キス×キス
02
 そんなに壮大な計画というわけではないんですよ、と、ニコニコしながら一樹は言った。
聞き出した計画とやらは、確かに準備も時間もかからないごく単純なものだ。まぁ、あいつのためなんだし、そのくらいのことならやってやろうじゃないか。
 そんなこんなでやってきた、バレンタイン当日。俺たちは計画を実行するため、団活が終わったあとの部室に居残った。

 ちなみに今年のハルヒ考案のバレンタインイベントは、くじ引きチョコレートだった。
3人娘がたくさん用意したチョコに番号をつけて、くじ引きで当てたのと同じ番号のチョコをもらえるというやつだ。谷口やら国木田やらコンピ研の面々やらまで巻き込んで、罰ゲームのようなチョコを当てては完食させられるという誰得なゲームだった。
「カラシ入りよりイナゴ入りの方がキツかったぜ……」
 なんというか、たまらん食感だった。
うまいこと柿の種入りやらチーズ入りやら、比較的まともなチョコだけ当てやがった一樹が、口直しにお茶をがぶ飲みする俺を見て苦笑している。
「涼宮さんたちはこれから、女性だけでチョコパーティだとか。楽しそうですねぇ」
「まったく。俺たちにばっかり妙なゲテモノ食わせやがって」
「まぁまぁ。お三方からは、最後にちゃんとしたチョコレートもいただいたではないですか」
 まぁ、それは正直ありがたい。ハルヒたちからもらえなかったら、今年の俺の収穫は母親と妹からのふたつだけになるところだ。ん、去年は一樹もくれたから、今年もそうだとすれば3個か。
「去年も思いましたが、この学校の女生徒たちの目は節穴ですよね。僕にとってはありがたいことですが」
「言ってろよ。そういうお前は、ちゃんと本命チョコは断ったんだろうな?」
 お前には俺がいるんだから、もらってたら承知しねぇ。
「もちろん。本命チョコどころか、義理チョコも友チョコもすべて丁重にお断りしましたよ。下駄箱や机の中に入っていた分も、記名のあったものは全部、お返ししてきました」
「お前……何もそこまでやれとは」
「涼宮さんたちの分はしかたありませんが……あなたからのチョコ以外は、僕にとっては無価値ですので」
 またそういうことをさらっと言いやがるから、この男は。
困ったやつだ、ホントに。

「……チョコプレイはやらないからな」
「ほぅ。焦らしのテクニックですか?」
「違う! アホかお前は!」
「またそんな真っ赤な顔で怒らないでくださいよ、可愛らしいですね。―――そろそろ、時間です」
 余計なことをほざきつつ、腕時計で時間を計りながら、一樹が窓辺に寄った。沈みかけた夕日が、部屋の中をオレンジに染めている。俺も窓のそばに近づいて、一樹と向かい合って顔を見合わせた。
「なんか、照れるな」
「こうあらたまると、そうですね」
 少しだけ高い位置にある一樹の顔が、俺を見下ろして微笑む。
ああもう、なんでこいつの顔はこうも俺好みなんだろうな。ちくしょうめ。
「さて、あちらの長門さんは、うまくやってくださったでしょうか」
「大丈夫さ。長門だからな」
 そうですね、とまた笑いながら、一樹はもう1度時計を見た。
その隙に俺は一樹の目を盗み、ちょっとしたネタを仕込む。うん、気づかれなかったようだ。
「あと20秒ほどです……」
「よし、カウントスタートだな」

 20、19、18、17、16―――。


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 長門さんの提案とやらは、なんだか要領を得ないものだった。
明日の団活が終わったあと、彼と二人で部室に残れと言う。何か話でもあるのかと思いきや、長門さんは涼宮さんを部室から遠ざけるための工作をするらしい。しかも時間指定で、窓際に彼と向かい合って立てとのご注文だ。一体、それにどんな意味があるのだろう。
「その行動の理由を説明した場合、心情的な作用により想定される行動に齟齬が発生する可能性がある。成功率を高レベルに確保するためには、あなたは理由を知らない方がいい」
「はぁ……よくわかりませんが、僕が理由を知っていると何か都合の悪いことがあるのですね」
「そう」
 長門さんはそれだけ言うとくるりと踵を返し、さっさと歩いて行ってしまった。

