永遠を探してる
01
「古泉……あのさ」
 まだ熱の引ききらない身体をシーツに横たえたまま、彼は枕にうつぶせた体勢でそう口火を切った。振り返って見下ろすと、先刻までの激しい運動の名残で、彼の額にはまだうっすらと汗が浮いており、どことなくけだるそうだ。いつも思うのだが、事後の彼はどうしてこうも色っぽいのだろう。
 そんなことを考えつつゴムやらなにやらの始末を終えた僕は、ベッドボードに置いてあったミネラルウォーターを彼に渡しながら、なんですかと聞き返した。
「来週の日曜日、ちょっと出かけてくる」
「日曜日ですか。どちらへ?」
 彼がひとくち飲んで戻してきたボトルに口を付け、冷たい水を喉に流し込む。酷使して嗄れかけた喉が潤され、汗をかいて水分を失った身体にじわりと染み渡る。
 そんな僕の隣で、彼は相変わらず枕に顔を半ば埋めたままだ。腰のあたりまでかけられた上掛けの下、一糸もまとわない身体がもぞもぞと動く。言いにくそうに逡巡する彼の口が再び開くのを、僕はじっと待ち受けた。
「アイランドホテルのガーデンレストランに、な」
 やがて彼がつぶやいた外出先は、およそ彼には似つかわしくない場所だった。
「ホテル、ですか?」
「ああ……断り切れなくて」
 嫌な予感がした。
アイランドホテルといえば、それなりに格式の高い豪華なホテルであって、僕ら一般庶民が利用するとなると、自然と用途は限られてくる。
 案の定、彼は困ったような顔を僕に向け、横たわったままで器用に肩をすくめた。

