冷たい雨

【お題】冷たい雨

 雨が、降っている。
しとしととかぱらぱらとか、そんな可愛いものじゃない。
擬音を付けるなら、ザァァァァァだろうか。
 そんな雨の中で、素焼きブロックの床に直に座った僕は、傘もささないまま
雨粒の降りてくる灰色の空を眺めていた。

 全身を雨が濡らす。上向けたままの顔も、いつもはセットを怠らない髪も、
クリーニングしたての制服も、容赦なく降りかかる雨ですでに濡れそぼっている。
季節はとうに冬だから、全身を濡らす雨は冷たい。
手指も足もとうの昔に冷え切り、感覚はすでになくなっている。
 それでも僕は、立ち上がることもできず、ただ冷たい雨に打たれていた。

「……古泉一樹」
 背後から、幾度めかの呼びかけ。
それは、このルーフバルコニーのある部屋の持ち主であり、雨の中を
ふらふらと歩いていた僕を招いてくれた本人でもあった。
「まだ、そこにいるの」
「すみません長門さん。……放っておいてくれませんか」
「…………」
 部屋に入るなりバルコニーに出て、理由も言わずに雨ざらしになることを
選んだ変人に、何も聞かずにいてくれるのは長門さんならではだ。
それでも30分に1度くらい、様子を見に来てくれる心遣いは嬉しいけれど、
今の僕にとってはありがた迷惑だった。
「そのままそこに居続けると、あなたは83.7%の確率で風邪をひく」
「いいんです。いっそ風邪をひいて、そのまま治らなければいい」
 あるいはこのまま雨に打たれ続けていれば、溶けて流れるか、凍り付いて粉々に
砕け散ったりできないものだろうか。
 髪を伝った雨水が頬の脇を伝って、顎から抱えた膝へとしたたり落ちる。
はぁ、と吐く息は白くて、僕はまだ身の内に体温があることに苛立った。
早く、すべての熱を奪い去ってくれればいいのに。

「何が、あったの」
 様子を見に来ること3回目で、長門さんはようやくそう口にした。
だけどあいにく僕は、その質問に答える気がない。
すると長門さんは、もう一度口を開いた。
「彼、と何があったの」
「…………!」
 何故、彼のことがここに出てくるんだ。まさか、知っているのか。
TEFI端末の彼女には、すべてお見通しということか。
「知ることは可能。だけど今のわたしは、能力を制限している。だから、知らない。
でも、推測することはできる」
「……すみません。たとえ長門さんにでも、お話することはできません」
「そう……」
 背後の気配は消えた。僕の周囲はまた、激しく降りしきる雨の結界に閉ざされる。
なぜ、長門さんがあんなことを言い出したのかはわからない。
でも、その言葉は当たっていた。

 彼に、取り返しのつかないことをした。
 今日、僕と彼以外の団員が帰宅したあとの部室で、涼宮さんのことで口論になった。
彼女の好意と自分が彼女に与える影響について、かたくなに認めようとしない彼に
らしくもなく頭に血が上った。
 俺が誰を好きになろうと、お前には関係ないだろ! そんな彼の一言が、僕の中の
何かを壊した。知られてはいけないと押さえ込み、戒めていた感情が、壊れた枷から
解き放たれ、暴力となって噴出する。
 そして気がついた時には僕は彼を床に押し倒し、怒りの中に怯えを滲ませる彼の顔を、
上から見下ろしていたのだった。
 なんの真似だ。そう言う彼に、なんでしょうねと言い返して、ほどいたネクタイで
彼の両手を縛り上げる。恐怖に顔をこわばらせる彼の顎をつかみ、強引に唇を奪った。
ずっとずっと胸の内に封じ込め、押さえつけていた想いが、暴走をはじめた瞬間だった。
 精一杯の抵抗をする身体を無理に開かせて、傷つくのもかまわずに彼を蹂躙した。
なんでこんなことをと悲鳴混じりに聞く彼に、あなたが好きだからに決まってますと
ヤケクソのように答えて、勢いのまま一方的に想いを遂げた。
 嵐のような時間が過ぎたあと、半ば意識をなくしてぐったりとする彼の手の縛めをほどき、
さよなら、とだけ伝えて部室をあとにしてきた。
 そしていつの間にか降り出していた雨の中を傘もささずに歩いていたら、長門さんと
遭遇し、この部屋に連れてこられたのだ。

