけぞらせ、僕の腕をつかむ彼の手に力が入る。激しい息づかいに混じる嬌声は、だんだん高く抑えきれない情欲の色をにじませていく。あちらの僕たちの影響なのか、それとも自分で慣らしていたおかげなのか、彼ははじめてにも関わらず、行為に悦びを感じてくれているらしかった。
「っんぁ……あぁ……な……んか……俺……っ、きもちい……っ」
 そんなことを譫言みたいにささやかれて、たまらずに唇に口付ける。激しく舌をからめあい、口の端からあふれる唾液を舐めあった。背中にまわった彼の手が、ぎゅうぎゅうと容赦なくしがみついてくる。腹の間でこすれる彼の性器も、硬くて熱くて今にもはじけそうだ。もちろん僕自身にももう、余裕なんてカケラもない。
「あ、うぁ、な、んれ……こい……っあ! やぁ……っ」
 まわらない舌で、彼は僕の名を呼び続ける。やがて彼は悲鳴じみた声をあげ、ひときわ大きく身を震わせた。同時に腹の間の彼の性器から、生ぬるい液体が噴き出したのがわかる。それでも僕は、ビクビクと痙攣を繰り返す彼の身体を強く抱いて、さらに激しく突き上げるのを止められなかった。
「こいず……ちょっ、ま……っあ!」
「ダ……メです……っ、もうとまらな……っ」
 頭の中に真っ白な火花が散る。一瞬、我を忘れるほどの快感に支配され、息をつめて彼の身体を強く強く抱きしめた。僕は目をとじたまま、目眩がおさまるとともにこみあげてくるあり得ないほどの幸福感に、しばし浸った。

「こいずみ……」
「はい……」
 しっかりと抱きしめあったまま、乱れきった息を整える。
 こんな季節だというのに、ふたりとも全身汗まみれだ。身体に力が全然入らなくて、抱き合った腕をほどくことすらしんどかった。
「どうしました……?」
 のろのろと顔をあげて、まだボンヤリとしている彼の額にキスをする。ついで涙のにじむ目尻に、鼻にと順番に口づけ、唇にもキスをした。ん、とかすかな声をあげて僕のキスを受けた彼が、短い溜息をついた。なんだろう。
「お前、忘れてたろ」
「え? 何をです?」
「コレ」
 彼が枕元を探って目の前にかざしたのは、コンドームの小袋だった。
「あっ」
 そういえばせっかく用意してあったのに、夢中になりすぎてすっかり忘れていた。というか、思いっきり彼の中に出してしまったような……。
「す、すみません。僕、中に……」
 あわてて身体を起こし、さすがに萎えたものを抜く。擦れる感触に小さく声をあげた彼のそこからは、とろりと白いものが流れ出してきた。その光景はなんだかひどく生々しくて、興奮のおさまってきた頭にリアルな現実として染みとおってくる。
 そうか……僕たちはとうとう……。
「なんでお前が泣きそうなんだよ……。別に大丈夫だろ、妊娠するわけじゃなし」
「いえ……なんだか、嬉しくって」
「なにが。中出しが?」
「ち、違いますよ!」
 あわてて否定したが、それはもちろん冗談だったらしく、彼は苦笑しながらポンポンと僕の頭をたたいた。そのままコツリと額をつきあわせて、彼は、うん俺も、と言った。
「俺も、すげぇ嬉しい。……なんかすごいな、セックスって」
「すごい?」
「うん。一緒に遊んだりキスしたりっていうのも、充分なコミュニケーションだと思うけどさ、セックスって……上手く言えないんだが……間にあった壁が全部取り払われたような感じがする。なんかもう……他人、じゃないような……?」
 なかなかぴったりとした言い方が見つからないのか、彼は眉を寄せて考え考え言葉を紡ぐ。それを聞いている僕は、なんだかだんだん頭に血が上ってきた。
「世の中の大部分の人間が夢中になるの、わかる気がするよな。気持ちいいってのもあるけど、お前のことまるごともらったような感じがするし……」
「あの……っ、そろそろ勘弁してください……っ」
「んあ?」
「そう殺し文句を連発されると、ホントに死にそうです……」
 しばらく目を見開いていた彼は、やがてくすりと笑って僕の首に両手をまわし、抱き寄せた。重なりあった身体からは、まだ引ききっていない熱が伝わってくる。
「お前がいつも言ってることの方が、よっぽど恥ずかしいと思うんだが……」
 ま、いいけどな、とつぶやいて、彼は息をついた。
「……長かったなー、ここまでくるの」
「す、すみません。僕が臆病なばっかりに」
「バーカ」
 ぎゅっと、抱いた腕に力が入る。耳元を、優しい笑みを含んだ声がくすぐった。
「そのローションとかゴムとかの件も含めてさ、次にあっちの古泉会ったときは、やっぱ余計なお世話だって言ってやれ」
「はい……?」
「俺は……この1年とちょっと間、お前との距離をじりじり詰めていったり、少しずつキスが上手くなったり、セックスしたらどんな感じなんだろうって想像したりするのは、すごくドキドキして楽しかった。だから楽しめた分、1年がかりのゆっくりペースで、よかったと思ってるぞ」
 そりゃ、さっさと深い仲になっていろんなこと試すのも、それはそれで悪くなかっただろうけどな、と彼は含み笑う。い、いろんなことって。
「たぶん……必要だったんだよ、俺たちには。これだけの時間がさ」
「そう……かもしれませんね」
 ゆっくりと時間をかけ、育ててきた僕たちの恋。つまずいたり立ち止まったり、とてもスムーズとは言えなかったけれど、おかげで作り上げられた絆は、ずいぶんと強いものになったのじゃないかと思う。
 亀の歩みだろうと、じれったかろうと、別にそれでもいいんじゃないか。このペースがきっと、僕らのスピードなんだ。
「ま、そんな偉そうなこと言っても」
 腕をほどいて顔を見合わせ、彼は苦笑して肩をすくめる。
「あいつらのお節介がなかったら、もっと10年単位で時間かかってたかもしれんけどな」
「わ……笑えません……」
 真面目にあり得そうな気がして、ちょっと冷や汗が出た。彼らに背中を押してもらわなければ、本当に僕たちはこの先何年も、プラトニックなままで過ごしていたかもしれない。僕ならありえる。
 想像を巡らせて青くなっている僕の鼻をつついて、彼は声をたてて笑った。
「ま、それでもいいさ。俺たちは俺たち。マイペースで行こうぜ?」
 そんな焦燥も、彼の笑顔を見たらなんということでもない気がしてくるから不思議だ。これが彼の魔法なのか、単に僕が単純だからなのかはこの際追求しないでおこうと思う。
 僕は彼の笑顔に応えるように、満面の笑みを浮かべて思い切りうなずいた。
「……はいっ」
 もどかしくて少しずつでも、ゆっくりと確実に、進んでいければいい。
 顔を見合わせ微笑んで、僕たちはまたキスをかわした。

「ではこれからも、マイペースでよろしくお願いします」
「しょうがねえから、よろしくされてやるよ」


                                                   END
(2011.02.26 up)
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今年も大大遅刻のバレンタイン。
というか、あんまりバレンタイン関係ないような気が。
初心者カップル側もあれだが、バカップル側は本当にひどい(笑)

リクエストくださったA様、いかがでしたでしょうか〜。