 翌日彼女は言葉通り、SOS団主催のチョコフォンデュパーティのあと、涼宮さんを連れ出すつもりなのだろう、何事かを話しかけていた。
「どうしたの? 有希。めずらしいわね」
「相談に、のってほしい」
「えっ……うんうん! もちろんよ! 何があったの?」
「……出来れば、場所をかえたい」
「あら、そうなの? 男どもには聞かれたくない話?」
「チョコレートを」
「あげたの!? 有希が?」
「違う。もらった。女生徒に」
「……へっ!? わ、わかったわ! ちゃんと話聞くから、喫茶店にでも行きましょ! みくるちゃんもいらっしゃい!」
「ふぇ? あ、はい、わかりましたぁ〜」
 ……嘘なのか本当なのかは不明だが、見事に涼宮さんを連れ出すのに成功したようだ。涼宮さんは僕と彼にパーティの後片付けを命じ、お二人を引き連れてさっさと下校してしまった。

 残された僕と彼は、黙々と部室の片付けを開始した。
飾り付けをはずして箱詰めする作業に没頭している彼は、女性陣がいる間こそ普通に接してくれていたが、視線はずっとそらされたままだった。そして二人きりになった現在は、もう視線どころか口すらきいてくれない。怒っているのだろうとわかってはいるが、謝るのもなんだかおかしい気がして、僕はただ気まずい沈黙に耐えていた。
 時々、時間を気にする様子を見せるので、彼も長門さんからの指示を受けてはいるようだ。が、この状態で彼と向かい合うのは、正直きついなと思わざるを得ない。
「古泉、そっち終わったか」
 数十分ぶりに、彼が話しかけてくれた。それでも、視線は未だにそらされたままだった。
「はい。椅子を片付ければ完了です。そちらは?」
「こっちも、これで終わりだ」
 飾りを詰めた箱をロッカーの上に放り投げ、彼はパン、と手を打って埃を払った。僕は使ったパイプ椅子を部屋の隅に並べて立てかける。コンピ研からの借り物だが、返却は明日でいいだろう。
「長門さんに指定された時間には、まだ少々ありますね」
「そうだな……」
 彼はしばし考えてから、窓の方へと歩いて行った。そして久しぶりに視線をこちらに向け、人差し指でくいくいと僕を呼ぶ。思わず、僕は目を泳がせてしまった。
「あっ、僕ちょっとお手洗いに……」
「こ・い・ず・み」
「……はい」
 渋々と、窓辺に歩み寄って彼の前に立つ。彼は腕を組んで、じっとにらみつけるように僕を見上げた。
「あの……」
 やっぱりここは謝るべきだろうか、と思ったとき、彼がフッと小さく息を吐いた。同時にしかめられていた眉が下がり、口元には困ったような笑みが浮かぶ。
「なんて顔してんだよ」
「いえ……あの、昨日の……」
「気にすんな。お前の思考がどうしたってハルヒ優先になるってのは、わかってる。俺と違って、いろいろしがらみがあるんだからな。しょうがねぇさ」
 だからそんな顔すんな、と彼は笑って肩をすくめる。僕は少しホッとしたけれど、やっぱり今日の彼の態度が気になって問い返した。
「でも……あなた、今日はまったく目も合わせてくれなかったじゃないですか。やっぱり、怒っているのでは……」
 おそるおそるそう聞いてみたら、彼は微妙に視線をそらした。うっすらと赤い頬のあたりを指でかきながら、ごそごそと尻ポケットをさぐる。
「あー……いや、そういうわけじゃなくてな。ちょっと緊張してただけだ。―――ほら、これ」
 そう言って彼がぐいと押しつけてきたのは、ポッキーの箱だった。もしやこれは……。
「まさか……バレンタインの?」
「すまん。俺にはそれが限界だった」
 いかにもそれっぽいものを買うのは、無理だったということだろう。
だがそんなことが問題になんて、なるわけがない。彼が、あの彼が、僕のために用意してくれたチョコレート。バレンタインに愛を伝えるための、甘いメッセージ。
 すいません。僕、なんだか死にそうです。
 真っ赤になっているだろう自分の顔を片手で覆いながら、僕はにわかに騒ぎ出した心臓の音を聞く。あまりにフル回転で、今にもオーバーヒートしそうだ。
チョコはあまりに嬉しすぎるし、赤くなって照れくさそうにしてる彼は可愛すぎるし、二人きりの時間は幸せすぎるし、もういろいろあふれそうで…………キスとかしたら、やっぱりマズイでしょうか。殴られるならかまいませんけど、もし逃げられたりでもしたら立ち直れなくなる自信があるんですが、ああ、でも。
「……古泉?」

