月の見えない夜に
02
 その足で古泉のマンションまで行って、名前を呼びながらドアをたたいた。
だけど中からは、うんともすんとも応答がない。どうやら留守らしいとようやく認めて、ずるずるとドアに寄りかかって座り込む。待っていれば帰ってくるかとも思ったけれど、俺がここに来ることなんて予想の範囲内だろうから、今日はもう戻ってこない可能性の方が高い気がする。
「なんでだよ……」
 恋人ごっこってなんなんだよ。
 今までのことは、全部演技だったっていうのか? 文化祭前夜の告白も、一緒にいるときのすごく嬉しそうな笑顔も、腰が砕けそうになるキスも。あれもこれも、ただ俺を籠絡するためだけの、嘘だったっていうのか。
 膝を抱えて顔を埋め、ぐっと唇を噛みしめる。まだだ。まだ、泣くのは早すぎる。あんな電話だけじゃ何もわからない。ちゃんと、確かめてからでも遅くない。あれが古泉の本心なのか……それとも裏に何かあるのか、自分の目と耳で確認してから。
 可能性が一番高いのは、やはり機関≠ゥらの命令だろう。俺とのことが機関にバレて、そういう別れ方をしなければ、俺やハルヒたちや、もしくは古泉の家族に危険が及ぶとか言われたなら、従わざるを得まい。
 だがもしそうだったとして、それを確認する術が俺にあるのか? 機関内で面識のあるメンバーと言えば、古泉の他には森さんと新川さん、それと多丸兄弟だが、彼らの連絡先は知らない。彼らとは、古泉を通しての知り合いでしかない。
「長門……に、頼るわけにもな」
 長門なら調べることは可能かもしれないが……俺と古泉の関係について、長門にどう説明すればいいんだ。考えただけで死ねる。しかも統合思念体にまでバレたら……というか、下手をすればヤブヘビになる可能性だってある。でも、だったらどうする?
「待てよ……?」
 たったひとつ、俺個人と機関をつなぐ糸があった。そこで切れている可能性は高いが、他には糸がない以上、ダメモトでもあたってみるしかない。俺はそう思い定めると、勢いをつけて立ち上がった。
 俺を拒絶するドアのノブにそっと触れる。
そして、もうちょっと待ってくれ、と誰にともなくつぶやいて、踵を返した。
 とにかく明日だ。そう意気込むことで、俺はともすれば崩れそうになる足を踏みしめた。



「機関≠ヨの連絡先?」
 3年生の教室が並ぶ廊下は、なんとなく敷居が高い。居心地の悪さに肩をすくめつつ、俺は呼び出してもらった目の前の人物に、単刀直入にそう聞いた。
「ああ。協力者のあんたなら、知ってるんじゃないかと思ってな」
 ふうん、と首を傾げて、その人物……今は引退済みの元生徒会長は、興味深げな顔で眼鏡を押し上げた。どうでもいが、伊達眼鏡じゃなかったのか、ソレ。
「そうなんだが、このキャラで全校生徒に知れ渡ってしまったからな。とりあえず、卒業まではこのままで過ごさねばならん。面倒なことだよ」
 ここじゃアレだから、ちょっと来いと連れてこられたのは、屋上に出る階段の踊り場だった。入学当初にハルヒに引っ張り込まれてSOS団の設立を強要されたこの場所は、今は人気もなく空気も冷え切っている。会長は腕を組んで、俺をじろじろと眺め回した。
「連絡先だったな。基本的に連絡は、古泉を通してしろと言われてるんだが……」
「古泉は今日も学校には来ていない。あんたは聞いてないのか? 古泉が転校するって話」
「聞いてないな。生徒会長の任期が終わった時点で、協力者としての俺の契約は終了してるんでな。……が、そういうことなら」
 そう言って会長は、ポケットから携帯電話を取りだした。
「古泉に連絡が取れないときのために、緊急用のアドレスを渡されてる。なかなかいい読みだ」
「やっぱりか! 頼む、教えてくれ!」
 予想があたったことに勢いづいて、会長に詰め寄る。すると会長は携帯を持った手を背中にまわし、もう一方の手で眼鏡をはずして、ニヤリと口元をゆがめた。
「タダじゃ教えられんな」
 ああ……そういや、こういう人だっけな。新しいオモチャを見つけたと言わんばかりの表情を見せる会長に、俺は溜息をつきつつ頭を下げた。
「頼む。俺に出来ることなら……ハルヒや長門や朝比奈さんを巻き込むこと以外なら、なんでもするから」
