月の見えない夜に
01
 放課後、掃除当番を終えていつもの部室に行くと、今日も団員の数が約1名足りなかった。俺の向かいの指定席は、もうかれこれ1週間ほども空席のままだ。
「古泉は今日も欠席なのか?」
「そうみたい」
 先に来ていたハルヒが、団長席のパソコンから顔をあげ、心配そうに眉を曇らせる。
「そろそろ1週間になる? さすがに心配になってきたわ。大丈夫なのかしら」
「インフルエンザだって言ってたな。ちゃんと病院行ってるんだろうな、あいつ」
 古泉が突然、らしくもなく団活を無断欠席したのは、たしか先週の水曜日のことだ。9組の奴に聞いて学校自体に来ていないと知ったハルヒにせっつかれ、俺が代表して古泉の携帯に電話をかけた。どうしたのかと尋ねると、古泉は電話の向こうで力なく、すみません体調を崩しましてと答えたのだ。一応、見舞いに行こうかと申し出てはみたのだが、どうもインフルエンザらしいからと言われては、訪問を断念するしかなかった。
「お見舞いにも来るなって言われてるし、最初の日以来電話も通じないのよねぇ。もう……容態ぐらい教えてくれればいいのに」
「相手は病人なんだから、過剰な期待をかけてやるなよ」
 口を尖らせて無茶を言うハルヒに釘をさしていると、俺の手元にお茶の入った湯飲みが置かれた。今日も麗しいメイド姿の朝比奈さんは、どうぞと微笑んでくださってから、お盆を抱えて可愛らしく首を傾げた。
「1週間も寝込むなんて、よっぽど具合悪いんですねぇ」
「大事をとって、休んでるだけかもしれませんけどね」
 本当にインフルエンザなら、1週間くらいは感染の危険があるとか言われてるからな。人に感染さないために休んでるだけかもしれない。まぁ、それにしたって連絡のひとつぐらいよこしやがれと思うが……まさか、他に理由があるわけじゃないだろうな? 例えばバイト♀ヨ連で、とか。
 思わず長門の方を見たが、長門は相変わらず黙々と本を読んでいる。俺の視線に気がついたのか本から目を離し、まっすぐに俺を見たが、その表情は特に何かを訴えているというわけじゃないみたいだ。そのくらいなら、俺には読み取れる。
 うん。長門が何もリアクションしないってことは、何かハルヒがらみの一大事が起こってるってわけじゃないんだろう、多分。
「そうよね。1週間もたてば、そろそろ感染の危険もなくなってるころよね……」
 俺があれこれと気を回している間に、ハルヒは椅子の上であぐらをかいて腕を組むという、女子高生にあるまじき姿で、なにやらうなっていた。何を考えてるんだかわからんが、あんまり妙なことを思いつくなよ?
 眉をしかめて様子を見守っていると、やがてハルヒはすっくと立ち上がり、高らかに宣言した。
「決めたわ!」
 な、何を?
「これからみんなで、古泉くんのお見舞いに行くわよっ!」
 やっぱりかちょっと待て! 確かにインフルエンザはそろそろ治ってるかもしれんが、あの部屋をいきなりハルヒに見せるのは、いろいろ問題がだな。
 だが、それをどう穏便に伝えたものかと俺がうろたえつつ席を立つ前に、ハルヒはすとんと再び椅子に腰を下ろしてしまった。
「……って言いたいところなんだけどね」
 そして、ひょいと肩をすくめ、妙に分別くさい顔で、溜息をついて首を振る。
「1週間も寝込んでよれよれの姿なんて、あんまり女子には見られたくないわよね、男としては。さすがの古泉くんでも、病床でもいつも通りってわけにはいかないでしょ。キョン、あんた帰りにでも寄ってあげなさいよ」
 な、なんで俺が行かにゃならん。
「だって古泉くん、ひとり暮らしじゃない。きっといろいろ不便してるわよ。ごはんとか、まともに食べてないんじゃないかしら」
 洗濯物だってたまってるはずよね、あとお風呂だって入れなかったと思うから身体ふいてあげたら嬉しいと思うし、買い物だってと、ハルヒは指を折って数え上げる。まぁ、確かに病み上がりならそうだろうな。
「団長命令よ! 行ってあげなさい、キョン! まだ治ってないようなら、食べ物の差し入れだけでもしてあげたらいいわ」
「俺がか」
「いいじゃない。あんたたち仲いいんだから、多少よれよれでも気にしないでしょ」
「ま……まぁ、な」
「そうと決まれば、キョンの今日の団活は免除! さっさと行った行った!」
 さぁさぁさぁ、と追いたてられ、俺は朝比奈玉露を半分も堪能しないうちに、部室を追い出されて帰宅の途につくことになった。いってらっしゃいとの言葉とともに目の前で閉じたドアを眺め、やれやれと溜息をつく。
 まぁ、本当に病み上がりだってんなら、見舞いに行くのは吝かじゃないんだが。ほら、ハルヒの言うとおり、俺たちは相当仲が……うん、尋常じゃなく、仲がいいから、な。



