月の見えない夜に
03
  奮発してタクシーで乗り付けてみると、たしかに入院患者の面会時間は終わっていた。
が、夜間入り口の方にまわってみたら、受付のところに森さんが待っていた。
「やっぱり来てくれたのね。ありがとう、キョンくん」
「森さん、古泉は……」
 ケガはしてないって言ってたのに、なんで病院に。
「……とりあえず、朝まで邪魔は入らないようにしてあるから、古泉に会ってひとこと言ってやってくれる?」
 部屋番号は知っているかと聞かれ、古泉に教えてもらったと答えると、森さんはうなずいてエレベーターの場所を教えてくれた。胸にわきあがる不安を抱えたまま、俺は入院病棟へと上がっていった。
 聞いていた部屋番号の下には、確かに古泉一樹と名前が入っている。おそるおそるノックしてみたら、中からはどうぞといらえがあった。
「古泉……?」
 個室だった。俺がかつて入院していたのと、同タイプの部屋だ。手前に応接セットがあり、その奥にベッドが一基置いてある。俺の記憶ではまだ消灯時間には間があるはずだが、部屋には灯りがついておらず薄暗い。窓のカーテンが開いたままだったから、ベッドの上に身を起こしている人物の表情は、外からの灯りで逆光になって、よく見えなかった。
「……病室で、携帯使っていいのか?」
 どう声をかければいいのかわからなくて、俺はそんな関係ないことを問いかける。はい、と返す古泉の声は、ごく普通だった。
「個室の中でならね。最近は、そういう病院が増えているようですよ」
「そっか……俺は、目が覚めてすぐに退院しちまったからな」
 部屋の中に足を踏み入れて、ドアを閉める。廊下からの灯りが遮られ、部屋の中はさらに薄暗くなった。
「なんだよ、こんな真っ暗なままで……灯りつけるぞ」
 壁のスイッチの方に行こうとすると、古泉の声が、つけないでと俺を止めた。
「まず……嘘をついたことを謝らせてください。ひどいことを言って、あなたを傷つけたことを」
「それは……俺と、別れ、たかったから、だろ?」
「ええ……」
 ずきりと、心臓が痛んだ。やっぱりそうだったんだな。わかっちゃいたけど胸が痛くて、俺はまた唇を噛んだ。どこか切れたのか、血の味がした。
「でも、誤解しないでください。僕は決して、あなたから何もいただいてないとは思っていません。あなたのさりげない優しさや、生活態度がなってないとくれる叱責や、何気ないときの笑顔に、僕がどれだけ幸せな気持ちになったか……いただいてないどころか、こんな過分に与えてもらっていいものなのかと、怖くなっていたくらいです」
 なんだか、それはかなり大げさだと思うんだが……でも、だったらどうしてだ。なんで別れたいと思ったんだ? まさかホントに、俺がいつまでもセックスさせなかったからだとか……。
「まさか」
 ちょっとだけ、古泉が笑う気配が伝わってきた。
「そんなの、本当にいつでもいいと思ってましたよ。それは……早い方が嬉しかったですけど」
 我慢するのは、けっこうつらいものがありますしね、と言う声は、それでも特にせっぱ詰まった様子はない。なら、どうして。
「こちらへ、来ていただけますか……?」
「あ、ああ……」
 手招くのに応じて、灯りをつけないままで、そっとベッドに近づく。古泉は寝間着姿だったが、たしかにどこにもケガをしている様子はなく、点滴やその他の器具もつながってはいなかった。一体、どこが悪くて1週間も入院しているんだ。
「古泉?」
 ベッドの脇に立った俺に、古泉の視線が向けられる。だけど、なにかおかしい。違和感がある。色素が薄くて茶色っぽい古泉の瞳が、じっと俺を見ている……はずなんだが、なんというか、視点があってないというか、何も見ていないというか……。
 と、そこまで考えて、ゾクリと背筋に衝撃が走った。もしかして、という思いつきを、おそるおそる口にする。
「古泉、お前……もしかして」
 そっと手を伸ばしてみるが、その瞳は少しも動かない。普通、目前にせまるものがあったら、目を細めるくらいするはずなのに。

