それはまるで夢のような
07

「じゃあ、行ってくるわ。おみやげ、楽しみにしてなさいね!」
「ああ。身体に気を付けろよ、ハルヒ。長門も」
「わかった」
 こくり、と小柄な少女がうなずきを返す。その横で、髪を長門さんよりも短く切った明るい瞳の少女が、上機嫌な顔で僕を見上げた。
「古泉くん、キョンをよろしくね」
「了解しました。おまかせください」
「おい、なんで俺がよろしくされてんだよ」
「何よ、文句があるの? あんたなんか、変なもん食べてお腹壊したりしそうじゃない」
「そんなことすんのは、俺じゃなくて主に古泉だぞ」
「ふーん? まぁ、いいわ。あたしが帰ってくるまで、ちゃんと元気にしてるのよ! 行きましょ、有希」
 雑多なざわめきがひろがる空港で、涼宮さんは長門さんの手を引いて、元気にゲートをくぐっていった。
彼女はこれから3ヶ月、長門さんと一緒にイギリスの大学に短期留学する。
後ろを振り返ることもなく、はねるような足取りで未知なる世界へと向かう彼女の背中を、僕はまぶしく見送った。
「まったく。あいつは、外国に行くって緊張感とか恐怖心とか、ないのかね」
「涼宮さんにとっては、地球上すべてが庭のようなものなのでしょう」
「ムダにスケールのでかいやつだな」
 やれやれ、といつもの調子で肩をすくめて、彼は隣に立つ僕を見る。
「んじゃ、帰るか」
「はい」
 にっこりと笑ってうなずき、さっさと歩き出した彼に追いついて隣に並ぶ。
さりげなく手を握ってみたら、ものすごく嫌そうな顔で振り払われてしまった。
「いいじゃないですか、手をつなぐぐらい」
「公共の場でそんなことできるか。男同士で仲良く手つなぎなんて、視覚の暴力だぞ」
「そんなものですかねぇ」
「あたりまえだ」



 僕たちが閉鎖空間から帰還した、そのあとのことを少し話そう。
 僕らが脱出を果たすと同時に、あの不安定な閉鎖空間は消滅した。通常空間には森さんをはじめとする機関のメンバーと長門さん、それに朝比奈さんまでもがそろって、僕らの帰りを待っていてくれた。
「ハルヒは……?」
 意識を取り戻した彼が、真っ先に尋ねたのは、やはり彼女のことだった。自らの力で時空的に閉ざした部屋に立てこもった涼宮さんは、どうしたろう。
「時空間の閉鎖は、解消された」
 長門さんが、淡々とした口調で説明をはじめてくれた。
「涼宮ハルヒは、閉鎖空間と呼ばれる時空の消滅とともに意識を失った。だがそれは生命の危険をともなうものではなく、無意識のパワーを使いすぎたため、回復のために昏睡しているだけと思われる」
「そうか……よかった」
 そう言って彼は、その場にへたりと座り込んだ。大丈夫そうに見えてはいたが、彼もまたあの空間の中にひとり取り残され、強い不安と焦燥を感じていたのだろう。それから解放されて、気が抜けたようだ。僕はその身体を支えて、長門さんに問いかけた。
「彼女の姿をしたものが、閉鎖空間に現れました。正確には、高校時代の涼宮さんです。あれは一体なんだったのか、わかりますか?」
「神人」
 長門さんの答えは、短かった。
「あれが……神人?」
「正確には、涼宮ハルヒの精神状態を反映するもの。彼女がしたくてもできないことを、あの空間内で実現するための、いわばインターフェイス」
 そこまで言うんなら仕方ないわね! という彼女の声が、耳によみがえる。それでは僕らは、彼女に許された、ということなのだろうか。
「涼宮ハルヒ本人に、その神人がしたことの記憶は残らない。ただ、欲求不満が解消されたという感覚だけはあるはず。だからあなたたちは帰還できた」
 そうですか、とうなずくのが精一杯だった。僕もそこで限界を感じ、彼の隣に座り込む。森さんが、ごくろうさまと言って頭をなでてくれた。なんだかくすぐったかったが、嬉しかった。

