マイペースな僕ら
01
 一樹、と譫言のように名を呼んで、次の瞬間俺の中で何かがはじけた。
 すさまじい快感が、背筋を通って脳を突き抜ける。解放感とともに欲望を吐き出しつつ、中に迎え入れているものを強く締め付けたのが自分でもよくわかった。案の定、俺を抱きしめる腕にはぎゅうっと力がこもり、腕の主の息がさらに荒くなる。僕ももう、という宣告には、ただ必死にうなずくことしかできなかった。
「あ……っ……んっ、いつ……き……っ」
 ぐいと、一番深いところにねじこまれる。熱が身体の奥にじわりと広がった。
 今日は、俺のワガママによりゴムは無しだ。直接中に注ぎ込まれる感覚がたまらなくて、ビクッビクッと身体を激しく痙攣させつつ途切れ途切れに声をあげる。背にまわした腕にさらに力をこめて、熱い身体にしがみついた。
「ふぁ……っ……あっ、あ……」
「……っく」
 俺の上で、短く息を吐きつつ、一樹の身体はさらに幾度か震えた。
 それを全身で感じているうちに、やがて快感の大きな波が去る。俺は止めていた息を思い切り吐き出して、襲い来る余韻と倦怠感に逆らえずに、崩れるようにベッドの上に汗まみれの身体を投げ出した。あー、疲れた……。
 ずるり、と中から抜けていく感触に身体が反応する。俺が思わず漏らした声に小さく笑いながら、一樹があまり動かないでと言った。同時にごぽりと音がしそうなほど大量の液体が、俺のそこから流れ出る感触。気持ち悪いが、まぁしょうがない。今日はこれで3回目で、ゴムは一度も使ってない上にろくに後始末もしてないんだからな。
「……満足しましたか?」
「うー……」
 指一本動かすのさえ億劫で、シーツの上に突っ伏したままうなる俺の前髪を、一樹が掻き上げる。汗ばんでるはずの額にキスを落とす余裕綽々の顔に、なんとなく腹が立った。3回も立て続けにしときながら、なんでこいつはこんな平然としてやがる。
「余裕だな、お前」
「まぁ、鍛えてますからね」
 むかつく態度で微笑む顔に蹴りのひとつもお見舞いしてやりたかったが、もうそんな気力も体力もない。一樹がベッドヘッドの箱からティッシュを数枚取り出して俺の後始末を始めたのも、いつもなら断固拒否するところだが、今日はそっぽを向いて耐えるのみだ。
「それにしても……」
 指を挿れて、俺の中から自分の精液を掻き出しながら一樹がつぶやく。恥ずかしいのといたたまれないのとでかたくなに目を逸らしていると、やけに感慨深そうな声が先を続けた。
「一体、どうした風の吹き回しなんでしょうね?」
「な、なにがだ」
「いえ、ここしばらくのあなたが、やけに積極的なので……。毎日お誘いいただいたり、生でしたいとおっしゃったり、ご自分からいろいろしてくださったり」
「具体的に言うんじゃねえっ」
 いや……確かに、らしくないってのは自覚してるさ。いつもだったらゴムだって、なるべく使うようにしてるんだ。中に出されると翌日に腹具合が悪くなったりするし、後始末もいろいろと面倒だしな。
 だけど今日は……なんだかすごく、生でしたかったんだ。一樹の、を、どうしても中でいっぱい感じたかった。
 ……なんてことを、する前に恥ずかしさをこらえて伝えたら、一樹の奴は必要以上に張り切りやがってこの始末だ。それも大概だとは思うんだが……調子に乗って2度目3度目をねだる俺は、本当にどうかしてるとしか思えん。
 しかも恐ろしいことにこんなのが、今日に限ったことじゃない。
 大体、こいつとこういった……つまりセックスをともなったつきあいをするようになってだいぶたつが、最近じゃここにそういうことをしに来るのは週に2、3回におさまってたんだ。そりゃ、憶えたての頃はヒマさえあれば、場所も時間もわきまえずに没頭するなんてこともあったが、さすがにつきあいが長くなって落ち着いてきて、その頻度になっていた。まぁ、別に飽きたわけでも醒めたわけでもなくて、単に回数を減らして、その分を質の向上にまわした結果なんだが。
 だがこの数日というもの、俺はそのセックスを憶えたての頃のごとく、毎日のようにこの部屋にやってきちゃ、我ながらヘタクソな誘いを一樹にかけている。しかもなんだか異様に気分が盛り上がって、終わった後に後悔に苛まれるのはわかってるくせに、自分から積極的にアレを舐めたり、乗っかって自分で挿れてみたりなんて、普段なら滅多にしないようなことまでしちまってる。一体、どうしちまったんだ俺は。寡聞にして聞いたことがないが、人間にも発情期なんてものがあるのか? それとも……受験勉強のストレス?
