それはまるで夢のような
06

『古泉、現状は把握してるわね。すぐに現場に向かいなさい』
 電話の向こうの森さんの声は、堅かった。
「了解です。……申し訳ありません。僕の計算違いだったかもしれません」
『いいえ。可能ならば、涼宮ハルヒと鍵≠結びつけて、彼女の力の安定を図るようにという基本方針は、鍵の発見から現在まで変わっていません。今回のあなたの行動は、幹部会も特に問題なしと結論を下したものです。あなた1人の責任ではありませんよ』
 少しだけ優しげな響きで、森さんの声がそう言ってくれた。だがそれでも僕は、歯がみする思いだった。彼は一体、彼女に何を言ったのだろう。
 閉鎖空間の出現場所は、わかりやすく北高だった。校庭を中心に、広範囲にわたっている。急行しようと非常階段でマンションの1階まで下りたら、そこには1人の少女が立っていた。
「長門さん」
 人型インターフェイスの彼女は、まるきり昔に戻ったかのように無表情で、ガラスのような視線を僕に向けて、言った。

「―――この時空間から、彼の存在が消失した」

 なんだって……?
 それでは涼宮さんはまた、彼を連れて新世界の創造を始めてしまったのか。あの、高校1年の5月のように。
「そうではない。消えたのは彼だけ。涼宮ハルヒは、こちら側にいる。でもコンタクトは不可能」
「不可能? 涼宮さんはどこでどうしているんです?」
「自室にこもっている。ただし、その部屋は彼女の力によって時空的に閉ざされていて、外部からのコンタクトができない。彼女が自分で出てこようとしなければ、ずっとこのまま」
 なるほど、天の岩戸か。では、彼の方は?
「彼は、涼宮ハルヒが作り出した閉鎖空間の中に閉じ込められている。だが、この閉鎖空間はとても不安定。いずれ消滅する。――彼ごと」
 ぞわり、と背筋に悪寒が走った。
 もしかして彼女は、彼を空間ごと消すつもりなのか。本人にその気はなくても、彼を拒絶した結果として、存在そのものを消滅させる気なのか。
「長門さん……僕は、その閉鎖空間に入れますか?」
「可能。この空間は以前のような、新世界のひな形ではないから。ただし、脱出方法は不明」
「不明とは」
「空間内部に、現在のところ、あなたたちが神人と呼ぶものの姿を確認できない」
 なるほど……脱出の鍵となる神人が存在しないなら、確かにどうすれば閉鎖空間を破壊できるかわからない。最悪、僕も空間ごと消滅する可能性もあるわけだ。
「わかりました。なんとか、彼だけでも脱出させる方法を探します」
「古泉一樹」
 ふいに、長門さんが僕の名を呼んだ。な、なんでしょう。
「……彼は、それを望まない」
 静かな光をたたえた瞳が、僕を映している。
もしかしたら、彼女にはすべてお見通しなのかもしれないと、そのときに感じた。僕の秘めていた想いも、何もかも。
「望まない。彼も、私も、朝比奈みくるも、涼宮ハルヒも。ちゃんと、2人で戻ってきて欲しい」
 そう言った長門さんは、確かにあのころの彼女ではない。たしかな感情と自意識が、その瞳の中にほの見える。僕らを心配してくれているということが、はっきりとわかる。
「わかりました……長門さん。ちゃんと彼を連れて、2人でこちらに帰還します。約束、します」
 こくり、と彼女はうなずいて、進入経路はあなたの思っている通り、とだけ告げて立ち去った。僕は待っていてくれた機関の車に乗り込み、北高へと向かった。
 僕らが出会い、そして旅立った、あの場所へ。



 北高に到着すると、すでに何人かの仲間たちが閉鎖空間内に侵入済みだった。報告によるとやはり中に神人の姿はなく、だが空間そのものが不安定に揺れているという。
 涼宮ハルヒの力はやはり弱体化しており、この空間をたもつのが精一杯なのだろうというのが上の見解らしい。放っておいても消滅するのではという意見が大勢を占めているようだ。
「空間が消滅すれば、彼も元の世界に帰還するだろうと上は言ってるわ」
 森さんが、厳しい顔で言う。
「TFEI側の意見は?」
「彼らは今回の件には不干渉です。いえ、興味深い事態として、観測を行っているようね。未来側からも何も言ってきません」
 そのことも、機関のエライさんが今回のことを楽観視している原因か。
だが僕は長門さんに聞いている。このままの状態で閉鎖空間が消えれば、彼も共に消滅する。
「とりあえず、僕も行ってきます」
 長門さんの言ったことは伝えずに、僕は閉鎖空間に足を向けた。仲間のうちの誰も、まだ彼とは接触していないと聞いた。
「気をつけてね、古泉」
「はい」

