ココロ・ハイポトニック

【お題】ココロ・ハイポトニック

  ふと目が覚めると、薄闇の中だった。
 まだ寝惚けた頭で、視界にある白くて丸いものが、天井に取り付けられた電灯である
ことをぼんやりと認識する。同時に、ここが俺の部屋じゃないってことも思い出した。
 部屋の中はまだ暗い。どうやら朝には遠い時間に起きてしまったらしいと
考える俺の耳に聞こえるのは、時計の針がカチカチと時を刻む音と、遠くから響く
車のエンジン音。それと――自分以外の人間の寝息。
 別にオカルトやホラーじゃない。ただ単に、寝息が聞こえるくらい近くで……つまり
同じベッドの中で、眠ってる奴がいるってだけの話だ。
 ごろり、と寝返りをうって、寝息の主の方を向く。やたら長い睫毛を伏せ、やたら通った
鼻筋の下の、やたら形いい唇から寝息をもらしているのは、残念ながら
これらの形容詞から想像されるような可愛らしい女の子ではない。下手すると
そこいらの女子よりよっぽど整った容貌の持ち主ではあるが、布団からのぞく
剥き出しの肩より下を確認するまでもなく、俺の現在の同衾相手は男だ。正真正銘のな。

 安らかな寝息をたてるそいつを起こさないよう、そっと身体を起こして、ベッド
サイドに置きっぱなしのペットボトルに手を伸ばす。キャップをあけて、半分ほど
残っていたスポーツドリンクを喉に流し込んだ。すっかりぬるくなったそれは
お世辞にも美味いとは言えない代物だったが、カラカラに渇いた喉には潤いを
もたらしてくれた。
 布団のぬくもりから抜け出た身体に、夜気が忍び寄る。震えるほどではないが、
少し肌寒い。それは今の俺が、寝間着どころか下着の一枚も身につけていない状態で
あるからであって、つまり俺と隣にいるこいつは、お互いそんな姿で同じベッドで
眠るような仲であるという事実を証明していることになる。
 まぁ、その点についてはいまさら言い訳も弁解もしない。俺とこいつ……古泉一樹は、
半年ほど前からこんな関係となった。紆余曲折の末、双方が望んだ上での
結果なんだから、どうとでも言ってくれていい。少なくとも俺は、俺自身は今、
……すごく、幸せだから。
 どこか遠くで、タイヤの鳴る音が聞こえた。ちらりと目を向けた時計は、
まだ深夜といって差し支えない時間を指している。薄闇とわずかな物音と、
かすかに聞こえる寝息だけが、この空間を満たしていた。

 二人きりなんだな、と唐突に思った。
 今この瞬間、俺の認識するこの世界にいるのは、俺と古泉だけだ。
 夜が明ければ俺たちは、この小さな部屋とそれほど多くもない家具たちが構成する世界を出て、
学校とか家とかバイト≠ニかに赴き、いろんな人たちと関わっていくことになる。
どの人たちも大切で、かけがえのない存在だ。それはわかってる。
 だけど俺たちの関係は、その人たちの大部分には内緒で秘密でばれたら大変なことになる
禁則事項で、どれだけ大変なことかっていうと文字通り世界の存続がかかってる(と、信じてる
連中がいっぱいいる)くらいのことだから、その人たちの前では俺たちはあくまでも
仲のいい友達≠セ。俺自身はなんとかなるんじゃねえかと楽観しているんだが、いかんせん
心配性な上にペシミストであるこいつにとっては、俺とこんな関係にあること自体が大変な罪であり
裏切りだと思っているらしいから、誰かに悟られるようなことは絶対に避けなきゃならない。
 だから、今だけだ。
 二人きりのこの小さな部屋の中でだけ、俺たちは赦される。

 ペットボトルを持っていない方の手を眠ってるやつの方にそっと伸ばして、
額にかかる髪に触れてみる。
 俺とは違う、色素薄めで長毛種の猫みたいに柔らかくてサラサラな、ちょっと長めの髪。
真っ最中に、鼻の頭とか首筋とかにあたるとえらくこそばゆくて、何度か笑い出しちまって
萎えさせたこともある。だけど、そんなときこいつは機関≠フ古泉一樹が絶対見せないような
拗ねた顔をするもんで、俺はそれが嬉しかった。
 じっと見つめていても、古泉が目を覚ます気配はない。髪に触っていた手を動かし、
今度は少しだけ開いてる唇の前にかざして、寝息に触れた。
 胸の奥で、なんだかよくわからないものがざわめく。
 半年前にはまったく思いも寄らなかったな。自分の中に、こんな気持ちがあるなんて。
 たぶんこいつは俺の知らないところで、俺には想像もつかないような苦労やら
重荷やら、いろんなことを背負い込んでる。もし古泉が望むならいくらでも手を貸して
やりたいけれど、たぶんお前はそんなこと、絶対に言わないんだろう。
 だけどこんな夜、他の誰にも見せないだろう無防備な寝顔をさらして、安心しきった顔で
寝息をたててるこいつを見ていると、締めつけられるような胸の痛みを感じるんだ。
 物理的な痛みとは違う。
 不快なものってわけでもない。
 どちからというと甘やかな、手放したくない痛み。
 名前をつけるならば、それはたぶん、愛しさ、ってやつなんだろう。
「う……」
 急に、鼻の奥が痛んだ。じわりと目蓋が熱くなって、何かがこみあげてくる。
たちまち両目にあふれ出した液体を手でぬぐって、控えめに鼻をすすり上げながら、
なんだか馬鹿みたいだと思う。
 なにやってんだ俺。こんな夜中にいきなり一人で泣き出して。アホか。
 そうは思ったけれど止まらなくて、だけど声を出したら起こしてしまいそうだから
我慢して、ただ唇の動きだけで名前を呼んだ。

