それはまるで夢のような
04

 
翌日、目が覚めた瞬間、ゆうべの記憶がよみがえって青ざめた。
酔った勢いで、とんでもないことをしてしまった。
 二日酔いなのかガンガンする頭でまず思ったのは、彼にどんな顔をして会えばいいのだろうかということだった。とりあえず前後不覚だったことにして謝るしかないが、僕の気持ちはバレてしまったかもしれない。彼は一体、どう思っただろう。もしかして、相当引いているだろうか?
 実家に戻るとか言われたらどうやって引き留めよう、などと考えながら顔を洗って、僕は意を決してリビングへと向かった。彼はソファでコーヒーを飲みながら、新聞を広げていた。
「……おはようございます」
「ん。おはよう」
 恐る恐る声をかけると、彼は新聞からか目を離さずに挨拶を返してくれた。
あれ? いつもと同じだ。
「あの……ゆうべは申し訳ありません。かなりご迷惑をかけたみたいで……」
「ああ。まぁ、あれくらいならかまわんぞ。お互い様だ」
 あれくらいって。その中には、あのキスも入っているんだろうか。それとも、まさかの夢オチかと内心で首を傾げながら聞いてみる。
「えーと、その……僕、あなたに……たいへん失礼なことを、しましたよね?」
「ん? ああ……アレか」
 ようやく彼が新聞から目を離し、僕の方を見て顔をしかめた。僕は思わず、土下座するべきかと身構える。だが彼の口から出てきた言葉は、怒りでも軽蔑でもなかった。
「酔うとキス魔になるとは知らなかったな。お前、ゆうべのことは俺だったから冗談ですませてやれるが、気を付けろよ。相手によっちゃシャレにならんぞ?」
 キス魔……?
 どうやら彼は、ゆうべのあれは、僕の酒癖の一種だと思ったらしい。別にそんなことはないのだが……ここは、そういうことにしておいた方がよさそうだ。
「はは……。ご忠告、肝に銘じます」
「ああ、そうしろ」
 そっけなくそうつぶやいて、彼は再び新聞に視線を戻した。なんとなく拍子抜けした気分で、僕はシャワーを浴びるべくバスルームへと足を向ける。そうして、まだ彼の唇の感触が残っている気がする自分の唇を、指でそっとなでてみた。
 よかったと安堵する気持ちと、さらりと流されてしまったことへのくやしさが、胸の中でないまぜになってモヤモヤとわだかまっている。はじめて彼に触れた記憶は、酒の上での戯れとして、彼の中にあっという間に埋もれてしまうだろう。
 その事実が、ただ苦しかった。



 その一幕があってからというもの、ときどき酒を飲んで帰る悪癖が習慣化した。
飲酒自体が目的なわけではない。僕は、彼のバイトがなく確実に家にいる日を狙い、手っ取り早く酔うために強い酒を立て続けにあおってから、そのまま家に帰る。毎日でないのは、理系の学生としての本分を忘れたわけではないからで、レポートや課題の提出をおそろかにするわけにはいかなかったからだ。そうでなければ、もしかしたらアルコール中毒になるほど、この行為を繰り返してしまったかもしれない。

「ただいま……帰りました」
「おかえ……って、またかよ古泉」
 したたかに酔って戻った僕を、彼があきれた顔で迎える。僕はにっこりと笑って、すみません、先輩につかまってしまってといつもの言い訳をした。
「性質の悪い先輩に気に入られたな、お前」
 やれやれと言いつつ、彼が肩を貸してくれる。照明をつけないまま自分の部屋に入り、ベッドに倒れ込む。そして僕はいつものように、彼の腕をつかんでひいた。
 抵抗はない。3回目あたりから、まったくしなくなった。彼は僕の手にひかれるまま、ベッドの上に仰向けになって、されるままに僕のキスを受け入れる。僕は彼に覆い被さるような体勢でむさぼるように唇をあわせ、舌を差し入れて彼の舌をからめとり息を奪った。何度も角度を変えて繰り返すうちに唾液も混じり合い、唇の端を伝い落ちる。彼の手が、僕のシャツの胸あたりをきつくつかんだ。
「ん……っ」
 息苦しくなったのか、彼が唇をずらして息をついた。舌を伸ばして、離れた唇をしつこく追いかけると、彼も誘われたようにそっと舌を出してくる。僕らは湿った水音をたてて、やわらかく生温い舌をからめあった。最初のうち、僕の乱暴なディープキスに翻弄されるばかりだった彼も、繰り返すうちに随分とうまくなった。目を閉じて頬を紅潮させた表情は気持ちよさそうにも見えるが、ただ苦しさをこらえているだけかもしれない。わからない。
 やがて双方の息があがるころ、僕は無言で唇を離し、目を閉じてベッドに倒れ込む。彼が立ち上がり、僕に上掛けをかけて部屋を出て行くのを確認してから、僕は溜息をついた。