「見合い。N女子大卒の、2コ下だってさ」



 夕食の席あたりから、彼が何かを言いたげにしていることには気がついていた。
同棲生活も5年目ともなれば、そのくらいのことは様子を見ていればわかる。だが僕はあえて水を向けたりせず、つとめて普通に過ごして彼が言い出してくるのを待っていたのだ。順番に風呂に入り、寝る準備をしてベッドに入ってからも一向に言おうとしないので、ならばと思いセックスに誘ってみた。ピロートークなら言いやすいかもしれないと思っての行動だったが、結果としてそれが図に当たったようだ。
 ああ。この現状からお察しいただけるとは思うが、ひとつ屋根の下で起居を共にすることを同居≠ナはなく同棲≠ニ表現したのは、もちろん間違いではない。
 僕と彼は、高校卒業後数年して再会してから、恋人同士としておつきあいをはじめた。その直後にルームシェアを開始し、それからもう5年ほどの間、共同生活を営んでいるのだ。何度かケンカやトラブルはあったものの、それでも同棲を解消しようという流れになったことは一度もなく、一昨年の引っ越しで現在のマンションに移ってからは、それまでなんとなく分けていた寝室もひとつになった。そんな現在の生活に僕は満足していたし、彼も恐らくそうだろうと思っている中での爆弾発言だった。
「お見合い……ですか」
「ああ」
 言い出せたことにホッとしたらしい彼は、さっきよりリラックスした様子でベッドに座り直し、枕を抱えて首をすくめた。そんな姿はとても三十路間近の男とは思えないほど可愛いのだが、今がそんなことを言ってる場合でないことは明白だった。
 そう。男も女も30歳といえば、人生のひとつの節目。見合いだの結婚だのといった話が舞い込んできたとしても、ちっともおかしくない年齢ではあるのだ。
「親戚に、縁談をまとめるのが趣味みたいな伯母がいてな。どこから聞いたんだか、俺がいい歳こいて独り身だと知ったらしくて、こないだ実家に帰ったところを急襲されたんだ。山ほど見合い写真と釣書押しつけられて、しょうがないから適当に1枚選んだら、あれよあれよという間にセッティングされちまって」
 やれやれ、と彼は学生時代から変わらぬ口癖をつぶやいて肩をすくめる。
「ちょうど帰ってきてた妹も、今どきお見合いなんてって援護してくれたんだが、伯母さんがそりゃもうすごいテンションでな」
 東京で働いているという妹さんとは、僕はもう数年顔をあわせてはいないが、どうやらうっすらと僕らの本当の関係に気づいているらしいと聞いた。カミングアウトしたわけではないのだが、なんとなくそんな気がするのだと彼は言う。女の勘はこええよと溜息混じりに告げられて、苦笑いするしかなかったのも確かもう数年前のことだ。そんな彼女の援護にも関わらず見合いを承諾させられたというのだから、伯母上の勢いは相当なものだったに違いない。
「そんな顔しなくても、ちゃんと断ってくるよ」
 黙り込んだ僕の様子が何を意味していると思ったのか、彼はそう言って僕の頭に手を置いた。その手が、ぽんぽんと優しく頭に触れる。
「心配すんな。見合いなんて形だけだし……ちゃんと断って、俺は結婚する気はないからって伯母さんにも釘刺してくるからさ」
 だからそう、泣きそうな顔をするなよ、と彼は言う。そうか、僕は今、そんな顔をしているのか。
「お母上は、何もおっしゃらなかったんですか……?」
 実家での話なら、父上はともかく専業主婦の母上はそこにいたはずだ。長男の見合い話に、何も口をはさまなかったのだろうか。
「まぁな……。前にも言ったろ、妹には気づかれてるっぽいって。でもよく考えるとどうも、オフクロもなんか察してるらしいんだよな」
 彼は複雑な心境を現すような表情で、頭をかいた。
「伯母さんが俺に、早いところ所帯を持って親に孫の顔を見せてやれ、それこそが親孝行だって熱心に言ってるとき、そこは妹に期待してるからいいんですよって笑ってた。ちょっといたたまれなかったが……こればっかりはしょうがねぇよな。さすがに子供は産めん」
 そこで彼は、はっとしたように、なんでナチュラルに産む側のつもりで話してんだ俺、と、いまさらなことをつぶやいている。ついさっきまで、僕を中に受け入れて気持ちよさそうな声をあげていたのに、何を言っているのやら。
「妹も、一応彼氏はいるみたいだからな。俺の分まで、がんばってもらわないと」
 冗談めかした調子で、そんなことを言う彼。寂しそうな顔ではないが……確かに、孫は子供よりも可愛いという格言(?)もあることだ。結婚して、子供を持つことこそが親孝行であり、あたりまえの幸せだと言われてしまえば、その通りだと納得するしかない。が、このままでいけば、僕らの前にその道が開かれることはないのだろう。

 そういえば僕も、先日、上司に似たようなことを言われたな、と思い出す。
終業後に同僚の数人とともに、居酒屋につきあわされた時のことだ。その場にいた何人かの中で、結婚していないのがたまたま僕だけだったこともあり、その点で上司にさんざんからまれたのだ。
 曰く、男は結婚して、家庭を持って一人前。社会的信用がどうのと固いことは言わないが、家で待っていてくれる妻と子供がいてこそ、仕事にも張り合いが出るのだし、あたりまえの幸せというのはそういうものだと滔々と持論を語られた。
 同僚たちが何度か話を逸らそうとしてくれたが、すでに出来上がった上司の追求はしつこかった。決まった相手はいないのかと聞かれ、まぁ恋人くらいならおりますがと答えたらなぜ結婚しないのかと責められ、ちょっと事情がありましてとぼかせば、早いに越したことはないとせかされる。女は年を取ると子供を作るのに支障が云々と生々しい話に発展してきたあたりで、見かねた同僚の一人が止めに入ってくれた。
 同僚は、喫煙を理由に店の外へ連れ出してくれ、その場は助かったなとホッとした。が、結局その後、その年上の同僚にもやはり、恋人がいるってのは本当なんだろ、なんで結婚しないんだと聞かれることになったものだから、僕は苦笑しながら、許してもらえないので、と答えた。
 日本の法律に、という意味だったが、同僚はどちらかの親にだと解釈したようだった。まぁ、それが常識というものだ。そうか、と重々しくうなずいた彼は恐らく、マズイことを聞いたと思ったのだろう。急に口調を軽くして、だったらお前、指輪くらいしとけよ、お前に恋人がいるかだの、好みのタイプ聞いてくれだの、合コンに誘えだの、いろいろうるさくてしょうがないんだぞこの色男とからかわれた。
 ただ、店の中に戻る直前に彼はぽつりと、うまくいくといいな、と言ってくれた。その真摯な声色は、今でも耳の奥に残っている気がする。

