それはまるで夢のような
03

なんだか、いろいろと納得がいった。
 高校時代、彼と涼宮さんはどうみてもお互い好きあっているように見えた。それでも結局、彼らは自分の気持ちをはっきりさせることはせず、あいまいな友達以上恋人未満といった関係のまま卒業を迎えた。
 なぜだろう、とは、よく思った。何が、2人の仲にブレーキをかけているのだろうと。もしかしたら本当に彼は、彼女に恋愛感情は持っていないのかもしれないと思ったこともあった。若干、個人的な願望が入っていたことは否めないが。
 だが今回のことで、はっきりしたと思う。彼は、僕が涼宮さんのことを好きなのだと思っていたのだ。だから、僕が役目上、彼女に近づくことができないことを慮って、涼宮さんに告白しなかったということなのだろう。彼は、フェアな人だから。

 もしそうなら、僕……“機関”の一員たる僕のとる道はひとつだ。
 すなわち、彼の誤解をすみやかに解き、涼宮ハルヒとの仲を取り持って、彼女の力を完全消滅させるか、コントロールを可能にする。
 機関の主流派は、安定し微弱になりつつある涼宮さんの力がこのままおだやかに消滅することを願っているが、実は中には彼女を刺激し、その力を復活させようと企む過激な一派も存在している。そんな連中の手が伸びる前に彼女の力をどうにかすることが出来れば、それは世界をより安定に導くことになるだろう。
 彼が涼宮さんに愛を告げれば、彼女は間違いなくそれを受け入れる。高校の頃ほどの強い執着はなくても、彼女はいまだに彼のことが好きなのだから。きっと、なんの障害もなくふたりは結ばれることと思う。めでたしめでたしだ。

 理性は確かに、そうしろと言っている。
高校の頃の僕ならおそらく、悩んだ末に彼の誤解を解く道を選んだだろう。あの頃の僕には、他に選択肢はなかった。
世界のため、という言葉にがんじがらめにだった僕に、涼宮さんや機関に逆らってまで彼に手を伸ばすようなことは、きっとできなかったに違いない。
 だが、今の僕には、彼をあきらめることこそが難しい。
涼宮さんの力が弱体化しているという事実。そして、彼を想い続ける3年の間に、僕の中で暴力的なまでの勢いで育った、恋心という名の欲望。それらが僕の中で、理性の注進をとどめようとせめぎあう。
 積極的に行動に出る勇気はない。
でも、黙っているだけなら。
彼に誤解したままでいてもらえれば。
彼と涼宮さんは、きっとこのまま。

(――最低だな、僕は)

僕は今、己の欲のために、彼も彼女も機関すら裏切ろうとしている。
なんという卑怯者だ。
本当に、反吐がでる。



「……いずみ……古泉!」
「あ、はい」
「何をボーッとしてんだ。聞いてたか?」
 そういえば今は、彼と朝食をとっている最中だった。今日は2限からだという彼は、のんびりとベーコンエッグをつついている。まずい。自分の考えに沈んでいて、彼の話が聞こえていなかった。
「えっと……すいません。考え事をしてました」
「やれやれ。……今日から、バイト始めるって言ったんだよ。学校の近くのカフェでな。ウェイターだ。遅くなるから、メシは先に食っといとくれ」
「そうなんですか。毎日ですか?」
「いや、週に3,4日だ。あんまりそっちばっかりやってると、家のこと出来なくなるし」
 同居開始のときの宣言通り、掃除やら洗濯やらの家事は彼が率先してやってくれている。実家にいるときは母親まかせだったというが、やってみれば意外とマメに様々なことをこなしてしまっていた。彼がいうには、妹の世話をずっとしていたからだという。兄貴っていうのは、妹に手本を見せないといけない存在なんだと彼は肩をすくめながら言った。
「僕に出来ることがあれば、お手伝いしますよ?」
「お前が手出すと、二度手間になるからなぁ」
「はは、すみません……」
 家事能力がゼロに等しい僕が何かをしても、結局やり直すことになるらしい。反省することしきりではあるのだが、この不器用さはいかんともしがたいのだ。
「では、いちおう連絡先だけは教えておいてくださいね」
「ん、わかった」
 彼がうなずいて、携帯を出して操作をはじめた。バイト先の電話番号を探しているのだろう。僕も自分の携帯を取り出してから、ふと言い訳じみたことを口に出した。
「あの……これは監視の都合上とかではなくてですね、あくまで同居人として、なにかあったときにあなたに連絡をとるために」
 彼が顔をあげ、きょとんとして目をしばたたく。
 そして、少し困ったように眉を寄せて苦笑した。
「ああ、わかってる。……あのときは酔ってたんだ。あんまり気にしないでくれ」
「でも」
「そういや、先輩たちもお前に謝っといてくれって言ってたな。酔っぱらって、初対面なのに失礼なことを言ったって。今度、一緒に飲もうってさ」
 藤川氏か。なかなかに律儀な人だ。そうだな。彼の知人と交流を持っておくのも、悪くないかもしれない。
「はい。別に気にしていないとお伝え下さい。お誘いならぜひ、とも」
「女性陣が、お前を連れてこい連れてこいってものすごいうるさかったから、気を付けろよ。油断してると喰われるぞ」
「はは。それは怖いですね……」
 確かに、僕の両脇にいた2人には食いつかれそうな迫力を感じた。機関では周り中が大人だったため年上の女性にはなれているが、さすがにあしらえる自信はない。
 そういえばあの場には、肉食そうなあの2人の他にもう1人女性がいたな。ちょっと朝比奈さんに似た感じの。そう思ったとき、彼がお前がいいなら伝えとくぞと言った。
「バイト、桜井さんと一緒だからな」
「桜井さん?」
「あのとき、俺の隣あたりの席にいたろ。ふわふわロングの」
「ああ……」
 今、僕が思い出していた彼女のことらしい。桜井というのか。
 僕がひっそりと胸のうちでつぶやいたとき、彼が言った。
「な、彼女さ、ちょっと朝比奈さんに似てると思わないか?」
 そういう彼の表情が気のせいかとても嬉しそうに見えて、僕は胸がざわりと騒ぐのを感じた。



