I Love you からはじめよう。
08

 俺との間に絶望的な距離をあけ、古泉はかたくなに目をそらしている。
熱の残る自分の唇に指を触れた時、ああ、そうか、と唐突に理解した。
古泉がいきなり家事に手を出し、アルバイトを始めた理由がわかったと思った。古泉にとって、セックスはここに住まわせてもらうための代償だったのだ。別に、俺のことが欲しくて抱いてるわけじゃない。そういえば、最初からそう言っていた。だから、家事を手伝いアルバイトをして家賃なりを入れることにすれば、もう代償を払う必要はなくなるんだ。
 何がきっかけだったのかは、正直わからない。古泉が変貌したとき、俺が怯えを見せてしまったことかもしれない。わからないけど、とにかく古泉はもう、俺に身体で代償を払うことをやめたのだ。そんな薄情な奴に、サービスをしてやる必要はない、と思ったのだろうか。
 好きだと言った。愛してると言った。あなたが信じなくても、あなたが好きだという事実はあり続けるなんて、俺を守るだなんて言った。あれも全部、嘘。ただのリップサービスだったのか。
――俺はまた、裏切られるのか。

「……そうか。わかった。ごめんな、俺、勘違いしてた」
「え……」
「好きでしてるわけじゃなかったんだな、お前。無理させてたのか」
 本当は、こいつも女の方が好きなのかもな。そりゃそうだ。女の子の方がやわらかいし可愛いし、安らぐよな。好きでもない男のごつい身体なんか、義務でもなきゃ抱きたいわけがない。
 そう自分に言い聞かせるそばから、胸の中にじくじくとした痛みが浸食してくる。わしづかみにされて、じわじわと握りつぶされようとしているような鈍い疼痛。
 ……たぶん、この痛みが答えなんだ。
 もう傷は癒えたと思ってた。元彼女や元親友のことを思い出しても、もう大丈夫さと笑えるくらいには快復したと、そう思ってた。
 でも違う。俺はまだ、全然立ち直ってなんかいなかったんだ。古泉に感じてるこの気持ちがなんなのか、信じるのが怖くて、裏切られるのが怖くて、気がつかないふりをしてた。
 お笑い草だ。相手にはっきり拒絶されて、それでやっと気がつくなんて。

 俺は、古泉が好きなんだ。
 それも、おそらくは恋愛的な意味で。

 俺は古泉から目を逸らし、立ち上がった。どこか遠くに行きたかった。とりあえず、古泉のいないところへ。もう嫌だ。嘘まみれの愛の言葉も、それを聞いて優越感を感じていた自分も、何もかも。
 ああ……もしかしたら、古泉的には嘘じゃなかったのかもしれない。考えて見ればこいつは5歳児だ。5歳児なりの好きで、愛してるで、こいつにとっては真実だったのかもしれない。なんだ。それじゃやっぱり、俺が勘違いしてただけじゃねえか。
「ちょっと出てくる。お前は寝てろ」
 とにかく、どこかで思い切り泣きたかった。こんな短期間に2回も失恋なんて、俺がどんな悪いことをしたっていうんだ。しかもどっちも手ひどい裏切り付きなんて、前世の報いとか何かなのか。
 玄関で、脱いだばかりのスニーカーに足を突っ込む。踵を潰したままドアを開けて部屋を出ようとしたそのとき――いきなり後ろから、襲いかかるような勢いで抱きしめられた。

「待ってください……!」

 もちろんそれは、古泉の、さっき俺を激しく拒絶したのと同じ腕だった。
「こいず……」
 なんだよ、お前。俺に触られるのは、嫌なんじゃなかったのか? どうしてそんなに、すがりつくみたいに抱きしめるんだ。
「行かないで……僕を置いて、どこかにいかないでください……っ!」
 震える声は、必死に泣くのをこらえている子供みたいだった。俺の背中にしがみついて、古泉は額を俺の背中に押しつける。置いていかないで、と、母親を引き留める頑是無い子供みたいに。その身体は、細かく震えていた。……しょうがないな。
「わかった……わかったから。どこにも行かないから、ちょっと手をゆるめろ」
 俺より少し高い位置にある頭をなでて、俺はそう言った。こんな、泣きだす直前の子供みたいな奴を振り切っていけるほど、俺は鬼じゃないんだ。



