I Love you からはじめよう。
04

 妙なことがあったのは、そんな調子でさらに数日が過ぎた頃だった。
 なんだかんだで延び延びになっていた、大学の図書館に連れて行ってやるという約束をようやく果たすため、俺は古泉と連れだって歩いていた。
 考えてみれば、古泉が昼間に外に出るのは、こいつを拾って以来はじめてのことだ。いや、近所のスーパーとコンビニより遠くに行くのもはじめてかもしれん。こいつはどういうわけか、ひとりでの外出を嫌がるから。
「図書館には、入り口で受け付けすればすぐ入れるぞ。連絡先を書かされるから、俺の携帯番号書いとけよ」
「わかりました」
 身分証の提示義務がなくてよかった。どう見てもこいつが、免許証やら保険証やらを持ってるとは思えないからな。ああ、保険証がないんじゃ、ケガや病気に充分に気をつけてやらにゃならんな。全額負担はさすがにつらいし。
 そんなことを考えながら、住宅街を抜けて大通り脇の歩道を進み、ちらほらと学生の姿も見え始めたあたりを歩いているときだ。
「おい、ちょっと」
 背後から、いきなり声をかけられた。思わず振り返ると、道路脇のベンチに座って煙草を吸っていたらしい男が、立ち上がったところだった。同じ年くらいに見えるが、知らない顔だ。男は煙草を咥えたままポケットから手帳を取り出し、はさんであった写真らしきものと古泉を見比べて、セルフレームの眼鏡を押し上げ、目をすがめた。
「お前、古泉一樹か?」
「え……」
 誰なんだこれは。
知り合いか? という意味で、隣の古泉を見上げると、奴はその場に立ちつくしたまま、やけに固い表情をしていた。なんだか……怯えてる?
 男はちょっと待ってろと言いつつ、古泉から鋭い視線をはずさずに携帯を取り出す。なんとなくヤバイ気がして少しあとさじると、いきなり古泉が身を翻して走り出した。
「ま、待て……古泉!」
 すごいスピードで逃げる古泉を、必死で追いかける。ちらりと後ろを振り返ると、さっきの男も携帯で何やら通話しながら、追いかけてきていた。仲間を呼んでるのか? よくわからんが、とりあえず逃げた方がよさそうだ。
「古泉! そっちじゃない、大学の中に入れ!」
 気がつくと、大学の通用門がすぐそこだ。木を隠すなら森の中へ、人を隠すなら人の中へ、学生を隠すなら学生の中へだ!
 俺の声が聞こえたらしい古泉が、門の中へと駆け込む。俺もそのあとを追って、立ち止まっていた古泉の手をつかんで引っ張った。この場合は予定通り、図書館に逃げ込むのがベストだろう。ここの学生証を持ってる俺なら止められることはないが、あの男は確実に受け付けでストップだ。俺はそのまま大学の敷地内を突っ切って、図書館の方へと走った。
 だが結局、図書館に到着する前に、追っ手の姿は見えなくなった。どうやら、振り切ることに成功したらしい。勝手知ったる敷地内を、大分デタラメに走ったからな。途中で俺たちを見失ったんだろう。
「はぁ……大丈夫か、古泉」
 忌々しいことに、古泉の奴はほとんど息も乱していなかった。見かけによらず体力があるらしい。
「さっきのは知り合いか?」
「いえ……知らない人です」
「知らないのに、なんで逃げたんだよ?」
 そう問い詰めると、古泉は首を傾げた。
「さぁ……なんだか、逃げないといけない気がして。どうしてでしょう?」
「俺が知るか……」
 ごまかしているという感じではない。本当に自分の行動が理解できないといった顔だ。どっと疲れてしまった俺は、そこにあったベンチに身を投げ出すようにして腰を下ろした。
あーもう動けん。

「あれ、キョン?」
 名前を呼ばれて顔をあげると、手を振りながらこっちに歩いて来る国木田の姿が見えた。図書館に行くつもりなのか、本を何冊か胸に抱えている。トトト、と近づいてきた国木田は、俺の顔をのぞきこんで首を傾げた。