 実は……と白状してしまえば、俺と古泉は数ヶ月ほど前の文化祭の前日から、いわゆるおつきあい≠ネんてものを開始していて……つまり俺たちは今現在、端的な言葉でいうところの、いやまぁ、その……恋人同士、ってことになる、わけ、なんだが。
 ああいや、そうは言ってもまだつきあい始めたばっかりで、それほど進展しているわけでもなく、いやでもキス、はもうすませていて、それも舌とか入れてしまういわゆるディープなやつで、でもそれ以上のことはまだ俺が躊躇してるから、だって怖いだろ、男同士ってケツに挿れるって聞いたぞヤバイだろ無理だろ常識的に考えて!
「……待て、落ち着け俺」
 放課後の人気の少ない昇降口で、下駄箱に額をあてて寄りかかり、いったん心を静める。何を考えてるんだ俺は。とりあえず今日は、行くなら普通の見舞いだ。別に、何かしに行くってわけじゃないんだから、冷静になれ冷静に。

 そんなことを自分に言い聞かせてるそばから、耳の奥に古泉の声が蘇る。
 もう、こんな時間なんですね……と、溜息混じりの声は、古泉が休みはじめる前のいつだかに聞いたものだろう。たしか、学校の帰りに古泉の部屋に寄った日、特に何をするでもなくぐだぐだと時間をすごし、そろそろ帰らねばとなった時のことだったはずだ。あの部屋にはテレビがないからつい時間を失念することも多いけれど、翌日が休みでない以上、いつまでも長居しているわけにもいかないのだ。
 部屋の主でもある古泉は、時計と俺を見比べて、いつもあからさまに名残惜しそうな顔をする。言いたいことがだだ漏れのその表情にほだされないよう、俺はあわてて目を逸らし、ソファの上に置いてあった上着を手に立ち上がった。
「どうせ明日も学校で会うじゃねえか」
「それは……そうなんですけど、ね」
 手早く上着を着込んでマフラーを巻き、カバンを肩にかけて玄関に向かう。靴を履いてからドアの前で振り返ると、見送りに来た古泉と正面で目があった。
 来る、と思ったときには、もうドアに背を押しつけられて、唇をふさがれていた。
触れた瞬間、びくっと身体が震えたが、すでになじんだ感触に自然に目蓋は閉じて、唇はするりと入り込んでくる舌を受け入れる。
「んっ……」
 片腕が腰にまわり、きつく抱きしめられる。別れの挨拶にしてはやや濃厚なキスに息を荒げ、さんざんに舌をからめあってから、唾液の糸を引きつつ唇はようやく離れた。
「なん、だよ」
「泊まっていってください、と言えるものなら、言いたいんですが」
「それは……っ」
「わかってます。無理はしなくていいですから……あなたの気持ちが固まるまで、ずっと待ってます」
 そういう、初体験を怖がる処女にするみたいな口説き方やめろ、と文句を言うと、似たようなものではないですかと返された。うるさい。大体なんで、俺が女役決定なんだふざけんな。
「別に僕は、逆でもいいですけどね。楽しみにしてますよ」
「あーもうお前恥ずかしい! 黙ってろ!」
「ふふっ」
 恥ずかしさのあまりキレ気味でにらみ付けると、古泉は小さく微笑んだ。そしてもう一度、今度は柔らかく俺を抱きしめながら耳元で囁く。
「……すきです」
 重大な秘密を打ち明けるみたいに、大切な宝物について語るように、古泉はそう告げる。文化祭の前夜、耳元で聞いたあのときの告白と同じように。
「あなたが、すき、です……」
「……うん」
 熱い息とともに耳に吹き込まれるその言葉に、ただうなずいてシャツの胸のあたりをぎゅっとつかむ。
 言えない。今日こそ言うぞと力んできたのに、言葉はやっぱり声にならない。
 俺もすきだって、一言返せばいいだけなのに、素直になれない俺の舌は、思い通りに動きやしない。照れくさくて恥ずかしくて、いつもうなずくだけが精一杯で。……何やってんだ、俺。
「一度くらい、あなたの気持ちをちゃんとお聞きしたいものですが」
 俺のジレンマを古泉は正しく見抜いていて、ときどきからかうような口調で言ってくる。
「い、言わなくたってわかるだろ……」
「わかりませんよ。僕が思っているのとは、違うかもしれません」
「うるさい。見てわかれ。察しろ」
「あは、ずるい人だなぁ」
 ぎゅっと抱きしめる腕に力をこめて、古泉はくすくすと笑った。思い出すと胸の奥がざわざわして、なんとなく頬が熱くなるような幸せそうな笑みが脳裏に蘇る。
 うん、ケツに挿れるなんてありえねえんだけどさ。考えるだけで、ぞわって身がすくむんだけどさ。……古泉があんな顔してくれるんなら、ちょっとがんばってみようかなーとか思っちまうよな。

