I Love you からはじめよう。
07

「キョン! 一生のお願いなんだが、聞いてくれるかっ!」
 午後の授業までの時間を、中庭のベンチでつぶしていたら、いきなり谷口に両肩をつかまれて、そう詰め寄られた。なんだよ暑っ苦しいな。
「お前んとこのイケメン、紹介してくれ!」
「はぁ? 古泉を?」
「国木田に聞いたぜ。火事で焼け出された知り合いのイケメンと同居してんだろ? そいつに紹介してもらって、さらにそいつが働いてるケーキ屋に招待してくれ、ぜひ!」
 鼻息も荒く言いつのる谷口の言いたいことは、だいたいわかった。
「それで? 古泉目当てに通ってる女の子を紹介しろってのか」
「その通り! 察しがいいじゃねえか心の友よ!」
 うぜえ。
 心底嫌そうな顔を作って暗にお断りを表現してみたが、そんな腹芸の通じる奴じゃなかったな、こいつは。
「そのケーキ屋、そいつ目当ての女性客で、店の売り上げが倍になったらしいじゃねえか。喫茶スペースにも、下は幼稚園児から上は米寿の婆さんまで、客が毎日あふれんばかりに詰めかけてるって聞いたぜ?」
「大げさすぎだ。尾ひれがつきまくっとる」

 いきなり古泉が、アルバイトをしたいです、なんて言い出したとき、俺が思ったのは、無理だろ、の一言だった。こんな世間知らずですさまじく不器用な古泉が、まともに働けるのか、大いに疑問だ。
「お前の分の生活費は、例の研究所からもらったぞ?」
 いささか、多すぎるくらいな。そう言ってやったら、古泉は少し困った顔で笑った。
「でも僕、1人でも何かできるようになりたいんです」
 古泉は、あの研究所に行った日から、変わりつつある。
 俺のベッドに潜り込んでくることはもうまったくないんだが、それどころか俺に触ることすらほとんどない。偶然手が触れただけでも過剰に反応して、必要以上に距離を取る。部屋にいるときも、近づいてはこない。
 かといって、俺に興味がなくなったのかというとそういう訳でもないようで、相変わらず口癖のように好きです愛してますと繰り返し、話すときは尻尾でも振りそうにニコニコと嬉しそうに笑っている。わけがわからん。
 そして少しずつ、家のことを憶えようとしはじめた。皿を洗ったり掃除をしたりといった簡単なことなら、危なっかしくはあるがとりあえずできるようになった。その後、言い出したのが、アルバイトをしたいです、だ。
 1日で追い出されるんじゃないだろうかと心配しながらも、俺はアルバイト募集の張り紙のあった近所のケーキ屋に、話をつけてやった。心配したとおり、初日から皿を割ったり失敗の連続だったようだが、一生懸命さを買われたのかクビにはならなかったらしい。
 そしてそれから数週間がたつうちに、古泉は噂の名物店員になっちまったのだ。谷口のセリフはかなりどころでなく大げさだが、売り上げが伸びたのは間違いないようだし、古泉目当ての客も増えているらしい。このあいだのぞいて見たときは、イートインスペースで給仕をしながら、女性客に囲まれてニコニコと話をしている古泉の姿があった。俺はなんとなく面白くなくて、古泉に声もかけずに立ち去った。