 侵入口は水飲み場の脇だった。
一歩、空間内部に踏み込むと、独特の感覚が身体を包む。神経がざわつくようなこの感覚は、この空間に侵入するようになってかなりたつ今でも、あまり慣れない。戦える力の発現を身の内に感じるけれど、今回、その機会はあるのだろうか。
 久しぶりの閉鎖空間内部は、いままでのものと大差はなかった。
灰色の空。無人の空間。ただ神人がいないせいなのか、いつもよりさらに静かで荒涼としている。僕は迷わずに部室棟に足を向け、あの部屋へと向かった。
 元文芸部、涼宮さんが乗っ取ってからはSOS団の団室となっていた部屋のプレートには、今は何も書かれていない。僕らの卒業後、文芸部もなくなって、この部屋はただの空き部屋になったと聞いた。
 ドアを開けると、やはり彼はそこにいた。何もないガランとした部屋の中、窓の外を眺めていた背中が振り返った。

「よう、古泉。遅かったな」

 その困ったような笑顔に、いきなり泣きたくなった。
 僕が来ることを、カケラも疑っていなかったその口調に、胸がしめつけられる。信頼は、時に愛情よりも嬉しく、こんなときなのに僕の心を喜びで満たしてしまう。
震えそうになる声を必死で押さえて、僕はあきれた風に聞こえるよう、溜息混じりに言った。
「まったく。何をやったんですか、あなた。困った人ですね」
「すまん。失敗した。今回ばかりは、完全に俺の読み違いだった」
 窓に背を向けて、彼は窓枠に腰掛けた。ほかに机も椅子もないので、僕は仕方なくその場に立ったまま首をかしげた。
「涼宮さんに、告白をされたんですよね?」
「ああ……まぁな」
「まさか、断ったんですか?」
 彼は口をつぐんだ。やっぱりそうなのか。確かに、ほかには考えられないが……まさか。
「これが高校時代なら、保留するなり、交換日記からはじめましょうなりで回避しなけりゃならなかったんだろうが……もう大丈夫だと思ったんだ。今のハルヒなら、わかってくれるって」
 まぁ、世界そのものを作り替えようとしたあの頃よりは、たいぶマシだけどな、と彼は肩をすくめる。
「だけど結果はごらんの通りだ。俺には結局、女心を読み取ることなんて、難しすぎたらしい」
「あなたは……あなたも、彼女を好きなんだとばかり」
 確かに言ったじゃないか。あなたが僕に、お前がハルヒに惚れていることは知ってる、なんて告げたとき、僕はあなたもなのかと聞いた。そうしたら、まぁなと確かに肯定した。
「ありゃ、俺にも好きな人がいるのか、って質問じゃなかったのか?」
「違います! いや、まるきり違うってわけでもないか……ああ、すみません。僕がもっとはっきり聞いていればよかったんだ」
「いや、そういうことなら俺も、ちゃんと聞き返せばよかったな。お前がきちんとハルヒと向き合うなら、俺も自分の気持ちと向き合わんといかんな、なんて考えてたものだから」
 頭をかきながら、彼は言う。お互いに言葉が足りなかったな、なんて、仲直りする友人同士みたいに。
「――桜井さん、ですか?」
 涼宮さんを受け入れられない原因、あなたの想い人というのは。手をきつく握りしめつつ問いかけると、彼は情けなく笑って首を振った。左右に。
「彼女、あれでも人妻なんだぜ? 大学は旧姓で通ってるけど、今の姓は藤川だ」
 藤川……どこかで聞いた気が。……あっ!
「そうそう。藤川先輩と学生結婚してるんだよ。俺がバイトのあとに寄ってたのは、二人の新婚家庭ってわけだ」
「そ、うだったんですか……」
 力が抜けて、その場にしゃがみ込みそうになる。そんな場合じゃないのに、この事実だけで満足してしまいそうだ。あれ、でも……。
「そんなお宅に、よく毎晩終電までお邪魔してましたね? あなたらしくもない」
「ああ……それは」
 ふいに彼は、僕から目をそらした。床に視線を落とし、表情をすっかり隠してしまう。

「お前が、あんなことするから」

「…………っ!」
 それはやはり、酔っているふりでさんざん奪った、キスのことだろう。あれが嫌で、彼は家に帰ってこなかったというのか。僕はいきなり、全身に冷水を浴びたような感覚に陥った。 
それはそうだろう。いくらつきあいの長い友人とはいえ、同性にあんなに深い口づけをされて、不快でないわけがない。優しい彼が黙って受け入れてくれたので、僕はそんな当然のことを失念していた。
「……申し訳ありません。つい調子にのって、あなたの優しさに甘えてしまいました。どうおわびしていいか……」
「違うんだ、古泉」
 僕の言葉を遮って、彼が視線をはずしたまま言った。
「嫌だったんなら、ぶん殴るなり、そもそも手を貸して部屋に入ったりしなきゃいいだけの話だろうが」
「それは……」
「だから、違うんだ。……あのまま繰り返してたら、俺はいつか暴走しちまう。あれだけじゃ足りなくなる。そう思ったから、逃げたんだ俺は……お前から」
「え?」
 今、彼が言ったのは……どういう意味だ?
「お前にとって大事なのは、ハルヒだけだと思ってた。昔も今も、変わらずハルヒだけだって。それでも、同居を申し込まれたのは正直嬉しかったよ。高校卒業して、進んだ大学も違って、これからはもう会うのも一苦労だと覚悟してたところだったからな。……だがそんな申し出も、お前がハルヒのために、仕方なくやってるんだなって思ったときはちょっと絶望した」
 溜息とともに、彼の独白は続く。
「でもまぁ、せめて友達でいられりゃ、それでいいって思ってたんだ。それなのにお前があんなことするから……。一体、誰と間違えてやがるんだろうとは思ったけど、やめられなくて……気持ちがあふれそうになって、怖くなって逃げた」
 彼が、窓枠に座ったまま顔をあげた。
 その口元が、苦い笑いの形にゆがむ。

