I Love you からはじめよう。
05

  キョンくん。私のこと、好き? 愛してる?
……だめよ。恥ずかしがらないで、ちゃんと言ってよ。
女の子はね、ちゃんと言葉をもらえないと不安になるの。
だから、ちゃんと言って。
私を安心させて。

 ――ねぇ。私のこと、好き?



「……目が醒めましたか?」
 うっすらと目を開けると、目の前にあったのは俺好みの綺麗な顔だった。不安そうに眉を寄せ、途方にくれたような表情で俺をのぞきこんでいる。
「こ……いず……み?」
「はい。古泉です」
 起きようと頭を動かすと、殴られたような痛みが襲ってきて思わず唸る。まだ起きちゃだめですと言われて再び枕に頭を落とし、そっとあたりを見回す。病院かと思ったが、そこは俺の住むアパートの部屋だった。
「俺……どうなったんだ? あいつらは……?」
「大声で助けを呼んだら、あなたを置いて逃げていきましたよ。あなたを病院にとも思ったのですが、眠っているだけのようだったので、部屋にお連れしました」
 あたりはもう真っ暗だ。枕元にあった携帯を開いて時間を確認すると、あれから5時間ほどが経過しているらしい。
「何だったんだあいつら。お前を、捜してたって言ってたぞ? ……親に頼まれたって」
 古泉のリアクションを観察しながら、そう言ってみる。すると古泉は、心底不思議そうな顔をして首を傾げた。
「僕、確か親なんていないと思うんですが。何なんでしょう?」
 シラを切ってるならたいしたもんだが……もしかして、本当に記憶喪失なのか?
時間を確認したついでに、メールが来ていたので開いてみた。差出人は、谷口だった。
奴にしてはやけに簡素な、数行のメール。
『すまん。お前に聞かせるつもりはなかった。今度おごる』
 ああ……夢じゃなかったんだな。あれは。
本当のことだったのか。半年以上前から、俺はフタマタかけられていて、結局ふられたっていう、それが真実。俺は親友と恋人に、同時に欺かれていたんだ。
「はは……馬鹿じゃねえの俺……」
「あの……?」
「何がかけがえのない日々だ。何がいい奴だから、だ。俺はずっとずっと、あいつらに騙されてたんだ……!」
 携帯電話を床にたたきつけ、それでも気がおさまらずに、そのへんの手に届く範囲にあるものを手当たり次第に床に投げつける。頭に血が上って苦しくて、喉が痛い。ひとしきり荒れ狂ったあとは、いきなり鋭い痛みが胸に刺さった気がして、俺はベッドに突っ伏して大声で泣いた。というか、泣きわめいた。

 どれくらいの時間が過ぎたんだろう。
気がついたら俺は、何かに取りすがってしゃくり上げていた。暖かい腕が、しっかりと俺を抱きしめている。トクトクと刻み続ける鼓動が、押しつけた耳に聞こえていた。
「……古泉?」
「はい。落ち着きましたか?」
「ん……」
 急に恥ずかしくなって、俺は古泉の胸を押して身体を離し、顔をあげた。薄闇の中、古泉は泣き笑いみたいな顔で、俺を見ている。
 ああ、もしかして怖がらせちまったのか。そうだよな。たぶん虐待の記憶のせいで、こいつは声を荒げられたりするのが怖いんだ。トラウマってやつなんだろう。……それでも古泉は荒れ狂う俺から逃げずに、ずっと抱きしめていてくれたのか。
「すまん。……怖がらせたな」
「いいえ。あなたが泣いていたから」
 古泉はもう一度、俺の身体に手をまわして、ぎゅっと抱きしめた。いつも接触してくるときみたいな、甘えるような、まとわりつくような抱き方じゃない。雛鳥を包み込んで守ろうとする親鳥みたいな、そんな感触だ。
「なぁ、古泉」
「はい、なんでしょう」
「俺のこと、好きか?」
 ぎゅっと、俺を抱く手に力がこもった。
「好きです。大好きです。……愛してます」
「……信じられねぇよ。そんなの」
 彼女は、俺と俺の親友とフタマタをかけながら、俺に愛の言葉を囁き続けた。
好きよ。あなたは私のことが好き? 私があなたを好きなんだから、あなたも私を愛してるよね。ねぇ、もっと言って。好きって言って。
「お前の言葉なんて、軽すぎて信じられん。俺のどこが好きなんだ。何を持って、愛してるなんてほざきやがる。俺はお前の、どこを信じればいいんだ」
 ひどいことを言ってると思う。完全に八つ当たりだ。
だがどうしようもなく傷ついてた俺は、誰かを傷つけずにいられなかった。身勝手だ。
 でも古泉は、俺を抱く手をゆるめなかった。
ゆっくりと、なだめるみたいに背中をさする。
その手がやがて後頭部から髪の中にもぐり込んできて、優しく俺の頭をなでた。