 そのとき。
妙な感覚が、僕を襲った。
バレンタインデーの放課後、二人だけの部室、窓から差し込むオレンジ色の夕日、その色に染まりながら僕を見上げている彼。
既視感じみた感覚がじわりと這い上り、何かにうながされるまま、身体が動く。
自然に、僕の腕が彼の腰にまわって抱き寄せる。
当たり前のように、彼のまぶたが閉じられる。
まるで、幾度もかわしたことがあるかのごとく、しごく当然のなりゆきみたいに、僕らの唇が重なった。
思ったよりも冷たくて、サラッとした感触の彼の唇から、小さく溜息がもれた。


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 腰にまわった手が、ぎゅっと俺を抱き寄せる。
目を閉じればなじんだ感触の唇が、めずらしく慎重にそっと触れてきたから、俺はつい笑ってしまった。
「なんですか」
「いや、別に?」
 ささやくようにそんなことを言って、もう1度唇を重ねる。ちゅ、と音をたてて、一樹はついばむようなキスを繰り返した。くすぐってぇ。

 長門と一樹が考案した作戦とは、つまりあちらの世界とこちらの世界で共振しているらしい現象を利用して、あちらの世界のもどかしい二人にキスくらいさせてやろうというものだ。どうやら心理的な安定度のおかげで、優位性は俺たちの側にあるらしいんでな。
 長門が言うには、日時とか場所とかシチュエーションとかを同じにすると、シンクロ率が増すらしい。そのためには、バレンタインデーの日、団活後の部室という条件がもっとも望ましいんだと。まぁ、確かに意識しやすい日付だし、部室なら備品の配置も俺たちの服装もほぼ同じになるはずだからな。

 さて、うまくいったのかね……なんて思ってたら、いつのまにか一樹の舌が、俺の口腔内への侵入を開始するべく唇をこじあけようとしていた。
おいおい、向こうは初キスになるんだから、いきなりディープキスはハードルが高くないか?
「そこまで厳密にシンクロはしませんよ、たぶん」
 クス、と笑って一樹は俺の唇を舐める。まぁ、俺もそのつもりで、ネタを仕込んだわけだが。
 唇を薄くあけると、するっと一樹の舌がもぐりこんできた。俺はすかさず、仕込んでおいた……というか、口の中にいれておいたものを自分の舌で一樹の口の中に押し込んだ。
「んむっ……!?」
 よし、驚きやがった。成功成功。
「な、なんれすかこれ……」
 思わず離れた一樹が目を白黒させるのを、俺は満足して眺める。まぁ、味わえ。
「チョコプレイ却下の代わりの、サービスだ。受け取れ」
「チョコレート、ですか……一体いつの間に」
「さっき、お前が時計見た隙にな。気づかれないようにするには、そのサイズが限界だったんだ」
 ちなみに一樹の口に突っ込んだのは、アポロチョコだ。初めて月に着陸した宇宙船を模った、三角すい型の二色のチョコレート。
「なるほど。まいりました」
 チョコを咀嚼しながら、一樹がくすぐったそうに笑う。苦笑とも違う、俺と二人のときにしかみせない類の表情だ。可愛……あ、いや、なんでもない。
「でも、ありがとうございます。なんだか、格別な味がしますよ」
「もっと食うか」
「口移しでいただけるなら」
「……しょうがねぇな。特別サービスだ。ま、バレンタインだしな」
 ポケットからチョコの入った箱を出しながら、俺はまたおかしくなってちょっと笑った。今の一樹の顔は、あっちの世界の純情少年古泉と大差ないように見えるぜ。
「どうしました?」
「いいや。あいつらはうまくいったのかなーってさ」
「どうでしょうね。うまくいっていればいいのですが……。あとで、長門さんに聞いてみましょう」
「そうだな」