「キョ〜ン。男の嫉妬は見苦しいぜ? しょせんイケメンと俺たちは別世界の住人なんだから、せめておこぼれに預かるチャンスをのがさないようにしようじゃねえか」
「知るか。行きたきゃ勝手に行けよ。1人で」
 友達がいのないやつだな、俺ってばシャイなんだから頼むよ〜としつこくしつこく言われて、午後の講義のあとに半ば引きずられるように件のケーキ屋に連行された。
 いらっしゃいませ、の声に迎えられて入った店内は、あたり前だが女性客ばかりだった。
「いらっしゃいませ、ただいまメニューを……あれ、来てくださったんですか!」
 ウェイターの制服で出てきた古泉は、俺の姿を認めるとぱっと顔を輝かせて、テーブルに飛んできた。ネクタイを締め、腰に黒いエプロンをつけた姿が、とんでもなく様になってやがる。これは女が騒ぐはずだな。
 谷口の姿に気づいたのか、古泉はテーブルのちょっと手前で足を止めた。俺たちを見比べて、一瞬なんとも微妙な表情になる。困ったような……悲しそうな? よくわからん。
「あー、古泉よ。こいつ、俺のダチで谷口な」
「あ、はい。お噂はかねがね。古泉です。よろしくお願いしますね」
 紹介すると古泉は、いつも通りの人なつこい笑顔になった。
 にこりと微笑む古泉に、谷口までが赤くなってうろたえている。男の顔の美醜なんて、こいつにとっちゃ明日の株価より興味の外のはずなんだがな。
「お、おう。よろしくな」
「はい。あ、お二人ともケーキ食べますか? よければ僕がおごりますよ」
 オススメはこれとこれと、とメニューを指さす古泉はけっこう楽しそうだ。まぁ、楽しくやれてんなら、よかった。せっかくだから食べていくかと華やかなケーキの写真を眺めていたら、隣のテーブルに座った客が古泉を呼んだ。
「イツキくん、紅茶のおかわりお願い」
「あ、私、スコーン食べたい。イツキくん、メニューちょうだい」
「はい、ただいま」
 ……イツキくん? 古泉の奴、名前で呼ばれてんのか。
「予想以上のイケメンだな。どこのアイドルだよ」
 古泉が俺たちのテーブルを離れてから、谷口がこそっと囁いてきた。
「しかもモテモテだと!? ちくしょう人類半分の敵め!」
「落ち着け、谷口。女紹介してもらいたいんなら、モテモテの方が都合いいんだろうが」
「いや〜、あれがあれじゃ、紹介してもらったところで勝てねぇだろ」
 古泉は店内をくるくると動きまわり、そのたびに女性客に呼び止められ、話しかけられている。俺は運ばれてきたケーキをつつきながら、複雑な気分でそれを眺めていた。
 やがて古泉は、店の奥から出てきた若い女とカウンターで話し込み始めた。あれは確か面接の時に会った……ここの店長だな。
「お、年上美人。仲良さそうじゃねえか」
「ここの店長だ。けっこう気に入られてるらしいぞ」
 そう言った俺の声は、自分で思ったより不機嫌だったようだ。谷口が両手を広げて、わざとらしく溜息をついた。
「キョン〜。男の嫉妬は見苦しいって言ったろ? まぁ、美人店長に気に入られてるってのが、うらやましいのはわかるけどなぁ」
「えっ?」
「ん? どうした?」
「いや……」
 谷口に指摘されて、びっくりした。どうやら本当に、俺は嫉妬してるらしいと気がついたからだ。いや、正確には、嫉妬の対象が古泉ではなく……仲良くしゃべってる店長や、古泉を名前で呼んでる女性客たちにらしいってことに、だ。
 まさか、冗談じゃない。
そりゃ最近ちょっと妙な道に引きずられちゃいるが、本来俺はまったきヘテロだ。両刀ってわけでもなく、恋愛対象は間違いなく女性オンリーなんだ。彼女だっていた。
 これはきっとあれだ。俺にだけなついてた犬が、他の人間に尻尾を振っているのを見たときのくやしさというかなんというか。
 そのはずだ。それ以外にない。
「キョン? だいじょぶか? 腹でも痛てえのか?」
「いや、なんでもない。コーヒーのおかわりもらうか。……古泉!」
 俺の呼ぶ声に顔を上げ、古泉が席にやってくる。コーヒーのおかわりを頼もうと見上げたとき、古泉のネクタイが曲がっていることに気がついた。
「コーヒーのおかわり頼む。あとネクタイ曲がってんぞ」
 かがんだところに手を伸ばし、直してやろうと首に触れる。と、ものすごい勢いで手を振り払われた。
「あ……」
「…………」
「す、すみません。僕、くすぐったがりで」
 すぐにおかわりお持ちしますね、と言い置いて、古泉はそそくさと踵を返した。
 俺はその後ろ姿を見つめ、振り払われた手を握りしめて呆然としていたらしい。谷口に何度か呼ばれて、ようやく我に返った。
「ああ、すまん。ちょっとボンヤリしてた」
「いいけどさ。お前、やっぱりどっか悪いんじゃねえか? ここんとこおかしいぜ。もしかして……元カノとなんかあったのか?」
「え? いや、別に」
 というか、ここしばらくは思い出すこともあまりなかった。少し前までは、ふとしたきっかけで思い出しては胸が痛くなっていたし、キャンパスでもばったり会ったりするんじゃないかってびくびくしてたってのに。
「そうか〜、よかったぜ。俺、ちょっと責任感じてたからなぁ」
 俺のせいでお前が、自棄でもおこしたらどうしようかと思ってた、と谷口は溜息をついた。
「あのあと、国木田にさんざん嫌味言われてなぁ。ネチネチネチネチと、もうなんか最後には、日本の景気が悪いのも少年犯罪が増えてるのも郵便ポストが赤いのも、全部俺が悪いような気になってきてさ〜」
「ははっ。国木田も心配してくれたんだな」
「あの時は、追いかけた方がいいかと思ったんだが、国木田に止められたんだ。友達が追っていったみたいだから大丈夫だよってな。あれは、あのイケメンくんのことか?」
「ああ。まぁ、あいつにもちょっと迷惑かけちまったな」
 実際、古泉がいなかったらと考えると、ぞっとする。あんな最低な気分で、一人きりで部屋にいたりしたら、俺はどうしたろう。暴れて部屋のものを壊すとかヤケ酒を飲むとか、その程度で済んだとは到底思えない。もしかしたら、最悪の選択をした可能性だって、大いにある。
「コーヒーのおかわり、お持ちしました」
 声とともに、カップに琥珀色の液体が注がれた。ドキ、と脈打った心臓に自分で驚いて顔をあげると、普段通りの笑顔の古泉がそこにいた。いつも思ってたけど、本当にこいつはいい声してるよな。なんというか、ものすごく腰に響く。
 僕があなたを守りますから、とあのときに聞いた声が耳の奥によみがえる。それと、好きですと囁く声と、耳に当たる唇の感触。身体中を這い回る手と舌の軌跡。それのもたらす快感。……もう、1ヶ月以上も触られてないな。
 具体的なことをいろいろと思い出しちまって、俺はあわててカップに口をつけた。あわてすぎて舌を火傷したが、妙な妄想はとどまるところを知らず、俺はコーヒーを半分ほど残して席をたった。
「すまん、谷口。今日のバイト、早めにいかなきゃならんこと思い出した」
「お、そうか? 付き合ってくれてサンキューな、キョン」
「ああ、また明日な」
 ケーキは古泉のおごりってことなんでコーヒー代だけ置いて、俺は谷口と古泉に手を振り、出口へと急いだ。もちろんバイトの話は嘘だが、これ以上古泉を見てるのがつらかった。
 カラン、とベルの音を立ててドアを開け、外に踏み出す。と、ちょうどそこに立っていた人物にぶつかりそうになった。
「あ、すいません」
 店に入ろうとしてたのかと思ったが、謝罪しつつ見上げた相手は、あまりケーキ屋に似つかわしくなかった。
 30代半ばくらいの、普通のサラリーマン風の男だ。いや、リーマンがケーキを食っちゃいけないなんてことはない。ないんだがその男は、ちょっと崩れた感じがしないでもないけれどあまりに普通で、奥さんとか子供連れでもないのに1人でケーキ屋に入ろうとしたりはしなさそうなタイプだったのだ。
 だけどまぁ、世の中にはケーキ好きのリーマン親父だっているだろうし。
 ぺこりと軽く頭を下げ、男の横を通り過ぎようとしたとき、再びドアベルが音をたてた。振り返ったら、中から顔を出しているのは古泉だった。
「ああ、まだいらしたんですね。忘れ物ですよ」
 古泉が差し出しているのは、俺がはおってたジャケットだった。そういや、脱いであいてた椅子に置いたんだった。
「そうか。ありがとな」
「お忘れになっていっても、僕が部屋に持って帰ればいい話ですけど、でも間に合ってよかった。……あ、いらっしゃいませ。1名様ですか?」
 ドアの前に突っ立ってたリーマン親父に気がついて、古泉が案内の声をかける。すると何故かその男は、突然くるりと踵を返し、早足で去っていってしまった。なんだ? 急に羞恥心に襲われたのか?
「あれ……行っちゃいましたね。僕、なんかおかしなこと言いました?」
「いいや。大方、1人でケーキ屋に入るのが恥ずかしくなったんだろ」
 言いながら、古泉の手からジャケットを受け取る。そのときに手が触れて、また動悸が激しくなるのを感じた。
 本格的に、俺はどうかしている。



