別れの日の空

【お題】別れの日の空

 その部屋のドアを開けると、そこにはいつもの姿があった。
荷物の片付けられたガランとした文芸部室、窓際のパイプ椅子に座って、
分厚い本をめくる小柄な少女。
 なんとなくほっとして、俺は部屋の中に足を踏み入れる。
「長門。まだいたんだな」
 顔をあげてこちらを振り向いて、こくり、と少女はうなずいた。
制服の胸もとには卒業生のしるしである造花が飾られ、すでにパソコンも団長席と書かれた
三角錐も撤去された机に、卒業証書の入った筒が放置されている。
 他には何もない。電気ストーブも、冷蔵庫も、その上に乗っていた湯飲みや
お茶のセットも、戸棚にあふれんばかりに詰め込まれていたボードゲームも。
 今日は、俺たちの卒業式だった。
 めちゃくちゃだったが、それなりに楽しくすごした高校生活の、最後の日。
この部屋は来学期からはおそらく文芸部室に戻るのだろうが、俺たちが
乗っ取っていた3年間、名前だけは存続していた文芸部に結局新入部員が
入ることはなかったから、存続するかどうかは来月入学してくる新入生次第だろう。
まともな部活になることを祈っておくさ。
「何をしてたんだ?」
 ついクセでいつもの席に腰をおろし、長門にそう話しかける。
いつも向かいの席にいた奴の姿は、今はない。
たぶんもう二度と、そいつとその位置で向き合うことはない。
「まだ、この本を読み終わっていない」
 残り1/5あたりを開いていた本を示し、長門はそう答えた。
「ここの備品なのか、それ」
「そう」
 なるほど、文芸部室に置いていかねばならない本を読み切るため、ここに残ってたのか。
「ハルヒはもう帰ったぞ。家族で卒業祝いの外食に行くんだそうだ」
「知っている。彼女も少し前に、この部屋にやってきた」
「そうか……」
 結局ハルヒとは、3年間ずっと同じクラスだったな。例のあの物騒な力は
この3年の間にどんどん弱くなっていって、今はもうほぼ消滅しかかってるらしいから、
それが偶然だったのかあいつの願望だったのかはわからんが。
 力が弱まった理由は、よくわからないんだそうだ。ハルヒの精神状態の
スペシャリストを名乗っていた自称超能力者がそう言ってた。
 まぁ、わからないならわからないでいいんだろう。要は、世界が揺るがされるような事件は
もう、起こらないってことなんだから、それが一番だ。
「――あなたは、どうして来たの」
 ボンヤリと向かいの椅子を眺めていたら、長門がそう尋ねてきた。とっくに読書に
戻ったと思っていたが、振り向くと長門は本を膝に広げたまま、こちらを見ていた。
「俺か? 俺は……最後に、もう1回この部屋を見ておこうと思ってな。
なんだかんだ言っても、ここですごした毎日は楽しかったし」
「…………」
 じっと、長門がまばたきもせずに俺を見ていた。
出会った当初とくらべれば、すいぶんと表情豊かにはなったが、相変わらずすべてを
見透かすように静謐な、凪いだ湖みたいなその瞳で。
 ああ、お前にはもしかしたら、全部お見通しなのかな。
「……まぁ、もちろんそれもあるんだが……ホントいうと、お前がまだいるような
気がして来たんだ。聞いてくれるか、長門」
 長門は、開いていたページにしおりを挟み、ぱたりと本を閉じた。
もちろんそれは、俺の話を聞こうという意志の表れに違いなかった。

「なんてことはないんだ。よくある話さ。……ずっと好きだった奴に、
告白してフラれたんだ。それだけだよ」



 卒業式の日に一大決心で告白する、なんてことは、たしかによくある話だ。
だがまぁ俺の場合、その相手が男だ、ってことが、普通と少し違ってたかもしれない。
「もう卒業だなんて、なんだか信じられんな」
「めまぐるしい日々でしたもんねぇ」
 式が終わり、渡り廊下を二人で歩きながら、俺たちはそんな話をしていた。
相手はもちろん、3年の間、ともに涼宮ハルヒというはた迷惑な存在に振り回され、
事件解決に奔走し、苦労を重ねた運命共同体であり、SOS団という奇矯な団体の副団長にして、
機関≠ニかいううさんくさい組織の一員という肩書きを持つ男。
 そして、いつの頃からか俺が、友人以上の好意を寄せるようになっていた存在――古泉一樹。
「ハルヒとは大学も別だし、これでようやく解放されるな。やれやれだ」
「さぁ、それはどうでしょう」
 にこにこと楽しそうに、古泉は笑う。たしかこいつは、ハルヒと同じ大学に進む
予定だったはずだな。
「涼宮さんのことですからね、何かと企画を考えては、あなたの大学に
押しかけたりするかもしれませんよ?」
「勘弁してくれ」
「いいじゃありませんか。例の力の発露はもうほとんど感じませんし、そうなれば彼女は
ごく普通の、明るく可愛らしい女性ですよ」
 そう言って、古泉はまた笑った。
役目からほぼ解放されたからなのか、その笑顔はどこか清々しくて、年相応に屈託がない。
そうか、やっとこいつも、こんな風に笑えるようになったんだなと嬉しくなって、
……胸の奥がうずくのを感じた。