 何もかも終わったと思う。
彼との関係も、北高での任務も、きっと機関のエージェントとしての身分さえ。
僕の中で育ちすぎていたやっかいな想いも、きっとこれで決着がつく。彼に憎まれると
いう最悪な結末は、ある意味で最も僕にふさわしいエピローグだったろう。
 もう、どうでもいいや。
そうつぶやいたとき、絶え間なく降りかかっていた雨が、ふいに遮られた。頭上に、
傘が差し掛けられている。見かねた長門さんが、ついに強硬手段に出たのだろうか。
「長門さん、放っておいてくださいって……」

「馬鹿かお前は」

 背後から聞こえたその声に、硬直する。
あきれたように聞こえる低い声は、僕がこの世で一番好きで、そして今、この世で一番
聞きたくない声だった。
「どう……して……」
 振り返ることも出来ず、僕は膝を抱えた姿勢のままで声を絞りだす。
「探したんだ。でもお前、校内にはいなかったし、お前の家なんか知らないからな。
どうしたもんかと思ってたら、長門と一緒に歩いてるのを見たってやつがいたから」
 来てみたんだ、と彼は言った。
「インターフォンで古泉が来てるか聞いたら、長門は黙って入り口を開けてくれた。
だから上がって来たんだが、リビングにもキッチンにも姿が見えないときてる。
どこにいるのかと思えば、何をやってるんだ、こんな雨の中で。風邪ひくぞ」
「……風邪でもひいてそのまま死ねたら、あなたの前から姿を消せるかと思いまして」
 一瞬、彼は黙り込んだ。頭上から、傘にあたる雨の音と一緒に沈黙が降ってくる。
「いくら雨に打たれても、どうやら溶けて流れることはできないようですし、あとは
病気になって死ぬ以外にどんな方法があるでしょうね。ああ、なんでしたら、あなたから
機関の方に連絡してくださっても結構ですよ。何、本当のことを言う必要はありません。
理不尽に暴力をふるわれた、とでも言っていただければ明日には僕に処分が下るでしょう」
 彼の沈黙が恐くて、つい饒舌になる。それでも、相変わらず彼の顔は見られない。
 長い沈黙のあと、やがて雨の音に混じって、彼の溜息が聞こえた。
「古泉」
「はい……」
 心臓が痛い。思わず耳をふさぎたくなるのをぐっとこらえ、僕は裁きの声を聞く。
「俺は怒ってる」
「ええ、そうでしょうね」
「なんでか、わかってるか」
「そりゃあ……あんなことをされれば、普通は怒ります」
「順番が違うからだ」
「はい、それは……えっ?」
 妙な答えを聞いて思わず振り返ろうとした僕の頭に、タオルらしきものがかぶせられた。
彼の片手がタオルごと頭をつかみ、がしゃがしゃと乱暴に髪を拭かれる。
「違うだろ? 逆でもいいがお前が告白するならして、俺がOKして、デートとか
色々としたりして、ああいうことはそれからだろうが。手ぇ抜くんじゃねえよ」
 ほら部屋に入るぞ、と腕をつかまれ、タオルをかぶったまま引っ張られる。
引かれるままに立ち上がり、部屋の中に連れこまれ、おーい長門、風呂沸いてるか、
問題ない、とかいうやり取りを聞いて、あれよあれよという間にバスルームに放り込まれた。

 なんだか、とんでもない言葉を聞いた気がする。
これは現実なのか。もしかして僕は雨を浴びすぎて倒れ、熱でも出して都合のいい夢でも
見ているのじゃないか。ほら、その証拠に、足下はふわふわとしてまるで現実感がない。
 そのまま呆然と脱衣所に佇んでいたら、入り口から彼が顔をのぞかせ、笑いかけてきた。
眉を下げて、しょうがない奴だと言いたげな顔で。

「しっかりあったまれよ、古泉。風呂から出たら仕切り直しだ。ちゃんと、告白から
やりなおしてもらうからな」

 言葉の意味を理解した途端あがった熱は、はたして羞恥ゆえなのか、それとも
やはり風邪をひいたせいなのか、僕には判断がつかなかった。



                                                 END
(2010.07.17 up)
OKが前提だったようです。