「いやいやいやいいや待て待て待て待て」
 校門のあたりではっと我に返り、自分の思考に思い切り突っ込む。
待て待て、俺。早まるな、俺。もうちょっと慎重に考えてからでも遅くないぞ、うん。
「そうだ。とりあえず、電話入れてみるか」
 どんどん怖い思考になる脳をクールダウンさせるため、古泉に電話してみることにした。最初の電話からしばらくは、出るのもしんどいだろうと思って電話もメールも控えていた。一昨日あたりにもう一度かけてみたら、今度は電源が入ってないとの音声が流れたから、ああ、放置したままで充電が切れたんだなと理解した。
 さて、そろそろ携帯の充電を気にするくらいには快復したのかね。
 携帯に古泉の番号を呼び出しコールすると、とりあえず繋がった。やっぱり、かなりよくなったんだな。それなら、見舞いにもいけるかもしれん。
『はい……古泉です』
 やがてプツッと音がして、古泉の声がした。1週間ぶりに聞いた声は、やっぱり病み上がりなのか、なんだか元気がなかった。
「おう、古泉。具合はどうだ? もう熱下がったのか」
『ああ……はい。そうでしたね……』
 妙な答えだな。そうでしたねってなんだ。
『いえ、インフルエンザだというのは、実は嘘なので』
「は? なんだって? 嘘?」
 どことなく固い声で、古泉はそうですと言った。
「だったらホントはなんなんだ。どうしてそんな嘘を……もしかして機関≠ェらみのあれか? まさか、閉鎖空間でケガでもしたのか」
『…………』
 電話の向こうの声が黙り込む。俺は思わずその場に足を止めた。まさか、ホントにそうなのか? もしかして今まで動けなかったほどのひどいケガをしたのかと、にわかに心臓が騒ぎ出した。
「待ってろ、今行くから!」
 そう叫んで、校門から続く坂道を駆け下りるべく足を速めようとしたとき、携帯の向こうの古泉が静かに、違いますよと否定した。ひどく冷たい、これまでに聞いたこともない声だった。

『来なくて結構です。近日中に転校することになりそうなので、準備のために欠席していただけですから』

 何を聞いたか、一瞬わからなかった。
耳が、聞くことを拒否したのかもしれない。
「なに……?」
『日程は決まっていませんが、おそらく今週中には手続きが完了すると思います。親の仕事の都合という口実になるかと』
「ちょっと待て古泉! お前、正気か?」
 その前に、これは本当に古泉なのか? 声もしゃべり方のクセも古泉そのものに聞こえるんだが……。、
『以前にも言ったでしょう? 僕はいつでも、ほどほどに正気です』
 間違いない。これは確かに古泉だ。が、だったらなぜこんなことを言い出すんだ。転校するなんてことを、淡々と、まるでなんでもないことみたいに。どうして。
「だ、だったらなんでお前、そんな平然と……。俺と離れてもいいってのか!? だって俺たち……」
 ごくりと、唾を飲み込む。心臓がばくばくと鳴っている。
「俺たち……つきあってる、よな? お前、俺のことすきだっていつも」
『ああ……信じてたんですか』
 信じがたい言葉が聞こえた。
 周りの光景も、雑多な音もすべてが消える。聞こえるのは、どこか笑いを含んだみたいな、聞き慣れていたはずの声の冷たい響きだけ。これは一体、誰の声だ。
『あなたは、涼宮さんの鍵ですから。涼宮さんがあなたしか眼中にない以上、あなたを籠絡するのが正解でしょう? 彼女をコントロールするためにはね』
 脳裏に、いつかだった歩道橋の上から見たヘッドライトの流れが蘇る。確かに言ってたな。あのときは朝比奈さんがどうとかいう話だったが。俺を籠絡するとかいうふざけた策を、コイツがやったと、そういう訳なのか。
「だったら……なんでいまさら、転校なんて」
『……方針が変わったんですよ。僕は下っ端なので、上の命令に従うだけですから。ああ、もしかしたら僕の代わりのエージェントがそちらに行くかもしれませんので、そのときはよろしくしてあげてください』
 次は可愛らしい女生徒だといいですね、と含み笑って、電話の向こうの声は続けた。
『直接ご挨拶には伺えないかもしれないので、今言っておきますね。今まで大変お世話になりました』
「ま、待て、こいず」
『恋人ごっこは、けっこう楽しかったですよ。……さよなら』
 それきり、プツリと通話は切れた。あわててかけ直しても、聞こえてくるのは、電波の届かないところにいるか電源が……という、あの機械音声だけだった。



                                                   NEXT
(2011.01.29 up)
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