「まぁ、脳内花畑女とその一派には興味はない。しかし、そこまでお前が古泉のためにするとなると……あれか、あの男の不毛な想いが通じちまったわけか」
「な……っ。会長……知って」
「だってあいつ、だだ漏れなんだもんよ」
 はずした眼鏡をブレザーの胸ポケットにしまい、一気に砕けた口調で言いながら、会長が嫌な感じで嗤う。壁を背にして立っていた俺との間合いをすっと詰めて、腕を壁について覆い被さるような体勢で顔を近づけてきた。
「会った頃はそれこそ鉄壁の笑顔って感じで、内面がまったく読めない奴だったんだけどな。お前らとつるんでるうちにどんどん緩んできて、ちょっとつつくと面白いくらいに反応しやがるようになってさ。まぁ、最初はてっきりあのイカレ女に惚れてるんだと思ってたんだが……」
 誰が本命か気がついたときは吹いたね、と思い出し笑いをしつつ、会長はさらにぐっと顔を寄せて俺の顎をつかむ。煙草くせえな。まだやめてねえのか。
「なぁ、俺にも試させろよ。あいつがそれだけ夢中になるってことは、相当イイんだろ? 俺を満足させられたら、教えてやってもいいぜ?」
 なんのことだ、なんてカマトトぶってもしょうがない。ホントに、裏の性格はとんでもねえなこの人。にらみつけるとますます面白そうにニヤニヤしやがる会長に、俺は言い返した。
「……それが条件だってんなら、かまわないが。だが言っとくが、古泉とはまだそんな仲じゃないんでな。イイかどうかは知らん」
「はぁ? まだって、何してんのお前ら」
「ほっとけよ。あと、古泉が本当に俺に惚れてんのかもあやしいんじゃないか」
 それを聞くと会長は、思い切り不審そうな顔でどういうことだと無言で尋ねてきた。
知るか。古泉に言われたんだよ、恋人ごっこは楽しかったって。ハルヒをコントロールするために、籠絡しただけだってさ。
「はぁ……あいつがねぇ」
 毒気を抜かれたみたいな顔で、会長は俺から手を離して身体を起こした。そして片手に持ったままだった携帯のフリップを開け、なにやら操作してから俺に投げてよこす。
「あのだだ漏れっぷりが演技だったって? ……そんなに器用な奴とは思えんがな」
 携帯のモニタに表示されていたのは、森園生の名前と電話番号。俺はいそいでそれを自分の携帯に打ち込んでから、フリップを閉じて会長に投げ返した。
「まぁ、気の済むようにやってみるんだな。礼は成功報酬ってことにしといてやるから、せいぜいテクニック磨いとけ」
 携帯を受け取ってから眼鏡を取り出してかけ直し、会長は踵を返した。礼を言うべきか迷っているうちに、ひらひらと手を振りつつさっさと階段を下りていってしまう。
 ちょうどそのとき、昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴った。



 本気かどうかわからん交換条件付きだったが、とにかく機関への連絡先は手に入れた。それと、会長が漏らした見解も励みになった。そうだよな。古泉はそんなに器用なやつじゃないってのは、俺も同感だ。
 放課後、古泉のいない団活を早く終われと念じつつ過ごす。ハルヒには古泉の容態を聞かれたが、留守らしくて会えなかったと本当のことを言っておいた。病院にでも行ってたんじゃないか? という言い訳を、ハルヒは納得してくれたようだ。
「早くよくなるといいわね……」
「ああ……」
 ほら、古泉。お前が来ないとハルヒだって元気がなくなる。転校なんてことになったら何が起こるかわからんぞ。もしも不本意なことなら、そう言って上司を説得しろよ。
 俺の焦燥を見抜かれてるのかそれともただの偶然か、長門が本をとじるのがいつもより早かった。それじゃ帰りましょうと先に立つハルヒに、俺は心配だから今日も古泉のとこに寄ってみると言った。
「そうね! キョンにしては気が利いてるじゃない」
 団長殿のそんなお言葉と、朝比奈さんのいってらっしゃいの笑顔、長門の無言の視線を背に部室を出た俺は、早足で人気のない場所を探した。結局、部室棟の裏の物置の陰で携帯を取り出して、会長から聞き出した番号に向けて発信する。
 たぶん登録されていないだろう番号からのコールに、森さんは出てくれるだろうか。
