「古泉、この傷なんだ?」
ふいに彼がそう言って、僕の左の二の腕を人差し指で
ついっとなぞった。
「……くすぐったいです」
「ああ、悪い。ちょっと気になった」
僕の部屋のソファで、それぞれがゆったりと過ごす休日の午後。
僕はソファの背もたれに身体を預け、買ってきたばかりの
ミステリ小説を読んでいる。彼はそんな僕の腿あたりを枕に
ソファに寝転がって、漫画雑誌を眺めていたはずだ。
見ればいつのまにか雑誌は彼の腹の上に伏せられており、
彼は僕の二の腕をじっと観察している。そこに残っているのは、
15pほどの長さの傷だろう。
傷というか、今ではもううっすらと肌に走る線にしか見えないと思うけれど。
「ドジでも踏んだのか? 戦ってるときとかに」
ほんの少し、彼の口調に苦いものが混じる。再びそっと触れてきた指が
こそばゆくて、僕は首をすくめた。
「いえ……違います。猫のひっかき傷ですよ。あなたの手の甲にも
あるじゃないですか」
「ん?」
彼はシャミセン氏がつけたとおぼしき手の甲の細かい傷と、僕の
二の腕のそれを見比べた。
「またえらく派手に引っかかれたもんだな」
ええ。1年以上前なのに、まだ残ってるくらいですからねぇ。
そりゃあ派手に流血しましたとも。
「おおかた、しつこくかまいすぎたんだろ」
「ご明察です」
やれやれ、と彼は、ソファに寝転がったまま器用に肩をすくめた。
猫と言っても、飼っていたというわけではない。
こちらに引っ越してきたとき、猫を飼いたいと機関≠ノ訴えたら、
1週間ほど預けるからまずは試してみろと猫が派遣されてきたのだ。
僕の生活能力のなさは、機関をして猫の命を心配させるほどの
レベルであったらしい。
やってきたのは、おとなしいというか、かなりのんびりとした性格の
三毛猫だった。まだ若い猫らしいのに、あまりじゃれたり走り回ったり
ということもせず、日向や静かな場所を発見しては、日がな一日を怠惰に
寝て過ごしていた。
僕はついつい、彼女が眠っているところに手を出したり、餌を食べるのを
邪魔したり、歩いている彼女をつかまえてみたり、オモチャにじゃれて
くれないかと目の前で振ってみたりとさんざんかまい倒し、3日もたつころには
すっかり嫌われて、彼女はデスクの裏に隠れたまま出てこなくなってしまった。
腕に残るこの傷は、そこから無理にひっぱりだそうとしたときに彼女が
つけた爪痕だ。彼女は結局そのまま、1週間たたないうちに本来の飼い主の元へと
戻っていってしまった。
機関の一員としての暮らしももういいかげん慣れたものだったけれど、
本当は独りは苦手だ。部屋の中に独りでいると、時間が自分と関係ないところで
流れていく気がする。僕だけが、ここに取り残されているような。
だから僕はただ、傍らで眠る暖かな存在が欲しくてそんなわがままを
言ってみたのだけれど、残念ながらその願いはかなわなかった。
「ふーん。なんだか、失恋話みたいだな」
「言われてみれば、そうですねぇ」
「しつこくかまいすぎて、結局うっとおしがられて終わりとか、ホントお前らしい」
それは、どういう意味なんでしょう……。
猫の話をしながら、無意識に彼の髪をなでていた手が思わず止まる。
のぞきこんだ彼の顔は、思わせぶりにニヤニヤと笑っていて、ああ、やっぱり
そういう意味なんですね。
「しょうがないじゃないですか……。スキンシップが好きなんです」
すねたようにそう言ってから、はたと気がつく。
考えてみれば僕は、彼に対して三毛の彼女と同じようなことをしていなかっただろうか。
仲良くなりたくて、彼が嫌がっているのもかまわずに、近づいてちょっかいを
かけてつかまえてかまい倒して。……よくも、嫌われて逃げ出されなかったものだ。
僕はちょっと反省して、自重するべきなのかもしれない。
最後には、近づくだけでさっと逃げ出すようになってしまった猫の姿に、
彼の姿が重なって、いきなり泣きたくなる。そんなことにならないよう、
過剰にかまうのはやめたほうがいいだろうか。
そんなことを考えて、手を名残惜しく彼の髪から撤退させようとする。
が、まるでその動きを予想していたかのように、僕の手は途中でつかまれ、
止められてしまった。
つかんだのは、もちろん彼。
その顔には、ちょっと困ったような微笑みが浮かんでいる。
「ばっか。俺は猫じゃねえよ」
……どうやら彼には、僕の思考などすべてお見通しらしい。
彼は僕の手をぽんと自分の肩のあたりに無造作に置いて、再び雑誌を取り上げた。
好きなだけかまってろ、という言葉に甘えてそっと顎から耳の方へと指を
すべらせると、彼はくすぐったそうに首をすくめて小さく笑った。
「どこ触ってんだ。猫じゃないって言ったろうが」
「……ちょっと似てます」
「何に。その猫に?」
「ええ。若いくせに、いつも怠惰にだらだらしてるところとか」
「よし、そのケンカ買った」
ソファに寝転がったまま手をのばしてくる彼に逆らわずにいたら、
ふいにキスされた。びっくりしている僕をみて、また楽しそうに笑う彼の
こんなところも猫っぽいと思うのだけど、どうだろう?
本物の猫と暮らすことはかなわなかったけれど、僕はそれ以上の
傍らで眠る、暖かな存在≠手に入れたのだということは、
たしかな事実であるようだった。
END
(2009.12.08 up)
没SS。
同時に載せた他のSSと、いろいろかぶってたから。
でも書き直してもたいして変わらないという……orz