名前は呼ばない
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 もう指一本動かしたくない、という顔で、彼はベッドに沈み込んだ。
中に出したことについてのいつも通りの抗議すら、今日は億劫なようだ。
しまった。久しぶりだったので、ちょっとやりすぎた。……という弁解を、彼は聞いてくれるだろうか。
「すみません……少々、無茶でしたね」
「少々だと思ってんなら、お前はいっぺん脳みそ修理した方がいい」
 涼しくなってきた気候にもかかわらず汗まみれの身体で、彼は仰向けに寝転んで、まだ整わない息の下からそう言った。
さんざん酷使させた喉から出る声はかすれて、いかにもつらそうだ。しばらく動けないことは確実なので、僕はせっせと彼の後ろを拭き清め(さすがに掻き出す作業はさせてもらえない)全身の汗をぬぐいながら、枕元に用意していたミネラルウォーターのボトルを渡す。
 さんきゅ、と小さく言ってボトルに口をつけた彼は、自分の身体のあちこちを丁寧に清めている僕をふと見下ろした。眉が寄せられて、なんとなく何か言いたげな表情になる。
 それに気づいて、手を止めずに彼を見上げた僕と目があうと、彼は少し躊躇してからつぶやいた。
「……悪いな、いつも」
「何がですか?」
 すっかり綺麗にし終えてから、僕は彼の隣に寄り添い一緒に上掛けをかぶる。
「いや……いろいろ、後始末させてさ」
 なんだ、気にしていたのか。
「いえ……。行為に際しては、あなたの方が負担が大きいことは自明ですからね。これくらいはさせていただかないと」
 実際、本来そう使うべきでない器官を酷使することがどれほどの負担か、僕自身が(不本意ながら)身をもって知っている。毎回ではないにせよ、そんな負担を受け入れてくれている彼に報いるために、こんなことくらいでは足りないとすら思っている。
「古泉。知っていると思うが、俺は不公平なのは嫌いなんだ」
「はい。そうでしたね」
 一方的な奉仕にどうにか報いれないかと、何ヶ月も悩んだほどにね。まったく彼は、律儀な人です。どこまで惚れさせるつもりなのやら。
「笑うな。だからな……」
 そこで言葉を切って、彼は少し考え込む素振りを見せた。
 不公平というと……もしかして、攻守逆転をお望みですか? 僕は別に、それでもまったくかまいませんけど。
 そんな、言ったら確実に殴られそうな事を僕が言ってしまう前に、彼はちょっと首をかしげて言葉を続けた。
「なにか、して欲しいことがあったら言え。お返しに叶えてやる」
「はぁ……」
 そんなことを言われても、彼とのこんな関係を許され、しかもこんな甘い時間を与えてもらえること自体がもう望外の幸せだ。
これ以上彼に望むことなんて、本当に何もないのだが。
 ピンとこない顔でぼうっとしている僕に業を煮やしたのか、彼がしかめっ面でのぞき込んできて、僕の名を呼んだ。
「古泉?」
 ああ……そういえばひとつ、あるといえばありましたね。
「それでは……ひとつだけ」
「ああ、言ってみろ」
「ふたりきりのときだけでいいんです。……下の名前で、呼んでいただけませんか?」
 でもその瞬間。彼の顔に浮かんだのは、僕が予想していた表情ではなかった。照れるとか、それを隠すために怒るとか、あきれるとか、そのあたりまでは予想済みだったのが――こんなに苛立った顔を見せられるとは思わなかった。
「あの……?」
 苛立ち、と見て取ったのは、直感のようなものだった。彼はただ完璧な無表情で、口をつぐんだだけだ。
「どうし……」