 そんな記憶を巡らせながら、僕は黙って手を伸ばし、彼の肩に腕をまわして抱きしめた。ぎゅうとその腕に力を込めて肩口に顔を埋めると、彼の手が僕の背中にまわる。
「ん、どうした」
「いえ……」
 うまくいくといい、なんて。今のこの現在よりうまい¥況なんて、望んだらきっとバチが当たる。僕にとっては、これ以上はのぞむべくもない幸せな今、なのに。
「古泉……? なんだよ」
「なんでもありません……ただ、5年前のあの日、もし再会していなかったら、今頃どうなっていたんだろうと、急に思ってしまって」
 僕の唐突な言葉に、彼は少し首を傾げ、考えるような表情になった。
「どうだろうな……考えたこともない」
 本当にそうだろうかと思うのは、僕自身は何度も考えたことがあるからだろうか。
 5年前、涼宮さんの号令で決定したらしいSOS団同窓会への招待状が来たとき、出席するか否か3日ほど迷った記憶があるせいかもしれない。
 結局片想いのまま、最後まで告白すらせずに卒業して数年。薄れるどころかますます降り積もるばかりの彼への想いに我ながらあきれ果てていたところだったから、再会するのはつらかった。会いたい、でも会いたくない、と逡巡して3日後にようやく出席の返事をし、もし同窓会の席で彼と涼宮さんの結婚が発表されても笑って祝福するところまでシミュレートして覚悟を決めてから、ようやく重い腰を上げたのだった。
 再会してみれば、全員があのころとほとんど変わりがなかった。まったくの音信不通だったのはどうやら僕だけだったようで、女性たち3人は年に数回は女子会とやらで集まっており、彼とはそれぞれ年賀状や電話のやりとりくらいはしていたと聞かされた。薄情者めと全員から冗談交じりに責め立てられ、申し訳ありませんと笑顔で謝罪しながらも、現金にも来てよかったななんて考えたものだった。
 さんざん飲んで食べて語り合ったあと、女性お三方とは店の前で別れた。3人でホテルの部屋をとっているらしく、これから女子のみでの二次会をするとかで、僕ら男性陣二人は置いていかれてしまったのだ。彼と顔を見合わせ苦笑して、じゃあ俺たちは俺たちでどっかで飲み直すかという彼の提案に、僕はもちろん喜んでと返答した。そしてよさそうな店を探し、話をしながら夜の街をのんびりと歩いたのだ。それがどうして、あんな流れになったのだったか。
「今でも時々、なんであんなこと出来たんだろうと思うことがありますよ」
 汗が引いて少し冷えはじめた彼の身体に熱を与えるように、密着したまま言うと、彼は思いだそうとするように少し黙った。
「……確か、いい歳なのに全員独身ってどうよとかって話してたんだっけ」
「ああ……そういえばそうでしたね。それで、あなたと涼宮さんが、おつきあいをしていたという話を初めて聞いて……」
「あれで、つきあってたって言えるのかわからんがな」
 どの程度のつきあいだったのか、なんて問題じゃなかった。僕はその事実と時期を聞いて、納得したのだ。涼宮さんのあの力が、ある日なんの前触れもなく、突然消滅した理由を。涼宮さんの中では、それはどういう意味を持っていたのか、ということを。
「もともとハルヒは、大学在学中から留学だなんだって海外を飛び回ってたからな。日本にいる間にちょっと遊んじゃささいなことでケンカして、そのままあいつが外国にいっちまうなんてこともしょっちゅうでさ。しばらくすると、けろっと連絡してくるからまた遊んでのくり返しだったから……俺としちゃ、どっちかと言えばケンカ友達だなと思ってたんだが」
「たぶん僕は、そんなお二人の関係がうらやましくなったんだと思いますよ」
「へぇ、そりゃ初耳だ。それで、そんなケンカ友達な関係がうらやましくなって、なんでいきなりキスだったんだ」
 直截な言葉で言われて、僕は苦笑した。
そうだった。フラフラと歩きながらそんな話を聞いている途中で、僕は突然こみ上げてきた衝動のまま、いきなり彼を人目につかないビルとビルの隙間に押し込み、無理やりキスをしたのだった。
 やめろ酔ってんのか馬鹿離せと罵倒されつつ、舌をからめあうような濃厚なキスを二度三度とくり返すうちに、だんだん彼の抵抗が弱くなっていったのを憶えている。最後には酔いも手伝って立っていられなくなった彼を抱きしめて、ずっと好きでしたと告白した。
彼の返事は確か――、今頃言ってんな馬鹿、だったと思う。まぁ、あんな激しいキスをさんざんしてから言うようなセリフではないというのは、その通りだったろう。
 そうして始まった彼との交際は、幸せなんて生やさしい言葉では表現しきれないほどの日々だった。明日死んでもおかしくないと思いながら毎日を過ごし、気がつけば5年がたっていたのだ。