 その後、僕たちは病院に一晩泊められて検査を受け、異常なしとの診断をもらって自宅に帰ることを許された。あとで報告に必要な書類を持って行くからねと森さんに言い渡されて、僕らは新川さんの運転する車で帰路につく。彼はあたりまえのように、僕とシェアしているマンションへと帰ってきた。
「涼宮さんの様子を見て来て下さった朝比奈さんに聞いたのですが、涼宮さんにはやはり、あの空間で僕らと会った記憶はないそうです。ただ、高校時代の夢を見ていたとは言ったそうですが」
 彼が飲みたいと言ったので、僕はコーヒーの豆を挽きながら報告した。たっぷり淹れろというので、いつもの倍量だ。
「彼女はただ、あなたに告白をして振られ、ショックのあまり部屋に閉じこもった、と思っているようです。いつの間にか寝ちゃったけど、おかげでなんだかすっきりしたわ、と言っていたと朝比奈さんが」
「そうか……」
「あきらめない、とも言っていたそうですよ?」
 難しい顔をしていた彼が、目を見開いた。僕は豆を挽く手をとめて、そんな彼を見つめる。
「あなたが、好きな相手の名をあげるのをかたくなに拒んだせいでしょうか。あたしを負かすくらいの相手だってあたしが認めるか、キョンよりイイ男を見つけるまでは、あきらめないんだからね、だそうです。男冥利に尽きるではありませんか」
「やれやれ」
 さすがハルヒだな、どこまで前向きなんだかとつぶやいて、彼は肩をすくめるいつものポーズで苦笑した。
「お前も少し見習ったらどうだ。顔も頭も平均以上の高スペックなのに、意味わからんほど後ろ向きな古泉一樹くん?」
「はは……褒めてるんだか貶してるんだかわかりません」
 ガリガリと豆を挽くのを再開しながら、どんな顔をすればいのかわからず、結局どこか情けない笑顔になるほかなかった。
「とりあえずお前は、ハルヒを負かすくらいの相手だって認められなきゃならんわけだな」
「無理でしょう……それ」
 僕が涼宮さんに勝てるといったら、身長と体力くらいのものだ。そんなものが、彼の争奪戦の役にたつとは思えないし、ほかに勝てる要素は見つからない。大体なぜ彼は、こんな僕を選んでくれたんだろう。もしかして、これは夢なのか。
 いつの間にか、豆はすっかり粉になり、ミルのハンドルはカシカシと空回りしていた。しばらく気がつかなかった僕がそのまま考え込んでいたら、額にごすっと彼の手刀が入った。
「あいたっ」
「まーた妙なこと考えてるな。いいかげんにしろ」
「いたた……考えたくもなりますよ」
 僕は額をさすりながら、グチめいた言葉をもらす。
「高校のときからずっと片想いで、絶対成就するわけないと思い込んで3年間ですよ? せっかく同居に持ち込めたと思えばすれ違ってばかりで、あげくにあなたに恋人が出来そうだって絶望して、死にたくなってたら、いきなり大逆転ですからね。たった今目が覚めて、全部夢だったのかって思う確率の方が、絶対高い気がします」
 ひと息にそう言うと、彼は眉を寄せてふーっとこれみよがしに溜息をついた。そして顔を上げて、僕の方に手を差し出す。
「古泉。それよこせ」
「はい?」
 思わず素直に、手に持っていたコーヒーミルを渡す。彼は受け取ったそれをローテーブルに置いてから、ちょいちょいと僕を手招いた。
「なんですか?」
 何事だろうかと身を乗り出したら、いきなり彼の腕が首に巻き付いて、引き倒された。いつぞやのようにソファに倒れ込んだ彼にそのままグイと引っ張られ、かみつくように唇を重ねられる。
「んむっ!」
 一瞬、混乱した頭が、事態を把握した途端に沸騰する。考えてみれば、彼からのキスは初めてだったはずなのだ。
 すっかりなじんだ感触の舌が唇を割って、するりと中に入ってくる。それを逃すまいと思い切りからめとりながら、彼の身体をソファに押しつけた。息もできないほどに唇を密着させ、離れてはまた口づけて、夢中で互いの唇と舌をむさぼる。唾液も息も混じり合って、もうどちらのものかもわからなくなってから、ようやく僕らの唇は離れた。
 かすかに息をはずませながら、彼は僕の両頬を手ではさみ、上気して潤む瞳で見つめて小さく笑う。
「これでも夢だと思うのか?」
「い……え……」
 確かに、彼はここにいる。触れた唇も熱い吐息もあたたかい身体も胸に感じる鼓動も、すべてが実在していると感じられる。
それでもまだ、夢のようだと言ったら、彼は怒るだろうか。笑うだろうか。
 もう一度、今度は軽く唇を触れあわせながら、彼の身体を抱きしめる。これは、このまま突っ走ってもかまわないのだろうか。どうしようもなく昂ぶっている僕を、彼はわかっているのかいないのか、特に抵抗する気配もないが……。
「あの……」
 殴られる覚悟でお伺いをたてようか、と思ったとき、いきなりインターフォンのベルがけたたましく鳴った。僕は心臓が止まるかと思うほどびっくりしたが、彼はそれほど驚いていない。
「な、なん……」
「森さんだろ? 書類持ってくるって言ってたじゃねえか」
 そういえば、そんなことを言っていた気がする。
 僕が身体を起こしてがっくりとうなだれていると、彼もソファから起き上がって、テーブルに置いたミルを手に取りニヤリと笑ってみせた。
「コーヒー、用意が間に合ってよかったな」
 確信犯かこの野郎。……あ、いえいえ。わかっててやってたんですね、この人は。
 彼はそのまま立ち上がり、インターフォンに応答してロビーのドアを開ける操作をした。僕はしかたなく、ちょっとトイレに行ってきますと断って席を立つ。さすがにこのままの状態で、女性の前には出られない。憎らしいことに、彼の方はまるで平気な顔をしていた。
「まったく……あなたがこんなに意地の悪い人だとは思いませんでしたよ」
 ぶつぶつ言って部屋を出ようとすると、彼がヤカンを火にかけながら、まぁそうあせるなよと笑った。
「時間も機会もいっぱいあるだろうが。一緒に住んでるんだしさ」
 一瞬で。本当に一瞬で、頭の中にさまざまな願望と期待と可能性が映像付きで駆け巡る。その直後、僕がダッシュでトイレにかけこむことになったのはいうまでもない。