「信じなくて、いいです」

「え?」
「信じられないなら、信じなくていいです。あなたが信じても信じなくても、僕があなたを好きだということは事実ですから。誰も信じなくても、事実はそこにあり続けるんです」
 天動説が信じられていたころ、それでも地球が回っていたみたいにね。
古泉はそう言って、小さく笑った。
「……お前は、それでいいのかよ」
 彼女は、好きだという言葉を欲しがった。言われないと不安だから、安心したいから、言葉にして欲しいと何度もねだられた。古泉は、言葉がなくても平気なんだろうか。
「僕は、あなたが笑っていてくれれば、それでいいです。あなたが痛かったり苦しかったりしなければ……あなたが幸せなら、僕はどうでも」
「お前なぁ。それじゃまるで俺が、暴君みたいじゃねぇか」
「そんなことないですよ。僕を拾ってくれて、ご飯も寝床も着るものまでくれるじゃないですか。それにほら、抱きしめさせてもくれるし」
 ぎゅうぎゅうと、腕にさらに力がこもる。おい、いい加減苦しいぞ。中身が出そうだ。
「古泉、苦しい。離せって」
「もうちょっと……もうちょっとだけ」
 密着した胸から、古泉の鼓動が伝わってくる。色素の薄いやわらかい髪が、首筋にあたってくすぐったい。俺の耳元で、古泉のほとんど吐息みたいな声がもう一度、好きですと言った。
「大丈夫。あなたが僕を信じていなくても、あなたが痛かったり苦しかったりしないよう、僕があなたを守りますから……」
 乾ききっていた心に、古泉のそんな言葉がじわりと染みこんでくる。不覚にも、涙がこぼれそうになった。
「古泉……」
「はい、なんでしょう?」
「お前が、いてくれて……よかった」
 抱きしめる腕に、さらに力がこもる。ちょっとこれは、シャレにならんくらい苦しい。
いかげん離せこの馬鹿力め、抱き潰す気かと言ったところで、古泉の腹がぐう、と鳴った。そういえば、とっくに夕飯の時間も過ぎてるな。
「腹減ったな」
「そうですね」
「今から作るのは面倒だな。もうすぐバイト料入るし、今日はちょっと贅沢して、ラーメンでも食いにいくか」
「はいっ!」
 古泉は、尻尾でも振りそうな勢いでうなずき、ようやく俺を解放してベッドから降りた。俺も出かける支度をしようと、とりあえず部屋の灯りをつける。
「あれ?」
 と、古泉のシャツが、見たことのないものであることに気がついた。
「お前、そのシャツどうしたんだ? 俺が買ってやったやつじゃないな」
「あ、これですか」
 古泉は自分のシャツを見下ろして、困ったように笑った。
「眠っているあなたを連れて帰るときに、どこかに引っかけて袖を派手に破ってしまったんです。どうしようかと思ってたら、見知らぬ人がこれやるからって」
「はぁ? もらったのか? シャツを?」
「はい。親切な人でした」
 そんな奇特な人も世の中にいるのか。それともあれか? “ただしイケメンに限る”ってやつか? ……忌々しいな、まったく。
「まぁいい。腹減ったから、早く行こうぜ」
「はーい」
 さんざん泣いて疲れ切って、腹も減ってた俺は、そのときはあまり深く考えなかった。だから古泉のヘタクソな言い訳も、おかしいなと思いつつ流してしまった。
 少しずつ少しずつ、俺のまったき日常が浸食されつつあることなんて、そのときはまだ気づいてなかった。……いや、気づいていない、ふりをしていたんだ。