『はい。何の御用かしら、キョンくん』
 ……なるほど。俺の携帯の番号くらいは、調査済みか。
『この番号は古泉から?』
「いえ、あなた方の協力者≠ゥら聞きました」
 元生徒会長の名を告げると、森さんは一言、そう、と答えて、あなたは例外ですけれど、他の誰かに教えることは厳禁ですと伝えておいてくださいと言われた。まぁ、そうだろうな。
『……古泉のこと?』
「それ以外に、あると思いますか」
 そのときの俺の口調は、少々攻撃的だったかもしれない。おそらく機関の誰かの命令で、古泉はあんなことを言いだしたんだろうと考えてたからな。俺とのつきあいが理由だっていうなら、人の恋愛沙汰に口を出すなと一喝してやるつもりさえあった。
 だから、脅しに聞こえるだろうことを承知しつつ、俺はハルヒを引き合いに出して森さんを問い詰めた。
「なんでいきなり、転校なんてことになったんです? そんなことしたら、ハルヒがどうなるか。きっと特大の閉鎖空間が生まれますよ」
 森さんは答えなかった。言い訳しようとも、俺をいなそうともしない。勢い込んでたたきつけた俺の言葉が途切れたとき、ようやく溜息とともに彼女は口を開いた。
『僕がどうしようと、涼宮さんはそれほど気にされませんよ、だそうよ』
「え……?」
 それが、古泉の言ったセリフなのだと気がつくのに、数秒かかった。森さんは少し言い淀んでから、固い声で先を続ける。
『私からも何度も言ったのだけれど、どうしても聞かなくて……。変なところで意固地なのは、昔から変わらないわ』
 一瞬黙り込んで、言葉の意味を反芻する。森さんのいう昔から変わらない≠フが誰のことなのかが、ゆっくりと耳を通って浸透してくる。わかりたくないと抵抗する俺の脳が、ようやくひとつの結論をはじきだした。信じたくない事実を。
「それじゃ……機関からの命令、てわけじゃ、ないんですね……?」
『ええ……』
 妙に戸惑うような口調ながら、森さんははっきりとそう言った。昨日付で、古泉自身から、任務の解除と移動の申請が行われたのだと。
『まだ受理はしていないわ。でも、あの子はまだ未成年でもあるし……あまり無理をさせるのも……ね』
 暗に、却下されることはないだろうと、言っているんだろうか。俺は震えそうになる声を励まして、なんとか問い返すことに成功した。理由の、片鱗なりとも知りたくて。
「一体、何があったんですか。昨日……いや、古泉が休み始めた1週間前に。確かその前の日に、閉鎖空間が発生したからって早退していきましたけど……そのときに、まさかケガでもしたんじゃ」
『そうね。あの日に発生したのは、比較的大規模な閉鎖空間だったわ。理由は……わかってるわよね? キョンくん』
 そうだ。
 その日の昼休み、俺はハルヒと、ちょっとした口論をした。
 原因はわりと他愛もないことだ。進路について岡部に文句言われたって愚痴ってたから、どうせ無茶な希望でもだしたんだろうと突っ込んだ。そしたらハルヒは、もっと志望校のレベルをあげろって言われただけよと答えたんだっけ。
「行ける頭があるんなら、もっと上を目指せばいいじゃねえかと助言してやっただけなんですけど……ハルヒの奴そのあと、ものすごく不機嫌になって」
 それでどうやら閉鎖空間を生んだらしい。古泉は昼休みが終わると同時に、俺にその旨と早退するというメールを送ってよこした。メールを見て、しまったとほぞを噛んだのを憶えている。
 まずったな。何が目当てなのか知らんが、そんなに行きたい大学だったってのか。
 すると森さんは、電話の向こうでひっそりと溜息をついた。
『相変わらず、あまりわかってないようね……。まぁいいわ。確かに古泉はそのときの戦闘で負傷したけれど、命に関わるようなものではありません」
「じゃあ、理由はなんですか! いくらなんでも、古泉のポジションに代われる人間がそうそういるわけないでしょう?」
『…………』
 森さんは、ついに黙り込んでしまった。ずっと、奥歯にもののはさまったような言い方だったのが、ついに口そのものを縫い付けられでもしたように。
『……理由は言えないの』
 やがて、絞り出すような口調で、森さんは言った。
「なんでですか。何か部外者には言えないような、機密事項でもあるんですか?」
