シグナル

【お題】脱ぎたての服



 時々、彼のシャツがリビングのソファに置き去りにされていることがあると
気づいたのはいつ頃だったろう。
 普段の彼は、僕とシェアするマンションの共有部分となるリビングに、
脱いだ服などの私物を放置することはほとんどない。が、意外と几帳面なのかと
思えばそうでもなく、時折お邪魔する彼の私室の床には、脱いだ順番通りに服が
放り出されていたりすることもめずらしくはなかったりする。
 不思議に思って聞いてみたことがあるが、どうも彼の実家には、リビングには
服などを脱ぎ散らかさない、私物を放置しておかないというルールがあり、
それが習慣となっているためらしかった。
「俺がやると、妹が真似するからな」というのは、まことに彼らしい理由といえる。

 だがそれなら、彼がバスルームに行ったあとに、時々、忘れ去られたように
置いていかれる、この脱ぎたてのシャツはなんだろう。
 僕はバスルームから漏れ聞こえるシャワーの水音を聞きながら、ソファの背もたれに
置き去りの白いシャツを眺めつつ考え込んだ。

 ……いや。実のところ、まったく心当たりがないといえば嘘になる。
ただこの心当たり≠ヘ、ものすごく僕に都合のいい想像というか、彼に限って言えば
もはや妄想に近いものではないかという思いが強くて、確認をためらわせるのだ。
 ソファの側で手を顎に当てて思案していると、背後から彼の声が聞こえた。
「古泉。なにしてんだ、部屋の真ん中に突っ立って。風呂あいたぞ」
「え? あ、はい」
「さっさと浴びてこい。メシ、もう出来るからな」
 すでにくつろぐ体勢のスウェット姿で、彼は濡れた髪をタオルで拭きつつそう言った。
僕が何を見ていたかに気がつきながら、やはりそれを片付けようとはしない。
その上、ちらりと僕とそれとを見比べて、ことさら作ったような無表情でキッチンの方へと
移動していった。
 しかしまぁ、これで、わざとであるということは確定したようだ。

 シャワーを浴びてリビングに戻ると、夕飯の準備が整っていた。
二人で暮らすようになってから、彼の料理の腕はめきめきと上がっている。普段は
彼曰く簡単な(とは言っても僕にはどうやって作るのか想像もつかない)料理を出してくれるが、
今日は土曜日ということもあって、ちょっと腕をふるってみたらしい。
「ま、奥様向けの雑誌に載ってた、ラクラクなんとかレシピってヤツだけどな」
 そんなことを言いつつ、彼は冷蔵庫を開けて僕の方を振り返る。
「お前、明日は」
「いえ、特に予定はありません」
「そか」
 僕の返答にうなずいて、彼は冷蔵庫から缶ビールを取り出した。

 大学への入学と同時に彼とのルームシェアが始まって半年、週末にはそんなやりとりを
することも増えてきた。そして、彼との同居が同棲へと名称が変わることになってからも
すでに数ヶ月がたっているのだが……僕は未だに、その事実が信じきれないでいる。
 だって、あの彼と。
高校時代、恋をしたときにはすでに、失恋が決定していたはずの彼と。
一体どんな奇跡が起こって、こんな関係になれたというのだろう。
 僕はもうこの先一生、ギャンブルには一切手を出さないし、宝くじだって買わないと
決めている。僕の一生分の幸運は、彼という恋人を得たことで、すでに使い切っているはずだから。
おそらくおみくじさえ、凶と大凶以外は出ないんじゃないかと思う。