 こんなことをするためにだけ、僕は酒を飲んで帰る。
なぜか彼は、僕のこの行為を許容してくれていた。本当にキス魔なのかとか、憶えているのかとかも、まったく尋ねてこない。彼がどう思っているのかわからないが、僕はただ、彼とのこの行為に溺れていた。深く考えることを、頭が拒否していた。

 だがやがて、考えざるを得ない事態が進行していることに気がついた。最初はたまたまだと思ったが、続くうちにそれは確信へと変わっていった。
 彼のバイトの日が増え時間が徐々に伸び、やがてほぼ毎日、日付が変わる頃まで帰ってこなくなったのだ。たまに家にいる日もあるが予定として定まってはおらず、帰宅してみたら彼がいた、という状態では、わざと酔って帰ることもできない。
「バイトに精を出しすぎではありませんか」
「人手が足りないらしくてな。頼まれると断れないんだ」
「勉強の方は大丈夫なんですか?」
「ああ、文系は理系ほど忙しくはない」
 きっぱりとそう言われてしまえば、それ以上反論もできない。
 本当に忙しいのかもしれないが、もしかしたらという思いが消せずにいる。だがまさか、僕の酒癖から逃げているんですかと聞くこともできなかった。肯定されたら、きっと立ち直れない。
 仕方なく僕は、身体には気を付けて下さいねと言うにとどめるしかなかったのだったが……。



 ――やめておけばよかった。
 真実は時に、とてつもなく残酷だ。

 彼のバイトが本当に忙しいのか、働いてくれるように頼まれて断れないだけなのか、確かめる気になった。
 せっかく一緒に住んでいるのに、彼とはこのごろすれ違ってばかりだ。僕が家を出ようとする頃には彼はまだ寝ていて、帰ってくるころにはバイトに行っている。帰宅は相変わらず深夜で、午前中の授業が多い僕は先にベッドに入らざるを得ない。気がつけば1ヶ月以上も顔を見ていないことに気がついて、愕然としたのが今朝のことだ。僕自身もレポートや機関への報告書に追われていたとはいえ、これでは一緒に住んでいる甲斐がない。
 僕が、監視の義務のために自分と同居しているのだと思っている彼の誤解は、結局解かないままだから、このままでは友人ですらいられなくなるかもしれない。そんな恐怖に襲われて、僕は授業が終わったあとに、彼のバイト先へと足を向けた。

 確かに、彼の働くカフェは繁盛しているようだった。学生が客層のほとんどのようで、オープンテラスのしゃれた雰囲気のわりに値段は高くないのが繁盛の理由だろうか。僕はあえて店には入らず、向かいにあった焼き鳥屋の入り口近くのカウンター席に腰を据えて、安い酒を舐めながら彼の様子をうかがった。
 やがて夜が更けたころ、彼の姿が店内から消えた。どうやらシフト交代の時間らしいと察し、僕はあわただしく会計をすませて店の裏側にまわってみた。勝手口らしきドアの見えるところで待っていると、やがて彼がお先に失礼しますといいつつ出てきた。時間を確認してみると、まだ10時をまわったところだ。このまままっすぐ帰れば、30分後には家に着く。いつも彼が帰ってくる深夜にはまだほど遠い。今日はたまたま早く上がる日だったのかと思い、自分もこのまま帰るべきかと考えた。
 ――と、次の瞬間、僕は自分の目を疑った。

 彼女、だ。

 桜井というあの女性が、彼と一緒に出てきた。2人は何やら楽しげに話をしながら並んで歩き出した。駅とは逆の方向へと。こっそりあとを付けていくと、彼らはそのまま、いかにも女性が住みそうな小綺麗なアパートへとたどりついた。もしかして、送ってきただけかもしれないという僕の淡い期待は裏切られ、彼らの姿は2階の一室へと吸い込まれていった。
 窓に明かりが灯る。グリーンのカーテン越しに、人影が動いている。僕はその人影を見つめたまま、アスファルトに縫い止められたかのように、動けなかった。