「まさか……見えてないのか?」

 俺の質問への古泉の答えは――いつもより儚げに見える、微笑みだった。



「1週間前の閉鎖空間での戦闘で、僕はちょっとした油断から負傷しました」
 呆然と佇む俺に、古泉は穏やかな声で説明をはじめた。
「神人の腕をかわしそこねてはじきとばされ、ビルの壁に激突したんです。そのときに頭を打ったらしく、脳震盪を起こしてしばらく意識を失ったのですが、幸い仲間がすぐに気がついて回収してくれたので事なきを得ました。医療班の手当を受けている最中に意識も回復して、その後の検査でも問題なしと言われたのですが……」
 その日はすぐに部屋に戻って休み、翌日、目を醒ましたときにはもう、何も見えなくなっていたのだという。とにかく手探りで携帯を見つけ出して機関に連絡し、駆けつけてくれた森さんと新川さんの手を借りて病院に駆け込んだらしい。
 診察では、頭を打ったことによる一時的な失明だろうと診断されたと古泉は言った。心配をかけてはいけないと、インフルエンザにかかったことにして学校を休んだのだと。
 でも、と平坦な調子で古泉は続けた。
「2,3日で快復するだろうという話だったんです、最初は。だけどそれから、3日たっても5日たっても、視力が快復する兆しがみられなくて」
 1週間がたとうというころ、医師から、もしかしたらこのままということもありえるかもしれない、と言われたのだという。
「精密検査も受けたのですが、よくわからないと言われました。精神的な原因かもしれないし、脳内の見えないところに異常があるのかもしれないが、特定はできないと……」
「……それで、任務の解除と移動の申請か」
 小さく、古泉はうなずいた。
「こんな、普通に生活することすら難しい状態では、涼宮さんのご要望には応えられません。ご心配をおかけすることにもなりますし……もう、神人を倒すことすら」
 はじめて、古泉の声が震えた。ぎゅっと上掛けを握った手も震えている。
 わかってたさ。いつもどおりの古泉一樹≠フ演技で平静を装っちゃいたが、さっきからお前が、泣きそうになるのを堪えてることなんて。
 4年前の夏、ハルヒに妙な力を与えられてから、お前は生活のすべてをハルヒのために使ってきた。ハルヒの要望を叶えたり機嫌をとったり、神人を倒したりすることは、もはやお前のアイデンティティになっちまってるんだろう。それらすべてが遂行不可能になった今……お前は、拠り所をなくしちまったような気になってるんだよな。
「馬鹿だな……」
 再びそっと手を伸ばして、古泉の前髪に触れる。触った瞬間、びくりと身をすくませた古泉は、俺の手が額に触れると目を閉じた。
「それでなんで、俺とも別れようなんて思ったんだよ。普通、そういうときは頼るもんだろ。一応俺たち……コイビト同士、なんだし?」
 額から頬へと滑らせた手に、古泉の手が重なる。泣きそうな顔のまま、古泉の唇は微笑みの形にほころんだ。
「本当に……あなたは、どれだけのものを僕に与えてくれるんでしょうね……。あなたとおつきあいさせていただいたということだけで、僕はもう一生分の幸運を使い切った気がしますよ」
「大げさだな」
 いいえ、と古泉はゆるく首を振った。
「文化祭前日のあの日から、毎日がまるで夢のようでしたよ。まさか叶うとは思っていなかった想いですからね」
「だったら」
 頬に置いていた手を離してぎゅっと握りしめ、俺はもう一度問いただす。
「なんであんな嘘をついたんだ。恋人ごっこ、だなんて……そんな、自分の気持ちさえ裏切るみたいなこと」
 古泉は目を開けた。茶色いはずの瞳が俺に向いている。密かにお気に入りだったのに、今は光のないそれを、俺はじっと見かえした。