『いいえ。古泉の、個人的な希望です』
「……っ」
 そう言われて、俺は二の句が継げなくなる。
 携帯をぎゅっと握りしめ歯を食いしばっていたら、しばらくして森さんは肺から息を吐ききるような大きな溜息をついた。そして再び話し始めた声は、ずっと砕けたプライベートに近い感じだった。
『キョンくん……古泉と、仲良くしてくれてありがとう。あの子の姉代わりとして、ずっとお礼を言いたいと思ってたの。北高に入って、あの子は本当に明るくなったし、毎日楽しそうだった。中学のころからは考えられないくらいよ』
「それは、俺だけのせいじゃないと思いますけど」
『そうね。涼宮さんや他のメンバーの方々のおかげももちろんあるのだけど……あの子にはずっと、同い年の気の置けない友達がいなかったから……』
 友達、とは言い難いとは、言えなかった。森さんが知っているか、知られても困ったことにならないか、判断がつかない。
『だからできれば、あなたにはこれからも古泉のいい友達でいて欲しいって、私は思ってるのよ。だから、古泉をお願い』
「…………」
 俺が黙っていると、森さんはささやくような声で、今の私に言えるのはこれだけよ、と言って通話を切った。光を失ったモニタを見つめて、俺は唇を噛む。
 一体俺は、何をお願いされたんだろう。古泉の友達でいて欲しいって? 部屋のドアを開けることも、電話に出ることさえしてくれない相手に、無茶を言う。
 だってさ。結局、転校するホントの理由とか、なんであんな嘘をついたのかとか、肝心なことは何一つわからなかったけど。
 たったひとつだけ、はっきりしたことがあるじゃねえか。

 あいつが、俺と別れたいって思ってるってことだけは。

 機関の命令なんてなかった。俺とのこともバレちゃいないし、籠絡がどうのなんてのもたぶんみんな作り話だ。恋人ごっこなんて言ってたけど、古泉の言葉も表情も態度も、演技なんかじゃなかったように俺には思える。
 だけど古泉は、そんな嘘をついてまで、俺と別れたかったんだよな。
「ふ……」
 物置の陰の草むらにしゃがみこんで、抱えた膝に顔を埋める。直接座った地面から、底冷えする寒さが這い上ってくるけれど、立ち上がる気にはなれなかった。もうダメだ。耐えきれない。あいつに直接聞いたわけじゃないけど、もう確定したも同然じゃないか。これ以上、何を確かめろっていうんだよ。
 ツンと鼻に、寒さからじゃない痛みが走る。胸が痛くて苦しくて、息ができない。喉の奥から何かがせり上がってきて、しゃっくりにも似た声が漏れる。じわりとにじみでる自分の涙が熱い。こぼれそうになる涙をズボンの布に押しつけて、俺は声を殺して泣いた。
「……っく……うぇ……っ……」
 息が苦しい。目眩がする。このまま、地面にめり込んで消えちまいたい。
 自分でも知らなかった。いつのまに俺は、こんなに古泉のことが、すきになってたんだろう。
 こんな風に終わっちまうんなら、ちゃんと伝えておきたかった。お前が思ってるよりずっと、俺はお前のことがすきなんだって、言えばよかった。たった一言、それだけでよかったのに。
 そのせいなのかな、とちょっと思った。いつもあいつは冗談めかして笑ってたし、待ってるって言ってたから、そのうちにでいいやなんて悠長に構えてたけど。つきあい始めて数ヶ月、キスはするけどすきだの一言も言わず、身体を許すことは拒む恋人。そういえばキスだって拒みはしないけど、こっちからしたことはなかった気がする。俺ならきっと不安になる。本当に俺のことすきなのかなって、疑いたくなる。……だからだろうか。
「言えよ……だったら……っ」
 自分のことは棚に上げて、恨み言を吐き出す。あんなひどい嘘をついて別れようとするくらいなら、ちゃんと信じられないからって言ってくれれば……ああでも、それですきだって言われても、ホントかどうかわかんないよな。
 思考は堂々巡りを繰り返す。どうすればよかったのか、ぐるぐると考えが空回りする。
 そうだな。まず最初に、付き合いを始めるときに、はっきり言わなかったのがまずかったのかな。でもあのときはまだ、俺は自分の気持ちにちゃんと気がついていなかったんだ。