 ベッドの上にふたりして並んで座り、古泉が落ち着くのを待つ。やがて息を整えて、下を向いたままぽつりぽつりと話し出した古泉の声は、ひどくかすれていた。
「……ごめんなさい。あなたは何も悪くない。謝ることなんて、何もないです」
 僕のせいです。何もかも。
そう言い募る古泉に向け、俺は自虐的な口調で吐き捨てた。
「でもお前、俺のこと、触るのも嫌なんだろう?」
 あれもこれも義務であって、本当は気が進まなかったっていうなら俺は。
「……あなたを抱いたのは、最初は確かに恩返しのためでした。あなたは素性もわからない僕に何も聞かず、とても優しくしてくれた。その恩に報いるため、僕がお返しできるものといえば、あれくらいしかなかったので」
 気に入ってもらえてよかった、と古泉は力なく笑う。うん、その認識には大いに誤解がある気がするが、今はまぁいい。
「翌朝、あなたは自分のことが好きかと聞いたけれど、僕には“好き”という気持ちは、正直言ってよくわからなかった。でもあなたは、一緒にいたいって思うことがそうなんだって教えてくれましたよね。だから僕は、毎日あなたを知るごとに、一回あなたを抱くごとに、僕の中でどんどん大きくなっていくこの想いが、きっと“好き”なんだなと思いました」
 間違っては……いない。好きな相手とは一緒にいたいものだと思う。そう言ってやろうかと思ったが、古泉の独白は止まらなかった。上向けた自分の手の平をじっと見つめながら、淡々と言葉を紡ぐ。
「だから、無理してたなんてことは全然ないんです。むしろ僕は、もっとあなたに悦んでもらいたかったし、気持ちよくなってもらいたかった。あなたが笑顔なら、あなたが幸せなら、それがどんな形でも、誰とだったとしても嬉しいと思ってた。僕自身はどうでもいいって言った、あれももちろん本気でした。でも……この頃の僕はおかしい」
 古泉は手のひらで顔を覆った。苦しそうな声が、指の間からこぼれ落ちる。
「どんな形でも、なんて嘘だ。本当は、あなたを笑顔にするのも、幸せにするのも、気持ちよくさせるのも、僕じゃないと嫌だ。他の誰かじゃ嫌だ。あなたが他の誰かと笑っているのを見ると苦しい。あなたに、僕以外の誰かが触れることを考えると頭がぐらぐらして、息が出来なくなる……!」
「こ……」
 思わず名前を呼んで、手を差し伸べようとする。だが俺の言葉を、古泉は遮った。
「だけどね。あなたも知ってるでしょう? ――僕は、人間じゃない」
 手を顔からはずし再びじっとそれを見つめて、古泉は口元だけを笑みの形に歪ませた。でもそれは、ちっとも笑ってるようには見えなかった。
「記憶がすごく曖昧で、はっきりしていなかったけど、この間お母さんに……森さんに会って思い出しました。……僕は造られた人間で、しかもどちらかというとバケモノに近い。知らない人たちに、あなたが襲われたあのときみたいに、我を忘れると自分でも制御がきかなくなって人を襲う。あなたが怖がるのも無理はない」
 血の気のない指先が、ぎゅっと握り混まれる。
「今、僕はおかしいから。あなたを傷つける人だけじゃなく、あなたが笑いかける人にも、あなたと楽しそうに話す人にも……あなたに近づこうとする人たち全部に対して牙を剥いてしまいそうで、そんな自分が怖いんです。いつか僕は、自分を抑えられなくなるかもしれない。その上、あなたにまで危害を加えてしまうかも。……それでも……それでも僕は」
 古泉の唇が震える。聞こえてきた声は、泣き声に近かった。
「あなたが、好きです。好きなんです。嫌われたくない。本当は、あなたを想っていいような存在じゃないけれど、それでも側にいたい。だからせめてあなたを怖がらせないように、僕はもう二度と、あなたに触っちゃだめなんです……!」