「……あなたのことをすきだと自覚したのは、実はかなり早い段階でした。そう……1年生の、夏休みに入る前にはもう、意識し始めていたんです」
 唐突に、古泉はそんな告白をはじめた。俺は眉をよせつつ、とにかく相づちをうつ。
「夏休み前ってお前、5月に転校してきたんだから、会ってから2ヶ月もたってないじゃねえか」
 呆れた調子でそう返すと、古泉は肩をすくめてくすくすと笑う。
「そうですね。別に、もともと女性より男性を好むとか、そういう性癖ではなかったんですけど、おかしいですねぇ」
 おかしいですねじゃねえよ。さすがにそんな前からだとは気がつかなかったぞ。
「必死で隠していましたからね。最初に意識したときには、僕だってなにかの間違いか、もしくは錯覚だと思っていましたし、そのうち醒めるだろうとも考えていたんです。だけどそれから1年半、想いは醒めるどころかますます強く激しくなるばかりで……」
 あの日、ついタガがはずれてしまったんです、と古泉は言った。文化祭の前日の、アレのことだな。
「あんなことをしてしまって、しかも気持ちを聞かれてしまって、もう終わりだと思いました。僕はネガティブな人間なので、あのときは一瞬のうちに、ああこれでもうこの学校には通えない、あなたともSOS団のみなさんともお別れだ、二度と会うことも許されないだろうと、そこまで考えていましたよ」
「よくまぁ、あの一瞬でそこまで頭が回ったな」
「というか、あれも一種の現実逃避だったと思いますよ。僕にとって一番つらいのは、たぶんこれであなたに罵倒されて、嫌われるんだろうということでしたから」
 一番考えたくないことから思考を逸らして、その先のことを考えたのか。まぁ、わからんでもないな。
「だけど現実は、まるで信じられないような展開でした。どんな奇跡が起こったのかいまだに不明なんですが、あなたは僕の想いを受け入れてくれた。いえ、ほだされてくれた、というのが正しいんでしょうね」
「まぁ、あの時はな……。だが隠してたっていうが、けっこうダダ漏れだったんだぞ、お前。たぶんお前の気持ちが友情以上のものなんだろうなとはずっと感じてたし、それを隠そうとしてるのもわかってたし……」
「あは。でしょうね。僕としてはうまくやれていると思っていたんですが……。まぁ、それで結果的に気まぐれにせよ同情にせよ、あなたが僕を受け入れてくれたんですから、僕にとっては僥倖だったとしか言いようがないんですけれど」
 ……ん? なんか話が……。
「それから数ヶ月、僕は本当に幸せでした……幸せすぎて、色んなものから目を逸らして、見ないようにして過ごしていました。ただ自分の欲だけのためにね。だから」
 ふと、古泉は窓の方に顔を向けた。新月なのか相変わらず月は出ていないが、外灯その他で外からの光は明るい。それに照らされて闇の中に白く浮かび上がる横顔にはまるで表情がなくて、なんだかよくできたマネキン人形みたいだ。
 やがて、血の気のない作り物じみた唇が、溜息みたいに言葉を吐き出した。
「……とうとう罰が下ったんだ、と思ったんです。目が見えなくなって、原因不明のまま、快復はしないかもしれないと言われたときに。涼宮さんの想いからも、この世界を守ろうとしている人たちからも……あなたの気持ちからも、自らのエゴのために目を逸らし続けた、その罰なんだろうと」
 見ないつもりの目ならば、見える必要はないと判断されたんでしょう、と古泉は言う。
「な……」
「だから僕は、その罰を受け入れることにしたんです。あなたにあんなことを言ったのは、ああいうふうに言えば、きっと呆れてくれるだろうと考えたからです。あなたは優しいから、僕の気持ちをくんでほだされてつきあってくれているのだと、ずっと思っていましたから。同情とか好奇心とかその類のものなら、騙されていたと知ればすぐに霧散するだろうって」
 カッと、頭に血が上った。思わず殴ろうと手を振り上げたところで、かろうじて堪える。古泉はじっと見えない目で俺を見ていて、それを待っているように思えた。
「ば……っか野郎……」
 だから俺は、殴る代わりに古泉の首に腕をまわして、きつく抱きしめた。しばらくの間とまどうようにしていた古泉の手が、俺の背中にそっと触れる。
「殴ってくださって、いいのに。僕は自分勝手な卑怯者で、ただ自分の罪悪感から逃れるために、あなたを傷つけたんだから……」
 違うだろ。そりゃ、勝手に俺の気持ちを読んだ気になって、勝手に突っ走りやがったのはひどいし、馬鹿だと思うけどさ。元はと言えば、俺が怠けてたせいだ。
 お前に、気持ちをちゃんと伝えるってことを。
「古泉……」
 言葉にするのは、照れるし恥ずかしい。俺はこういう性格だし、イタリア人でもフランス人でもないからな。言わないですむならそれですませたいと思っちまう。
 だけど今のお前に、いつもみたいに言わなくてもわかれ≠ニか見て察しろ≠ニか、無理っぽいから。甘えてちゃダメだ。
「確かに、お前とつきあうって決めたときは、わりと軽い気持ちだった。ほだされたって言葉の方があってたかもな。でも、その前から俺はお前のことはすごく気にかかってたし、お前の好意が友情の範疇を超えてるんじゃないかと思えてたときだって、別に嫌じゃなかったんだ。どうしてかなんて、考えたことはなかったけど」
 古泉は俺に抱かれたまま、じっと黙っている。胸のあたりで聞こえる心臓の音は、もう自分のものなのか古泉のものなのかわかりゃしない。
「そのへん、はっきり言わなかったせいで、お前に誤解させてたのは謝る。ここに来る前の電話でも言ったとおり、恥ずかしいからって逃げてた俺の怠慢だ。だから……ちゃんと言うから。しっかり聞け」
 しっかりしろ、俺。そもそも、これを言いに来たんだろうが。後悔しないために、ちゃんと言おうって決めたんだろ。