「……さん?」

 まるでその呼びかけが聞こえたかのように、閉じていた目蓋がうっすらと開いた。
俺の名を呼びながら、ぱちぱちと瞬きをくり返しつつこちらを見る瞳が、俺を
捕らえた……と思った瞬間に、古泉は跳ね起きた。
「ど、どうしたんですか! 身体の具合でも……どこか痛い?」
 両手で肩をつかんでのぞき込んで来るのに、首を振ってみせる。違う、と返した声は
やっぱり涙声だった。
「な、んでも、ない。心配すんな」
「でも……」
 深呼吸して少し落ち着いて、安心させるように笑って見せた。
「驚かせて悪かった。……お前の寝顔見てたら、なんか泣けてきただけだ」
「寝顔、ですか?」
「なんでだろうな。お前がここで、俺の隣で、ぐっすり眠ってくれてるんだなと思ったら」
 それを聞くと古泉は俺の肩から手を離し、そうですか、とつぶやいた。なんだよ。
なんでそんな、納得したような顔してんだ。
「いえ……僕自身にも、覚えがありますので」
 覚えって、なんの。
 たぶん俺は、要領を得ない顔をしてたんだろう。古泉はちょっと困ったように、
でもえらく幸せそうに笑って、俺の手をとり指先に唇を寄せた。
「……知っていますか。愛しい、という字には、かなしいという読み方も
あるんですよ。切ないくらい大切に思う気持ち、を意味したものだそうです。
……なんとなく、身に染みませんか?」
 ちゅ、と指先に音をたててキスをする。いきなりものすごく恥ずかしくなって、
俺は無理やりその手をふりほどいた。
「あ、アホか! お前と一緒にすんな! 俺はそんな……」
「そんな?」
 全部お見通しですよと言わんばかりの顔で、古泉はにこにこと笑いながら聞き返してくる。
ああもう、こいつ恥ずかしい、と背けた視線の先に、さっき俺が飲み干したスポーツドリンクの
ペットボトルが転がっていた。
「俺は、お前ほど高濃度じゃないんだっ! もともと、そこまで恋愛体質じゃないっていうか……
えーと、あれだ。ハイポトニック?」
「は? ハイポトニック、ですか?」
 さすがに面食らった顔で、古泉が目をしばたたく。俺の視線の先を追って、
ああ、と得心いったような声をもらした。
「ハイポトニック飲料ですか。体液よりも浸透圧の低い、つまり溶液濃度の低い液体、
でしたっけ?」
 ああ、確かそんな感じだったはずだ。まぁ、バリバリ文系の俺は物理だか物理化学だかなんて
範囲外だからな。テレビのなにかの番組で聞きかじった、怪しげな上におぼろげな知識しかない。
おかしなことを言ってるんだろうって自覚はあるさ。
「そうだよ。お前があんまり濃すぎるから、接触すると水分が吸い出されるんだ。だから
涙が出るんだよ、きっと」
 我ながら馬鹿馬鹿しい、さらに言えばいい加減すぎて苦しい理屈だと思う。
さすがに呆れてんのかなと思った古泉は、拾い上げたペットボトルをしばらく眺め、
やがてふふっ、と楽しそうな笑い声をあげた。ちくしょう、笑うな。どうせ俺の知識は、
中学生レベルで止まってるよ。
「確かに愛情の濃度なら、あなたに負ける気はしませんね」
 空のペットボトルをベッドの足下の床に置いてから、古泉は手を伸ばして俺の肩を抱く。
そのまま両手で抱きしめられて、裸の胸が密着した。やがて胸だけじゃなく、まるで全身
からめとられるみたいな勢いで、あますところなく素肌が張り付いて熱を伝えてきた。
「なんだよ。苦しいだろ」
「いえ……」
 後頭部の髪の中に、指が潜り込んでくる。耳にかじりつかんばかりに唇をよせて
ささやいてきやがるから、なんか背筋から腰のあたりがぞくぞくする。
「密着することで、あなたといろいろ混ざりあえるのかな、と思ったら嬉しくて……」
「お前な」
 仕方なく背中に腕をまわしてやりながら、俺は溜息をつく。それでいくと俺は、
お前に水分全部吸いつくされることになるんだが。
「それはこまりますねぇ……まだ若いのに、ひからびられてしまっては」
 そんな馬鹿なことを真面目な声で言って、古泉はう〜んとしばし考え込むフリをする。
そして、さもいいことを思いついたというように、そうだとつぶやいて小さく笑った。

「僕があなたに、もっともっと愛情を注いでさしあげればいいんですよね。そうやって
あなたが僕のことをもっと好きになって、あなたの愛情濃度が高くなって、僕と同じ
濃さになれば、涙だって止まります」

 んん? と、俺が首をひねっているうちに古泉は俺の顎に指をかけて、軽く唇をついばんだ。
数回くり返すうちに指は耳の後ろから再び後頭部に移動し、キスはだんだん深くなって、
舌が水音をたててからみあう。そうなるともう、なんだか考えるのもめんどくさくなってきた。
 そんな俺の思考を読んだかのように、古泉は唇を離してから、また笑う。
「投げましたね、考えるの」
「うるせえな。理系は苦手なんだよ」
「教えて差し上げましょうか?」
 余計なお世話だ、とつぶやいて、俺はもう一度、今度は自分から古泉の唇に吸いついた。

 まぁ、アレだ。
 とりあえず、吸い取られたらその分取り返せばいいんだろ。
 いろいろとな。



                                                 END
(2011.08.07 up)
すみません。
浸透圧について一生懸命調べたんですが、いまいち理解できませんでした。
なので、たぶん間違ってます。
わかってるので、放置してやってくださいorz