「――嫌だ」

 ふいと顔がそむけられる。ひき結ばれた唇から、拒絶の言葉が吐き出された。かたくなにすら聞こえるその口調は、決して照れ隠しなどではなく、やはり苛立ちを押さえているように聞こえる。自分のその口調に気づいたのか、彼ははぁと溜息をついて首を振った。
「それは却下だ。……他にないか?」
「いえ……」
「そうか」
 じゃあ俺はもう寝る。彼はそう言って、いつもは使うシャワーにすら行かずに僕に背を向けた。何が起こったのかわからずに、僕はしばらく呆然と、その背中を見つめていた。




「それっきり、その話は立ち消えですよ。どう思います?」
「どう思うも何も、呼びたくねえんだろ」
 煙草の煙を追い出すために窓を開けて寒気を呼び込みながら、僕は振り返った。
ソファにふんぞり返って美味くもなさそうな顔で煙草をふかしているのは、この生徒会室の主である生徒会長その人だ。伊達眼鏡をはずしてテーブルに放りだし、ネクタイをゆるめて組んだ脚をだらしなく伸ばして来客用ソファに寝そべっている。寝煙草は危ないからやめて欲しいところだが、僕が言っても聞きはしないだろう。
「いまさら名前でなんて、恥ずかしくてやってられるか、ってとこなんじゃねえの」
「そういう様子ではなかったんですよね……照れているのならわかるんですけど」
「ああ、ソウデスカ」

 ちなみに、事後ではない。
 会長とはすでに、そういう関係は持っていない。
 “彼”と想いを通じ合わせてから数週間後のことだったと思う。
久しぶりに会長に呼び出され、いつものごとくひどい目にあわされた後、彼が1枚の折りたたんだ書類を渡してきたのだ。
「……なんですか」
「署名捺印して控えを渡せ」
 受け取って開いてみるとそこには、受領書、と書いてあった。
 内容は簡単にまとめると、彼が生徒会長を演じる契約にあたって、僕が支払わなければならない報酬をすべて受け取った、という意味の証書だった。日付は、今日。
「これは……」
「今さっきの支払い分で完了だ。お疲れさん」
 今日はめずらしく自分も脱いでいる会長が、スラックスとブレザーだけを羽織った姿で、煙草を咥えながら言った。不審な目で自分を眺める僕に、ニヤリと笑ってみせる。
「あの脳内花畑女から、かすめとるのに成功したんだろ? ほんのご祝儀だ」
「な……」
 誰にもバレていないはずなのに。そんなに僕は、わかりやすい態度だったろうか。
「いや? 俺も確信とれたのは、たった今だな」
 どうやらカマをかけられたらしい。僕はむっつりと押し黙ったまま、書類をもう一度たたんで、ソファの背もたれにかけたままの制服のポケットに入れた。
「どういう風の吹き回しなんです?」
 不信感を丸出しにした僕の問いかけに、会長は肩をすくめてみせる。
「まぁ、俺自身がお前にかまけてる場合じゃなくなったってのが一番だけどな」
 ああ、主にあの優秀な書記さんのおかげですね。そういうと会長はピクリと眉を上げて、煙とともに溜息を吐き出した。
「……まぁ、そうだ。が、本当に祝ってやりたいって気もあるんだぜ? 出来上がってる奴らの間に、波風たてるほどヒマじゃねぇしな」
「それは……どうも」
「信じてねぇな。……まぁいい」
 苦く笑ってから会長は、煙草を携帯灰皿でもみ消した。
「ちっと惜しい気もするんだが……でも、まぁとりあえず」
 額に落ちた髪を片手でかきあげて、会長は微笑んだ。そんな顔は、今まで1度も見たことがなかった。
「……よかったな、古泉」
 眼鏡のない会長のその顔は、どういうわけか年相応に見えたのだった。

