I Love you からはじめよう。
11

 そういえば、そうだった。
古泉の記憶はすぐに、曖昧な混濁の中に消えてしまう。
俺は、なんとなく自分だけは例外のような気がしてた。古泉が、俺のことを忘れるとか、それだけはありえないなんて。
 なんの根拠があるわけじゃないのに。

「だって、わりと大事なことというか……好意を持っている人間のことは憶えてないか? あいつ」
 俺に古泉の記憶について告げたあと、ソファに身体を投げ出すように腰をおろした会長に、俺は食い下がった。母親代わりの森さんのこととか、最初に暮らした女性のこととか、そのへんは忘れてないじゃないか、って。
「さぁな……。記憶分野は研究が難航してるところだから、はっきりしたことは何も言えない。確かにあいつは森のことは憶えていたが、同じく親代わりだったはずの新川のことは憶えていなかった。留まる記憶の基準は不明だ」
 もう一度、会長は疲れたように溜息をついた。
「もうちょっと研究が進んでいれば、あるいは解明できたかもしれんが……すまん」
 長持ちしない記憶。消える基準も思い出す要素も、何もかもが曖昧で。先端科学の固まりみたいな古泉なのに、それだけはもう、神に祈るしかない奇跡なのか。
「まぁ、忘れると決まったわけじゃない。もしも治療を終えたときにあいつの記憶が完全だったら、俺が責任をもってまたお前のところにいかせてやるよ。約束する」
 どこか麻痺した思考で、俺はこの人も意外と見かけによらないんだな、なんて考えてた。
 はじめて会ったときは、どこか冷たい印象のとっつき難そうな人物に見えた。が、こうしてみるとこの人も、古泉のことをけっこう心配してるんだな。そういえば、研究所に助けを求める電話をして、一番最初に駆けつけてきたのも、この人だった気がする。
 一種の逃避なのか、ボンヤリと余計なことに思考を飛ばす俺に痛ましげな表情を向けていた会長は、やがて真摯なまなざしで、俺を見つめた。
「あいつにはきっと、お前が必要なんだと思う。お前にすべてを教えろという上からの指示も、きっとそういう理由だったんだろう。――だから、待っててやってくれ。……古泉を」



 だから俺は、それからもずっと、普通に大学に通いながら古泉が帰ってくるのを待ち続けていた。季節はいつのまにか夏へと移り変わり、長い夏休みが目前にせまっている。
 住んでいるのは、ずっとあのアパートだ。大家さんや隣人への言い訳には苦労したが、なんとか誤魔化した。会長もどうやら裏で工作してくれたらしく、追い出されずにすんだ。ここにいる必要がどうしても俺にはあったから、とりあえずホッとしたな。
 居酒屋でのバイトも、そのまま続けている。谷口や国木田ともさらに仲良くなって、特に谷口には夏休みは合コン三昧の予定だからつきあえよ、なんてことも言われている。元カノのことなんかさっさと忘れて、新しい恋に進もうぜ! だそうだ。まぁ、俺には必要ないんだが、つきあいで顔を出すくらいはしてやってもいいか。

 元カノといえば先月の末頃、彼女から久しぶりに電話があった。
 私のこと、怒ってる? というのが挨拶のあとの彼女の一声だった。
「いいや。もういいよ。いまさらだ」
『……許してくれるの。やっぱりキョンくんって、優しいね』
「別にそんなことはないぞ」
 彼女のことを考えるより大事なことができたからだとは、さすがに言えなかった。
「それより何の用だ? 俺の部屋に忘れ物でもしてたか」
 ああ、置いてったベビーオイルは使っちまったな。必要なら買って返さないと。……何に使ったかは、秘密だけどな。
 だが彼女の用件は、そんなことじゃなかったようだ。
『ううん。あのね……彼と、別れたの』
「…………へぇ」
 それ以外に、何を言えばいいのか。フタマタかけて人をふりまわしたあげく、俺を振ってくっついたはずの男と、もったのはほんの半年足らずなのかとでも、言えばよかったか。
黙り込んだ俺に、続けて彼女が告げた言葉は、ある意味予想がつくものだった。
 彼女は俺に、もし俺さえよければ、もう一度やり直せないかと言ったのだ。
 特に怒りはわかなかった。あきれる気持ちは多少あったが、それよりも浮かんだのは、しょうがないやつだな、なんて感想だった。どう考えてもこれは、妹に寄せるのと大差ない気持ちだ。俺にとって、彼女はすでにそういう存在になっているらしい。
「あのな。お前、俺と別れるとき、自分が一番じゃないと嫌だって言ったろう。誰より愛してくれる人じゃないとダメだって」
『うん……』
 ごめんな、と俺は言った。
「今な、俺には一番だって思う奴がいる。誰よりも好きだって思う存在がな。だからもう、お前を一番にしてやることはできないんだよ」
 電話の向こうで彼女は、そう、と言った。意外とサバサバとした口調だった。
『わかった。逃した魚は大きかったなって、今さら思ってるんけどしょうがないか。その彼女とお幸せにね、キョンくん』
「ああ。……さよなら」
 またな、とは言わなかった。彼女もまた、さよならと言って通話は切れた。俺はそのまま、未練がましく残してあった彼女のアドレスを削除した。
 それ以来、彼女からの連絡はない。親友だったあいつからは、一度だけ短いメールが来た。
すまん。許してくれなくていい。ただそれだけのメールだったから、俺は返信しなかった。たぶんあいつも、それを望んでいないと思うから。