 そしてそれから、夏休みまでの2ヶ月。
 涼宮さんの力は、再び安定を取り戻した。あのときの閉鎖空間を最後に彼女の力も消えたのではという意見もあったのだが、まさにあの閉鎖空間も安定したと思われていた中で起こったものである以上、まだ油断はできないというのが上層部の見解だった。
 実際、長門さんも、統合情報思念体から帰還の指示はこない、観測は続行と言っていたし、朝比奈さんの禁則事項も解除されないままだ。
 そんなわけなので、僕の“バイト”もいまだに続いている。
「そういやお前、ハルヒと一緒に留学しろとは言われなかったのか?」
 涼宮さんと長門さんを見送った後、滅多に来ない場所なんだから、と、彼と一緒に空港内の売店をひやかしている最中に、彼はそんなことを訊いてきた。
「長門がついていったろう。宇宙人側に遅れを取るなとか、言われそうなもんだが」
「もちろんあちらにも、すでにエージェントは手配済みですよ」
「そうなのか」
「さすがに機関も、僕の将来について考えてくれたんだと思います。任務は任務として、ちゃんと自分の学びたいことを学んでおきなさいって言われました」

 高校の頃は、僕はたぶん一生を涼宮さんに捧げることになるのだと思っていた。実際に、あのころの彼女の力は凄まじく、僕の一生を賭けてもどうにかなるようなものではなくて、僕も機関の誰もがいつ命を落としてもおかしくない状況だったのだ。さまざまな勢力が争いや陰謀等を繰り広げ、混乱はいつ果てるとなく続く。そんな中で僕は半ば絶望し、半ば諦観していた。こんな自分に、未来なんてあるはずはないと。
 だが彼女は、高校の3年間で心身ともに成長を遂げ、力を安定させるほど落ち着いてくれた。それは少なからず、彼の存在のおかげであるとは彼以外の誰もが認めることなのだが、たとえお礼を言っても返ってくるのは、なんのことだ、の一言だろう。
 僕が今、こんな風に普通の学生生活を楽しめているのも、愛憎入り交じっていた機関へ、ただ感謝の気持ちを送れるのも……そして、こんなにも誰かを愛する喜びを感じることができるのも、すべて彼のおかげなのに。

 それらはあえて口に出さずに、僕はにっこりと笑って言葉を継ぐ。
「まぁ、もし行けといわれたとしても、今回ばかりは断固として断ったでしょうね」
「ほう? めずらしいな、お前が任務に抵抗するなんて」
 何か食べていこうという彼に賛同してレストラン街に足を向けた僕を、彼がちょっと意外そうな顔で見上げる。周囲に人の姿はまばらだったが、僕は少しかがんで内緒話をするように、彼の耳元にささやいた。

「当然です。同棲してる恋人を置いてなんて、行けるはずありませんよ」

 途端に彼は、がしっと音がしそうな勢いで僕の顔面に手をかけ、ぐぐぐぐぐと全力で引きはがしにかかってきた。
「公共の場でそういうことをするなと、何度言えばわかるんだ、この鳥頭が」
「そんな、本当のことを言っただけじゃ……痛いですって」
「同棲とか言うんじゃねぇ、あと顔が近いんだよこの馬鹿っ!」
 思わず僕がよろめいて離れると、彼は腕を組んで僕をにらみつけ、くるりと踵を返した。そのまま肩を怒らせて、ものすごい勢いでホールを歩いて行ってしまう。だけど、その耳が真っ赤に染まっているのが遠目でも確認できて、僕は顔がにやけるのを止めることができなかった。
 恋人、の方は否定しないでいてくれた彼に、さてどうやって機嫌を直して貰おうかと考えながら、僕はその背中を追って歩き出した。


                                                     END
(2010.03.10 up)
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これにて同居開始編終了。
ちゃんとまとまってよかった……。
エロが入らなかったので、ぜひ近いうちに初夜(?)編を書きたいです。

きっとまた、古泉がぐるぐる悩む話だと思います(笑)