 それきり、古泉は口をつぐんだ。涙も流さず、嗚咽すらもらさないまま、それでも古泉は、確かに泣いていた。枕元の時計が静かに時を刻み、秒針の音だけが部屋に響いている。
 馬鹿だな、お前。
 じゃあ、急にアルバイトなんて始めたのは、身体でのお返し≠ェ出来ないからって、ただそれだけだったのか。割った食器の破片で手を切ったり、掃除機のコードに足を引っかけて転んだりしながら家事を憶えたのも、そのためだったのか。
……本当に、馬鹿みたいに律儀なやつだよ、お前は。
 古泉、お前が感じてるそれは、独占欲って奴だ。
 誰かを好きになると、当たり前のように抱く感情なんだ。俺もお前を、誰にも渡したくないって思ってる。もちろん子供だって抱く感情ではあるけど、それを押さえようとしているんなら、お前はもう、子供なんかじゃない。
 ――だからさ。お前が今、俺に言ってくれたのは、そりゃあもう気恥ずかしいくらいの、本気の愛の告白って奴なんだぜ?
 お前の愛の言葉なんて、信じられるもんかと思ってた。
いいや。この世のすべての愛だの恋だの友情だの、全部がもう信じられるもんかと思ってた。
手ひどく裏切られた失恋の記憶は、思えばかなり俺を卑屈にしていたんだな。あんなに一途でまっすぐなお前の気持ちを、全部嘘だったと思うなんてどうかしてる。お前はずっとずっとひたすらに、俺をあらゆるものから……自分自身からさえ、守ろうとしてくれてたのに。
 ああ、俺も馬鹿だよ。
自分の殻に閉じこもって、もう少しで大事なものを失うところだったんだから。
 そうだな。ここは素直に、俺も自分の気持ちを伝える場面だと思うんだが……果たして、今のかたくなな古泉に信じてもらえるんだろうか?
 俺はうなだれたままの古泉を見つめ、少し考えた。酔いはとっくに醒めていたけれど、たぶん俺はそのとき、酒以外の何かに酔っていたんだと思う。
 まぁ、信じてくれなくたっていいか、なんて思う。俺が古泉を好きだって事実は、確かに存在するんだから。……ああ、これが古泉の言ってた、それでも地球は回ってるんですってやつなのかな。
「古泉、顔をあげろ」
 俺の声に従って、古泉が顔をあげる。
俺はその唇に、ちゅ、と音をたててキスしてやった。
「な……っ、だ……!」
 古泉はまた、慌てて飛び退こうとした。その手をしっかりと捕まえて、俺は宣言する。
「うるさい。俺に触っていい人間は俺が決める。お前に決定の権利はねえよ」
「でも……っ」
 膝立ちして、古泉の頭を胸に抱き込む。そのまま髪を撫でてそこにキスしてやると、古泉はビクリと肩を震わせた。腕の中のサラリとした髪を撫でながら、冷たい耳朶を温めるように、息がかかる距離でごめんとつぶやく。
「あのとき、呼び止めてやれなくてごめんな。お前が怖かったわけじゃないんだ、ただ身体が痛くて動かなくて……って、言い訳だな。うん、確かに少し驚きはしたが、大丈夫だ。お前が何者でも、たとえ本当にバケモノだったとしても、俺は……お前が好きだよ」
「…………っ」
「好きだ。好きだよ、古泉。俺が今、こうしていられるのは、お前がいてくれたからだと思う。お前のおかげで、俺は救われたんだ。お前は俺にとって、とっても大切な存在だ」
 すると古泉は、ぐっと俺の袖を握りしめ、俺の胸に体重を預けた。その喉から、ようやく嗚咽がもれはじめる。俺にしがみつき、胸に顔を埋めて泣き声をあげる古泉をしっかりと抱きしめて、俺はまるで子守歌みたいに、好きだよと繰り返した。
何度言っても、足りない気がしていた。

 しばらくそうして泣き続けていた古泉が、俺の言葉に反応したのは、かなりの時間が経過したあとだった。何十回目かわからない好きだ、の声にピクリと身動く。
「あの……その、好きって……いうのは……」
 かすかにしゃくり上げながら、胸の中で古泉がつぶやく。うん、いいぞ。そこは追求するべきところだ。
「もちろん、お前が言ってるのと同じ意味の好き≠セぞ。俺はお前のこと怖いなんて思ってないし、バケモノだとも思ってない。嫌いになんかならないし、お前のキスだって舌だって指だって、全部好きだから……だからさ」
 伝わるといい。
俺がもう、お前の正体がどうなんて段階を、とっくに越えちまってるってことが。
「――俺の身体のどこでも、お前の好きなように、好きなだけ触れ」
 ふと古泉は泣き止んで、顔をあげた。すごい顔だな。涙でぐしゃぐしゃだ。
不思議そうな表情でじっと見つめるまなざしに、急に恥ずかしさがこみ上げてきた。いやもう、恥ずかしくて死にそうだから、そうマジマジと見るな。
「な……んだよっ……」
「触れって……今も触ってますけど」
「だからもっと……いろんなところを、触っていいって言ってるんだ」
 これ以上言わせんな。恥ずかしすぎて爆発するわ!
 古泉はそうっと、まるで壊れ物を扱うみたいな慎重さで、俺の身体に手をかけた。
「いい、んですか……あなたを抱いても……?」
 泣きそうな顔で何を言ってるんだ。そんなことはだなぁ……。
「いっ、いまさらだろうがっ!」
 ふにゃ、という感じで、古泉の顔がほころぶ。ぎゅうと強く抱きしめられて、いままでよりもずっと、胸が熱く高鳴った。


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(2010.05.18 up)

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