 ――そうなのだ。恐ろしいことに高校3年の俺たちは、まさに受験勉強まっただ中。まぁ、ふたりともそこそこ自分の学力に見合ったところを目指してるから、それほど重圧がかかってるわけでもないのだが、もしかしたら一樹の勉強の妨げになってるかもしれないとは、ときどき思って気が塞ぐ。俺よりずっとレベルの高いとこ受ける予定だからな、こいつは。
「……迷惑か?」
 そんなことを考えつつ漏らした声は、思ったよりも沈んだ様子になったようだ。一樹が後始末の手を止めて、あわてたように顔をあげた。
「とんでもない! 迷惑だなんてそんな罰当たりなこと、考えたこともないですとも! あなたにお誘いいただけるなんて、本当に夢のようですよ。ただ単に、いつもとご様子が違うので、何かあったのかなと思っただけですっ」
「大げさな奴……」
 やっぱり俺、普段とはちょっと違うんだなと思うと、つい溜息が出た。
「別に何もない……はずなんだがな。なんかここんとこ、おかしいんだよ」
「おかしい、というと?」
 ここしばらくの自分の身体の事情を説明しようと口を開きかけ、どう説明しても恥ずかしいということに気がついた。じわじわと頬が赤くなるのが自分でわかって、あわてて口を閉ざしてそっぽを向いた。
「い、言えるかそんなことっ」
「ははぁ……」
 だけど一樹の奴は、俺のそんな反応から何かを察したらしい。顎に手をやり目を細めて、面白そうな口調になって言った。
「なるほど。毎日、セックスがしたくてしょうがない。カラダが疼いてたまらない、といったところでしょうか?」
「わーっ!!!」
 はっきり言うんじゃねえよ馬鹿! あわてて耳をふさぎ、ガシガシと蹴りつける。だけど俺の足を手で防御しながら、一樹は図星でしたかと楽しそうだ。
「お、おかしいんだって、どう考えてもっ! 俺、もともとそんなに性欲旺盛じゃねえっつうか……お前としてるほかには、自分で抜くのなんて週にいっぺんくらいで充分だったのに、ここんとこどうにも堪えきれなくて毎日……っ」
「えっ、毎日ご自分でもされてるんですか? 僕ともしてるのに?」
「だから黙れっつってんだろうが!」
 そうわめいてさらに足を振り上げたら、一樹は面白そうにしていた表情を真顔にかえ、重々しくつぶやいた。
「そんな、お一人でなさるなんてもったいない……」
「もったいない言うなー!」
 すると一樹はしつこく蹴りつけていた俺の足を軽々と躱し、俺の身体を抱きしめてきた。くやしいが、運動神経でも力でも俺はこいつにかなわない。しかたなく暴れるのをやめて離せコラと抗議してやったら、一樹は耳元に唇を寄せ、低く囁きかけてきた。
「ではせめて、あなたの頭の中でのお相手も、僕だけにしておいてくださいね?」
「…………っ!」
 ちっくしょう。腰に来たわ、腹の立つっ! 思わずむかついた勢いのまま、一樹の頬をつかんで思い切りひっぱってやった。一樹は痛い痛いと涙目だ。ざまあみろ。
「おかげさんでな。最近はグラドルやら朝比奈さんやらのご登場確率はだだ下がりだ。人の妄想の中にまで、でしゃばってくるんじゃねえよ」
「ほれは、ぼくのせいれはないのれは……」
「う・る・せ・え・よ。ここんとこ数日、授業中の居眠りんときまでお前とやってる夢なんて見る始末だ。何度、腹壊したって嘘ついて授業中に便所に駆け込んだことか。まったく、ふざけやがって」
「ひたい、ひたいれす〜」
 ハルヒに背中をつつかれて目を醒まして、元気な息子さんと対面したときの情けなさがお前にわかるか? あわてて腹がくだったとか言い訳して、こっそり便所で処理する惨めさがわかるのかってんだよ!