「どうしたのキョン。なんかぐったりしてない?」
「ああ……ちょっと予定外の全力疾走をしてな。己の体力の限界について考えていたところだ」
「限界は自分で決めるものだって、誰かが言ってたけどね。あ、こっちの人は? 友達?」
 ベンチの側に所在なげに立っている古泉をめざとくみつけ、国木田がにこりと笑いかける。説明が面倒だな。適当に、バイト仲間とかいっとけばいいか……。
 と思った時、古泉の野郎、とんでもない自己紹介をしやがった。
「はじめまして、古泉一樹といいます。彼に拾われて、飼ってもらってるんです」
「バっ……お前何を!」
 ああ、引いてる……。国木田がドン引きしてるのが目に見えてわかるぞ。
「へぇ……そうなんだ?」
「はい」
 まったく悪びれもせず、にこにこと愛想のいい古泉。国木田が笑顔のまま、俺の方に視線を向ける。ああもう、死にてぇ。
「そっか。こないだ君が言ってた、増えた食い扶持って、彼のことなんだね。キョン」
「ま、まぁ、な」
「うん。いいんじゃないかな。失恋を忘れるには、新しい恋をするのが一番っていうしね。ああ、コンパの件は気にしなくていいよ。僕が断っておいてあげるから。じゃ、キョン。またね」
 ぺらぺらとまくしたて、国木田は笑顔を保ったままで立ち去ろうとする。
 いかん、誤解されてる! いや、なんとなく完全に誤解とは言い切れない部分もあるにはあるが、とにかくものすごく誤解されてるっ!
「ちょ、ちょっと待て! 待ってくれ国木田!」
「心配しないでよ、キョン。僕はそういうことに偏見はないし、言いふらしたりもしないからさ」
「だから誤解だ! ちょっと話を聞いてくれよ!」
 俺はあわてて、あの雪の日に古泉を拾った顛末を説明した。一部を意図的にはしょりはしたが、とりあえず一通り説明して、古泉にも間違いないと保証させ、なんとか国木田を納得させることに成功した。ちなみにはしょったのは、お察しの通り真夜中のあれやこれやだ。当然だ。そんなこと話したら、誤解が解けるどころか深めちまう。
「なるほど……うん、とりあえず話はわかった。でもさ、キョン」
 ちょいちょいと手招かれて、俺は古泉から少し離れたところで国木田に顔を寄せた。こそっと内緒話のように、国木田が耳打ちしてくる。
「……それって、家出とかなんじゃないの? 警察に届けなくて大丈夫かい?」
「いや……そうか。普通はそう思うよな」
「まぁ、彼はどうみても成人してるみたいだし、家出っていうより、失踪とか蒸発なのかもしれないけどね」
 振り返って見ると、古泉は背後にそびえる図書館の建物を物珍しげに眺めている。
 やっぱり、箱入りお坊ちゃんの家出の線が濃厚かなぁ。さっき追いかけて来たのは、あいつの親か何かに頼まれて、探してた人なのかもしれん。
「一応、捜索願いが出てないかとか、調べてみた方がいいと思うよ」
「そう……だな……」
 俺はうなずいて、国木田に礼を言った。
「サンキュ、国木田。一応、その方向で考えてみるさ」
「うん、それがいいよ。じゃあ僕、図書館で谷口と待ち合わせてるから行くね。今度また飲もう」
「おう」
 国木田は律儀にも古泉にも声をかけ、再び手を振りながら図書館の方へ去っていった。
その後ろ姿を眺めながら、俺は眉をしかめる。
 捜索願い、か。あり得ない話じゃないが。
俺はそのことを考えつつも、だが……と思った。
実は、真夜中のあれこれのほかに、もうひとつ国木田に言わなかったことがある。
古泉の身体に残っている、虐待の痕としか思えない古傷のことだ。あれがもし、肉親からつけられたものであるならば、古泉を捜す人物たちのもとにこいつを帰すことが、いいこととは限らないんじゃないだろうか。