「たぶん俺はそのころからずっと、お前のことがすきだったんだ。……ああ、もちろん今もな」

 ちょうど耳元で、聞き間違いなんかできないレベルではっきりと、宣言した。
 ぎゅっと、背中にまわっている腕に力がこもる。肩が熱い。いままで止めていたらしい息を、古泉が思いきり吐いたからみたいだが、その溜息は泣いてるみたいに震えていた。
「ハルヒのこととか、機関のこととか、世界のこととか……いまさら関係ないなんて投げだしゃしない。でも、だからってこの気持ちは曲げられないし、そうするつもりもない。そこはもう、あきらめて対策を考えるっきゃねえな」
 世界を守ることと、俺が古泉をすきなことは別問題だ。誰にも、文句なんかつけさせやしない。
「だから、お前も信じろ。俺はお前がすきだから、つきあってるんだ。同情とか気まぐれとか、そんなんじゃない。好き同士でつきあってるんだから、罰だのなんだのあてられる筋合いなんかない。……どこの神様にだってな」
 ぴくっと、古泉が腕の中で身じろぐ。俺の言った神様≠ェ、何を指しているかに気づいたんだろう。俺はさらに強く、その身体を抱きしめる。
 古泉はずっと黙り込んでいた。泣いてるのかもしれないと思ったが、嗚咽は聞こえてこない。ただ、やがてぽつりとつぶやいた声は、少しかすれていた。
「これ、夢じゃないですよね……」
 いきなり何を言いだすんだこいつは。
「いえ……なんだか嬉しすぎて、幸せすぎるので……もしも夢だったりしたら、目覚めたあとが怖いなと。絶望のあまり自殺しそうだ」
 なんだかな。そういえばこういう奴だったなと、俺は溜息をつく。
「お前はその、まず最悪を想定するクセをなんとかしろ」
「無理ですよ。もうこれは僕の習い性みたいなものですから。今だって、もしこの目が本当に治らないままなら、あなたに迷惑をかけることになるなとか、あなたのその深い色の瞳も、薄い唇も、すぐ真っ赤になる耳も、もう見られないんだなとか、そんなことばかりをつい……」
 言い終わる前に、俺はぐいと古泉の身体をひきはがして、口をふさいだ。もちろん、自分の唇でもってだ。そういや、俺からキスするのもはじめてだったかもしれん。しばらく押しつけた後離れると、古泉はびっくりしたみたいに目を見開いていた。
「もう黙れよ」
 座っていたベッドから降り、上着とブレザーをまとめて脱いで、応接セットのソファに放り投げる。もう一度身を乗りあげると、二人分の体重を受けたベッドがギシリと音をたてた。
「迷惑とか、言うんじゃねえよ。たかが目が見えないだけだろう」
「あの……っ?」
「世の中には、目が見えなくたって立派に仕事してる人はいるし、ちゃんと結婚して幸せに暮らしてる人だって大勢いるだろ。大体、お前はまだ失明するって決まったわけじゃない。それに」
 言いながら、ちらりと窓の方へと視線を向ける。
 今日の夜空には見えないけれど、そこにはたしかに月はあるはずで、今も地球に影響を与え続けてる。見えるか見えないかなんて、たいした問題じゃない。
 ネクタイをゆるめて、ワイシャツのボタンをはずす。うろたえぎみの古泉の手をつかんで、くつろげたシャツの中、心臓の真上の素肌に触れさせた。
「……見えなくたって、俺を感じる方法はいくらでもあるだろうが」



