右手の懸念

【お題】貼ってもらった絆創膏



「入るぞ。……ケガをしたと聞いたが、だいじょうぶか。古泉」
「森さん」

 久々に出現した、大規模な閉鎖空間。
現場で指揮をとっていた森園生の耳に、古泉が負傷したという報告が入ったのは、
青い巨人をなんとかすべて消滅させ、通常空間に復帰してからだ。
 医療班の特別仕様トレーラーの中をのぞき込むと、北高の制服姿の少年は
ベッドに腰掛けたまま微笑んでみせた。
頭に包帯を巻き、頬や顎にガーゼを張っているが、元気そうだった。

「たいしたことはありません。崩れてきた瓦礫を避けそこなっただけですから」
「そうか。集中力が足りない証拠だな。以後、注意しろ」
「はい。了解しました」

 本当は、たいしたケガでなくてよかった、気をつけなさいねと優しい言葉を
かけてあげたかった。中学生のときに機関に入ってきた彼の面倒を、以来3年ほど
見てきた彼女にとって、少年はまるで弟のような存在であったから。
 だが部隊の指揮官としての彼女に、甘い対応は許されない。
 特に、古泉一樹は世界でも10名ほどしか存在しない希少な能力者であり、加えて
涼宮ハルヒの至近にいることを認められ、彼女に直接干渉することの可能な、
いわば機関の切り札でもある。
 万が一にも、その命や身体や精神を、損なうことがあってはならない存在なのだ。

 だが、と森は思う。
体力と精神力を削って戦ったあとのこんなひととき。ほんの少しだけ、
普通の友人……というか、姉弟のようなふれあいがあってもいいではないか。
 森は古泉が顔に張っているガーゼに手を伸ばして、触れてみた。

「まったく、顔に傷なんてつけたら、せっかくのイケメンが台無しよ。
外見を整えることもあなたの主要業務なんだから、気をつけなさい」
「はい……申し訳ありません」
 あら、こんなところにも細かい傷が、と言いながら鼻に触ってくる森の手に
なんとなく身をすくませ、古泉は苦笑した。
「だいじょうぶですよ、森さん。すぐに消える程度の傷です。高校生の回復力、
なめちゃいけませんよ」
「あら、それは自分が若いっていう自慢かしら? それとも私の年齢に
対する当てこすりなのかしらぁ〜?」
「めっそうもない。ただの事実ですよ?」
「ほほほほ。減らない口だこと」
 口元をぎゅうとつねられて、古泉は笑顔のままで痛たたたと悲鳴をあげた。


 色気のないじゃれあいを続けながら、森は出会った頃の彼のことを思い出す。
連れてこられた当初の彼は、突然目覚めた自分の能力に怯えたり、否応なしに
課せられた戦いと任務に反発したりする、ごく普通の少年だった。
 それがいつのころからか、反発しないかわりに能動的に何かをすることもなくなった。
与えられた任務をこなすだけで、それに対して嫌だともいいとも言わない。
毎日、学校に行き、閉鎖空間に対処し、訓練を受け、事務処理をこなし、あとは
食事をして寝る。ただそれだけを、毎日機械的に繰り返す。
学校での話を尋ねても、普通に授業を受けましたという報告以外を聞くこともなく、
友達の話など一度も出たことがない。
森はそんな、子供としてはある意味常軌を逸した古泉の生活に、不安を覚えていたのだ。

 いずれこの子は、壊れてしまうかもしれない。
 いや、もしかしたら今現在も、少しずつどこかが壊れていっているのかも、と。

 だが、だからといってどうすればいいのか、教育者でも母親でもない森に
わかるはずもなく、ただ手をこまねいて彼を見守ることしかできなかった。
 だから、彼を涼宮ハルヒの監視員として北高に派遣すると上司からの通達を
受けたとき、大丈夫だろうかと心配した。
今まで唯一、彼が機関から離れていられる時間だった学校までもが業務に
組み入れられたら、もう本当に彼には逃げ場がなくなってしまう。
 それで本当にいいのかと自問自答してみたが、そのための訓練も重ねていた
古泉の派遣に唱える異も思いつかず、ただ彼の学外でのサポートを申し出ることが
精一杯だった。