「相変わらず、アホだなお前は」
 食事もその後片付けもすみ、テレビを見ながらそんな話をしたら、彼がビールを片手に
あきれた顔をした。テレビ画面にはカジノを舞台としたハリウッド映画が放送されており、
その流れで出てきた話題だった。
「どんだけ少ないんだよ、お前の幸運含有量は。俺程度で使い切るとか」
 ああいうゴージャス美女ならわかるが、と言いつつ彼は、テレビの中で微笑んでいる
ブロンドの女優を顎で示した。
「あなたって人は……相変わらず鈍いですねぇ」
 まったく。自分自身のことには、本当に鈍感な人だ。
彼を手に入れることが、実際、どれほどの競争率だったのか、まったくわかってない。
さすが、端から見ていてあれほどあからさまだった美少女三人からの好意を、
見事にスルーし続けただけのことはある。あれに気がつかないんだから、僕が隠しに隠していた
気持ちなんて、察せたはずがないとあらためて思った。
 そう考えると、やっぱり今現在の状況は奇跡以外の何ものでもないという思いがひしひしと胸にせまる。
うん、やっぱりギャンブルをやるのも宝くじを買うのもよそう。
「鈍い……ねぇ」
 僕が決意を新たにしていると、飲み干したビールの空き缶をぐしゃりと潰しながら、
彼がつぶやいた。なにやら含むものがありそうな口調だった。
「なんですか?」
「人のことは言えんだろ、お前も」
「は?」
 首をかしげて彼の方を見る。だが彼の視線は、テレビの方に向いたままだった。
つられてその視線を追ったら、いつのまにか映画は終わり、テーマ曲とともにテロップが
流れ始めている。余計なことを考えていたせいで、内容はあまり頭に入らなかった。
「まぁまぁ面白かったな」
 ふわ、とあくびしながら彼が言った。まだ時間は早いが、夕食のときからだらだらと
飲み続けていたせいでかなり酔いがまわったらしい。
「もう眠いですか」
「んー……眠いが、せっかく明日は休みなんだし」
「眠かったら無理しないで寝てくださいね。あなた、お酒弱いんですか……ら……?」
 壁にかかった時計をちらりと確認して視線を戻したら、彼がじっと僕を見ていた。
酔っているせいで少し潤んだ目で見つめられ、いきなり心拍数があがる。
「ど、どうしました? ご気分でも?」
 思わずうろたえ気味にそんなことを言うと、彼は視線をはずして、はぁと溜息をついた。
「なんでもねえよ……まったく。やれやれ、だ」
「あの」
「寝るわ。おやすみ」
 彼はそれだけ言って立ち上がり、ひらりと手を振って寝室の方へと歩いていった。
途中、なぜかソファの背もたれにいまだに放りっぱなしのシャツへ、ちらりと視線を
くれていく。が、やはり回収するつもりはなさそうだ。
 ぱたん、と閉じた彼の部屋のドアを、しばし呆然と見つめてしまう。無意識にそちらへ
足を進めた僕は、彼が残していったシャツを手にとった。
 彼の、何か言いたげな言動に引っかかるものを感じつつ、僕の意識はそのシャツへと
流れていく。その引っかかりとこのシャツには、つながりがある気がしてならない。
 彼がここから動かす気のないらしいこれを、僕はどうするべきだろう。
洗濯機の置いてある洗面所へと持って行き、洗濯カゴに入れておくべきだろうか。だが、
もしかしたらこれはクリーニングに出すつもりのものかもしれない。
彼に教わり、洗濯機くらいは使えるようになったので洗濯の担当は僕だが、いまだに
洗濯機で洗っていいものとクリーニングに出すべきものの区別はつかない。
 だったらやはりこれは、彼の部屋に持って行ってどうするか聞くべきなのでは……。

 と、そこまで考えたとき、あれ? と思った。
基本、僕らは互いの私室には立ち入らない。入るのは何か用事があるときと、
あとは―――ベッドを、眠る以外の目的に、共同で使用するときだけ、だ。

 そういえば、彼がシャツをリビングに放置するのは、夕食の前に風呂なり
シャワーなりをすませるときのみ。それはたいてい今日のように、翌日に何も
予定のない日だった気がする。
 ……もしかして、という思いがわき上がる。
例の、もの凄く僕に都合がよくて、もはや妄想に近いと思っていた心当たり≠セ。

 確かめるために、僕はシャツを持って彼の部屋を訪ねた。
ノックをすると、どうぞという彼の声が返ってくる。そっと踏み入れた彼の部屋は
灯りもつけずに暗いままで、彼は自分のベッドに腰掛け、組んだ足に頬杖をついた姿勢で
僕を見ていた。その顔には、まるで悪戯が成功した子供みたいな表情が浮かんでいる。
 ドキ、と高鳴った鼓動を押さえ、なるべく真面目な表情で、僕は手にしたシャツを
差し出した。

「――正解ですか?」
 唐突な僕の言葉に、彼の顔が笑み崩れる。
「やっと気がついたか」

 ああ、やっぱりそうなのか。
確信を得ると同時に、僕の胸に幸せの花がぽかりと花開いた。
思わず口元がゆるんでしまう。
「遠回し過ぎですよ。はっきりおっしゃってくれていいのに」
「言えないからやってんだ。察しろ」
「ずるい人ですねぇ」
「なんとでも言え」
 僕はベッドに座ったままの彼に近づいて、かがんで唇を近づけた。彼は目を閉じ、
僕のキスを受け入れる。めずらしくもまったく抵抗しない彼の身体をベッドに
押し倒して、星明かりだけが照らす彼の顔を間近で見つめた。

 つまり、リビングに放置された脱ぎたてのシャツは、恥ずかしがり屋の彼が
発するシグナルなのだ。口には出せない、お誘い≠示すための。
まさかと思っていたけれど、本当にそうだったなんて、幸せすぎて逆に怖い。
これはもう、宝くじどころの騒ぎじゃないな。
「……きっと僕はこの先、アイスの当たりすら引くことはできないんじゃないかと思いますよ。
福引きも全部ティッシュですよね、たぶん」
 まぁ、それがあなたを得た代償だというんなら、全然まったくちっともかまわないんですけどねと
つぶやいたら、彼は僕の腕の中で、何言ってんだ馬鹿、と、あきれたような笑い声をたてた。



                                                END
ストレートに、しようというのも男前で好きですが、
お誘いのサインってなんかエロくていいんじゃないかと。