 それ以来、会長との間には何事もない。
 だが協力者であることには変わりはないので生徒会室を訪れることがなくなるわけでもなく、彼とのことを話せる唯一の人物ということもあって、僕は以前より頻繁にこの部屋を訪れるようになっていた。
「古泉、お前な。来るのはかまわんが、そのたびに惚気ていくのはよせ。俺を肺ガンで殺す気か」
「僕の話とあなたの煙草量になんの関係が?」
「煙草ぐらい吸わずに聞いていられるか」
 バカバカしい、と吐き捨てる割に、来るのはかまわないと言う。彼は僕が思っていたよりも、甘い人間なのかもしれない。
「そんなことはどうでもいいですから、僕の話を聞いて下さいよ」
「どうでもいいのか。本当にお前は、あいつのこととなると阿呆になるな」
「気安くあいつとか言わないで下さい」
 つっこむのはそこかよ、とぼやいて、会長はあきれたように首を振った。
「気になるんなら、聞いてみりゃあいいだろうが。まぁ、名前を呼ぶのが嫌な理由と言ったら、照れてるんじゃなけりゃ……そうだな、身内に同じ名前のやつがいるとか」
 引っかけた女の名前が母親と一緒だったときは萎えたぞ、と会長は苦り切った顔で言った。ホテルまで連れ込んでおきながら手が出せなかったのは、あれが最初で最後だと、どうでもいい情報を聞かせてくる。
「彼の身内に、僕と類似する名前の人物はいませんよ。それくらいは調べてあります」
「じゃあ、単純に嫌いなんじゃねえの、その名前が」
「え……」
「だってお前」
 会長の目がすがめられ、僕を意味ありげに見た。
「偽名、なんじゃねえのか、ソレ」
「……!」
 それは機密事項なのだ。偽名なのか、本名なのか、それすらも漏らすわけにはいかない類の。彼には確か、そう伝えた覚えがある。出会った頃に。
 古泉、というのは最初から呼んでいた名前だからもうかまわないとして、偽名かも知れないファーストネームを呼ぶのは嫌だと、そういうことなんだろうか。
「そ、んな……」
 いっそ言ってしまおうか、本当のことを。ああでも、そんなことが機関や涼宮さんにばれたら……。
「おい、古泉?」
「……すみません、今日はこれで失礼します」
「ああ?」
 僕はそのまま会長に背を向けて、生徒会室をあとにした。いきなり来ていきなりソレか、なんなんだお前、という会長の声が聞こえたが、何かを言い返す気にはならなかった。




 それから3日後、僕は彼の家の夕飯に招待された。
 それは、今となってはそうめずらしくもないイベントになりつつある。常食がインスタントかコンビニ弁当、もしくは冷凍食品という、あまりにひどい僕の食事事情を憂慮した彼が、週に1、2度、僕を自宅に招いてくれるのだ。ちなみに週末は大抵彼が来て、簡単なものではあるが何かしら食事を作ってくれる。毎週末、外泊というわけにはいかないので夕飯後は帰ってしまうことが多いが、そのおかげで僕の栄養状態はすこぶる向上していた。
 ちなみにこのことは、彼との仲が親密になったことに対する機関への言い訳としても機能している。友人として、1人暮らしの僕の栄養状態を心配した彼が世話を焼いているという設定だ。長男気質で面倒見のいい彼の性格を知る機関にしても納得のいく理由らしく、今のところは“鍵”との信頼関係の向上を褒められこそすれ疑われている様子はない。……と、思う。

「こいずみく〜ん! いらっしゃ〜い!」
 玄関におじゃますると、彼の妹さんが飛びついてくる。年齢より幼く見える彼女は、無邪気に僕の手をひっぱって、まずはリビングに連れて行く。隣のダイニングキッチンでは、彼の母君が夕飯の用意に余念がない。僕は用意してきた手土産を渡し、今日もごちそうになりますとそつなく挨拶した。
「いつもありがとう、古泉くん。本当にあの子の友達とは思えないほど礼儀正しいわねぇ。もううちの子になっちゃわない?」
 目鼻立ちが彼によく似た母君が、そんな軽口をたたきながらにっこりと笑った。その笑顔も彼に似ていて、僕の顔も自然にほころんでしまう。
「いいですね。将来的にはぜひ」
「……何をアホなこと言ってんだお前は」
 2階の自室から降りてきたらしい彼が、僕の後頭部をはたいてつっこみを入れた。
「あら、お兄ちゃん。いいじゃないの、兄弟がもうひとり増えるくらい」
「こんなでかい弟は、いらん」
 わがままねーと、母君と妹さんが声をあわせて一緒に首をかしげる。もちろん僕もそれに同調して、ねー、と言いつつ首をかしげたら、再び彼の容赦のないつっこみが後頭部にヒットした。痛いです。

