それはまるで夢のような
05

 
 彼が、僕らのマンションに戻らなくなって1週間が過ぎた頃。
キャンパスの学食で、涼宮さんと長門さんに会った。てっきり偶然かと思いそう言ったら、違ったらしい。
「有希が、古泉くんならここにいるって教えてくれたのよ」
「そうなんですか」
 どうやら探されていたようだ。それぞれ学食のランチで食事をすませながら、涼宮さんが僕に午後の講義はあるのかと聞いてきた。偶然かそれとも彼女の力なのかはわからないが、その日は午後に唯一あった講義が教授の都合で休講になり、ぽっかりと時間が空いていた。
「いえ。ちょうどヒマになったところです」
「ならちょうどいいわ。ちょっと付きあってくれる?」
「もちろん、団長様のお誘いとあらば、喜んで」
 学食に併設されたカフェテリアで、3人で薄いコーヒーをすする。涼宮さんは、彼女らしくもなく少し言いよどみながら、用件を切り出した。
「あのね、あたし留学しようかと思ってるの」
「え、そうなんですか?」
 僕は驚いて見せたが、実は機関から、その可能性もあると示唆されていたので知っていた。数週間前から、彼女が留学に関する資料を集め始めたと報告にあったからだ。
「夏休みにね、まずは様子見で短期留学してみようかなって。やってみて面白かったら、来年から本格的に行こうかなと思ってるのよ」
「それは、素晴らしい計画ですね」
 確かに、彼女のスケールの大きさは日本では収まりきれないのかもしれない。機関は海外でももちろん彼女の監視と安全の確保は怠らないだろうから、心配することもそれほどないだろう。
「それで……それでね……」
 はて、彼女は何を躊躇しているのだろう。
 首を傾げてから長門さんを見てみると、彼女はソーダ水のグラスを抱えてストローをくわえたまま、かすかにうなずいた。
「……キョンは、なんていうと思う?」
「彼、ですか?」
 おそらく答えは、いいんじゃないか? あたりではないだろうか。突拍子もないことや常識はずれのことではない限り、涼宮さんのすることに彼が反対するとは思えない。
「行くな、とか……言わないかな?」
「え?」
 小さな声で、ためらいがちにつぶやかれた言葉は、彼女の想いをあらわしていた。そうか、涼宮さんは彼に、留学を止めて欲しいのか。俺から離れないでくれとか、置いていくなよとか、そんな展開を期待しているのかも。
 だがそんなしおらしい態度は一瞬で、急に照れくさくなったのか、涼宮さんはいきなりカップに残ったコーヒーをがぶ飲みした。
「い、言うわけないわよねっ! 大体、雑用係のくせに、あたしのすることに逆らうなんて、もっての他だわっ!」
「涼宮さん」
「何よっ!」
「もう、言うべきですよ。彼に」
 ピタ、と彼女の動きが止まった。
「……古泉一樹」
 僕が何を言おうとしているのか察したのか、長門さんが僕を呼んだ。だが、止める気はなかった。
「あなたが、彼をお好きなのはみんな知ってます。僕も、長門さんも、朝比奈さんもね」
「な……あたしはキョンなんか……!」
「もうやめましょうよ、涼宮さん。子どもではないのですから、そろそろ大人の恋愛にステップアップしてもいいころです。彼に、告げましょう。……あなたの愛を、ね」
「こ、古泉くん……」

 僕はあまりに自分勝手だ。
 彼が、僕のものにはならないのはわかりきっている。だからせめて、相手は涼宮さんであって欲しいなんて。涼宮さんとならあきらめられるという以外に、彼女ならば今後もきっと監視が必要だから、そのためにずっと彼の身近にいられるだろうという計算も働いている。他の……たとえば桜井さんのような女性であれば、そういうわけにもいかない。そんな姑息なことを考えて、涼宮さんすら利用しようとする自分がたまらなく嫌だ。
 だけど、もう僕に残されているのは、こんな方法しかない。これからも彼の側にいるためには。彼との間にかすかにつながれていた友情すら、失いかけている今となっては―――。