 ――あれは文化祭の前夜、部室でのことだ。
 懲りもせずにハルヒが撮った、あいかわらず荒唐無稽で本人にしか筋がわからん映画をとりあえず見られるものにするべく、俺は徹夜で編集作業を行っていた。去年の轍を踏むまいと、ちゃんと夜食を用意し、仮眠用の毛布まで持ち込んだが、かえってそれがまずかった。夜食で食欲を満たせば、次に襲ってくるのは当然睡眠欲だ。ほんのちょっと仮眠しようと、毛布にくるまって並べたパイプ椅子の上に横になった俺は、けっこうしっかり寝入ってしまったらしい。誰かが部屋に入ってきた気配に気づいて意識は目覚めたものの、身体の方はまだ眠ったままだった。
「あれ……寝てる」
 その声で、入ってきたのが古泉だと知った。ガサガサと鳴るビニール袋らしき音を聞いて、どうやら差し入れがてら様子を見に来たらしいと察した。待ってろ、今起きるからと心の中でつぶやくものの、身体の方はいっかな動こうとしない。
 古泉は足音を殺して近づいて、俺の寝顔をのぞきこんできた。フッと笑う気配がする。ちくしょう、お前と違ってどうせ俺の寝顔はブサイクだよ、笑うんじゃねえ。
「よく寝てるな……さすがに疲れたのかな」
 しばらくの間、じっと見つめていたらしい古泉の言葉が、さっきから敬語じゃないことにいまさら気がついた。なんだか新鮮だな、と思わず気がゆるんだとき、何かが唇に触れた。柔らかくて、思ったより冷たいその感触は、過去に一度だけ、不本意ながら緊急脱出手段として体験した覚えがある、それだった。
 え? この流れだと、相手はアレだよな。古泉だよな? なんで? 何が起こってんだ?
 大混乱する寝起きの頭が情報を整理できないでいるうちに、耳元に温かい息とささやくような声が吹き込まれた。

「……すき、です」

 その言葉を聞いたとき俺が思ったのは、ああ、やっぱりか、だった。
 いつからだろうな、古泉が俺に向けてくる好意の種類が、友情とは違うものじゃないかと感じるようになったのは。ハルヒが俺に向ける男女の枠を越えた友情とも、長門が寄せてくれる信頼とも、朝比奈さんが注いでくださる慈愛とも違うもの。時に熱く、時に重く、すがりつくような、でも明確に線を引いて、踏み込まないように自制している感情。勘違いかと思おうとしても、気がつくと向けられている視線は日に日に強く、明確になっていくようだった。
 だから、あふれ出したかのように告げられたその告白は、やっぱりそうだったのかという思いと一緒に、すとんと俺の中に入ってきた。
「そうか」
 気がついたら俺は目をあけて、目の前で固まっているそいつにそう答えていた。
「あ、あの……起きて、たんです……か」
「ああ、お前が入って来たときにな。身体は動かなかったんだが。ときどきあるだろ、そういうの」
「はぁ……」
 椅子の上に身体を起こし、大あくびしながら間接をほぐす。バキバキと、身体のあちこちが鳴った。
「あの……」
 思えばそのときの古泉は、真っ青な顔をしていたと思う。絶望していた、というのが正しいですねと、そのときの話をしたときに聞いたっけ。
「つきあうか?」
「は?」
 割と何も考えず、俺はそう言っていた。寝起きってこともあったし、深夜のテンションだったし、今だにどういうノリだったのか、自分でもよくわからん。ただそのときは、そうするのが自分的に正しいことだって思ったのは確かだな。
「別にいーぞ、お前にその気あればだが。まぁ、いろいろ不都合がありそうだから、当分はみんなには内緒ってことにはなるかな」
 さて、編集作業の続きだ続き、と即席のベッドから降りてパソコンに向かうまで、古泉はその姿勢で固まったまま動かなかった。俺はかまわずに作業の続きを開始して、没頭するあまり古泉の存在を忘れかけたとき、いきなり背後から抱きしめられて盛大にエラー音を鳴り響かせることになった。
「うわっ! 馬鹿お前、ここまでの作業がパーになったらどうしてくれる!」
 文句を言ったが古泉のやつは、聞いちゃいなかった。
「本気、ですか……?」
「えっ? ああ、さっきのことか?」
 すでに頭はすっきりと覚めてたが、気持ちは特に変わっていなかった。そういえば同性だったな、そっちの趣味はないはずなんだが、まぁいいか、と今さらのように考えたくらいだ。