 さらにぐいぐいと引っ張ってやってから、手を離してやる。赤くなってる頬をさすりつつ涙目の一樹に、思わず不安が口をついて出た。
「受験勉強のストレスかなとも思ったんだが……俺、もしかしてなんか病気かな? 死期でもせまってんのかな」
 生き物は死期がせまると子孫を残そうとする本能が強くなるっていうよな、と、我ながら一足飛びどころか二、三歩段階を飛ばしたようなことをこぼすと、一樹はまさかと肩をすくめて笑ってくれた。
「僕らはまだ若いんですから、たまにはそういうことだってありますよ。あまりお気になさらず」
「でも……お前にも負担かけちまうし」
 毎日こんなじゃ、さすがに体力がもたないだろうし勉強の妨げにも、という心配を口にすると、一樹は拳を握りしめ、真剣な顔で力説した。
「それこそ気になさらないでください! 僕としては大歓迎どころか、あなたからのお誘いが嬉しすぎて、今日は何かの記念日だったかと、毎日カレンダーを確認していたくらいですからっ!」
 思わず吹き出した。なんだよそりゃ。
「バーカ。何言ってんだよ」
「大丈夫ですよ。勉強なら、かえってはかどってるくらいですから」
 ご心配ありがとうございますと、嬉しそうに額にくちづけてくるのがくすぐったくて、思わず肩をすくめる。そうしたら、ふと、壁にかかっているカレンダーが目にはいった。ああ、記念日っていや、もうすぐだな。
「そういえば、もうすぐバレンタインか」
「ああ……2月ですもんね、言われてみれば」
 あと1週間ないんだな。今年は土曜日なのか。
「……そういえば、彼らはどうしたでしょうね」
 一樹が言う彼ら≠ニは、ちょうど俺も今、思い出していたあいつらのことだろう。去年、ハルヒのヘンテコパワーが発動した結果、ほんのわずかな時間だけ、この一樹と入れ替わることになった異世界の古泉≠ニ、そいつが好きな異世界の俺。忘れていたわけではないだろうが、一樹があいつらのことを話題にのせたのは約1年ぶりだ。おそらく去年のバレンタインに自ら考案して仕掛けた、とある作戦のことを思い出したんだろう。
 去年のバレンタイン。ふたつの世界で共振作用を起こしているらしい現象を利用して、俺たちはキスもまだだったあっちの二人に働きかけ、ファーストキスをさせることに成功したのだった。直接確認できたわけじゃないが、長門が成功を報告してくれたからな、まぁうまくいったんじゃないかと思う。
「共振作用、でしたっけ……」
 気がついたら一樹が、カレンダーを見つめたまま腕を組んで、なにやら難しい顔をして考え込んでいた。
「ん? なんだ。共振作用がどうかしたか?」
「いえ……なんでもありません。それより……」
 声をかけると一樹はゆるやかに首をふって、再び俺の方ににじりよってきた。腕をつかまれ、なんなんだと目をしばたたいていると、一樹はにっこりと笑ってとんでもないことを言った。
「後始末が、途中でした」
「え、いやもう……いい、って! おいこら一樹っ、やめ……っ」
 抵抗虚しく、シーツの上に押し倒される。後ろにもぐり込んで来る指は、掻き出すというよりも中を丹念にまさぐって、何かを探すような動き。ってお前まさか。
「うぁ……っ」
「あれ、また勃ちましたよ。若いですねっ」
「ば、馬鹿やろっ! やめ……っあ」
 ぐり、と強く前を握り込まれて、びくんと身体が跳ね上がった。
 ああもう……どうにでもしやがれ、ちくしょう!