「キョンは……あたしのこと、どう思ってるのかな……」
 黙り込んで十数分後、涼宮さんがようやく言葉を発した。真っ赤に頬を染めて下を向き、ストローの入っていた袋をぐしゃぐしゃといじりながら、ためらいがちにつぶやく。可愛いな、と思いながら、僕は微笑んだ。
「大丈夫ですよ。僕の見たところ、彼もまんざらではないはずです。高校時代のことを思い出せば、あなたにだってわかるでしょう?」
「うん……」
 長門さんが、じっと僕を見つめている。彼女の親玉、統合情報思念体はどんな判断をくだすだろう。基本的に観測が主目的の彼らなら、おそらく余計な干渉はしてこないとは思うが。
「ゆ、有希は……どう思う?」
 僕の思いを読んだかのように、涼宮さんが長門さんに話を振った。彼女は僕から視線をはずし、涼宮さんの方を見る。僕の観察眼が正しければ、彼女も彼になんかしらの好意を抱いていたと思うが、彼女がそれについて告げることは、おそらくないだろう。
「……わからない。恋愛感情については、私は正確な判断を下すことができない。データが、あまりに少なすぎるから」
 長門さんの表情に、困惑や戸惑いのようなものが見える。人間らしくなったな、と僕はなんとなく場違いな感慨をもって長門さんを眺めた。
「彼に、涼宮さんから話があるらしいと、伝えましょうか?」
「そ、うね……」
 まだためらう素振りを見せる涼宮さんに、僕はだめ押しのように、そう難しく考えないでと言いつのる。
「留学のことを、相談したいと言えばいいじゃないですか。彼の意見を聞いて、その流れで自然に告白すればいい。かたく考えることもないですよ」
 彼女の瞳が、決意の色に染まる。ああ、なんて凛々しくも美しい。
1度決めた後は、彼女はすがしいまでにいさぎよくまっすぐに、目標に向けて突き進む。その行動力とまがらない意志は、少し分けてもらいたいほどだ。
「わかったわ。女は度胸よね! 待ってなさい、キョン。あんたを死ぬほどびっくりさせてやるんだからね!」
 立ち上がって腕を組み、涼宮さんはにやりと笑う。とても告白を決意した女性の態度とは思えないが……とてつもなく彼女らしい。
「じゃ、古泉くん。キョンの呼び出しお願いね! 決行は明日の午後4時! 場所はそうね……北高の校庭よ!」
「了解しました。伝言はたしかに、賜りましたよ」
 彼が聞いたら、そりゃ告白じゃなくて決闘だろ、なんて言いそうだ。僕はくすっと小さく笑って、長門さんをひきつれて食堂をあとにする涼宮さんを見送った。

 ……さて、それでは僕も、決着をつけなければ。



「もしもし、古泉です」
『ああ……』
 昼休みが終わらないうちに、と、すぐに彼に電話をかけた。
出てくれないかもしれないと思ったが、彼は3コールで電話をとってくれた。どうやら彼も大学のキャンパスにいるらしい。
「今、お電話大丈夫ですか」
『もうすぐ講義がはじまるんだが、長い話か?』
「いえ……電話口ではちょっとはばかられるお話なので、今夜にでもお時間とれませんか? ……それとも、バイトがお忙しいですか」
 さすがに今のは、嫌味だったろうか。そう思っていると、電話の向こうで彼は一瞬押し黙り、やがて溜息混じりに答えてくれた。
『10時ごろには終わるから、そのあとでいいか。今日は、そっちに帰るよ』
「はい……お待ちしています」
 通話が切れた。僕は、明滅をやめた携帯のディスプレイを、じっと見つめた。
“帰る”と。
僕とともに暮らすあの場所へ、帰ると、まだ言ってくれるんですね。
……それもたぶん、今夜かぎりなのだろうけれど。



 約束通り、10時を30分ほどまわったころ、彼は僕らの部屋へと帰ってきた。
「ただいま」
「……お帰りなさい」
 ご実家はどうでしたか、とは聞かない。彼の嘘は聞きたくない。本当である可能性もあるが、分の悪い賭けはしたくない。
 彼は荷物をそのへんに放りだし、部屋の中をきょろきょろと見回した。
「もっとひどい有様になってるかと思ったが、そうでもないな」
「あはは。失礼なこと言ってますね」
 リビングは、彼が出て行く前とそう変わらないと思う。とりたてて散らかってもいないはずだ。……リビングは、ほとんど使っていないから。ただし僕の私室の方は、かなりひどい状態になっている。まぁ、言わなければわかるまい。
 コーヒーを淹れていると、彼がキッチンスペースをのぞきにきた。大丈夫ですよ、ここもそれほど散らかってはいませんから。
「古泉……。お前、ちゃんとメシ食ってたか?」
「え、ええ……まぁ、はい」
「流しとか、使った形跡がないんだが」
「ほとんど外食ですませてしまったので」
 そう言うと彼は眉をひそめ、不経済だな、学生のくせにとぶつぶつ言った。僕はコーヒーの入ったマグカップを持って、彼をリビングのソファへとうながした。
 ローテーブルをはさみ、僕らは向かいあって座って、マグカップに口をつける。
「それで、電話口ではばかられる話ってのは、なんだ」
「話というか、伝言なのですけど」
「伝言?」
 僕はマグカップをテーブルに置き、涼宮さんの言葉を伝える。
「涼宮さんからの伝言です。明日の午後4時に、北高の校庭に来て欲しいそうです」
「はぁ? なんだそりゃ、果たし合いか?」
 思った通りのリアクションに、つい吹き出した。
「違いますよ、嫌ですねぇ。親しい女性から、思い出の場所への呼びだしなんて、別れ話か、そうでなければ告白に決まってるじゃないですか」
「……!」
 彼の表情がこわばる。僕は彼の顔の変化をつぶさに観察しながら、にこやかな笑顔を崩さずに続けた。
「涼宮さんが、やっと素直になろうとしてくださってるんです。あなたも真摯に、それに答えないと失礼というものですよ。心の準備をお願いしますね」
「ハルヒ、が……」
 彼が、何かを言いたげに僕を見る。
 ……さて、それでは引導を渡そうか。長い長い間、じめじめした胸の奥に押し込み続けたせいで、腐りかけているこの想いに。ちゃんと処分してやらねば浮かばれない。
「それで僕は、その準備のお手伝いをしようと思いましてね」
「お手伝いだと?」
「ええ。あなたが、心置きなく涼宮さんの想いを受け入れられるように。……あなたは僕が、涼宮さんのことを好きだと、そう思ってますよね」
「まぁな」
 痛みをこらえる顔で、彼がうなずく。僕は貼り付けた笑顔のままで、違うんですよと率直に告げた。
「違うって……」
「違うんです。僕が、高校時代からずっとずっと好きだったのは、涼宮さんじゃなくて」
 さすがにその一瞬は、笑顔は保てなかった。