 胸騒ぎが形になって目の前に現れたのは、1週間ほどがたったある日のことだ。
 実を言えば、1人でショットバーに入るのは、その日がはじめてだった。
適当に選んだ店にしては内装も趣味がよく、酒の種類も多い。僕は1人でカウンターに座り、マスターにお勧めを聞いて1人でグラスを傾けた。
 さっき、彼に頼まれた忘れ物を届けるために、彼のバイト先を訪ねた。あまり彼のイメージではない瀟洒たカフェだったが、制服姿の彼はなかなか板についたウェイターぶりを発揮していて、とても目に楽しかった。彼は恥ずかしいからあんまりじろじろ見るんじゃねえと悪態をつきつつも、礼だと言ってコーヒーをごちそうしてくれた。
 そこまではよかったのだ。だがシフトが変わったのか、途中から彼女……桜井さんがフロアに現れた。彼女は親しげに彼に話しかけ、肩に触れ、彼もまた嬉しそうに彼女に答え、微笑みをかわしあった。そうして笑うと、彼女はやはり朝比奈さんに雰囲気が似ていて、それはつまり、彼の好みのタイプであるということだ。
 僕はいたたまれなくなって、彼に挨拶もせずに店を飛び出した。駅前まできたはいいが家に帰る気にならず、ふらりとこのバーに入ってみたのだった。
 そういうことだよな、と心の中で吐き捨てる。
 僕が策を弄して彼と涼宮さんの仲を邪魔しようが、きっと彼は、いずれ他に可愛い恋人を見つけるだろう。あの桜井さんのような。僕が何をしようがしなかろうが、彼が僕を見ることはない。毎日、一つ屋根の下で彼を身近に感じながら暮らすという僥倖につい浮かれて、そんな基本的なことを忘れていた。
 最も近くにいるということは、最も近くで彼が他の誰かと幸せになるのを見ることになる、ということなのだ。のんきに喜んでいる場合じゃなかった。僕はバカだ。
 2杯目を注文したとき、カウンターに座っていた僕の隣に、誰かが座った。そんなに混んでいるわけでもないのに、なんだって隣に、と思って顔をあげると座っていたのはなんとなく見覚えのある女性だった。ベリーショートの髪に、赤いピアス。誰だっけ。
「やっぱり、古泉くんだ」
「えっと……」
「あたしのこと、覚えてない? こないだの飲み会で……」
 ふふ、と笑う彼女の顔を唐突にはっきりと思い出した。ああ、彼を迎えに行ったときに席にいたうちの1人だ。ただし、確かに名乗られたはずの名前はさっぱり覚えていない。
「ああ……先日はどうも」
「今日は1人なのね。どしたの、こんなとこで」
「彼に忘れ物を届けに来た帰りなんです。あの……バイト先に」
 ああ、あそこね、と彼女はうなずいた。
「藤川くんの紹介ではじめたっていってたとこね」
 それは初耳だ。てっきり僕は、桜井さんの紹介なのだと思っていた。
「サクラちゃんもいたでしょ。うちのサークルの子、一度はあそこでバイトするのよね」
「そうですね。彼と仲良さそうでしたよ」
 ほとんど自棄でそういうと、彼女はちょっと意地悪く笑った。煙草、いい? と聞かれてうなずくと、黒いシガーケースから細身の煙草を取り出し、くわえて火をつける。
「彼、サクラちゃんみたいなのが好みっぽいね。年上好み?」
「そう……ですね。高校時代に彼があこがれていたのも、彼女に似た上級生でした」
 わかりやすいわぁ、と彼女は笑って、煙草をはさんだ手で頬杖をついて僕を見た。立ち上る紫煙の向こうから、彼女がからかう口調で尋ねてくる。
「それが、古泉くんの片思いの子?」
「ち、違いますよ」
「へぇ……なんか複雑な関係っぽいね、君たち」
 彼女の瞳が好奇心に輝く。ああ、なんだかやっかいなのにつかまってしまったのかもしれない。深く突っ込まれたら、答えられないのに。
「ねぇねぇ、古泉くんの好きな子も、高校のときの人なの?」
「ええ……まぁ」
「告白しなかったの? 古泉くんくらい格好良ければ、女の子なら誰でもOKしそうだけどなぁ」
 女の子なら、あるいは可能性はあったかもしれませんね、と僕は胸の内だけで答える。でも残念ながら僕の場合は、おそらく対象にすら入ってないはずですよ。
「いえ……相手にも、ほかに好きな人がいましたから……」
「そんなの、奪っちゃえばいいじゃない。古泉くんなら、ちょっと強引に押したら案外なびいちゃうかもよ? 女の子はそういうの好きだしね!」
「そんなわけにはいきませんよ」
 苦笑しながらそう言ったとき、僕はこの彼女が実はかなり酔っていることに気がついた。たぶんここは、2軒目なのだろう。
「あーもう! 最近の男って、みんな草食系なんだからっ! で、その彼女は、片思いの相手とうまくいっちゃったの?」
「いえ……。まだ友達以上恋人未満のような感じで……」
「ぬるいわね! そんなはっきりしない男に遠慮なんかしてないで、今度その子に会ったら情熱的なキスのひとつもしちゃいなさいよ。腰が抜けるようなヤツ!」
 無茶なことを言ってくれる。しかたなくニコニコと笑いながら黙っていると、彼女は業を煮やしたような顔で、吸っていた煙草を灰皿にぎゅうぎゅうと押しつけた。なにやら彼女自身に、苦々しい思い出のひとつもありそうな剣幕だ。
「そんなのんびりしてるとねぇ、いきなり横から現れたトンビに油揚さらわれちゃうんだからね!」
 唐突に、今日見た彼と桜井さんが仲良く笑いあっている姿が脳裏によみがえった。
わかってる。そんなことは。
でも、どうしようもないことはあるのだ、世の中には。