******************


 申し訳ありません! と土下座せんばかりの勢いで謝罪すると、彼は苦笑いで、まぁいいさと言ってくれる。いつものことだしな、と肩をすくめる彼の、なんと寛大なことか。ますます申し訳ない気持ちになってうなだれる僕の背に、こんな自体の元凶となった連中の声が、追い打ちをかけた。
「古泉−! 外行くならついでに、お酒の追加買ってきてー!」
 リビングの方から聞こえるのは、あきらかにアルコール過剰摂取気味の森さんの声。ついで、そんな我々はもう帰りますから、といいつつ腰を上げようともしない新川さんの声と、まぁまぁまだ夕方ですしと意味不明の言い訳をする多丸(兄)さんの声も聞こえてくる。
「ほんっとにもうあの酔っぱらいどもは……」
 ぶつくさと文句を垂れながらも、どうせ逆らうことはできない。しかたなくヤケクソではいはいはーい! と返事をすると、はい、は1回! なんてテンプレな答えが返ってきた。くそ、と小さく悪態をついたら、彼が小さく笑って、古泉キャラ壊れてんぞと忠告してくれた。
「せっかく、あなたが僕の部屋に来てくださったのに……キスすらできないなんて」
「ばっか。森さんたちに聞こえるぞ。ほら、買い物行くんだろ、上着とってこい」
「はい……」
 すごすごとリビングに引き返し、壁にかけてある上着を手に取る。さすがに代金を立て替えてやるほどお人好しでもないので、ビールを浴びるような勢いで飲んでいる森さんにお金くださいと詰め寄って、サイフを徴収した。
 まったくもう。せっかくのひとり暮らしの部屋に恋人を呼んで、受験を控えた学生らしく勉強などしつつも、なんとなくいい雰囲気に……というところに乱入されるのは、これで何度目なのか。
 別に、森さんたちに悪意があるわけじゃないのは知っている。ただ単にタイミングが悪すぎるのと、あまりにもデリカシーがなさすぎるのが問題なのだ。僕のお目付役の意味も含めて同じマンションに住んでいる森さんは、ここ数年姉代わりとして僕の面倒をみてくれた。そのことには大変感謝してはいるのだが、そのせいで僕のことをまるで本当の弟のごとく扱うものだから、まったく遠慮というモノに縁がないのだ。合い鍵を持っているから、僕の都合も時間帯もまったく頓着せずに押しかけてきて晩酌の相手を強要したり、今日みたいに新川さんや多丸さんたちを連れてきては宴会を開始して、やれツマミを作れだの酒買ってこいだのと僕をこきつかう。
 僕だってそろそろお年頃なんですから、プライベートを尊重してくださいよと言ってみたことはあるのだが、はん、と鼻で笑われただけだった。受験生ですし、という切り札も森さん相手には効力無しだ。
 そんなわけなので、恋人と心置きなくいちゃつけるはずのひとり暮らしの部屋≠ニいう最強のシチュエイションに置いても、僕らはまったく気が抜けない。つきあいはじめてもう1年以上がたとうというのに、キス以上のことをこの部屋でするわけにはいかず、この部屋以外ではさらに出来る場所の心当たりもなく……つまり、僕らは恋人同士としてのステップを、キスから先に一歩もすすんでいない、ということなのだった。
「お待たせしました」
 玄関で靴を履いて待っていてくれた彼と、一緒に部屋を出る。エレベーターで下まで降りて、彼が自転車置き場から引っ張り出してきた愛車をはさみ、並んで道を歩いた。僕の目的地であるディスカウントの酒屋は彼の帰り道からは少々はずれていたが、彼は遠回りをしてくれるつもりであるようだ。
「すみません、いつも落ち着かなくて」
「もういいって。しょうがねえだろ」
 こんな体たらくの僕を、彼はいつも鷹揚に笑って許してくれる。彼の優しさに甘えてばかりの自分が、少々情けない。
「いつまでもしょんぼりしてんな。会うだけなら、学校で毎日会ってるんだしさ。……ああほら、店が見えてきたぞ」
 近づいてきた酒屋の店頭に、何本もの幟がたっているのが見えてきた。なんだか酒そのものさえ憎たらしくなってキッとその幟をにらみつけると、ふとビールや日本酒の宣伝の中に明らかに浮いて見えるピンクと茶色で彩られた幟があるのに気がついた。近くでよく見たら、お酒となんの関係があるのか、バレンタインフェア開催中との文字が読み取れる。言われてみれば、バレンタインデーはもうすぐではあるが……。
「酒屋でバレンタインフェアとはめずらしいですね」
「ああ。最近は、甘い物が苦手な人にチョコのかわりに酒を贈ったりするらしいぞ。オヤジが去年、小さいボトルのブランデーもらってきてた」
「なるほど……」
