I Love you からはじめよう。
10

 手術中、と書かれたプレートが、赤く光っている。
ここに来てから何時間がたったのか、判然としない。その間俺はソファに座って、呆然と馬鹿みたいにそれを見つめて続けていた。思考も感覚も、うまく働かない。だから誰かが近づいて来たことにも、まったく気づいてなかった。
「大丈夫か」
 声をかけられてやっと気がつき、ゆるゆるとそちらに視線を移す。
誰だっけ、としばらくぼんやりとその人物を眺め、ようやく思い出した。
「会長……」
 ダークグレーのジャケット姿の会長は、さすがに煙草を咥えてはいなかった。手持ちぶさたそうに眼鏡を押し上げ、俺の隣に腰を下ろす。
「お前の傷は、手当がすんだようだな。着替えも用意してやるから、あとで着替えろよ。血まみれだ」
「ああ……」
「心配するな、あいつは平気だ。普通より頑丈にできてるから、あれくらいじゃ死なん」
 古泉の流した血が、俺の手のひらで固まり黒ずんできている。俺はじっとそれに視線を落として、会長の言葉を聞いた。
本当なんだろうか。あんなに深く刺されたのに。
俺をかばって、あんなにたくさんの血を流したのに。



 俺たちがやっと、本当の意味で結ばれた日の翌朝。
夜更かしの当然の報いとして、古泉も俺も寝坊してあたふたと支度をすることになった。古泉はケーキ屋のバイトの早朝シフト、俺は1時限目の講義。どちらも時間ギリギリで、朝食をとっている余裕もない。
「古泉、メシ食わなくて平気か!?」
「店で何かもらうので、ご心配なく! あなたこそ、大丈夫ですか?」
「1限終わったら、パンでも食うさ。じゃ、先に出るぞ!」
 古泉が髪をいじっている間に、俺は玄関に下りて靴を履いた。腰やらなにやら色んなところが痛い上にクソだるいが、そんなことを言ってる場合じゃない。マジで急がんと。
 だがバッグを肩にかけ、鍵を持ってドアを開けた俺は、そこで立ち止まることになった。俺の部屋のドアの前に、誰かが立っていたからだ。
「……うちに御用ですか?」
 それは30代半ばくらいの、リーマン風の男だった。ちょっと撚れてはいるがごく普通の風体の、特に目立った特徴のない男。でもなんとなく見覚えがある気がする。誰だっけ?
 俺が首を傾げていたら、男は無言のまま、俺を足の先から頭の先まで眺め回した。その視線に異様なものを感じて、ぞっとして身じろぐ。すると男は、どこか上の空な感じでボソリとつぶやいた。
「なるほど……やっぱりお前が、一樹の今の飼い主なのか」
「……っ!」
 そのとき、何故かいきなり思い出した。以前この男を、古泉が働くケーキ屋の前で見たことがある。ケーキ好きのオヤジかと思ったら、古泉が声をかけたとたんに立ち去ってしまったあの男。間違いない。
「あんた、あのときの……」
「どうしたんですか? 遅刻しますよ?」
 じり、とあとさじったとき、部屋の中から古泉が顔を出した。馬鹿、今出てくるな!
「えっ?」
 硬かった男の顔が、古泉を見るなり崩れた。情けなく歪んだ笑顔みたいな。
「一樹……!」
 呼ばれて顔をあげた古泉は、そのままきょとんと男を見返した。
「えっと……どちらさまでしたっけ?」
 古泉のその言葉に、男は激昂した。
「どうしてそんな、忘れたふりをするんだ! この間、店の前で会ったときも……! お前が俺の前から姿を消すまで、3ヶ月も俺たちは仲良くやってたじゃないか。お前は俺の言うことなら、なんでも従ってくれただろう!?」
 男のその言葉は、俺を凍り付かせた。
こいつか。
古泉を拾ったときに古泉の全身にあった、虐待の傷跡。
あれをつけたのが、この男なのか。
腹の奥から、むかむかするような苦い固まりがせり上がってくる。寒いのに暑くて全身に震えが走り、嫌な汗が吹き出す。こめかみがひどく痛んで、ぐらぐらと視界が歪んだ。
 それが、俺の二十数年の人生で前例がないほどの、怒りの感情だったのだということは、あとから思ったことだ。今この瞬間、手元に凶器があったら、俺は男を殺すことを一瞬もためらわなかっただろう。
「なぁ、一樹。お前がちょっと逆らったからって、やり過ぎちまったのは謝る。お前が可愛くて誰にも見せたくなくて、鎖で繋いで部屋に閉じ込めたのも悪かったと思ってるよ。もうしないから、だから、やり直そう。俺のところに、帰ってきてくれ!」
 そこまで言われても、古泉の顔に浮かんでいるのは、困惑だった。ああ……古泉の奴、こいつのことは忘れちまったんだな。ほんの数ヶ月前のことなのに、そんなに憶えていたくなかったのか。残念だったな、オッサン。……ざまあみろだ。
「すみません。僕、忘れっぽくて……。あなた、誰でしたっけ?」
「一樹……っ!」
 古泉の表情がこわばり、小さく震えだしたのは次の瞬間だった。男がポケットから取り出したものを見たからのようだった。それは、映画でマッチョな俳優が軍隊を壊滅させるのに使ってたみたいな、ごっついサバイバルナイフだった。