 初夏の陽射しが降り注ぐ中、今日の授業を終えた俺は谷口たちにまたなと手を振って、帰路についた。少し湿った夏の風が、青々と茂る街路樹の葉を揺らす。キラキラとこぼれる木漏れ日に目を細めて、俺はアパートへの道をたどった。
 聞いていた古泉の治療の予定期間は、2ヶ月。だが、会長からも森さんからも何の連絡もないまま、そろそろ3ヶ月めも終わろうとしている。俺の肩の傷ももうすっかりよくなって、完治したといってもいいころだ。
 まぁな。もしかしたら古泉の治療はとっくに終了していて、でも俺のことをすっかり忘れてるから連絡してこれないんじゃないか、なんてことを考えなかったわけじゃない。誰でしたっけ? と首を傾げる古泉の夢を見て、夜中に飛び起きることだって度々だ。
 だけどあのとき、俺はもう二度と、古泉を疑ったりはしないと決めたんだ。あいつの気持ちも、雨のように降らせてくる愛の言葉も、全部。
 だから俺は待ち続けるのさ。……言ってない言葉だってあるしな。
 さて今日は暑そうだから、今夏初のそうめんでもゆでてみるかね。ネギもまだ残ってるし、生姜はチューブのやつでいいし……と夕飯の算段をつけつつ歩き、アパートが見えて来たところで、俺の足は止まった。
 視界の中、見慣れたアパートの階段の下に――そいつはいた。
 階段の、下から2段目に腰を下ろしている、人待ち顔の若い男。色素の薄い髪はふわりと柔らかそうで、すっきりと整った美人顔はこれ以上ないってほど俺好みだ。水色のシャツを着て、ジーンズに包まれた長い脚をもてあますように抱えている。
 気づいたとたん、俺は走り出していた。灼けたアスファルトを蹴って、息を荒げて階段に駆け寄って、そいつの目の前で立ち止まる。
 そいつは座ったまま、肩で息をする俺を見上げ、にこりと無邪気に微笑んで言ったのだ。

「――僕を、拾ってもらえませんか?」

 はじめて会ったあの時と、まるで同じように。
春の雪の代わりに、夏の木漏れ日を、肩にも髪にもまといつかせながら。
でも、その言葉に続いたセリフは、かなり前と違ってたんだけどな。
「寝るところは、ぜひあなたと同じベッドがいいですね。もちろん、ご恩返しはたっぷりさせていただきますよ?」
 いきなり何を言ってんだ、この馬鹿。
 思わず吹き出してしまって笑いながらも、俺はあの時と同じ返事をしてやった。
「わかった。拾ってやるから、来い。それと」
 さしのべた手を、そいつがつかむ。立ち上がったそのままの勢いで、強く抱きしめられた。
3ヶ月の間、ずっとずっと待ち続けていた、待ち焦がれていた腕。ふわりと香る匂い。
 ああ、やっと戻って来た。俺の……いちばん。

「……お帰り、古泉」
「はい。ただいま帰りました。……そして、もうどこにも行きません」

 肩と腕の傷は大丈夫ですか、と古泉は不安げな顔をする。もうすっかりなんともないぞと答えてやったが、それでも古泉の表情は晴れなかった。
「すみません。結局僕は、やはりあなたを傷つけてしまった……」
 後悔をにじませているその頬に、俺はそっと触れてやる。お前がそれを気にするだろうなんてことは、もちろん想定してたさ。だから、聞けよ。
「気にしなくていい。お前は、俺が拾ったんだから」
「え……?」
 古泉は、きょとんと首を傾げている。俺は触れていた手を古泉の後頭部にまわし、ぐいと額をつきあわせた。
「噛まれたり引っ掻かれたりするくらい、飼い主にとっては想定の範囲内ってことだ。知ってるか? 猫飼ってるやつって、引っ掻き傷すら自慢げに人に見せびらかすんだぜ?」
 古泉はまた、泣き出しそうな顔でふにゃりと笑った。鼻先で、もう本当にあなたって人は、と溜息に似た声でつぶやく。
「だいぶ遅れましたけど、約束通りベッドを見に行かないといけませんね」
 そんなことまでちゃんと憶えてるのか。本当に何一つ、お前は俺のことを忘れないでいてくれたんだな。
「そうだな。大きいのにするんだっけか」
「そこそこでもいいですって。落ちないように、くっついて寝ますから」
「もう夏なんだぜ? 暑っ苦しいぞお前」
「相変わらずヒドイですね! そういうところも好きですけど!」
「ははっ、バーカ」

 夏の昼下がり。他に誰も通らないのをいいことに、俺たちはぎゅっとお互いを抱きしめて、深いキスを交わしあう。数ヶ月ぶりの恋人の唇は、甘くて蕩けそうだ。
 耳元に囁かれるのは、久しぶりに聞く、好きですと愛してますの大盤振る舞い。本当に相変わらずだなぁ、お前って奴は。
 ああ、でもこれでやっと、あのときに言いそびれた5文字を、お前に言うことができるんだな。照れくさいけど、ちゃんと言っておかなくちゃ。もう後悔したくないし。

 だからな、古泉。
もう一度、ちゃんとお前に伝えるところから、はじめようと思うんだ。


――「愛してる」ってさ。


                                                    END
(2010.05.30 up)
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長らくおつきあいいただきまして、ありがとうございました!
パラレルな二人のお話、これにて完結でございます。
予想外にお花ちゃんだった古泉ですが、いかがでしたか。
書くのはとっても楽しかったです(笑)