 彼と彼の母君、妹さんと囲んだ(父君は仕事で遅いらしい)夕飯は、大変おいしかった。学校での出来事を話したり箸使いを直されたり、他愛ない会話をしながらの夕飯は、4年前のあの日以来、僕がずっと忘れていたものだ。
「お風呂、お先にいただきました」
「おう」
 彼の家に招かれた日は、大抵そのまま泊まっていく。もちろん階下に彼のご家族がいる状況で不埒な行為に及ぶわけにはいかないので、テレビを見たりゲームをしたり勉強をしたりという、ごく普通の高校生らしい夜を過ごし、別々の寝具で就寝する。夜中にふいに目が覚め、彼の寝顔が目に入ってその後眠れずに悶々とすることはあるが、これまでは大過なくすごすことに成功していた。
 今日は彼の宿題を見る約束をしているので、彼が入浴している間に教科書やノートをテーブルに用意した。そのへんに転がっている雑誌などをめくりつつ、彼が戻ってくるのを待つ。
「古泉、開けろ」
 彼の声とともに、ドカドカとドアを蹴っているらしい音が聞こえた。開けてみると彼が、飲み物と何やら果物らしきものを盛った皿を両手に立っていた。
「オヤジが帰ってきてさ、土産だって。梨」
「それはそれは。ご挨拶とお礼を言ってこなければ」
「あー、ムダムダ。ベロンベロンで帰ってきて、もう寝ちまったから。明日の朝でいいよ」
「はあ」
 夏の名残の麦茶と秋の先取りの梨をいただいてから、僕らはぼちぼちと宿題に手をつけはじめた。今日の宿題は英文の和訳らしい。英語は取り立てて得意科目と言うわけでもないが、彼に教えるくらいはできる。せっせと英文をノートに写す彼を眺めながら、僕はなんとなくつぶやいた。
「……あなたのご家族はあたたかいですね」
「ん?」
「うらやましいです」
 彼はノートに走らせていたシャープペンを止めて、ふと顔をあげる。
「そういや、お前の家族は」
「……」
 僕は苦い笑いを口元に刻んで、無言を返す。彼は察したように、そうか、とつぶやいて視線をノートに戻した。こうしたことを、彼は決して無理に聞き出そうとしたりはしない。
「夕食前の母君の言葉、けっこう本気で嬉しかったですよ」
「うちの子になれとかいうやつか?」
「ええ……」
 彼はノートから目を離さずに、小さく笑う。
「お前と兄弟か。ぞっとしねえなぁ」
「朝も夜もずっと同じ屋根の下というのは、あこがれるシチュエイションですけどね」
「だが兄弟だったら……ああいうことをするのは、いかんのじゃないか」
「血がつながってるわけじゃなし、かまいやしませんよ」
「お前のモラルの線が、どのへんに引かれてるのかが謎だ」
 そういえば、と僕は、写し終わった英文の和訳を開始した彼の手元をのぞき込みながらふと思う。兄弟になるなら、名字が同じになるわけだ。そうなると、必然的に下の名前で呼ばれることに……。
「古泉、ここんとこわからん。……古泉?」
「……偽名かもしれないから、嫌なんですか?」
「は?」
 名前で呼びたくない理由。会長の言葉が頭の中に反響する。
「僕の、名前です。一樹という、この……」
 いっそ、本当のことを告げてしまおうか。機関にばれてもかまうものか。
 もう彼に、偽りばかりの自分を見せ続けるのは嫌だ。
「僕は……この古泉一樹は、嘘でできている人間です。プロフィールも性格もこの笑顔も、全部作り物……かもしれない。本当に作り物であるかどうかすら言えないんです。本来なら、あなたに好意を向けてもらう資格のある人間では……」
「こら、アホ泉」
 ポコン、と丸めたノートで頭をはたかれた。顔を上げると、彼がやれやれといいたげな顔で、ノートをもてあそんでいた。
「また全力バック走か。いい加減にしろ」
「バ……」
「偽名かどうかなんて、たいした問題じゃない。俺だってほとんど本名でなんて呼ばれんぞ。妹しかり、クラスの連中やら団のメンバーやら、あげくに教師までがキョン呼ばわりだ。でもまぁ、間違いなく俺を指してる呼び名なんだから、もういまさらかまわん。悟りの境地だ」
 不本意だけどな、と彼は溜息をつく。
「――お前だってそうだろう、古泉。北高でのお前は、間違いなく古泉一樹なんだから、それでいい。その性格やら笑顔やらだって、どうもすでにお前の一部らしいから許容してやらんでもない。俺にはどうせ、仮面と素の見分けはつくしな」
 つまり、偽っている僕もまるごと受け入れる、と彼は言っている。
 ああ、そうだ。そうだった。彼のキャパはむやみやたらに広くて、あぶなっかしい神さまも、禁則事項だらけの未来人も、生まれたばかりの宇宙人も、嘘まみれの超能力者も、すべて飲み込んでしまうのだ。彼のそんなところに惹かれたというのに、僕はまた忘れていた。
 でも、それなら何故……。
「何故、下の名前で呼ぶのが嫌なんですか……?」
 ふいにまた、彼の顔が曇った。
「ただの、俺のワガママだ」
「……」
「いずれ……たぶん、きっといつか、呼べるようになると思うから、今は勘弁してくれ」
 下を向いたまま、絞り出すような声でそう言う彼に、それ以上詰め寄ることはできなかった。
「いつか、ですか」
「ああ、たぶんな」
 彼はそれきりこの話題は終わりだと言うように、立ち上がってデスクから辞書を持って戻ってきた。
「それより、宿題終わらせちまおうぜ。ほら、ここ教えてくれ」
「あ、はい」
 ことさら話題を切り替えようとする彼にあわせ、僕も思考を切り替える。
 今は、というなら。きっといつかと言うなら。
 僕は、そう胸の内で唱えながら、彼が持ってきた辞書を手に取った。あれ?
「……あの、これ国語辞典ですよ」
「あ、しまった。間違えた」
 どうやれば国語辞典と英和辞典を間違えられるのか。まぁどちらもほとんど開いたことがなさそうな様子だし……と、思ったとき、手に取った国語辞典の違和感に気がついた。横から見るとどうも1ページが波打っているようだ。そこを開いてみようとしたら、彼の手が伸びてきて、すごい勢いで辞書を取り上げられた。
「英語に国語辞典は使わないよな、うん」
 彼は辞書をデスクに持って行き、積まれていた教科書や参考書の一番下に押し込んでしまった。なんだろう。思春期の少年にありがちな、エロい単語に印をつけるというあれだろうか。なんだか恥ずかしがっているようにも見えたので、僕はそれ以上の追求はやめて、英文に注意を向けることにした。
 ここで彼を怒らせて、せっかくのいい気分を壊すこともない。僕は今、また彼に惚れ直したところなのだ。たぶん数百回目の。いや数千回目かもしれないが。