「意味わかったか? 俺が好きなのは、ずっとお前だったって言ってるんだぜ? 古泉」

 僕は動けなかった。ただ心臓だけが、ばくばくと激しく脈打って、己の存在を主張している。めまいがした。
「……それを、涼宮さんに言ったんですか?」
「いや。そんなことしたら、お前に何か起こりかねんだろうが。ただ、好きな奴がいるからお前の気持ちは受け入れられないと答えただけだ」
「彼女は今、天の岩戸に籠もっておられますよ」
「そうか。だがもし俺が今、自分をごまかしてあいつの気持ちを受け入れたとしても、いつかきっとゆがみが出る。そのときには、もっとひどいことが起こるかもしれないだろう」
 世の中、ままならないことの方が多いんだ。あいつがこれからちゃんとした大人になるためには、きちんと失恋した方がいいと思ったんだ、と彼は言う。
「まぁ、詭弁かもしれん。偉そうなことを言えるほど、俺だって人生経験豊富なわけじゃねえし。大体、ハルヒにそんなこと言っときながら、俺自身は世界のために好きな奴をあきらめられるほど、大人じゃなかったわけだしな」
「でも……」
 僕はようやく動くようになった足を前に出し、彼の方へと踏み出した。まるで雲を踏んでいるみたいに足下はおぼつかなかった。
「僕のために、僕をあきらめようとは、してくださいましたよね……?」
「……そんなんじゃねえよ」
 ぷいと、彼はそっぽを向く。
「望みのない恋から、逃げようとしてただけだ。卑怯者だ、俺は」
 彼の頬に触れようと伸ばた手が、直前で止まる。
 こんなにも潔癖で気高い彼に、僕は触れる資格があるんだろうか。どこまでも利己的で、己の欲のために涼宮さんの恋心まで利用しようとした僕なんかに。彼に触れたらそれだけで、彼を汚してしまう気がする。
「どうした、古泉? ……ああ、お前また、なんかくだらんことを考えてるな」
 彼の手が伸びてきて、僕の手に触れる。熱かった。
「お前はいろいろ偽悪的なことを言ったりするがな、実はたいしたこと出来るやつじゃねえって、自分でわかってるか? 結局お前のすることといったら、相手以上に自分を傷つけることばっかりで、そういうところが俺は……」
 ほっとけなくて、という言葉以降は、ごにょごにょと言葉を濁してしまい聞き取れなかった。ただわかったのは、彼が僕を許してくれているということ、それだけだ。
 僕はまるで糸が切れたように、彼の身体をきつく抱きしめた。
「バカ古泉。苦しいって……」
 この世界からの脱出法なんて、もうどうでもよかった。
いっそ帰れなくても、もうかまわない気がした。
長門さんとの約束を破ることにはなるけれど、このまま彼と消滅できるなら、悪くない最期だとさえ思った。



 ――聞き慣れた声が聞こえたのは、その時だ。

「そこまで言うんなら、仕方ないわね!」

 いきなり、周囲の様子が一変した。
 ガランとしていた元部室の中に、並べて置いた長机が現れ、窓辺に小さなパイプ椅子が現れ、ぎっしりとハードカバーの並んだ本棚とボードゲームが押し込められた戸棚とお茶のセットが載った冷蔵庫とホワイトボードと数々のコスプレ衣装と……パソコンのモニタが載った「団長席」が出現した。
 そしてその椅子の上に、腰に手をあてて仁王立ちしているのは、北高のセーラー服に身を包み、団長と書かれた腕章を腕につけた、高校生の涼宮さん。我らがSOS団の団長その人だった。

「ハルヒ……!」

 思わず叫んだ彼を、きらきらと光る瞳が射抜く。
「あたしはSOS団の団長だもの。団員の幸せを第一に考えるのは、やぶさかじゃないわ。たとえそれが、雑用係だったとしてもね!」
「涼宮さん……」
 今現在の彼女よりいくぶん幼い彼女が僕を見る。その笑顔が、優しくほころんだ。
「いつもあたしを助けてくれる、しっかりものの副団長なら大丈夫よね。古泉くん、キョンを頼んだわよ!」
 晴れやかに、でもどこか寂しげに、涼宮さんは笑う。
 ピシ、と遠くで亀裂の入る音がした。
大音響が校舎を震わせ、大地が揺れる。空が割れる。どこからかあふれた光が網膜を焼いて、僕は思わず彼をしっかりと抱きしめて目を閉じた。背中にまわった彼の腕に、ぎゅっと力がこもるのを感じたのが、その空間での最後の記憶だった。


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(2010.03.07 up)

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