 だけど今になって、ふと思うことがある。
あの日、もし彼が僕と再会しなかったら。
酔っぱらったまま、二人きりで夜道を歩いたりしなければ。
僕が、無謀な告白などしなければ。
 もしかしたら彼は今頃、涼宮さんと結婚して所帯を持ち、母上に……ご両親に孫の顔を見せたりしていたのかもしれない。
 今の生活に不満があるわけでも、後悔しているわけでもない。どちらかと言えばありえないほどの幸せに目もくらむ毎日といえるだろう。彼があのときなぜ僕の告白を受け入れてくれたのかとか、この先のいつまで僕とともにいてくれるつもりなのかとかを確かめたことはないけれど、今現在、彼が僕をパートナーと定めてくれている意志を疑うことなど、いまさらありはしない。
 だけど――。
 居酒屋で上司が懇々と説いていた説教が、脳裏をかすめる。
男は結婚して、家庭を持って一人前。それこそが、あたりまえの幸せというものだと。
「もしかしたらあの日……僕はあなたからあたりまえの幸せ≠フ可能性をひとつ、奪ったのかもしれませんね……」
 ピク、と彼の肩が動く。
「何を言ってんだ、お前」
「いえ……もし再会していなかったら、あなたは今頃普通に結婚して、普通に家庭を築いていたのかも、とちょっと思っただけです」
 僕はダメだ。僕はあの日、彼と再会しなくてもきっと、彼を忘れることなどできはしなかったろう。ひと時、誰かと情を通じ合わせることがあったとしても、恐らく長続きはしなかったはずだ。でも、彼は僕とは違うから。
 いきなり、彼が僕の肩に手をかけ、グイと乱暴に引きはがした。寝室の薄い闇の中に見える彼の表情は、明らかに怒っていた。
「ふざけんな」
「あ……、すみません。別に今の生活に不満があるわけでは」
「うるせぇよ。……なんだよ奪ったって。お前のそういうとこ、むちゃくちゃ腹立つ」
 しまった。本格的に怒らせた。
彼の沸点は意外に低いが、それでもめったに本気で怒ることはない。大抵のことは、その広すぎるキャパの中に、なんなく飲み込んでしまうから。が……、本気で怒ったときの彼は静かだ。激昂することもなく静かに怒りをたぎらせて、取り付く島もなくなるのが常だった。
 彼は無言でベッドを降り、床に散らばっていた自分の服を拾い上げた。そしてさっきまで抱えていた枕をつかみ、冷たい一瞥を僕に向ける。
「わかった。お前がどうしても嫌なら、見合いの前日に風邪でもひいたことにしてドタキャンもありかと思ってたんだがな。そういうつもりなら、気合いいれて見合いしてきてやるよ。もしかしたらお互い気に入って、あたりまえの幸せ、とやらをつかめるかもしれんしな」
 吐き捨てるようにそう言い放って、彼は僕に背を向けて寝室を出て行った。それきり戻ってこなかったのでそっとリビングをのぞくと、彼はソファの上で毛布にくるまって目を閉じていた。眠っているわけではないが、顔を上げようともしないその背中が、今は何を言っても無駄だと告げている。僕はしかたなくあきらめて、すごすごと寝室へと引き返したのだった。