「どうしたんですか?」
 いつのまにか、古泉が側に立って俺を見下ろしていた。俺は座っていたベンチから立ち上がり、なんでもないと首を振った。
「せっかくだから行ってみようぜ、図書館。すぐそこだし、もしかしたら国木田のツレも紹介できるかもしれん。谷口って言ってな。馬鹿だが面白いやつだぞ」
「あなたの、ご友人ですか? えっと、親友?」
 ずきん、と胸が小さく痛んだ。
「いいや。俺にはもう、親友なんていない」
 あと何年かして、この胸の痛みを過去にすることができたら、もしかしたら親友に戻れることがあるかもしれない。彼女とだっていつか、笑いながら思い出話をする日が来るかもしれない。確かに最後はこんなことになっちまったけれど、彼女と付きあった2年間も、あいつとすごした高校からの5年間も、かけがえのない楽しい日々だったから。彼女はいい子だったし、あいつはいいやつで、俺は確かにあのふたりが好きだったんだから。
――でも今はまだ、無理だ。もうちょっとだけ、時間が欲しい。
 俺は気を取り直して、笑って見せた。
「まぁ、あいつらは親友ってほどじゃないが、つるむことは多いな。ほら、行くぞ」
「はい。あなたのご友人ならきっと、いい方たちなんでしょうね」
 どういう根拠なのかはわからないが、古泉はそう言ってまた微笑む。俺はただ肩をすくめて、古泉を連れて図書館の入り口へ向かった。



 入り口で受付をすませ、古泉の首に入館許可証を提げてやってから、俺はホールの中に入っていった。身長よりも高い重厚な書棚が、樹木のように規則正しく林立する。色も厚さも高さもまちまちな書物が、ずらりと並ぶ光景は、なかなかに壮観だ。紙ととインクの匂いなんだろうか。ほのかに漂う、ちょっと饐えたような本独特の香りも、不思議と心を落ち着かせてくれる。
 入り口を入ったところで、きょろ、とあたりを見回してみる。が、国木田たちの姿は見えなかった。図書館と言っても広いからな。まぁ、会えなくても不思議じゃない。
「ま、そのうちばったりはちあわせるかもしれん。古泉、目当ての論文はあっちの棚だぞ」
「わかりました。えっと……」
「俺は奥のソファの方にいるから、好きに見てこい」
「はい」
 嬉しそうな顔で、古泉はいそいそと奥の方へと歩いて行った。その背中をなんとなく見送って、俺はそのへんの棚から読みやすそうな本を取り、奥の窓際に並べてある独り掛けのソファへと歩み寄り、あいているところに腰掛けた。
 パラパラとページをめくりつつ文字を目で追っているうちに、だんだん眠気が襲ってくる。
昨日はバイトから帰ったあと、疲れたから風呂に入ってさっさと寝ようと思ったのに、古泉の野郎が懲りずにベッドにもぐり込んで来やがったせいで寝不足だ。オマケに、寝かせろ嫌ですの攻防で30分もよけいに時間をくった。結局やられちまったんだから、無駄に抵抗しない方がマシだったかな。……っていやいやいや、流されすぎだろ俺。
 すきです、と、いつも古泉が耳元で囁く言葉が聞こえた気がして、俺は寝ぼけた頭をぶるぶると振った。いかん、眠い。
「……って、マジかそれ。最悪じゃん」
「ホントホント。本人にちゃんと聞いたんだから」
 背後から、聞き覚えのある声が聞こえてきたのはその時だった。……この声は、谷口? 振り返ってみたら、背中合わせに置いてあるソファに谷口のオールバックの横顔が見えた。どうやら隣の席の女としゃべってるみたいだが、話に夢中で俺には気がついてないらしい。よく見たらその女のさらに隣に、話を聞いているのかいないのか、新聞を広げている国木田の姿もあった。
「だってさぁ、先月くらいまですげえ仲良さそうだったぜ? キョンと彼女」
 ……え? 俺?