 愛と感謝を伝えよう、なんて書いてある壁のポスターには、ハートマークが乱舞している。最近はいろいろあるんだなと感心しながらそれらをなんとなく眺めているうちに、思い出すのはやはり、去年のバレンタインのことだった。
 彼とはじめてキスをした、記念すべき日。臆病な僕がなかなか踏み出せずにいた一歩を、今となってはなつかしい異世界の彼と僕が後押ししてくれた。おかげで彼が僕のことをちゃんと恋人だと思ってくれていることや、キスやその先を望んでいると知ることが出来て、感謝してもしきれないほどの恩を感じている。……が、結局僕は、それから先にはすすめないでいるという体たらくなのだから、なんだか申し訳ない。
 だが、去年の僕と違うのは、ちゃんと先に進もうとする意志があるという点だろう。できればすぐにでも恋人らしいアレコレをしてみたいと想いを巡らせ……早一年が過ぎてしまったのだ。
「どうした、古泉。ポスターなんか見つめて。心配しなくても、今年もチョコはちゃんとやるぞ。……まぁ、あんまり期待されても困るんだが」
 ポッキーよりはマシなもんにするさ、と、彼は照れくさそうに頬のあたりをかいている。そんな彼の姿の可愛さと言葉の嬉しさに、感動のあまり目眩がした。
「いえそんな。あなたがくださるなら、ポッキーだろうとチロルチョコだろうとよっちゃんイカだろうと、至上の甘露ですよ!」
「イカは違うだろう、イカは」
 アホか、と呆れた声で言いながら、彼は口元をほころばせる。ああ、はじめてのキスをした記念すべきバレンタインに、ぜひ恋人同士のさらなる領域にすすみたいなんて思っているのは僕だけなんだろうか。
 彼はどう思っているのかと、ときどき想像を巡らせる。たまに谷口氏から押しつけられたというグラビア雑誌をめくっているし、キスをすれば真っ赤になったりするので興味がないわけではないと思うのだが、どうにも彼は淡泊な質らしくて、僕ほどためこんでいる様子はみられない。去年、なかなか手を出せないでいた僕に、先へ進むのはいつでもかまわないという趣旨のことを言っていたから、本当に涼宮さんの問題が片付くまで、このままでいいと思っているのかも。
 でも僕は……僕は、それじゃ嫌なんですっ!
「おい、買い物はいいのか、古泉」
「あ、はい。そうでした」
 心の中での力説が彼の耳に届くわけもなく、彼はそれじゃ俺は帰るからと言って自転車にまたがった。仕方なく手を振って見送る僕を、走り出そうとする直前の彼が振り返る。
「そうだ。バレンタインな」
「はい?」
 屈託ない笑顔を見せて、彼は言った。
「せっかく今年は土曜日なんだし、お前んちに泊まらせろ。ゆっくり遊ぼうぜ」
 ま、勉強もしなくちゃだけどな、といつもの調子で肩をすくめてから、彼は自転車のペダルを踏み込んで走り出した。
 その後ろ姿を呆然と見送る僕の頭の中に彼のセリフがこだまする。収拾がつかずに大混乱する思考と心臓をもてあまして動けないでいた僕は、その後森さんからの催促の電話が鳴り響くまで、その場に立ち尽くしていたのだった。


******************


「やっぱりですか! まったく信じられませんね!」
 掃除当番のハルヒを置いて一足先に部室に行くと、中からめずらしく激昂した一樹の声が聞こえてきた。ドアを開けてみるとそこにいたのは、窓際の指定席に座る長門と、長門に詰め寄るような体勢で立っている一樹の二人だけだった。
「おい、い……古泉。長門に何してんだ」
 一応、学校では名字で呼んでるんだ。俺たちの本当の関係が、ハルヒや機関やそのへんの勢力にバレちゃまずいんでな。長門はもちろん知ってるから、3人しかいない今の状態でなら別にかまわんのだろうが、どこに耳目があるかわからんし。
「お前みたいな図体でかいのに詰め寄られたら、長門だって困るだろうよ」
「ああ……すみません、つい」
 いつもの席に鞄を投げ出し、椅子を引いて腰掛ける。いつも通りのすかした仕草で肩をすくめる一樹の隣で、長門は別に困った様子なんぞは見せてない。まぁ、いつも通りだ。
「で、何がやっぱりなんだって?」
 最近は団活と言ってももっぱら勉強してるんで、今日も問題集でもやっとくかなと、思考の半分をそちらに向けつつ聞いてみる。くやしいことに自宅でするより効率がいいんだ。聞けば教えてくれる人材が豊富なもんでな……なんてことを考えながらだったせいか、長門が口にした答えが半分しか耳に入ってこなかった。……いや、耳が拒否したのかもしれん。
「β世界のあなたたちが、いまだに性交渉の最終段階にいたっていないということ」
 ……は? もしもし、長門さん?