 やっぱり、好きだなと思う。
その気持ちを認識したのがいつ頃なのかは、正確には憶えてない。
ただ気がついたら俺は、過剰に寄せてくるこいつの好意的な態度を嬉しく感じるように
なっていて、その態度が他のやつに向けられることを腹立たしく思うようになっていて、
ある日、ああそうなのかと納得したのだ。正直、ものすごーーーーーーく悩んだけどな。
 だけどその気持ちを告げることができなかったのは、古泉の寄せる好意的な態度が、
友情に発するものなのかそれ以上の気持ちの表れなのかが判断できなかったからだ。
どうせ俺は、そういうのにはうといさ。
 それで、もしその態度の理由がただの友情であった場合、告っちまったらあとが
気まずすぎるだろ。
 事情のある俺たちは、SOS団をやめることも距離を置くこともできないんだから。
「……どうしました? 黙りこくって」
 考え込んでた俺を、横から古泉がのぞき込んでくる。
めずらしく前をあけたままのブレザーが、ひらひらと早春の風にはためいた。
留められないのは、ボタンが全部なくなっているからだ。式が終わって早々に、
クラスの女子たちに根こそぎむしられたんだと。
 チクチクと気持ちがささくれ立つ。
女の子はいいよな。そうやってストレートに、好きな気持ちをぶつけられてさ。
「何か、心配事でも?」
「いや。……もう、この学校に来ることもないんだろうなと思ってさ」
 そう。きっと、今日がラストチャンスだ。気持ちを伝えて、もしフラれても、
もう顔をあわせて気まずくなることはない。そのまま二度と会わないだけだ。
 反対に何も言わなければ、せいぜい時々思い出して電話するくらいの友達で終わる。
大学が忙しくなれば思い出すことも稀になって、電話したってきっと、
何のご用ですかと聞かれるだけだ。
だから……言うなら、今日しかない。
「お前も……3年間、ご苦労だった、な」
「…………」
 しまった。唐突すぎたか。
「いやまぁ、ハルヒのフォローとか、いろいろ大変だったんじゃないかと」
 すると古泉は、心底から嬉しそうな笑顔になった。なんだその顔。反則だ。
「ありがとうございます。あなたにそう言っていただけると、救われる気がしますよ」
「大げさだな……。俺はずっと感謝してたんだぞ、これでも」
「わかってます。あなたは口は悪いですけど、心根は素直だから……ちゃんと
伝わってましたよ。どんな悪態だろうと、その奥にある真意はね」
 どうだかな。だったら俺の気持ちもちゃんと、察せてたって言うのかね。
「? 何をです?」
 俺はいきなり、その場に立ち止まった。気づいた古泉が少し先で足を止め、何事かと振り返る。
 渡り廊下の真ん中からは、中庭に立つ桜が見える。
八分咲きのそれが風にざわめく音が、聞こえていた。
見渡す限り、俺たちの周囲には誰もいない。
言うならきっと、今をおいてないだろう。俺は自分でも聞こえるほど激しく高鳴る心臓の音を押さえ、
ごくりと唾を飲み込んでから思い切って告げた。

「俺がお前を、好きってことがだ。あまり……そうは見えなかったかもしれないけどな」

 古泉が、口をつぐんだまま、目を見開いて俺を見る。
どっちだろう。正直、確率は半々くらいの賭けだと思うんだが。
 じっと俺を見つめていた古泉は、やがて微笑んだ。嬉しさとも困惑ともつかない、
曖昧な微笑みだった。
「ありがとうございます。僕も、あなたが好きですよ」
 賭けに勝ったか?と、一瞬思った。
 が、古泉はそのまま、少し眉を寄せて首をかしげた。

「……でもたぶん、あなたの好き≠ニ、僕のそれは意味が違うと思います」

 そうか、と俺は答えたと思う。
足下がぐらぐらして、目の前が暗くなる。絶望で目の前が真っ暗に、って本当に
あるんだな、なんてくだらないことを考えているうちに古泉は、じゃあ僕、荷物を取りに
教室に戻りますねと言って、踵を返した。
 その後ろ姿を見つめる俺の耳には、ただ桜のざわめきが聞こえていた。
音につられて見上げた空は、いつのまにか厚い雲に覆われている。
 別れの日の空は、なんとなく閉鎖空間の灰色の空に似ていた。