 いいんですね? という問いに、いいんだとはっきりと告げた。
 もう覚悟は決めた。そりゃ怖くないと言えば嘘になるけど、それよりもっと激しい欲求が俺の中にある。だから、躊躇わない。
 薄闇の中で、何度も何度もキスをかわした。少し冷たい古泉の手は、心臓から喉へ、肩、腕、背中と触れていき、全身を這い回る。
 まるで俺の存在を、手のひらで確かめるみたいに。
「……っあ」
 その手が下着の中にもぐりこんで来たとき、思わず声をあげてしまい、あわてて手で口をふさいだ。すると古泉はもう片方の手で俺の手をつかみ、そっと指先に口づけた。
「抑えないで……聞かせてください。今の僕には、あなたがどれくらい感じてくれているのか、知る術は少ないんですから……」
「う……」
 それは、そうなんだが……。
 個室とはいえ、病室なんだから当然鍵はかからない。いつ看護師さんなんかが入ってきても、おかしくない状況だ。……森さんの朝まで邪魔が入らないようにしておいた≠チて言葉を信じるしかなさそうだな。
「わ、わかった」
「お願いしますね?」
 そう返事しちまったことを、俺はほどなく後悔することになった。
「ここ、は……?」
「んっ……いい……っ」
「あなたは今、どんな、です……?」
「きもち……よくてっ……からだ、あつ……いっ」
 自分の気持ちを言葉にすることは大事だと思う。思うが、どこがどんなふうに気持ちいいかとか、今自分がどうなってるかとか、どうして欲しいとか、いちいち実況するのはなんかたまらん。どういう羞恥プレイだよコレ。
 ……しかも、だな。
「んっ、あれ……やっぱり難し、です、ね」
「も、ちょっと奥、だ……っ」
 あげくに、さんざんほぐされて蕩けたソコに、古泉のを誘導するのまで自分でやることになった。とても無理だって怖じ気づいてたのは、つい数時間前のことだった気がするんだが……。はじめてだってのに、ハードル高すぎじゃね?
「っく……、そ、こで……いい……からっ」
 ベッドに座る古泉にまたがるような格好で、中に古泉を迎え入れる。すさまじい痛みと、内蔵を押す圧迫感に何度もくじけそうになりながら、それでも少しずつ腰を沈めていった。悪戦苦闘の末、ようやく全部を飲み込んだときは、俺も古泉もすっかり息があがり、汗まみれだった。
「は、いった、ぞ」
「はい……っ」
 そう答えた古泉の顔は、痛みとか苦しさとかの中に喜びの入り混じった、複雑な表情になっていた。額から流れ落ちる汗をぬぐってやりながら、俺は笑う。
「ははっ……すげぇ顔だぞ、お前」
「ど、どんなですか……」
「いやまぁ……総じて言えば、幸せそうだ」
 古泉は俺の答えを聞くと、ぐいと俺を抱き寄せた。中で古泉が動いて、思わず声を上げてしまう。なにしやがる、と文句をつけたら、古泉は俺の耳元でつぶやいた。
「僕も……あなたの顔が、見たいです……」
「…………っ」
 うん。そうだな。
 本当は俺だってわかってる。さっきは偉そうなことを言ったけど、目が見えないってことは大変なことだ。想像することしかできないけど、きっと生活から何から変わっちまうだろうし、大体、俺たちはまだ未成年なんだ。
 森さんはたぶん、もう少し慎重に決めて欲しいと思って俺に説得を頼んだんだろう。だが、もしこのまま失明なんてことになるなら、きっと古泉は親元に帰されることになる。どっちにしろ、転校になるのは間違いない。そうなったら俺が泣こうがわめこうが、もうこいつと一緒にいることはできないんだ。
「続けろ、よ」
 囁くように言うと、古泉は震えるような息を吐いてうなずいた。そのままベッドの上に俺を引き倒し、器用に身体を入れ替える。仰向けにされてのしかかられて、中に入ったものが動き始めた。
「うぁ……!」
 きつく抱きしめられて、何度も突き上げられる。耳元で聞こえる激しい息づかい。俺の名を呼ぶ声。追いつめられる。
 離れたくない。どうにもならないっていうなら、今この瞬間だけでも。そしてもしも離れてしまっても、何年かかったって、俺は古泉を取り戻す。
「こ、いず、み……っ」
 繰り返し呼ぶ声は、我ながらなんだか泣き声みたいだ。
 やがて古泉が息をつめ、ぎゅうっと力の限り抱きしめられる。耳元で吐息のように、大切な言葉が囁かれた。
「だいすき、です……」
 ああ、わかってる。俺だって、今度は間違えない。
「うん。俺も……だいすきだ。こいずみ」