「性交渉の最終段階とはこの場合、本来なら生物の雄と雌が子孫を残すために行う、精子と卵子の融合を目的とした行為にあたる。β世界のあなたたちも同性であるので本来の目的は果たせないが、自然界の中には生殖を目的としない性交渉を行う動物も数多く見られる。例えば鳥類および哺乳類、特に海洋哺乳類や霊長類に顕著であり」
「な、長門長門長門長門っ!」
「……何」
 動物生態の講義になりかけた長門の説明をあわてて遮る。ちょっとだけ不満そうな様子なのがなんか怖いんですけど、長門さん。
「つまり、あっちの世界の俺たちの話なんだな?」
「そう」
 こっくり、と長門はうなずいた。その隣に腕組みして立っていた男が、重々しく溜息をつきながら首を振る。
「どうやら最終段階どころか、キスから一歩もすすんでないらしいですよ。去年のバレンタインに僕たちがお膳立てしてさしあげてからもう1年もたつというのに、まったく嘆かわしい。自分ながらあまりのヘタレっぷりに、あきれかえって物も言えません」
 ……ああまぁ、確かお前は、つきあうって決めた直後に、その場で押し倒して来やがったっけなぁ。心の準備も身体の準備もなんもかんもすっとばしやがって。
「当たり前ですっ! ずっとずっと恋い焦がれて、死ぬほど好きだったあなたが、どういう奇跡が起こったんだか恋人になることを承諾してくださったんですからね。一分一秒だって待てるわけがな痛い痛い痛い痛いですやめてくださいって」
 思わず椅子を蹴って立ち上がり、両拳をぐりぐりと手加減なしで一樹の頭にねじ込んでやった。痛い痛い頭が割れると騒ぐのを無視して、俺はもう一度長門の方を見る。
「長門。なんでお前がそんなこと知ってるんだ」
「あちらのわたしと同期して得たデータ。彼らの行動パターンや身体情報から導き出したもの。現場をのぞき見しているわけではないので、安心して欲しい」
「ははは……」
 長門……それは保証されても怖いぞ。なんか色々と想像できるだけに。
「あの、そろそろ勘弁してもらえませんか。脳みそがはみ出そうです」
「また詰め直してやるから気にするな」
「人をクッションかなんかと間違えてませんか」
 腕の中で息も絶え絶えの一樹をとりあえず解放し、俺は溜息をついた。
「まぁ、確かに1年かかってもまだキスだけってのは遅いかもしれんが、そんなのあいつらの勝手だろう。あいつらなりのペースってもんがあるんだから、ほっといてやれよ」
 あっちの古泉は、俺の一樹と違ってえらく奥手そうだったからな。いろいろ考えるところがあるんじゃないか。
 そう言ったら一樹は、ふぅと息をつきつつ曲がったネクタイを直し、そうはいかないんですよと答えた。なんでだ?
「まぁ、主にあなたのためです。僕は別に、現状でもまったくかまわないんですけどね」
「はぁ?」
「つまりですね……」
 と、そのとき、ふと長門が顔をあげた。涼宮ハルヒ、と小さな声でつぶやく。どうやら我らが団長が、掃除当番を終えてご到着らしい。ちなみに朝比奈さんはすでにご卒業あそばされており女子大生ライフを満喫中であるので、ハルヒが来ればSOS団員は勢揃いだ。
「あと3分36秒で到着」
 一樹が小さく舌打ちした。おいおい、いいのかお前キャラ崩れてんぞ。
「仕方ありません。詳細は後ほど。――長門さん、ひとつだけ質問を」
 さっと身を翻していつもの席に向かう前、一樹が肩越しに振り返って長門に問いを発した。長門は無言で、質問を待ち受けているようだ。
「僕らとあちらの……β世界の僕らが、直接顔をあわせて話をすることは可能ですか?」
 なんだって? 唐突な一樹の問いに、思わず長門を凝視する。と、長門はこともなげにうなずいた。そんなことができるのか。
「可能。ただし短時間、特別に構成した疑似空間の中でのみ」
「わかりました。もしかしたらお願いするかもしれません。そのときは……」
「了解した」
 長門がうなずくのと、古泉が席に着くのと、けたたましい音をたててドアが開くのがほぼ同時だった。二人の会話に気を取られていた俺は、うっかり元の席に戻り損ねた。
「やっほー! みんなそろってるかしら!? ……キョン、あんた何アホみたいにつったってんの」
 相変わらず理不尽に元気いっぱいな団長様は、部屋の真ん中に立っていた俺に気づいてそんな暴言を吐きやがる。すでに推薦入学が決まってるからなのか、気楽なもんだ。
「アホで悪かったな。喉渇いたから、茶でも淹れようかと思ってたんだよ」