「まぁ、そういうことだ。よくある話ではあるんだが、やっぱりショックだったからな。
誰かに聞いてもらいたかったんだ」
 じっと耳を傾けていてくれた長門は、俺のつまらん失恋話に何も反応を返さない。
同情するでなく、呆れるでなく、ただ聞いてくれることがありがたくて、俺は笑って見せた。
「ありがとな、長門。お前がここにいてくれて、よかったよ」
 本当にな。こんな話、お前以外の誰にもできない。
ふう、とひとつ溜息をついて、俺は椅子の背もたれに背を預ける。長門のおかげで
吐き出すことができたし、あとは胸の奥の傷を癒すだけだ。
 おそらく時間がかかるだろうがな。なんせ3年分だ。
「……ひとつ聞きたい」
 ポツリと、長門が言った。俺はそちらに顔を向け、めずらしいなと思う。
 長門は立ち上がり、読みかけの本を椅子に置いてから、俺の方に向き直った。
「ん? なんだ」
 長門は相変わらずの無表情で、淡々と言葉を紡ぐ。
「確認事項。あなたがそのときに言った好き≠ニいう言葉は、古泉一樹に対して、
恋愛感情を持っている、という意味?」
 そう正面切って確認されると恥ずかしいな。だがまぁ、それで間違ってないし、
長門には嘘やごまかしは言いたくない。
「ああ。そうだな、それが正しい認識だ。俺は古泉のことが、恋愛感情でもって、
好き≠ネんだ」
「そう」
 長門がうなずくのとほぼ同時に、それは起こった。
部室の隅にある掃除用具入れ、朝比奈さんを押し込めたこともあるその箱が、
ドンガラガシャンとものすごい音をたてたのだ。まさかまた、朝比奈さんが
タイムトリップでもしてきたってのか!?
 俺が思わず椅子から腰を浮かせると、驚いてもいない長門がスタスタと歩いて、
無造作に掃除用具入れを開けた。
 とたんに中から、見慣れた制服姿の人間が転がり出てきた。

「……こっ、古泉! お前なんでこんなとこに」
 床に転げたときに鼻でも打ったのか、古泉は手で顔を覆って痛そうにしていた。
が、その顔はあきらかに真っ赤だ。
「いえ……長門さんと話していましたら、突然、彼女にすごい力で掃除用具入れに
押し込められまして……。扉を閉じられたら、なぜか今の今までビクとも開かなかったんです」
 な、長門……お前一体、何を……。
「古泉一樹は、あなたが来る14分23秒前にこの部屋を訪れた。わたしに、
話を聞いて欲しいと語った内容に事実と異なる点が多々見られたので、
当事者の話を聞くべきと判断した」
 長門はそれだけ一息に言うと、もう説明は終わったとばかりに自分の席に戻った。
そして再び本を開いて視線を落とし、もう我関せずの姿勢だ。
「事実とって……古泉、お前、長門に何を話したんだ?」
「いえあの……」
 顔を赤くしたまま、古泉は床に正座して下を向いている。待っていると、
ようやく聞き取れるくらいの声でぼそぼそとつぶやきはじめた。
「……あなたに、好きだと言われたことを……」
「それと?」
「僕も、好きですと答えました、と」
 それだけなら、事実と異なったりしない。本当のことだ。
わけがわからず首をひねっていたら、古泉は突然、ものすごい勢いで顔を上げた。
「でも、あなたの好きと僕の好きは意味が違うんだと説明したんです! 彼の好きは
友人としての好きで、それはとても嬉しい気持ちだけれど、僕の好きは劣情をともなう
もっとどろどろしたものなので、言葉は一緒だけどまったく違うんですよって!」
「れ、劣情っておま」
「そうしたら長門さんが、それは事実と異なる、って言って掃除用具入れに……。
なぜか扉が開かなくて四苦八苦していたら、あなたが部屋に入ってきてそれで」
 俺の話を聞いた、と。
 とういかお前、それって……。
「アホか……! それじゃお前、俺の一世一代の告白を……」
「はい! 申し訳ありません、勘違いしてましたっ!」
 いきなり立ち上がった古泉に、そのままの勢いで抱きしめられる。
耳元でささやく声はいっぱいいっぱいで、なんだか泣き出しそうにすら聞こえる。
「ずっと、あなたが好きでした……もちろん、恋愛感情で、です」
「……っか野郎」
 やっぱ意味、違わねえじゃんか、とつぶやいて、俺はその胸に顔を埋めた。
馬鹿だな、ホントに。お互いに相手の好き≠ヘ友情で、自分の恋愛感情とは
違うんだと思ってたなんて。
 あやうく、すれ違っちまうとこだったじゃねえか。

 暖かな腕に抱きしめられたまま、窓から見る見慣れた空。
俺たちの青春の1ページ、気づかずに想いあっていたもどかしい高校時代との別れの日の空は、
閉鎖空間を思わせる色の雲が切れ、うっすらと光が射していた。
「長門」
 黙々と本を読み続ける少女に、声をかける。
長門はふっと顔をあげて、何、と無表情に問い返してきた。
 お前、そんなすました顔で、実はいろいろ察してたんだな。俺の本心とか、古泉の気持ちとか。
まったく、いつの間にそんなに成長したんだ。
 言いたいことは結構あったが、俺はただ少しだけ笑って言う。
「ありがとな、長門」
「いい」
 そう答えて、再び本へと視線を戻すその顔が、ほんの少しほころんで見えたのは、
たぶん気のせいじゃないよな?


                                                 END
(2011.04.03 up)
長門さんマジ天使。