はじまり

     【お題】並んだハブラシ




  彼と、いわゆるはじめての朝≠迎えたときの記憶で、
最も印象に残っているのは、実は歯ブラシだ。


 前日の夜、遊びに来た彼とDVDを見ながら缶ビールなどに
手を出して、気がついたらなんだかそういうことになっていた。
 ソファに横たわる彼の服を、半分ほど脱がせたあたりで、
あれ、何をやってるんだろう、と思ったのは憶えている。
だが、僕の下にいる彼がまるで抵抗する様子を見せておらず、
しかもほんのりと上気した顔で瞳を潤ませていたりしたせいで、
僕のなけなしの理性はあっさりと敗北したようだ。

 その時点で、僕の気持ちはとっくに彼に伝えてあり、返事は
しなくていいとも言ってあった。告白を聞いた彼は、そうか、
と言ってうなずき、そのときはただそれだけで話が終わった。
 翌日からも彼は特に態度を変えることもなく、いままで通りに
友人づきあいをしてくれたので、僕はホッと胸をなでおろし、
とにかく伝えられたことに満足していたのだ。

 1週間ほどがたったころ、部室でのゲーム中に、少し前に話題に
なった映画の話になり、あれ観たかったんだよなと彼が言った。
僕は多丸さんがその映画のDVDを買ったという話をしていたのを
思い出して、借りてくるのでうちで観ませんかと誘ってみた。
 別に、何かやましいことを考えていたわけではない。
ただ、彼とプライベートでも遊べたら楽しいだろうなと思っただけだ。
僕の誘いに彼が黙り込んだので、その不自然な沈黙に、ああそういう
意味にとられたのかとはじめて気がついた。
 だが、他意はありませんと言い訳する前に、彼は特に気負う様子も
見せずに、ああいいぞと承知してくれたから、彼もそんな意味では
あるまいと考え直したのだと思った。

 週末になって、彼はスナック菓子やペットボトルの飲み物と一緒に
家にあったからと缶ビールまで持って、僕の部屋にやってきた。
話題の映画はさすがに面白く、ミステリ仕立てなところが僕の嗜好にも
ぴったりあって、途中でトリックや犯人当てをしたりしてかなり楽しんだ。
 調子に乗ってあけた缶ビールははっきり言って苦いばかりで
あまり美味いとは感じなかったけれど、半分ほど中身を減らした頃には、
二人ともすっかりいい気分になっていた。


 だから、一体何がきっかけでそういうことになったのかは、
さっぱり憶えていないのだ。
 彼はしきりに痛い痛いとわめいていたし、熱に浮かされたような
調子でやめろとか嫌だとかも言ってはいたが、本気の抵抗はとうとう
しなかったので、結局、僕はそのまま想いをとげてしまった。
 はじめての行為で体力を使い果たし、慣れない酒がかなり回っていた
僕たちが、ろくに後始末もせずにそのままの状態で眠りこんでしまったのも、
致し方ないことだったろう。

 翌朝、目を覚ましてみたら、彼は先に起きていた。まだ裸のまま、
難しい顔で腕を組んで、何事か考え込んでいる。まさかお約束のように、
何も憶えてないというオチだろうか?

「あの……?」

 おそるおそる声をかけてみると、彼はゆるゆると顔をあげた。
目があった瞬間、彼がちゃんと昨夜のことを記憶していることが認識できた。
浮かんでいる表情がとりあえず嫌悪のそれではないことに安堵したものの、
それならそれで彼の気持ちをちゃんと聞いておかないと、今後の態度を
決められない。
 あれが告白への答えであって、今後を考えてくれるというなら望外の幸せだ。
だがどちらかと言えば、酔った勢いだった可能性の方が高い気がするので、
なかったことにして欲しいというなら、残念だがそれでもいい。
 避けたいのは、このまま気まずくなって、ろくに話もできなくなること、
ただそれだけだ。

「えと……その……」
「コンビニ行ってくる」

 覚悟を決めて質問しかけたとき、彼がいきなりそう宣言してベッドを降りた。
あっけにとられているうちに、彼はさっさと服を着て部屋を出て行ってしまう。
 あれ、逃げられた? と思ったが、彼の荷物はちゃんと置いてあったから、
そういうわけでもなさそうだ。では、いきなりどうしたというのだろう?
 着替えるのも忘れて首をひねっていると、30分もの時間が経過してから、
彼は部屋に戻ってきた。

「……まだそんな格好してんのか。風邪ひくぞ」
「お……かえりなさい。あの……一体何を買いに……」
「ん」

 コンビニの袋ごと、彼は買って来たものを僕に差し出した。
なんだろうと思って中をのぞいてみたら、そこに新品の歯ブラシが入っていたのだ。

「あの……これは……?」
「俺用だ。洗面所にでも置いとけ。……これから必要になるんだろ」


***************


 そういうわけなので、歯ブラシを見るとついそのときのことが
思い出されてしまうのだが、それを話そうとすると、彼は大抵不機嫌になる。
 しかし、照れているのだということはわかっているから、僕はもちろん
そのまま話を続けさせてもらう。

「だから! 何度も言ってるだろうが! お前が起きるまで、どう伝えようか
考えまくった結果なんだって」
「あなたらしい、非常にひねくれたお返事ですよね」
「うるせえな。何か不満なのかよ」
「いえいえ。大変、光栄ですよ」

 あとから聞いた話だが、あの日、部屋に誘われてそれを承諾した時点で、
彼はそれまで悩んでいた僕の告白を、受け入れることに決めたのだという。
 誘われたのが、思いのほか嬉しかったから、というのが理由なのだそうだ。
 酒を用意してきたのもそのためだったらしいし、よく思い出してみれば
DVDを観ている間、彼はやけにくっついてきていた気がする。
 つまりあのとき、僕は彼に誘われていたのだな、と思うと、もったいない
という気持ちでいっぱいになるのは、贅沢というものだろうか。

「いつまでも蒸し返してんじゃねえよ、うっとおしいな」
「酷いな。僕の生涯で1,2を争う幸せな記憶ですからね。あなたが
忘れたりしないように今後も何度でも蒸し返す予定ですとも」

 彼が投げつけてきたタオルを避け、ほかのものが飛んでこないうちに、
僕は急いで洗面所から逃げ出した。
 コップの中にふたつ並んだ歯ブラシが、カラリと音をたてた。

 
                                                 END
何があったのか知りたい。