 翌日、大学に行ってみると、なんだか妙な雰囲気だった。
妙に浮ついてるというか……ざわついてるというか。あと敷地内のそこここに、どうみても学生でも職員でもなさそうな人間が大勢うろついてる。どうしたんだろうと思ってた俺に事情を教えてくれたのは、学食でばったり会った国木田と谷口だった。
 谷口は俺の顔を見るなり、いきなり抱きついてきて大げさに謝り倒しやがった。学食のカウンター前でそれをやられたもんだから、周り中にじろじろ見られて決まり悪くて、わかったもういいから離せと言いつつ、必死で引きはがさにゃならなかった。
「ああ、なんか部室棟のはずれでケンカがあったらしいよ」
「ケンカ?」
 国木田がA定食をつつきながら、そう言った。
「俺は、ヤクザ同士の抗争だって聞いたぜ?」
 谷口は大盛りのカレーをかき込みながら、スプーンを振り回す。
「ヤクザの抗争? 大学の敷地内で?」
「なんかね、昨日の夕方頃、使ってない部室棟の中で大ケガして倒れてる人たちが発見されたんだって。大学の関係者じゃないみたいだけど、まともに口をきける状態の人が1人もいなかったもんで、まだ事情がわからないんだってさ」
「くわしいな、国木田」
 カツ丼のカツにかぶりつきつつ感心してそう言うと、国木田はまぁねとうなずいた。
「ジャーナリズム研究会に知り合いがいるんだ。取材の成果をね、ちょっとだけ聞かせてもらった。なんか、ひどいケガだったらしいよ。銃で撃たれたってわけじゃないみたいだけど」
「犯人って捕まってないのか」
「まぁ、ケガ人がしゃべれるようにならないと、捜査のしようがないんじゃないかな。手がかりらしいものっていえば、犯人が捨ててった血まみれのシャツくらいみたいだし」
「シャツ……?」
 ドキ、と心臓がはねた。
「量販店の、どこにでも売ってる市販のシャツらしいから、たいした手がかりにはならないんじゃない? ……どうしたのキョン。顔色悪いよ」
「ああ……」
 いきなり食欲がなくなって、俺は箸を置いた。心臓がバクバクと鳴っている。背筋にひやりと、冷や汗がにじんだ。
「すまん。急に腹が痛くなった。便所いってくるから、よければこれ食ってくれ」
 谷口の方に食べかけのカツ丼を押しやり、俺は席を立った。
「おい、キョン? 大丈夫かよ」
「ああ、悪いな」
 不審そうな国木田たちを尻目に、俺は学食を飛び出した。どこに行けばいいのかなんてわからなかったから、とりあえずその、ケガ人が発見されたっていう部室棟に行ってみた。
が、部室棟の入り口には黄色いテープが張られ、見張りが立っていて近づけない。
 もし、と俺は眉間にシワを寄せつつ、考える。
 ひどいケガをして、発見されたっていうのが、昨日のあいつらだとしたら?
俺は気を失う前、確かに古泉の声を聞いた。
あいつは大声を上げたら逃げていった、と行ったが、その後ケガをしてここで発見されたんだとしたら、つじつまがあわない。
そして、現場に残されていたという血まみれのシャツ。
古泉があの日着ていた、見知らぬシャツ。
「……まさか、な?」
 あんな、人畜無害な犬っころみたいな古泉が、そんなこと出来るはずがない。あのときの男たちは、正確には覚えてないが4,5人はいたはずだ。そんな人数の大の男を古泉1人で、どうにかできるわけがない。考えすぎだ。……でも。
 あいつらは、古泉を捜していた。親からの依頼で、なんて、まるで家出人の捜索みたいだったが、そんな理由で俺を拉致なんてしようとするわけがない。家出人捜索っていったら民間の探偵とか興信所とかそんな連中のはずだが、あれはあきらかに一般人とは違う人種だった。
 ぞくり、と背筋に震えが走る。なんだろう。何が起こってるんだ、俺の周りで。