 適当に宿題を終わらせ、軽いキスをかわしてからそれぞれの寝具にもぐり込んで、数時間。
ベッドの上からは、彼の健康的な寝息が聞こえてくる。その寝息を聞きながら、僕はなかなか寝付けずにいた。ベッドと並べるように敷かれた客用布団の中で何度も寝返りをうちつつ、脳裏によみがえるのは、先ほど聞いた彼の言葉。
 きっといつか、と言ってくれた。
 それは、いつだろう。
 今、彼が僕の名を呼べないその理由がなくなったとき?
 理由そのものがはっきりしない今、いつかなんて推測もできない。でも大丈夫だ。
 ……きっといつか、呼べるようになるその日まで。
 待っていていいと、側にいていいと、そういう意味だと思っていいんですよね?。
 もうそのことだけで僕の胸は、苦しいくらい幸せに満たされる。油断すると涙がでそうだ。
 僕はふと思いついて、布団から身を起こして彼のデスクに近づいた。さっき彼が隠した辞書のページはなんだったのだろう。ちょっとした好奇心だった。
 そっと国語辞書を取り出して、あきらかにおかしいページを開く。どうやら1度ぐしゃぐしゃにして、あとから戻したものらしい。かなり最初の方のページなので、重さが足りないのかさっぱりシワは伸びていなかった。
「一体、何をやったんだこの人は……」
 小さくつぶやいて、そのページをめくってみる。と、一カ所がシャープペンか何かで乱暴に塗りつぶされていた。一カ所、というかひとつの単語の項目全部だ。なんだろうと首をかしげ、僕は窓際に寄って月明かりでその部分を読んでみた。きっちり塗りつぶすと言うより、でたらめに線を書き殴ってあるだけなので、文章はちゃんとわかる。
 そして、その単語が何か、彼が何に憤慨してこんなことをしたのか……さらに言えば、彼が何故、僕の名前を呼ぶことをかたくなに拒んだのか……そのすべてを理解したとき、とうとう僕の目からは、涙がこぼれ落ちた。
 ぐしゃぐしゃになったページの中、乱暴にかき消された単語と意味を記したその文章は。