「憶えてるだろう? お前への……お仕置き≠ノ使ってたやつだよ」
 男の顔からは、いつのまにか表情が消えていた。その目つきが、あきらかに常軌を逸している。ヤバイ、と頭の中に警報が鳴り響く。
「あ……なた……は……」
「なぁ一樹。俺は本当に、お前が可愛いんだ。もうひどいことはしない。このナイフだって、明日からはもう使わないから……これからも一緒に暮らそう」
 古泉は、両腕で自分の身体を抱いて必死に首を振った。記憶が蘇ったのか、あきらかな怯えに身をすくませている。俺は古泉を背にかばって、男をにらみ付けた。
「帰れよ、オッサン。古泉は、お前んとこにはいかねえよ」
 古泉はもう、俺のものだ。渡さねえ。
「警察呼ばれたくなかったら、さっさと帰れ」
 だが、男は俺の言葉を聞いてはいないようだった。無表情な目が、俺に焦点をあわせてくる。ぞっとしたが、俺は動かなかった。動くわけにはいかなかった。
 男の渇いた唇から、かすれた声がもれた。
「お前は、いらないよ」
「なんだと?」
「一樹は俺のところに戻るんだ。だから、新しい飼い主は不要なんだよ」
 男の手の中の、サバイバルナイフが光る。やばいぞ。あんなもんで刺されたら、きっとケガじゃすまない。誰か、すぐに警察に通報してくれ。
「いらないものは、俺が今片付けてやる。だから一樹は安心して、俺のところに戻ってくるといい」
 ふらりと、男の身体が動く。ナイフを振りかざして襲いかかってくるのを、かろうじて躱した。男はあきらかに正気じゃなかったが、その分鬼気迫るものがあった。
「……っぶねえ!」
 自慢じゃないが、俺は運動部に所属していたこともないし、体力にも運動神経にもまったく自信がない。ケンカだってろくにしたことがない穏健派なんだから、いつまでも躱し続けられるとは思えない。早いところ、古泉を連れて逃げないと。
 そう思う視界の端で、古泉がぎゅっと身体をすくませるのが見えた。ざわり、と古泉を取り巻く雰囲気が変化する。ますますやばい。このままじゃまた、古泉はあの戦闘モードになっちまう……!
 そのとき、隣室のドアが開いて、お隣さんが不審げな顔をのぞかせた。物音に気がついて出てきたんだろう。足下には、彼女の幼い子供の姿も見える。
 まずい、と思ったときには遅かった。
「やめろ古泉!」
 古泉を止めようとして、俺は不覚にも男に背を向けちまった。
肩に鈍い衝撃が走る。痺れるような感覚のあと、灼けた鉄棒かなにかを押しつけられたみたいなものすごい痛みが、俺を襲った。刺された、と思うのと同時に視界の中に、表情をなくした古泉が男に飛びかかり、ナイフを奪い取るのが見えた。
 あきらかに、古泉は戦闘モードへと変貌を遂げている。
だめだ、古泉。今のお前のその力とスピードで、凶器を振るったらどうなる。
殺しちまうぞ。確実に。
そんな奴死んだって俺はかまわんが、お前にそれをさせるわけにはいかない。
正気に戻ったお前が苦しむのがわかっているから。
絶対、俺はお前を止めなきゃならないんだ!
「ダメだ……古泉っ!」
 俺はありったけの力を振り絞り、今しも凶器をふるおうとしている古泉と、壁際に追い詰められた男の間に割って入って、古泉の腕にしがみついた。古泉は反射的に俺を振り払おうとし、ナイフの切っ先がざくりと俺の二の腕を切り裂く。飛び散った血しぶきが顔に降りかかって、古泉は我に返ったようだった。
「あ……」
 ナイフが、廊下の床に音をたてて転がる。
古泉は自分の両手と俺を見比べて、呆然と目を見開いた。
「正気に戻ったか?」
「ぼ、くは……あなたに、傷を」
「大丈夫だ。これくらいなんともない。俺は平気だから……落ち着け、古泉」
 俺の名を呼ぶ古泉の顔が、泣きそうに歪む。俺は傷ついてない方の手を伸ばして、心配するなと頭をなでてやろうとした。……その瞬間、古泉の表情が変わった。
「――――っ!!!」
 突然、古泉が俺の手を引き、全身で覆い被さるように廊下に押し倒した。そのままぎゅっと抱きしめられ、視界が遮られる。何が起こったのかわからないうちに、耳元で古泉のぐうっという声が聞こえ、やがて俺を抱く腕から力が抜けた。ぐったりと、俺に全体重がのしかかる。
 誰かの甲高い悲鳴が聞こえる。自分が見ているものが、古泉の背に生えたナイフの柄だということを認識するのに、時間がかかった。あの男が、落ちたナイフを拾って反撃に出たのだなんて、そのときの俺に理解できるはずもないことだった。
「こ、いず……」
 ぬるり、と手が生温かい液体で滑る。真っ赤に染まった自分の手と、俺を全身でかばっている古泉の背にじわじわと染み出すそれを馬鹿みたいに見比べる。血の気が、すうっと引いていくのをリアルに感じた。
 俺はいつの間にか、自分が絶叫をあげていることに、あとから気がついた。