「あ、そ。じゃあ、あたしの分もお願いね!」
「へいへい」
 尻馬に乗っかって僕の分もお願いします、なんてほざくスマイル野郎に、だが断る、と返して、俺は湯飲みを3つ用意し……まぁ、あまりに大人げないかと思い直し、湯飲みをもうひとつ追加した。


******************


 またたく間に1週間が過ぎ去った。
 明日は土曜日で、問題のバレンタインデーであるというその日、まったく手につかない受験勉強に辟易して、僕は1人で図書館を訪れた。しんと静まりかえった自習室でなら勉強に集中できるかと思いきや、静かすぎてかえって明日のことばかり考えてしまう。
 泊まらせろ、と言って来た彼の真意は、一体どこにあるのだろう。そんなことを言っておきながらも、ここ1週間の彼の態度はまるで普通だった。
 ……いや、少々普通すぎると言えば言えるかもしれない。今週は何かと都合がつかなくて、彼が僕の部屋を訪れることもなかった。学校で会う彼はしごく常識的な友人同士の距離で、相変わらず僕に対してはちょっと辛辣な態度を崩さない。
 まるで、友人同士だったあの頃に戻ってしまったみたいだ。
「まさか……あきらめた、とか?」
 一向に進展しない僕らの仲を、とうとう進めることを断念したとか。
 そういえば、中学のときからバレンタインの夜は必ず、僕がもらってくる大量のチョコレートを奪いに森さんが部屋に乱入してくる、という話はしてあったはずだ。お泊まり=恋人としてのアレやコレをするチャンスだなんて考えているのは僕だけで、彼はただ普通の高校生らしく帰宅時間を気にせず遊べればいいと思っているのかもしれない。いまさら友人関係に戻ろうとまでは言わないと思うが(チョコレートもくださるとのことだし)、受験が終わるまではこのままでいいか、くらいのことなら考えていそうだ。
 今回のことは、その宣言のかわりとして起こした、彼なりのアクションなのかも。
「そんな……あっ!」
 動揺のあまり、積んであった本やファイルを床に落としてしまった。静かな室内に騒乱を招いた当然の結果として、周囲の人たちにじろりとにらみつけられる。僕はあわてて本を拾い上げ、そそくさと自習室を出てロビーの方へと逃げ出した。
 自販機でコーヒーを買って、外のベンチに腰掛ける。2月の風は冷たいが、頭を冷やすには最適だ。あたたかいコーヒーで手のひらを温めつつ、僕は溜息をついた。
 別に、彼がそのつもりならそれでもいいじゃないか。
 受験なら、あともう少しで終わるのだ。恋人のアレやらコレやらなんて、それから考えたって別に遅くない。ただ、僕らにとってバレンタインデー≠ニいうのは特別な日になってしまったから、ついつい色んな期待が高まって仕方ないというだけの話だ。……まぁ、そう思っているのは僕だけかも知れませんけどね。
「――古泉?」
 コーヒーをすすって再び溜息をついたところに、聞き慣れた声がかけられた。顔をあげるとそこにいたのは、たったいままで思い浮かべていた最愛の彼。
「なにしてんだお前、こんな寒いとこで」
 寒いのが大の苦手な彼は、ポケットに手を突っ込み、マフラーに顎を埋めてしかめっ面をしている。見ているだけで寒い、といったところだろうか。
「いえ、ちょっと暖房にあてられまして、クールダウンに。あなたこそ、この寒い時期に外出とはめずらしいですね」
「妹がチョコ作るんだって、友達たくさん連れてきてな。台所で大騒ぎしてるんで、勉強にならんから出てきた」
「ああ……そういえば明日ですもんね、バレンタイン」
 この1週間、その日のことばかり考えてぐるぐるしていたくせに、つい見栄を張って今思い出したみたいに取り繕ってしまう。彼はまぁな、と軽くうなずいて、さみいから中入ろうぜと僕を誘った。
「では、自習室から荷物をとってくるので、待っていていただけますか。わからないところお教えしますから、一緒にやりましょう」
「おう」
 人気の少ない石畳の道を並んで歩く。道の両脇に並ぶ立ち木はもうすっかり葉を落としており、冬枯れのたたずまいだ。冷たい風が吹き付けるたび、彼は首をすくめて寒いとうなる。
「……それで、明日はどうなさいますか?」
「ん?」
「バレンタイン。泊まりにいらっしゃるんでしょう? 来るの、何時頃にしますか」
「んあー……そうだな」