                    「いつき【斎】
                    心身をきよめ、神に仕えるもの。」


 僕は辞書を抱きしめて、声を殺して泣いた。
 悲しいのか嬉しいのかわからないが、ただ涙が止まらなかった。




「それで、名前を呼ばない理由はわかったのか」
 事務的なやりとりを滞りなくすませたあと、生徒会長は眼鏡をはずしてそう聞いてきた。
気にかけていたというより、完全に面白がっている顔だ。
「……生徒会長様に、わざわざお聞かせするほどのことではありません」
「ほう?」
 ニヤリと、質の悪い笑みがその顔に浮かぶ。
「てことは、わかったんだな」
「まあ」
「教えろよ。面白そうじゃねえか」
 僕は広げていた書類をさっさとまとめ、獲物を発見した猫みたいに目を細める会長をことさら無視する。
「別に面白い理由じゃないですよ」
「聞いて見なきゃわからねえよ」
 お断りだ。
 なんで、他人に聞かせてやらねばならないのだ。
 彼の気持ちを、宝物をもらったような嬉しさと、泣きたくなるような愛おしさを。これは僕だけのものだ。誰にも見せてはやれない。もったいない。
「聞いたらきっと、後悔しますよ?」
「どういう意味だ?」
 ソファから立ち上がり書類を抱え直してから、僕は眉を寄せる会長に、にっこりとお得意の笑顔を向けて言ってやった。
「説明しようとすると、彼の深い愛情と可愛らしさと格好良さを小一時間ほど説明しなければなりませんからね」
 とたんに会長はうんざりとした顔になり、さっさと出て行けとばかりに手の甲を上に向けて振った。シッシ、と言わんばかりだ。
「では、失礼します」
 生徒会室を出て、僕は早足で部室棟に向かう。
 彼が対戦相手のいないボードゲームを前に、つまらなそうな顔で待っているであろうあの部屋へ。


                                                   END
(2010.03.24 up)

そんなわけなので、このシリーズのキョンは、ハルヒの問題がなんとかなるまでは
決して一樹とは呼びません。ずっと古泉。だがそれがいい。

他のシリーズとかでは普通に呼んでますけどね!←