 今回ばかりは、僕が全面的に悪かったのだと思う。
もちろん翌日には土下座する勢いで謝ったのだが、彼の怒りは根深かった。あれから3日がたつが、彼は寝床をソファから動かそうとはせず、ろくに口もきいてくれない。しかも今日は夕方から、日曜日のことを打ち合わせするからと実家に戻ってしまった。どうやら、本気で見合いに挑むつもりでいるらしい。
 まさか、本当に僕と別れて、結婚するつもりでいるんだろうか。そんなことを思うだけで、心臓が痛い。もし彼に別れを告げられたら、僕はその場で心臓麻痺か何かで死ぬのではないかと思えてくる。……まぁ、別にそれならそれで構わない。彼とともに過ごせない人生などに、未練なんかカケラもない。
 出がけに彼に、夕飯は適当に食えと言われたので、弁当でも買おうとマンションを出た。いつものコンビニに行ってみたらちょうど商品の並べ替えの時間だったらしく、弁当の棚にはろくなものが残っていなかった。カップ麺でもいいかとそちらの棚にまわったものの、正直、帰ってからお湯をわかすのすら億劫だ。それに彼には、買って食べるならせめて栄養バランスのよさそうなものにしろと厳命されている。結局僕は何も買わずに店を出て、駅の方角に向かって歩き出した。駅前の大型スーパーならば、総菜のコーナーに弁当もあったはずだ。
 街灯と店の灯りが皓々と照らす商店街は、今日も人通りにあふれている。僕が任務≠ニともにやって来て十数年、彼の実家もあるこの街にもすっかり愛着がわき、もう生まれ故郷と大差ない。並んだ店舗も、多少の移り変わりはあるもののおなじみの店ばかりで、立ち寄るところも大体決まっている。雑多な商品が積まれたドラッグストア、小さい割にマニアックなものが置いてある本屋、Tシャツなどの消耗品に近い衣料を買う洋服屋、ファーストフード、100円ショップ、レンタルビデオ。彼のお気に入りのガトーショコラがあるケーキ屋の前で足を止めたとき、ふと隣がブライダルショップであることに気がついた。今まで、用事のない店だったので見過ごしていたらしい。
 通りに面したショーウィンドウには、純白のウェディングドレスを着たマネキンが飾られている。ピンクの花が主体のブーケを持ち、足下にも色とりどりの造花があふれんばかりに置かれて華やかさを演出していた。

「――結婚、か」
 僕はつい口に出して、そんなことをつぶやいていた。
その言葉が意味するものは、幸せや苦労や財産をともにして、死ぬまで一緒にいようという契約だ。お互いの意志を明確に形にする、決意の表れとも言える。
 が、日本の法律が同性婚を認めない以上、僕らには結婚というゴールはない。だから30歳を目前とする現在まで、なんとなくそんな決意をお互い確認することなく来てしまった。
僕としてはもちろんこれからの一生、いまわの際まで彼とともにいたいとは思っているのだが、彼が同じように思ってくれているか聞いたことはない。拒絶されるのが怖いから……というよりも、はっきりとした答えを出すこと自体を恐れているのかもしれなかった。
 たぶん僕は、逃げ道をふさいでしまうのが怖いのだ。
もともとはそんな性癖も気持ちもなかった彼は、あの日、僕の必死の告白にほだされて、僕を受け入れてくれた。なんだかんだといいつつも5年も一緒に暮らしてきたのだから、いまさら同情や気まぐれだけだとは思わないけれど、こんな生産性も未来もない不毛な関係に引き込んでしまった責任は僕にある。
 きっかけなんてどうでもいい、今この時、彼が僕とともにいてくれることだけが真実だと開き直れるほど僕は強くなくて、僕自身が幸せを感じるほどに、別の種類の幸せを彼から奪ったかもしれないという事実に怯えてしまう。
 だからつい、彼がいつの日かあたり前の幸せ≠欲しがった際に、彼が逃げ出すための道を用意してしまうのだろう。彼を見送ったあとに例え僕の心臓が止まるとしても、きっとそれが、あの日、彼の優しさにつけこむように彼を手に入れた代償なのだと思うから、それはそれでかまいやしない。
 ――そういえば、彼が見合いをする相手というのは、どんな女性なのだろう。写真を適当に選んだと言っていたから、彼好みのおっとりした可愛らしい人だろうか。たぶん、髪が長くてふんわりと笑う、朝比奈さんのようなタイプの……。
 そんなことをボンヤリと考えながらショーウィンドウを眺めていたら、ドレスの向こうに人がいることに気がついた。店の中から同じドレスを見ているらしく、あちらも僕には気がついていないようだ。誰かとしゃべりながら見ているのか、声は聞こえないが楽しそうにドレスを指し示しているのは、僕が今まさに想像していたような、朝比奈さんタイプの可愛らしい女性だった。結婚予定の恋人と一緒に、ウェディングドレスの下見というところだろうか。幸せいっぱいといった様子を微笑ましげに見ていると、彼女が隣にいたらしき同行者の腕をぐいと引っ張ったので、僕の視界にその人物の姿が飛び込んで来た。