 そこからの自分自身の行動は、自分でもよく理解できない。
古泉を助けなきゃならないと思った。お隣さんが、救急車! 警察! と叫んでいるのが聞こえた。
 その単語に、俺は何を思ったんだろう。ポケットから携帯を取り出し、念のためにと登録してあった、あの研究所の電話番号に連絡したらしい。たぶん、古泉が普通の人間じゃないってことを思い出して、病院に担ぎ込まれたらまずいんじゃないかと考えたのか。
 たぶんすぐにかけつけてくれたんだろう彼らにすべてを任せて、俺は傷の痛みも忘れ、気を失ってぐったりとした古泉の身体を、ただきつく抱きしめていた。



「お前の機転には、感心したよ。おかげで助かった。警察やらなにやらへの工作が、最低限ですむ」
 会長は、ここも禁煙なんだろうなとぼやきながら、また火をつけないままで煙草を咥えた。俺は渇いた血でべたつく手のひらを握りしめ、あの男はどうなったんだと聞いた。
「あいつは非合法な存在だからな。残念ながらあの男を、日本国の憲法で罪に問うことはできない。だが、どうやら精神的な問題がありそうだし、しばらくは特殊な病院から出てこれないだろうよ」
 そうか。罪には問えないのか。
あの男は古泉に、あんなにひどいことをしたのに。
記憶こそ薄れていたけれど、あいつが決して1人で部屋から出ようとしなかったのも、会長に見つかったときや雇われた男たちに見つかったときに訳もわからず逃げたのも、あの男に怯えていたからなんだろうに。
あの男は、古泉の身体以上に、心にあんなに深い傷をつけていたのに。
「最初のうちは、家出人だと思って面倒を見ていたのだそうだ。そのうち、事情を聞き出して、しかるべきところに連絡してやろうと思っていたと」
 会長がぽつぽつと、あの男から聞き出したらしい話をしはじめた。
「だが2ヶ月くらいがたつころには、俺はおかしくなっていたんだと奴は言ってた。あいつのことが可愛くてどうしようもなくて、片時も離したくない、誰の目にも触れさせたくない、独占したいとそう思うようになり、部屋に閉じ込めたあげくに、ちょっとでもあいつが逆らったり意に染まない行動をしようとするたびに、お仕置きと称して傷つけずにはいられなくなったんだと。理解できんな」
 肩をすくめて、会長は溜息をついた。
「数ヶ月前、隙をついて、あいつはあの男のもとから逃げ出した。そこで、お前に拾われたわけだな。あの男はそれ以来仕事にもいかず、あいつを探し回っていたらしい」
 そしてたまたま、ケーキ屋で働く古泉を見つけたのか。やっぱり、バイトなんてさせるんじゃなかった。きっと記憶が曖昧になっていたんだろうから、俺が気をつけてやらなきゃダメだったんだ。それなのに。
「古泉は……」
「ん?」
「傷つけられることだけに、怯えてたわけじゃないんだな。理不尽な暴力に対抗できるだけの力は持ってるんだから。でもあいつは、その力を発揮して誰かを傷つけることが、怖かったんだ」
 自分が理性を失い、バケモノじみた力で他人を傷つけること。古泉は、そのことに怯えていた。俺の身体に、決して触れないようにしてたみたいに。あいつは優しすぎるんだ。
「臆病なんだろうよ」
 会長はわざとらしく冷めた口調で、煙草を唇の端でぶらぶらさせながら言った。