 さて、その後のことを少し語ろうか。
 今日も俺は長机のいつもの席に座って、空いたままの席を前に一人チェスを展開中だ。ハルヒはパソコンでネットサーフィン、長門はひねもす本を読み、朝比奈さんはかいがいしく、お茶を入れるための準備中。
 ときおりハルヒが、空席のままの俺の向かいの椅子をちらりと見て、何も言わずにまたパソコンの画面に戻る。朝比奈さんは使われていない湯飲みを取り出し、少し考えてまた洗いカゴの中に戻した。
 静かな日常。いつも通りに日々は巡る。

 あの日の夜があけて、まもなくのこと。
 疲労困憊のあまりに古泉のベッドで寝入っていた俺は、いきなり聞こえた悲鳴に驚いて飛び起きた。
「な、なんだ!?」
 悲鳴は、隣で寝ていた奴があげたものだったらしい。目を押さえてうなる古泉に、俺はあわてふためいた。
「どうした古泉! 目が痛むのか!?」
「すみませ……痛っ……」
 俺はあわててナースコールを押した。
 今こうして思い出してみると、かなりやばかったなと思う。あんまり慌ててたから、俺はそのとき自分の身を取り繕う余裕がなかった。あからさまに事後な姿をしていたら、看護師さんたちをかなりドン引きさせることになったろう。
 幸い、上はTシャツ、下はトランクスというただ寝苦しかったから脱ぎましたと言い訳できる程度の格好だったし、看護師さんたちが駆けつけてきたときにはベッドからは降りていたから、一緒に寝ていたことや、ましてやそこで何をしていたかはバレなかったと思う。まぁ俺も混乱してて、そんなことを考えたのはあとになってからなんだが。
 目を押さえたまま、しきりに痛がる古泉を抱えるように、看護師さんは古泉をどこかに連れていった。たぶん、当直医か何かの診察を受けさせにいくのだろう。残された俺はただ呆然と、開け放たれたままの病室のドアを見つめていた。
 古泉は、そのあと何時間たっても、病室に戻って来なかった。
どうしたのか不安でいてもたってもいられずにいると、そのうちに森さんがやってきて車で家まで送ると言った。帰りたくはなかったが、まだ当分の間、古泉の診察は終わらないと聞かされて、しかたなく機関の黒塗りの車で家に戻り、母親に無断外泊について怒られながら支度をして、いつも通りに登校したのだった。

 それからもう5日が過ぎた。戻って来た日常は何事もなく、なべて世はこともなし。
ささいなことはみんな日々のあれこれに押し流されて、古泉がどうなろうと俺がどうしようと、毎日は普通に過ぎていくんだ。
 俺はボンヤリと眺めていた目の前の席から手元に視線を戻し、詰む寸前の盤面から駒をとりあげ盤上を移動させた。
 チェックメイト、と小さくつぶやいてキングをとったとき、ドアがノックされた。朝比奈さんが、は〜いどうぞ〜と愛らしい声をあげると、一拍遅れてドアが開く。