「一応、本気だぞ。お前こそどうするんだ。その気があんのか?」
 古泉はそれには答えなかった。だけど抱きしめる腕にさらにこもった力が、言葉よりも雄弁に答えを伝えてきていた。たぶんそのとき、古泉は泣くのを堪えてたんだと思う。しばらくしてから絞り出すみたいに吐き出した声が、かなりかすれてたからな。
「あの……キス、して、いいでしょうか」
 いきなりか! と思ったが、そういやさっき、すでに奪われてないか、俺。
「いえあの、ちゃんと、合意の上で、ですね」
 真っ赤な顔で、あせりながら言い訳する古泉が面白くて、俺は思わず吹き出した。ちょっと拗ねたような表情が可愛いな、と思っちまったのは不可抗力だと思いたい。
「ちょっと待て」
 向きを変えさせようとする腕に抗うと、古泉の表情は残念そうなものに変わった。こんなにころころと表情が変わる奴だなんて、知らなかったな。
「怖いからデータをセーブさせろ。やり直しなんてまっぴらゴメンだ」
 その直後に見た古泉の笑顔は、それまで見たどんな種類の笑顔より幸せそうで、今でもくっきりと俺の脳内フォルダに焼きついているのだった。

 だから結局そのときは、俺は古泉の想いに応えただけで、俺自身の気持ちは伝えてない。というか、古泉のことをどう思ってるかとか深く考えていなくて……そうだな、ほだされた、ってのが一番近い言い方かな。
 だけどそれからデートじみたことをしてみたり、古泉の部屋に行ったりするようになって、俺はそれまで見てきたあいつの顔が、ほんの一面にすぎなかったことを知った。
 それまで知っていたのは、やたらイケメンで頭がよくて何事も卒なくこなす完璧超人で、うさんくさい組織に属するうさんくさい超能力者で、いざというときは意外と頼りになって、でもいつでも平気な顔をしながらどこか無理してるみたいな、妙に気にかかる奴であるという一面。まぁ、これだけでも普通のダチよりはずいぶん知ってるんじゃないかと思うんだが、つきあうようになってわかったのは、あいつはとてもじゃないが完璧超人とは呼べやしねえと言うことだった。
 なんでもこなせるような顔しときながら、家事能力が限りなくゼロに近いと知ったときは詐欺だと思ったね。ほっとくとろくにメシも食わないし、いつもは上から下までビシッとブランドもので決めてるくせに部屋の中ではよれよれのシャツとジーンズとかだし、出したものは出しっぱなし、脱いだものは脱ぎっぱなしで超だらしないし、オマケに普段は楽天家ぶってるくせに、本気で落ち込みはじめると手が付けられん。まったく、うちの妹より手がかかりやがる。
 あとやたらとスキンシップしたがって、隙あらば触ったり抱きしめたりしつこくて、そういやキスも、3回目あたりでもう舌入れてきやがったっけな。
「ホント、油断も隙もねえよなぁ……」
 草むらで膝を抱えたまま、そんなことを思い出して小さく笑う。ここ数ヶ月のことを思い返してみて改めて感じたのは、俺は古泉のそんな意外な側面を知るごとに、どんどんすきになっていったんだなってことだった。あんなダメ男がいいなんて、俺もよくよく苦労性だよな。
 そのとき、校舎からチャイムの音が聞こえて来た。携帯で時間を確認すると、そろそろ完全下校で校門も閉まる時間だ。冬の短い日はとっくに落ちて、もうあたりは真っ暗になっている。俺はのろのろと立ち上がってズボンの砂埃をはたき、そのへんに放りだしてあった鞄を拾った。
 校門を出て目の前に広がる坂道には、もう下校中の生徒の姿はない。見下ろせる街の灯りを眺めつつとぼとぼ歩いていると、また目の前がにじんできた。みっともねえ。もう泣くな、俺。たかが……たかが失恋じゃねえか。
 古泉が、何をどう思って俺と別れたくなったのかなんてわからない。だけどその心変わりを責める前に、俺は俺自身の怠慢を反省するべきだと思う。気持ちなんて、言葉にしなきゃ伝わらない。恥ずかしいからって理由で、言葉にすることを怠ったって点では、俺にも非はあるんだろう。
「そうだな……言うだけ言っとくか……」
 ふいに思いついて、足を止める。外灯の作り出す光の輪の中で、俺はまだ月の見えない夜空を見上げた。