「自己のアイデンティティを確立できない子供は、極端に臆病になるか、極端に凶暴になるかのどちらかになることが多い。自分を傷つけるか、他人を傷つけるかだな。あいつは前者だったんだろう」
 そうか。あの、奉仕のみを目的としたセックスも、きっと自分を傷つけるための作業だったんだ。なんとなく納得してしまって、俺は泣きたくなった。
 あいつを、幸せにしてやりたい。
他人にも自分にも傷つけられてきた分を、取り返すほどに。
俺にどれだけのことができるのかはわからないけれど、精一杯守ってやりたい。
だから、死なないでくれよ。
まだ言ってないことがあるんだよ。
古泉。



「――終わったな」
 会長の声に顔を上げると、手術中のプレートの光が消えていた。扉が開いて中から出てきた医師に会長が話しかけているのを、俺は立ち尽くしたままでぼんやりと眺めた。
 ここは、研究所の関連施設の病院なのだそうだ。俺の肩と腕の傷を、事情も聞かずに治療してくれたのも、そのおかげらしい。
 やがて薄緑色の扉の奥から、ストレッチャーがガラガラと耳障りな音をたてて引き出されてきた。その上に、寝かされたままの古泉の姿があった。看護士たちに連れられて、ストレッチャーは医師と会長の背後を通過していく。目を閉じたままの古泉は、まるで血の通ってない人形みたいだった。
 やがて医師が去っていき、会長が俺の方へと戻って来た。
「一命は取り留めたそうだ。普通ならほぼ即死の傷だったようだが、あいつは体構造も強化されてるからな。ただしばらくの間、再生槽にはいらなきゃならんらしい」
「さいせいそう……?」
「くわしく説明しても、どうせ理解できん。身体を治療するための機械というか、カプセルみたいなもんだと思っとけ」
 よくわからないが、とりあえず古泉は助かったんだな。その再生槽、とやらいうものから出られれば、俺のところに帰ってこられるんだ。
「……よかった」
 安堵の溜息をついて、俺は立ち上がっていたソファにまた沈みこんだ。本当によかった。今この瞬間なら俺は、どんな神様の足下にだって喜んで跪いてやる。
 だが会長は、そんな俺に何か言いたげな視線をよこしていた。
「なんだよ?」
「ああ……」
「何か問題があるのか。治療が終われば、古泉はまた俺と一緒に暮らせるんだろう?」
 会長は俺のその質問には答えなかった。しばらくの間、躊躇するように視線をさまよわせていたが、やがて大きく溜息をついて、吐き捨てるように言った。
「……だから俺は、あいつにあまり入れ込むなと忠告したんだ!」
「え……」
 なんのことだ? そんな意味をこめた俺の視線に、会長は苦い顔を向ける。
そして、まるで怒っているような口調で俺に告げたのだ。理不尽ないらだちを、ぶつけるかのように。
「あいつの記憶が長持ちしないのは、お前も了解してるだろうが。再生槽での治療は、おそらく2ヶ月ほどかかる。それで身体に残った傷痕も綺麗に治るが……治療が終了して出てきたあと、あいつがお前のことを憶えている保障は……正直、どこにもない」


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(2010.05.27 up)

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