「遅くなりまして申し訳ありません。掃除当番が長引きまして」

 にこにこと、いつも通りのうさんくさい微笑みを浮かべつつ部屋に入ってきたのは、もちろんこの部屋にいるべき5人目の団員にして、副団長の肩書きを持つ男だ。パソコンの前でつまらなそうな顔だったハルヒが、目を輝かせて立ち上がった。
「待ってたわ、古泉くん! さぁ、全員そろったところでさっそく会議よ!」
「なんの会議だよ」
「決まってるじゃない、キョン! 古泉くんのインフルエンザ全快おめでとうパーティの計画よっ!」
「ありがたいですが、病み上がりですのでお手柔らかに。涼宮さん」
「大丈夫! 雑用は全部、キョンが引き受けるわ!」
「なんだとコラふざけんな!」
 俺の抗議を完全に無視し、ホワイトボードにガシガシと議題を書き付けるハルヒの背中に肩をすくめる。やれやれ、ホントにいつも通りの日常だな。
 そんな意味をこめて溜息をつくと、にこにこしながらハルヒを見守っていた古泉が俺の方に視線を向け、ぱちりとウィンクしてみせた。もちろんその色素の薄い茶色っぽい瞳は、しっかりと俺の姿を映している。俺はわざと不機嫌そうに、目をすがめてにらみ付けてやった。
 ――古泉の視力が戻ったのは、突然の目の痛みを訴えた直前のことであったらしい。
 快復直後の目に、カーテンを開けたままであったがためにいきなり朝日が直撃し、まぶしさのあまりに視神経がどうたらしてそれが痛みになってどうのと説明を受けたがよく憶えていない。
 なぜなら、そんな説明を受ける俺の目の前に、微笑みながらまっすぐに俺を見つめる、古泉の瞳があったからだ。
 見えてるのか、という俺の問いに、古泉が、はい、おかげさまでと答える。ベッドに駆け寄った俺は思い切りその身体を抱きしめて、肩口に顔を埋めながら、ホントによかったと吐息混じりにつぶやいた。
 やがてかなりの時間が経過したあと、背後から聞こえた咳払いに、俺ははっと我に返った。そしておそるおそる振り返り、応接セットのソファに座っていた森さんと目があって、気まずい空気を共有することになったのだった。

「ホントにもう、なんともないのかよ」
「ええ。もうまったく通常通りです」
 足を組んで頬杖をついただらしない格好で聞いてみると、そんな答えが返ってきた。ハルヒの耳には、インフルエンザはもう治ったのかという意味に聞こえているはずだ。が、もちろん俺の質問はそれじゃない。
「そうか……ま、よかったな」
 視線をそらし、そっけなくうなずく。
 古泉の視力が一向に戻らなかったのは、どうやら精神的な問題であったらしいとは本人に聞いた。何がそんなにストレスだったのかは聞かない。戻ったタイミングを考えれば、まぁ大体予想はつくからな。
 わずかに罪悪感を感じていると、コツ、と足先に何かがあたった。なんだと思うまもなく、それが向かいに座っているやつの足だと判明する。他の3人には見えない角度で、それは何度も俺の足をつついてきた。何をしやがるとの意味をこめてにらみ付けてやれば、そいつはもう一度、しっかりと俺の視線をとらえて笑いかけてくる。
「嬉しいですよ。……また、あなたの顔が見られるのは」
「……っ」
 これもまた、本当の意味は俺だけが知っている。思わず熱が上りそうになる顔を手で覆って、俺はアホなこと抜かしてんなと毒づいてそっぽを向いた。
「あら古泉くん、そんなにキョンのアホ面が見たかったの? 変わった趣味ねぇ。みくるちゃんとかならわかるけど」
 聞きとがめたハルヒが、ホワイトボードに書き付ける手を止めて口をはさむ。朝比奈さんのご尊顔ならいつでも見たいって点は同感だが、アホ面とはなんだアホ面とは。
「ええ。なんというか、彼の顔って見ていると安心しませんか?」
 おい古泉。どうでもいいが、微妙にフォローになってねぇぞ。
「まぁ、よく言えば平和そーな、緊張感のない顔よね。基本しかめっ面だけど。たまには古泉くんを見習って、爽やかな笑顔でもしてみればいいのに」
「余計なお世話だ」
 冗談じゃねえ誰がそんなヘラヘラと締まりのない顔するかとボヤいていたら、古泉は楽しそうな笑い声をたてやがった。
「確かに、爽やか笑顔の類は、あまり見せていただいたことがありませんねぇ。でもそれ以外の珍しい表情なら……」
「なぁに。古泉くん、キョンのそんなレア顔見たことあるの?」
 興味津々といった表情で身を乗り出すハルヒに、古泉はいえいえと首を振る。そして俺の方へ、にっこりと意味ありげな笑顔を向けた。
「これから色々と、見せていただく予定ですよ」

 待て、それはどういう意味なんだ。
 だが下手につつくと藪から蛇が出そうな気がして、俺はとりあえず、しつこくつつき続けてきていた足を、思い切り踏んづけてやった。

                                                   END
(2011.02.10 up)
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というわけで、T様よりのリクエストお題「ケガをして弱気になる古泉」でした。
あんまりお題に沿ってないかも……どうでしょうか、T様。

ケガというかアレなんですが、参考にしたのは海外ドラマとか映画とかなので、
あまりちゃんと病状についてとかは調べていません。すみません。