 どうやって家まで戻ったのか、憶えていない。
 気がついたら僕は、自宅のリビングのソファに明かりもつけずに座り込んでいた。
ガチャと鍵のまわる音で我に返り、玄関に人の気配を感じて彼の帰宅を知った。無意識に時計を見ると、時刻はいつもどおりに深夜。彼はあのまま彼女の部屋で時を過ごし、終電で帰ってきたのだろう。
「……おかえりなさい」
「うおっ! ……びっくりした! 何やってんだ古泉。明かりも付けないで」
 彼が壁を探り、リビングの照明をつける。まぶしさに目をすがめながら、僕はバッグを肩から外して、薄いジャケットを脱ぐ彼を眺めた。
「遅かったですね」
「ああ、バイトが長引いてな」
 僕と目を合わさずに、彼は嘘をついた。
 ふいに笑いたくなる。ダメですよ。嘘をつくなら、ちゃんと顔を見ながらじゃないと。笑顔のひとつも作りながら堂々と言わないと、すぐにばれてしまいます。
「俺は寝るが、お前は起きてるつもりか? 明日も講義あるんじゃないのか」
「明日もバイトですか?」
「ん、ああ。帰りはまた、このくらいになるな」
 1ヶ月ぶりの会話が、嘘の応酬か。僕はついに、くすくすと笑いをもらしてしまった。
「古泉?」
 僕の様子が心配になったのか、彼が近づいてきて僕の顔をのぞきこむ。どうしたんだ、と言いかけるのをみなまで聞かずに、彼の腕をつかんで、その身体をソファに押し倒した。驚いて目を見開く彼の唇に、くちづける。強引に唇を割って舌をねじこめば、反射のように彼は僕の舌に応えてきた。
「ちょ……古泉、お前酔ってんのか」
 ひとしきり舌を絡め合ったあとに、彼の手が僕の顔を押して唇をひきはがす。またいつもの酒癖だと思ったのだろう、眉をしかめて聞いてくる彼に、僕はただ微笑んだ。そういえば彼を待つ間に安い焼酎を何杯か飲んだから、まるっきり素面というわけでもない。酔ってはいないが。
「ほどほどにしとけよ、お前も……」
 溜息混じりにつぶやく彼の言葉を途中で遮る。
「――なんで、彼女なんですか?」
「え?」
 彼の身体を足で押さえ、両手を顔の両側に置いた体勢で、上からのぞき込む。彼は僕の顔を見上げて、また不審な顔をした。
「桜井さん、でしたっけ? バイトでこんな時間になるなんて、嘘でしょう? いつも彼女の部屋に寄ってたんですか」
「お前、なんで知って……」
「どうでもいいです、そんなこと。なんで、彼女なんですか。なんで……」
 僕じゃダメなのか、とはさすがに言えなかった。僕が彼にとってそういった対象に入るとは思っちゃいない。でも、いきなり現れたあんな女に彼を攫われるのは、我慢できなかった。
「……なんで、涼宮さんじゃ、ダメなんですか?」
 きゅ、と彼が唇をかたくなにひき結んだ。
「涼宮さんの力は、安定を見せはじめているものの、数値的にはまだ未知数です。どんなきっかけで再び力が活性化するかわからない。あなただって、承知のはすでしょう? あまり彼女を刺激するようなことは、しないでいただきたい」
 こんな詭弁は卑怯だと、わかっていた。でも、止められない。
 せめて涼宮さんなら。世界を救うためだと思えば、しかたないとあきらめられる。……あきらめられるはずだと、自分をごまかせる。
「もしかして、僕に遠慮してます? 知ってますか。僕、けっこうモテるんですよ。その気になれば、彼女なんていくらでも作れます。だからあなたは、気にせずに涼宮さんと……」
「お前は、いつもそれだな」
 何が? 彼の表情は怒っているようにも、苛立っているようにもみえた。
「優先順位を間違えるな。前にも言ったがハルヒはもう、自分の感情だけで世界を壊すような子どもじゃない。お前が、そうやって自分を殺してまであいつの望みを叶える必要はもうないし、鍵だなんだと俺なんかを守ることもしなくていい。お前は、お前の大事なやつを守ってればいいんだ」
「僕は……」
「……いつまでも、俺をそいつの身代わりにしてんな」
 違う。そうじゃない。身代わりなんかじゃないのに。

 僕はもう、あなたの側にいることすら、許されないんですか……?

 ソファから動けない僕を押しのけて身を起こし、彼はソファから降りて自室の方へ歩き出した。ドアが閉まる前、おやすみとつぶやく彼に、僕はようやく声を絞り出す。
「彼女と……桜井さんとお付き合いしてるんですか」
 彼はドアの隙間から、苦いような辛いような笑みを見せた。
「いや……そこまではいってねえよ。まだ、な」
 パタン。音をたてて閉じられたドアは、もうそれきり開かなかった。

 翌朝、テーブルの上に彼の置き手紙があった。
しばらく実家に戻る、と書かれた紙切れを眺めながら、僕は彼が本当に実家に戻ったのか、それとも彼女の部屋へと居を移したのか、確認するのは今度こそやめよう、と思った。


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(2010.02.28 up)

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