 そのとき、はっとした。
あいつらが捜していたのは、古泉一樹。俺を拉致して聞き出そうとしたくらいなんだから、俺と古泉になんらかのつながりがあるってことは、ばれてるんだろう。だが今日は、特に不振な人物からの接触はない。今だって、こんな誰も邪魔が入らないような、人気のないところにいるってのにだ。
 ということは、もう連中は俺には用がない。イコール、すでに古泉の居場所が、ばれてるってことなんじゃないのか?
「古泉!」
 俺は慌てて踵を返し、走り出した。古泉は俺の部屋にいるはずだ。いつも通り、部屋の中で本でも読みながら、俺の帰りを待っているはず。
 だが、ぜいぜいと息を切らせて戻った俺の部屋は、もぬけの空だった。
玄関が開け放たれ、ベッドのそばに投げ出された読みかけの本と土足の跡。窓も全開になって、カーテンが風にはためいている。呆然としているところに顔をのぞかせたのは、一階に住んでる大家さんだった。
「何があったんですか?」
 そう聞いてみると、ほんのついさっき、2階ですごい音が聞こえたのだと教えてくれた。大勢の靴音と怒鳴り声、窓を開ける音。驚いて外を見ると、古泉が窓から飛び降りて、走り出したところだったという。
「ま、窓から?」
「なんか騒がしい連中が追いかけてったよ。なんだいありゃ。借金の取り立てかなんかかい?」
「どっちに行きました?」
 大家さんが示した方向へ向けて、俺は走り出した。あいつ、一体どこへ行っちまったんだ。
 自転車でも借りてくればよかったと思いながら川沿いを走っていたとき、ここ数週間ですっかり聞き慣れた声が聞こえた。……あっちか!
 声を頼りに走って行くと、変電所の壁を背に、古泉が数名の男たちに追いつめられていた。古泉が背にしたコンクリの壁は、高さが軽く2mはあって、しかも上部に有刺鉄線が張ってある。意外と体力と身体能力があるらしい古泉でも、あれを越えるのは無理だろう。じり、と包囲網をせばめられる古泉を見た途端、俺は後先考えずにそこに突っ込んだ。
「古泉っ! 逃げろ!」
 正面にいた男の腰にタックルをかまし、諸共に道路に倒れ込む。古泉が俺の名を呼ぶのと、別の男に思い切り蹴りつけられるのが同時だった。すさまじい痛みが脇腹に走って、俺は叫び声をあげて転がった。
「―――っ!」
 続けざまに数人に蹴られ、痛みのあまりに意識が飛びそうになる。かすむ視界の中で、古泉が何かを叫んで、俺の方に手を伸ばしたのが見えた。

 それは、薄れていく意識の中で見た、幻覚だったのかもしれない。
 それとも俺はとっくに気を失っていて、夢を見たのかもしれない。
 ボンヤリと現実感のない風景の中で、古泉が暴れていた。
 人間とも思えないスピードと反射神経で大の男の身体を捕まえ、信じられない力で皮膚を切り裂き地面にたたきつける。古泉の手にかかった男たちはあっという間に、壊れた人形みたいにアスファルトの上に転がった。
 血だまりがじわじわと、グレーの地表にひろがって行くのを、俺はまるで映画を見ているみたいな感覚で、ボンヤリと眺めていた。

 全員がピクリとも動かなくなってから、古泉はようやく足を止めた。血に染まった自分の手とボロボロのシャツを見比べ、おそるおそる俺の方を見る。
 俺はそのとき、どんな表情をしたんだろう。
 古泉は悲しそうに顔を歪め、踵を返した。そのまま俺に背を向けて、立ち去ろうとする後ろ姿に、俺の頭の中に警戒警報が鳴り響く。
 いかん。ダメだ。
今ここで、古泉を呼び止めなかったら、こいつはきっと俺の前から姿を消しちまう。
そして二度と、帰ってこないだろう。きっと。

「こいず……」

 だが俺は、奴を呼び止めることができなかった。
いや、呼び止めようとはしたんだ。だけど俺の身体は、いうことを聞いちゃくれなかった。思ったよりもダメージの残っているらしい脆弱な身体が悲鳴をあげる。あわてて身を起こそうとした途端、すさまじい痛みが脇腹に走った。
「痛っ……」
 苦鳴が聞こえたのか、古泉が肩越しに、ほんの少しだけ振り返った。地面に突っ伏して苦しむ俺の姿に、戻って手を貸そうかと躊躇しているのがわかる。だがその表情は、らしくもない無表情に固まっている。古泉の唇が小さく震えた。
 早く、声をかけてやらないと。
 待てよって。行くなって。怖くないって。早く。はやく。

「やれやれ……こりゃあまた、派手にやったな」
 第三者の声が俺たちの間に割って入ったのは、その時だった。
声のした方向を振り返るとそこに、倒れた男たちの側にしゃがみこんで顔をのぞきんでいる、見知らぬ男がいた。……いや、なんとなく見覚えがあるような気もする。グレーのコート、セルフレームの眼鏡、怜悧な顔立ち。
 そいつが懐から煙草を取り出し、咥えて火を点けたとき、唐突に俺は思い出した。こいつは、昨日、一番最初に古泉に声をかけてきた、あの男だ。
「古泉、逃げ……!」
 逃げろ、と言おうとして振り返ると、古泉はその男とは違う方向を見て固まっていた。視線を追ってみたら、反対の方向から2人の男女が近づいてくるところだった。男の方は、鼻の下に髭をたくわえた初老の紳士、女の方は髪をふたつにわけてお下げにしている若い娘だった。誰だ、と思ったとき、古泉の唇が動いた。

「お母、さん……?」


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(2010.05.05 up)

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妙な雲行きに。