「問題ない。彼らは首尾良く肉体的接触の第一段階をクリアした」

 いきなり聞き慣れた声が聞こえて、俺たちは文字通り飛び上がった。
い、今の声は……長門!?
「な、長門さん?」
 あわてて声の方を振り返ると、長机の陰に隠れるように長門がしゃがんでいた。お前、いつからそこにいたんだ。
「5分36秒前から」
「って、もしかしてチョコ口移しとか馬鹿なことやってる真っ最中じゃねえか! こら長門! お前、ハルヒのパーティはどうしたんだ」
「大丈夫。私は、ここに忘れ物を取りに戻ったということになっている。涼宮ハルヒたちは私の部屋に到着するころ」
 ああそうか、それなら心配ないな……じゃねぇ! 何しに戻ってきたんだ!
すると長門はじっと俺と一樹を見比べて、おもむろにうなずいた。
「見学。かぶりつき」
「長門……お前、そんな言葉を一体どこで覚えるんだ……」
 苦笑いの一樹と顔を見合わせてから、がっくりと肩を落として、そう聞いてみる。すると気のせいか、長門の瞳がキラッと光ったように見えた。

「……知らない方がいい、と思う」


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「……あれ?」
 唇が離れたあと、僕の口から出てきたのは、そんな間の抜けた声だった。
「……なんだよ」
 夕日を映しているからだけとは言えないほど真っ赤に染まった顔で、彼が問い返す。その瞳はどことなく潤んでいて、息も少しあがっている。唇がふさがれていたせいだろうか。
……って、あれぇええええええ!?
「す、すみませ……っ、僕は何を……!」

 なぜだろう。いきなり妙な感覚が襲って、まるでそうするのが当然のように、彼にキスしていた。そういった接触を彼が望むか否か、確認もとれないうちに僕は何をやっているのか。これで彼に引かれたら、もうどうすればいいかわからないじゃないか。
 まだ抱いたままだった彼の腰から慌てて手を離し、飛び退くように距離を取る。どうしよう、顔が見られない。でもとりあえず謝らないと……。
「あの、申し訳ありませ……えっと……」
 何を謝ったらいいのだろう。早まったことを? 許可をとらなかったことを? 彼の反応が予想できなくて、下を向いたまま半ばパニック状態の僕の耳に、彼の溜息が聞こえた。
「お前なぁ……」
 あきれた様子のその声に、顔をあげる。夕日の中に腕を組んで立つ彼は、声の通りの表情をして僕を見上げていた。溜息と共に吐き出された声には、少し拗ねたような響きが混じっている。
「つきあい始めて数ヶ月目でやっとキスしやがったかと思えば、それなのか。そんなことじゃお前、キスから先はどうするつもりなんだ?」
 は? 先? 先って、なんですか。
「先、というと……」
「先っつたら先だよ。いろいろあるだろうが。それともまさかお前は、これからも、手すらつながない公園デートでずっと過ごすつもりか」
 うっすらと赤らんだ顔で、彼が言う。それを見て、“先”というのが、キスからつながるあれこれ、恋人同士なら当然行うであろうそういった行為をさしているのだと、僕はやっと理解した。
 いえ、決してカマトトぶっているわけではなく、彼の方からそんなことを言い出すという事態が想像を絶していただけで、日ごと夜ごとの妄想はとどまることを知らずに暴走していますけど。

 僕の脳内でのそんな思考過程を知るよしもない彼は、絶句して声も出せずにいる僕の態度 を誤解したようだった。肩をすくめてつく溜息は、なんだか重い。
「ま、いいけどな。別にソレが目当で付きあってるわけじゃねえしさ」
 真面目だなお前は、とつぶやく彼。その表情は、残念そうというか、しかたないなといわんばかりの困ったような笑顔で……え、あの……。
「……もしかして……あなたは、僕と……その、いろいろ、なことをしようという気が、あるんですか……?」
 目を見開いた彼は、首をかしげてまじまじと僕を見る。
「そりゃお前、俺だって健全な男子高校生なんだぜ? 好きなやつと一緒にいれば、したいことだってされたいことだっていっぱいあるだろうが。お前はそうじゃないのか、古泉」
 そりゃもちろん僕だって大好きなあなたの側にいるときは、というかいないときだってずっと、あんなこともこんなこともしたいとか考えて反応とか予想しては……って、ええっ?
「そ、その好きなやつって、僕のことなんですか!?」
「はぁ? いまさら何言ってんだお前。好きだからつきあってんだろ?」
 今度こそ彼は完全にあきれかえった口調で、そう答えた。あまりに当たり前で当然のことを聞かれたみたいな彼の様子に、僕はめまいを感じた。
「……そ、ですよね」
なんだか思考がうまく働かない。
こんな幸せなことがあっていいのか。
これはもしや夢なんじゃないか。
それとも死亡フラグか。
 混乱した頭でぐるぐる考えていたら、彼がふと思いついたように、ああ、と言った。そしてしかめっ面で唇をへの字にしたまま、そっと手を伸ばしてくる。冷たい指が頬に触れて、やがて覆うように手のひらの感触を伝えてきた。じんわりと、頬の熱が彼の手に移っていく気がした。
「なんだ。お前、もしかしてまだ俺の気持ち、信じてないのか? そういえば、俺もあんまりちゃんと言ったことなかったか……。そうだな。バレンタインだし、特別だ」
 恥ずかしいから1回しか言わないぞと、彼は頬を覆っていた手を僕の後頭部にまわし、ぐいと引き寄せた。頭を抱き込まれ、耳がちょうど彼の口元にあたる。
 吐息とともに、その言葉が僕の耳をくすぐった。