 バイトがあると言うのは嘘だったから、特に行く当てはなかった。
だけど部屋に帰る気にもならず、駅前をブラブラして時間を潰す。途中で、同じ大学の、ちょっとだけ話したことがある程度の知り合い連中にノリで誘われて、なんとなくついていって居酒屋とカラオケをハシゴした。
 最後まで、誰が誰だか名前すら覚えられなかったが、それでもまぁそれなりには楽しんだかな。部屋に帰ったときはすでに日付も変わっていて、古泉はもう自分の寝床に入っていた。
 テーブルの上に、明日は早番なのでお先に失礼します、というメモが律儀に置いてある。なんというか、こいつも意外と普通にやっていけてるんだな。そう心配することもなかったみたいだ、とホッとするのと同時に、ほんの少しの寂しさが胸をよぎる。
 俺はそっと古泉の枕元に近づいて、寝顔をのぞきこんだ。気配に気がついたのか、古泉が目を開けた。
「あ、おかえりなさい……遅かったですね?」
「ああ、すまんな」
「……お酒ですか?」
「うん。駅前で知り合いに会って誘われたんだ」
 そういや忘れてた。こいつ、夕飯はどうしたのかな。
「古泉、メシは食ったのか」
「はい。カレーライスを……」
「カレーライス? そんなの作ってあったっけ?」
「いえ、あなたが遅いので、どうしたのかと思って玄関のところで外を見ていたら、隣の部屋の方が声をかけてくださって」
 同居人が遅いので、夕食をどうしようかと思っているんですと言ったら、よかったらどうぞとお裾分けをくれたらしい。そういやお隣は、シングルマザーだったな。
「おモテになることで……」
 なんだか急にバカらしくなって、俺は立ち上がって自分のベッドに転がった。それほど痛飲したわけではないが、俺は酒に弱いのでけっこう酔っているらしい。天井がぐるぐると回っていた。
 古泉は布団の上に起き上がったみたいだったが、そのまま動かない。心配そうに見ているだけで、それでもやっぱり俺との間に一定の距離をあけ、決して触れてくることはない。