 彼、だった。
 組んだ腕に頬を寄せる女性に優しいまなざしを向け、困ったように微笑んでいる。少し恥ずかしそうなその表情は、彼がいつもの口癖をつぶやいていることを容易に予測させた。彼が何かを言って、それを聞いた隣の女性が花のように笑う。絵に描いたような、幸せそうな恋人同士の情景だ。
 本当に、心臓が止まるかと思った。
冷静に考えれば、まだお見合いすらしていない相手とウェディングドレスを選んでいるなんてことはありえない。ありえないのに、その時の僕は、彼がもう僕の元を去って別の幸せを選ぶことを決めたかのような錯覚を覚えた。
 彼がいなくなる。もう一緒に暮らすことも、この手で抱きしめることも叶わない。そんな思いがぐるぐると頭の中を駆け巡った。
 視線を感じたのか、彼が顔を上げる気配がした。僕はあわてて身を翻し、その場から逃げ出した。どこへ行くというわけでもない。ただそこから離れるために、彼が追ってくるわけでもないのにまるで追い立てられるかのように、適当に角を曲がり、細い路地を走り抜け、息が切れた頃にようやく立ち止まる。人の多い方へ多い方へと走った結果、僕が向かったのは駅方面だったらしく、そこはなつかしい駅前の広場だった。
 高校の頃、毎週のように不思議探索と称して待ち合わせた広場は、だいぶ様変わりはしているが面影はそこここに残っている。僕は集合場所だったオブジェの前で立ち止まり、荒くなった息を整えた。
 植え込みの縁に腰を下ろし、震える指を組み合わせた手で額を支える。下を向いたまま息をついて、バカじゃないか僕はとつぶやいた。
 彼が去ってゆく未来予想図をリアルに突きつけられ、ようやくわかった。わかってしまった。
彼のための逃げ道だなんて、綺麗ごともいいところだ。僕はただ、後ろめたかっただけなのだ。自分のエゴのために彼の未来の選択肢を奪っていることへの、言い訳が欲しかった。逃げ道を用意することで、そんな後ろめたさにフタをして、見ないようにしていたというだけのことなのだ。

 本当は、彼を手放す気なんて、みじんもありはしない。
そんな覚悟は毛の先ほども持っていやしないのに。

 そんなものがあるのならば、望みの無いまま高校を卒業した時点であきらめているはずで、同窓会にだって出なかったはずで、無理やりキスして告白なんかしなかったはずで。
 僕はまったく、自分の往生際の悪さを舐めていた。
 古泉一樹は、そんなに潔い男じゃあないのだ。
「僕は……」
 ようやく息が整い、激しかった動悸もおさまった。ぽつぽつと行き来する人の流れを眺めながら、僕は胸の内でひとつの決意を固めた。
 ――僕はそろそろ、覚悟を決めなければならない。


                                                   NEXT
(2010.09.19 up)
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うん。
みんな虫歯がいけないんだ。
炎症起こすまでほっといた自分が悪いんですすみません。

ラストがまとめきれませんでした……っ。