 まだチョコ買ってねえしな、と彼はこっちを見ないままつぶやく。明日の段取りを考えているようだ。昼はまぁ適当に食うとして……と言ってから、ふいにこちらを向いた。
「ああ、晩飯はカレーでよけりゃ俺が作るぞ」
「ホントですか。嬉しいです」
「お前んち何もなさそうだから、夕方くらいに買い物行くだろ?」
 チョコはそこで買うかな、と、こだわるところをみると、やはり男がこの時期にチョコを買うことに抵抗があるのだろう。僕自身はもうとっくに手配済みなので、彼のそのこだわる姿を幸せな気持ちで眺めていた。
「あ、そうだ」
「なんだ?」
 大切なことを思い出して、僕は足を止めた。ひとつ、聞かなければならないことがあるのだが、これはある意味、彼が今回のお泊まりをどう定義しているのかの試金石となる質問だ。どう反応するかで、明日の僕の行動が決まる。
「僕の部屋、お客様用の布団がないんです。ですから……」
 彼も少し先で足を止め、振り返ってじっと僕を見ている。
「……僕のベッドで一緒に寝るか、森さんの部屋から客用布団をお借りしてくるか、あなたが選んでください」
「…………」
 ドキドキと心臓が鳴っている。自分が今、どんな顔をしているかわからないが、質問の意図は彼に伝わっただろうか。目を見開いてこっちを見ている彼が、何か言おうと口を開き、言葉にならないまま閉じるという動作を何度かくりかえした。
「どう、しますか……?」
 とうとう下を向いてしまった彼が、僕の問いかけに絞り出すような声で答える。
「お前そんな……選べ、とか……」
「すみません。僕の希望は、1年前からずっと変わっていません。だから……」
 ごく、と彼が唾を飲み込む音が聞こえたような気がした。
「い……っしょに、寝たい……けど……でも」
「でも……?」
「俺は……なんかアレなんで、その」
 要領を得ない彼の言葉。だけどニュアンスは伝わる。まだ、先に進むのは嫌だ、ということだろう。
「わかりました。では、布団をお借りしておきましょう」
 にっこりと笑顔をみせて、僕はそう答える。彼は眉を寄せたまま顔をあげ、不安そうな表情をみせた。
「こいず……」
「すみません。一緒のベッドに入りながら何も無し、というのは、ちょっと無理なので」
「あのさ、俺……」
「大丈夫ですよ、気にしなくて」
 そっと彼に近づいて、安心させるように頬をなでる。それは僕としては本当に本当に残念だけれど、彼にその気がないならしかたない。いつまでだって、待とうじゃないか。
「あなたは去年のバレンタインに、僕がしたくないのなら、それでもかまわないと言ってくれました。だから僕も平気です。あなたがそういう気持ちになれるまで、ずっと待ちますから……」
「こいず……み……」
 寒さのせいか頬の赤い彼が、ぐっと唇を噛んだ。なんだか泣きそうに見えるのは、僕に悪いと思ってくれているからだろうか。もしそうなら、それだけで僕は嬉しい。
「さて、それでは中に入って勉強しま……」
「古泉、俺は……っ」
 建物の中へと誘う僕の手を振り払い、彼は声を詰まらせた。どうしたのかと目を見張っている僕の前で何か言いたげに唇を震わせて……、結局なにも言わずにいきなり踵を返してしまう。そのまま走り去る彼の後ろ姿を、僕はただ呆然と見送るしかなかった。一体、何がどうして……。



「ああ……まったく、自分ながら見ていられませんね」

 ふいに背後から聞こえたのは、どこか聞き覚えのあるような、ないような声だった。
 誰だ、と振り返ると同時に、あたりの様子がおかしいことに気がつく。石畳こそそのままだが、空の様子はあきらかにおかしい。ついで周りからも図書館の建物や立ち木が消えて、なにやら異様な風景に様変わりしていた。閉鎖空間とも違うが、感触はどこか似ている。
 目の前には、そんな空間の中にあることが異質なパイプ椅子に腰掛け、脚を組んでその上で頬杖をついているひとりの男。知らない顔ではなく……いや、むしろ毎朝のように鏡の中で対面する、よく見知った顔だ。
「お前は……」
「はじめまして、と言うべきでしょうか? お会いできて光栄ですよ、異世界の……僕」



                                                   NEXT
(2011.02.26 up)
BACK  TOP  NEXT

長いので微妙なところで切ってみる。

A様よりのリクエスト「パラレルdays初心者カップルたちの初めて」です。
ゆっくりペースです。