「森さん?」
 黙り込んだ森を不審に思ったのか、古泉が首をかしげて声をかけてきた。
その声に我に返った彼女は、ああ、すまないと謝罪する。
「いえ……森さんも、お疲れなんじゃないですか。たまには早くお帰りになった方がいいですよ」
 そう言って心配そうに自分をのぞきこむ表情は、転校以前には見られなかったものだ。
 あれほど懸念した北高への転校以来、古泉は確かに変わった。それも、いい方に。
子供らしい笑顔も時折は見せるようになったし、何よりも毎日が楽しそうだ。
義務として通っていた中学校のときとは違い、学校での出来事、とりわけSOS団での
活動について、報告義務以上のことを喜々として語る姿は、本当に年相応と言えた。
よほど、SOS団のことが気にいったらしい。
 あまり入れ込むのはどうかと上の方が問題にしようとしているのも知っているが、
森としてはいい傾向だと思っていた。
 ……たったひとつの懸念をのぞけば、の話だが。

「古泉。右手の絆創膏がはがれかけてるぞ」
 右手の甲に貼られている絆創膏が少し浮いているのに気がついて、森は手を伸ばした。
これくらいなら看護師を呼ぶ必要もない。貼り直してやろうと思ったところ、
いきなり背中に右手を隠されて唖然とした。
「す、すみません。これは、今負ったケガではないです」
「はぁ?」
「今日、学校の中庭に野良猫が紛れ込んでいまして……つかまえて逃がしてやろうと
手を伸ばしたら引っ掻かれてしまったんです。その傷です」
 焦ったような口調で説明する古泉に、森は首をひねった。猫の引っ掻き傷だというなら
それでもいい。だが、それは絆創膏の貼り直しを拒否する理由にはならないと思う。
「いいから見せてみろ」
「いえ、あの……」
「古泉」
 命令口調で名を呼ぶと、古泉は渋々と右手を差し出してきた。
なるほど、貼られているのは機関の医療班で使われているものとは微妙に違う。
右手という、よく動かされる部位に貼られたそれは、すでに周辺が黒く汚れ、
はがれかけていた。衛生上、好ましくないと思われるので、それをはがそうと
手をかけると、妙にせっぱ詰まった声で古泉が叫んだ。

「あのっ! 傷はもうふさがってると思いますので、そのままにしておいて
いただけませんか!」
「…………」
「たぶん明日には自然にはがれてしまうと思うので、それまではどうか」
 場違いに必死な古泉の様子に、森はピンとくるものを感じた。
こう見えても、今でも充分現役のつもりの、年頃の乙女なのだ。

「……誰かに貼ってもらったのか」

 図星、のようだった。
真っ赤になって下を向いた古泉は、しどろもどろで、いえ、あの、まぁ、などと
意味のない言葉をこぼしている。
森は、たったひとつの懸念≠ェ現実のものになっている予感に、舌打ちしたい気分になった。
 古泉も、ごく普通のメンタリティを持つ少年だというのなら、無理もないと
言えることだろう。むしろ、禁止することの方が酷だし、勝手な押しつけとも言える。
森個人としては大いに推奨したい気持ちはあるのだが、なにぶん様々な事情を鑑みると、
最終的に傷つくのは古泉本人だと思うからこその舌打ちだった。

「古泉……」
「は、はい……」
 相手は誰だろう。まさか、神その人だろうか。それとも、もっとも警戒すべき
敵対勢力である未来人? 無口なTFEI端末の彼女である可能性も高い。
いずれにせよ、機関として歓迎できる相手ではない。
 最悪の事態を考えて、森は眉をしかめながら、貼ったのは誰だと問い詰めた。

 が、思わぬ答えに拍子抜けする。
古泉は困った顔で、彼≠ナす、と答えたのだ。

「鍵≠フ?」
「そうです……。どうやら僕が猫に引っ掻かれる現場を目撃したようで……放課後、
団活のときに保健室から絆創膏をもらってきてくださって」
 なんだ、と思う。
キョンと呼ばれている彼が見せたそんな他愛のない友情が、それほどまでに嬉しかったのか。
考えてみれば古泉には、中学生のころから友達らしい友達はいなかったから、そのせいか。
 森はほっとして、思わず、そうかよかったとつぶやいて溜息をついた。

「何がですか?」
「いや……お前が、SOS団の誰かに惚れでもしたかと思っただけだ。そんなことに
なったら、また上がうるさいからな。やっかいなことにならなくてよかった」
「そ、れは……ご心配を……」
「まぁいい。はがれたら念のため、消毒しておけよ」
 了解です、という古泉の声を聞いて、森はすぐに彼に背を向け、トレーラーから
降りた。だから、古泉の表情の変化には気がつかなかったのだった。


 森の姿が車外に消え、周囲に他に誰もいないのを確認してから、古泉はそっと
深い息をついた。額に浮いた冷や汗をぬぐい、小さくつぶやく。

「……女性の勘というのは、どうしてこうも鋭いんでしょうねぇ」

                                                END
(2010.02.06 up)
捏造過去と捏造機関話。
実は、「恋に気づいた20題」の中の「素顔」というSSSの直後話だったり。