 俺が、古泉のことをちゃんとすきだったってこと。なかなかキスより先に進めなかったのは、ただ怖かっただけだってこと。たぶんもう今さらなんだろうけど、遅すぎるんだろうけど、伝えておかないと終わらせられない。……勝手かな、俺。
 外灯の光の中から足を踏み出した俺は、そのままそろそろ通い慣れつつあった古泉の住むマンションへと足を向けた。



 インターフォンを押しても、やっぱり応答はなかった。
 ドアの横の窓は真っ暗で、灯りもついてない。耳を澄ませてみても、中からは物音ひとつ聞こえてきやしない。防音なんだから、あたりまえなんだが。
 本当に留守なのか、それとも俺が来るのを見越しての居留守なのかと疑いつつ、あきらめきれずにドアをノックしてみる。固い音。冷たいスチールのドアに、ノックの音はあまり反響しない。手応えがなさすぎて、このままがんばることもあきらめることも出来ずに、俺はドアに手をついたまま、もう一度携帯を取り出した。
 古泉の番号を呼び出して、かけてみる。何度コールしても圏外だった電話。せめて、電源くらいいれておいてくれればいいのに。そうすれば、あいつの携帯に俺の名前が残るのに。――と、プツッとコール音が途切れた。
「あ……」
 つながった! はっと携帯を持ち直したけれど、聞こえて来たのは留守電のメッセージだった。だけどかまわない。これで古泉に、伝えることができる。
「……古泉。聞いてるか」
 本当に留守電だけなのか、そのふりをして古泉が聞いているのかは判断がつかない。それでもかまわん。俺の言いたいことは、ひとつだけだ。
「この期に及んで居留守とは上等だ。ネタはあがってんだぞ。機関の指示とか籠絡がどうとか、全部嘘だってことも、森さんから聞いたんだからな」
 電話の向こうから帰ってくるのは、沈黙。何の音も聞こえない。
「別に、電話に出ろとは言わねえよ。あんな嘘ついてまで別れたくてしょうがない相手とする話なんて、いまさら何もねえよな。一方的すぎるとは思うが」
 留守電の録音時間がどれだけあるのかは知らん。が、とりあえず切れる気配はなかったから、俺は話し続けた。ホント、いまさらだけどな。これは俺のけじめなんだ。失恋くらい、ちゃんとさせやがれ。
「なんでお前が俺を見限ったのか……最初はわけわかんなかったけど、今はなんとなくわかるよ。俺が、信じられなくなったんだろ? 無理もないよな。いつも俺はお前に言わせるばっかりで、俺からは何もしようとしなかった。恋愛はギブアンドテイクだってのに、一方的にもらうばっかりってずるいよな。だからお前が、俺の気持ちを信じられなくなったのも無理はない」
 そこまでひと息に言って、俺は唇を噛んだ。ダメだ。声が震える。また泣きそうだ。みっともないから、耐えろ俺。最後くらい、クールに決めてみろ。
「恥ずかしかったから、とか、怖かったから、とか、みんな言い訳だよな。だけどさ」
 ダメだ。喉がつまる。声がでない。
「ごめんな、古泉……いまさら遅いけど……ちゃんと、おれのきもち……っ」
 馬鹿か俺は。まだ肝心なこと言ってないのに、泣いてどうするんだ。だけどもう、涙があふれて、止まんねえ。
 ドアを背にしたまま、廊下に座り込む。さすがに声をあげて泣くのは恥ずかしいってくらいの見栄は残ってるから、膝を抱えて顔を埋めて、声を殺して嗚咽した。

 どれくらいの時間がたったろう。
 いまだに留守電の録音時間が切れる様子はない。さすがにこれはおかしいだろと思ったとき、電話の向こうからかすかな声が聞こえた。
『……僕は今、自宅にはいません』
「古泉……!」
『こちらに、来ていただけますか? ……もう面会時間は過ぎてますけど』
 面会時間? なんだそれは、と聞き返す前に、古泉は淡々と現在の居場所の名称と部屋の番号らしきナンバーを告げた。

 それは、かつて俺も入院したことのある、あの病院の名だった。

                                                   NEXT
(2011.02.03 up)
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次回完結。