「俺はお前のこと、ちゃんと好きだぞ、古泉。信じろよ」

 あ、やばい。涙が出そうだ。
胸がいっぱいになって声すら出せないでいると、低くて優しい彼の声がじんわりと耳に注ぎ込まれる。それはどんな高級なチョコレートよりも甘く、僕の心を蕩かした。
「だからさ、俺はお前の側にいると、触りたくなるし触って欲しくなるし、キスだって、もっと先のことだってしたくなるんだ。でも、さっきも言ったが、お前にしがらみやら事情やらがあるってこともわかってる。そのへんの折り合いがお前の中でつくか、それともハルヒの問題が片付くまでは先へ進む気にはなれないって言うんなら、俺はそれでも別にかまわない」
 ちょっと切ない感じだけどな、と彼は短く笑う。
「公園デートだってコンビニで立ち読みだって、お前と一緒なら俺は嬉しい。あせる必要はどこにもないよな」
「いえ……あの、むしろ僕は」
 急に呪縛がほどけたように、僕は思わず彼を抱きかえす。ドキドキとすごい勢いで鳴っている心臓の音が聞こえそうだけれど、かまわない。
「あなたが……嫌がるかと思って、我慢してました……」
 もちろん彼の言うとおり、涼宮さんの問題もその他のこともあるにはある。僕たちの関係には支障や障害がてんこ盛りで、もうそれは仕方のない事実だ。だがそれよりも、大切にしたい想いがある。あちらの世界の彼も言っていた。

 だけど俺たちは、こうなることを選んだんだから、後悔はしていない、と。

 僕だってそうだ。後悔はしないと決めて、あの日彼に告白した。
ついつい僕の悪い癖が出て、数ヶ月も足踏みしてしまったけれど。何者かに背中を押されるようにしてしまったさっきのキスは、きっと異世界の彼からの後押しだったのだと信じよう。
 腕の中で、彼がなんだそれはと不満そうにつぶやいた。
「我慢ってお前……意味わからんぞ。俺が嫌がってるように見えたのかよ」
「そ、そういうわけでは……。すみません」
 くす、と彼は耳元で小さく笑い、少し離れて至近距離で僕の顔をのぞき込む。怒っている様子はない。額同士がくっつきそうな距離で見る彼の表情は、しょうがないやつだなという言葉を雄弁に表していた。
「まぁ、お前らしいとは思うけどな。……それじゃあ古泉? この先はどうするつもりなんだ?」
 いたずらっぽい笑顔で、彼が聞いてくる。もちろん答えは、ひとつしかない。
「えっと……とりあえず、もう1回、キスをお願いしますっ!」
 勢い込んでそう言うと彼は、お前は積極的なのか消極的なのかわからんな、と言って楽しそうに笑い出した。その笑顔に僕も、ついつられて笑ってしまう。
 すると彼は、さも満足そうな顔でうなずいたのだった。
「……お前、いい顔で笑うようになったな」
 今度その顔、写真にとってやる、といいながら、彼は目を閉じた。
写真の中の僕はきっと、違う世界の彼に見せてもらったあの写真のように、恥ずかしいくらいの幸せな笑顔になっているのだろう。
 僕は今度こそしっかりと自分の意志で、彼の唇に自分の唇を、そっと重ねた。
 


 そういえば、長門さんからの時間と場所指定は一体なんだったのだろう、と思い出したのは、夕日が長い影を落とす帰り道を彼と並んで歩いている最中だった。
 だけど、真相を長門さんから聞いて苦笑いすることになるのは、また別のお話だ。


                                                   END
(2010.02.17 up)
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というわけで、大遅刻バレンタイン話終了。
ただのバカップル2組のいちゃいちゃでしたとさ。

できたて側の古泉は本当にヘタレすぎる。