「あなたですよ。知らなかったでしょう?」

 だからあなたは、気兼ねせずに涼宮さんの告白を受け入れていいんです。身代わりの女性とお付き合いなんてしなくていい。堂々と、彼女の手をとってください。
 息継ぎもせずにそう言うと、彼は呆然としたまま、唇に手を当てた。ああ、そうだ。それも謝らなければ。
「すみません。僕には、酔ってキス魔になる酒癖なんてありません。ただ、あなたとキスがしたかった……それだけで。あなたを騙してました。お詫びのしようもありませんが、なんでしたら殴るなり蹴るなり、お気のすむようにしてくださっても」
 彼は表情をこわばらせたまま、微動だにしなかった。ショックを受けているのか、それとも気色悪さに耐えている? 知らぬ間に身にさしせまっていた危険にいまさら気づいて、戦慄をおぼえているのかもしれない。
 僕はようやく笑顔を回復させて、肩をすくめた。
「そんなに心配なさらなくても、僕はそんなに理性のもろい人間ではありませんので、同居にあたっては普通に友人として接していましたよ。あやしげなことは……あのキス以外は、誓ってしていません」
 だけど、と僕は続けた。
「機関の一員として、監視目的でルームシェアを申し込んだのではないと、それだけはわかって欲しいと思います。僕は、あなたの側にいたかった。僕は僕の意志であなたとの同居を望んだのだと、それだけは誤解しないでくださいね」
 いきなり彼は立ち上がった。僕が顔を上げられずにいると、そのまま荷物ももたずに部屋を横切り、玄関から出て行ってしまった。たぶんもう、二度と戻ってはこないだろう。
 僕はそのまま朝まで、リビングに座り込んでいた。彼が飲み残していったコーヒーのマグカップを見つめたまま。泣きたいと思ったけれど、涙のひとつも、嗚咽のひとつも出やしなかった。心のどこかが、確かに死んだと思った。
 自ら葬った長い片恋を悼む気持ちで、僕はただそこから動けないでいた。



 思ったとおり、その後、彼からの連絡はなかった。彼の置いていった荷物を彼の部屋に持って行くときにちらりと中身を見たが、携帯や財布などのなくては困るようなものは入っていないようだ。次に連絡があるときは、おそらくルームシェア解消の要請であろうと思いながら、僕は主のいない彼の部屋をぼんやりと眺めた。
 デスクに置かれた時計が目に入る。そういえば、涼宮さんの指定した時間はそろそろだったな。時計の針は、午後4時をいくらか過ぎているから、もう彼らは顔をあわせたところだろうか。僕に関する誤解も解いたことだし、彼がちゃんと彼女の想いを、照れずに受け入れてくれるといいのだが。
 ……まさか、桜井さんに義理立てして断ったりしないだろうな? 僕はふと浮かんだその考えに、眉をひそめた。
 この間彼は、まだお付き合いには至っていないと言っていた。どうみても桜井さんは、涼宮さんを忘れるための身代わりだとは思う。だが律儀な彼のことだ。もし、交際の申し込み済みだったりしたら、フタマタなんてもってのほかと、涼宮さんの方を断りかねない。
 しまったな、と僕はつぶやく。もう少し告白の日程をあとにしてもらい、その前に桜井さんについて調べてなんとかしておくべきだったかもしれない。

「――――っ!!」
 そのとき、しばらくぶりの感覚が僕を襲った。
全身に鳥肌がたつような、冷たい手でわしづかみにされるようなこの感じ。
キィーンという耳鳴りが、脳をつらぬく。
胸のポケットに収まっている携帯が、着信音をわめきだす。

 それは、久しぶりにして最大規模の、閉鎖空間出現の合図だった。


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(2010.03.04 up)

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