「あたしだって、キョンくんと別れたのはつい1週間前だって聞いたわよ。でも、今カレとはもう、半年以上つきあってるって。去年のクリスマスに行ったっていう旅行の写メも見せてもらったもん」
「ああ、そういやキョンのやつ、去年のクリスマスは俺たちと一緒に飲んでたな。彼女が家の都合でデートできないから、混ぜろって言って来て」
「うわぁ……嘘ついてクリスマスすっぽかして、その間に浮気とか、サイアク……」
「てか、普通にフタマタじゃねえか、ソレ。しかもあれだろ? その今カレって、キョンと同じ高校でずっとつるんでたっていう」
 なんだ。俺は何を聞いてるんだ。
彼女……彼女って、あいつのことか。この間まで、俺の恋人だったはずの。
フタマタってなんだ。半年以上ってなんだよ。別れ話をされたのは、ほんの1週間前のはずだ。俺たちが恋人同士じゃなくなったのは、ほんの1週間前からのはずなのに。
 その、前から。
「……谷口!」
 国木田の鋭い声がした。え、と振り返った谷口の表情がこわばる。キョン、お前いつからそこに、という谷口の声が、やけに遠く聞こえた。
 俺は持っていた本を取り落とし、ふらりとソファから立ち上がった。なんだ、ここの床はずいぶんと柔らかいな。普通に立っててもぐらぐらしやがる。それにやけに暑い。暑すぎて目がまわる。ちょっと涼んでこないと。
「おい、キョン……!」
 振り返らずにすたすたと出入り口に向かう俺を、誰かが追ってくる。待ってください、と聞こえたが止まる気はない。暑いんだ。暑くて、暑すぎて死にそうだ。

 図書館の建物を出て、どこに向かうでもなくデタラメに歩いていたら、いきなり目の前に誰かが立ちふさがった。知らない顔だ。見覚えのない男数人に囲まれた。っていうか、なんだこいつら。いかにもな格好をしてるわけじゃないが、どことなく剣呑な雰囲気を漂わせてる。なんでこんな連中が、真っ昼間の大学にいるんだ。
「古泉一樹は、どこにいる?」
「あ?」
「お前が連れていた青年だ。今はどこにいる」
「……あんたたち、誰だよ」
「彼の親に頼まれてね。彼を捜していたんだ。……渡してもらおうか」
「へぇ?」
 やっぱり古泉は、家出青年だったのか。
でもなんだろうな? なんとなくこいつら、物騒な感じだ。来るときに会った、古泉を捜してたっぽいあの男と見た目は似ているが、醸し出す雰囲気が違う。仲間って感じじゃないっていうか……こいつらの方が、より信用できなさそうな気がする。
 っていうかさ。世の中の誰も、信用できねぇよ。どいつもこいつも、嘘つきばっかりだ。
嘘つき。うそつき。
「……嘘つきめ」
「――仕方ない。やれ」
 すっと、俺を囲んでいた男たちが距離を詰める。なんだよその、手に持ってるもの。銃みたいに見えるんだが、冗談だよな?
「聞きたいことがあるんだ。ちょっと眠って、来てもらうだけだよ」
 ぱすっ、とやけに軽い音が耳元で聞こえた。首筋が冷たい。
すうっと遠くなっていく意識の向こうで、すごく切羽詰まった声で名前を呼ばれるのが聞こえた。この声は……古泉……? お前、来るなよ。危ないから。
「こいず……くる……な……」
 それきり、俺の意識は闇の中に沈んだ。


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(2010.05.01 up)

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最初に追いかけて来たのはあの人です。