 ……それで、いいじゃねぇか。
 酔いの回った頭で、俺はボンヤリと考えた。
 毎晩毎晩、男に舐められ突っ込まれて、さんざんあえがされてたなんて、その状態の方が異常だったんだ。俺はまごうことなきヘテロのはずなんだから、いくら古泉がうまかろうがあんなのが気持ちいいなんて、なにかの間違いだったに違いない。
 たしかに単純な肉体の快楽は、落ち込んでいた俺の気を紛らわせてくれた。おかげで失恋の痛手がかなり緩和されたことには感謝するが、そろそろそれも必要なくなる頃だろう。
 このまま古泉が俺に手を出さずに大人しくしてくれるんなら、俺は元の生活に戻れる。そのうちきっと新しい彼女だってできるはずだし、古泉だって誰か可愛い女の子と……。
「あの……大丈夫ですか? ご気分は?」
「最悪だ」
「えっ! あ、どうしよう……病院に行きますか? それとも……」
 おろおろと、あたりを見回す古泉。
最悪だ。
お前が他の誰かと一緒にいるところを想像したら、すごく胸がむかついた。
気分悪い。
ああ、なんだか俺、おかしいな。
たぶん俺は、お前を他の誰にも渡したくないんだ。
この気持ちは、なんなんだろう。

「古泉」
「はい、なんでしょう」
 来い来いと手招くと、古泉は心配そうな顔でベッドに近づき、のぞきこんできた。俺はその顔を両手でガシリと捉え、ふいうちで唇にかみついた。そのまま首に手をまわし、無理やり唇を割って舌を潜り込ませて、強引にからめとる。唇の端からどちらのものともつかない唾液が漏れて、首筋まで濡らした。
胸が痛い。哀しくてなのか、嬉しくてなのか、わからない。
唇から伝わる熱に、俺の心は確かに震えたのだけれど。

「だ……だめです……っ」

 古泉はそう言って唇をもぎ離し、飛び退いた。俺から視線を逸らして、座ったままあとさじる。
「触らないでください。僕に近づかないで」
「古泉……?」
 それは、はっきりとした拒絶だった。勘違いでも気まぐれでもなく、俺は間違いなく古泉に拒絶されたのだ。――もうお前を抱く気はない、と。


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(2010.05.13 up)

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