 ふらふらと危なっかしい足取りで、ようやく自宅にたどりつく。
僕たちの高校時代の恋愛模様をしつこく聞き出そうとする彼女をごまかすため、かなりの酒を彼女に飲ませ、僕も飲んだ。最後にはおかしな場所に引っ張り込まれそうになるのを這々の体で逃れて、なんとか家路についたときには、もう日付も変わっていた。
そういえば、代金はちゃんと払っただろうか。よく覚えていない。とんだ失態だ。
「ただいま……帰りまし……た」
 玄関に入って、靴を脱ごうとしたところで力尽きた。
「遅かったな、古泉。お前今日、いつの間に帰って……あ?」
 奥から彼が出てきて、びっくりしたように声を上げる。ああ、彼にこんな醜態を見せるのは、初めてかもしれない。
「古泉……お前、酔ってんのか」
「はい……ちょっと飲み過ぎました……」
「待ってろ、水持ってきてやる」
 バタバタとキッチンの方に戻った彼が、ミネラルウォーターをコップにいれて来てくれる。僕はそれを一気にあおって、溜息をついた。
「ほら、そんなとこに座り込んでねえで、寝るなら部屋行け部屋へ。肩貸してやろうか」
「すみません……おねがいします」
 よっこいしょ、と僕の腕を肩にかけ、彼が支えてくれる。近くにきた彼の髪からは、シャンプーのいい香りがする。僕は酔った勢いで、彼の身体にもたれかかって密着した。
「いい匂いですねぇ……」
「風呂入ったからな。っと、ちゃんと歩け古泉」
「申し訳……ありません」
「まぁいいさ。こないだは俺が世話になったからな」
 そういえば、数日前のあのときと立場が逆だ。だがあのときは、僕が部屋に戻ったときには彼はもう自室に引っ込んでいたから、ここまでの世話はかけられていないのだが。
「ほら、着いたぞ」
 部屋にたどりつき、ベッドに寝かされた。ちゃんと布団に入れよといいながら、彼がシャツのボタンをはずしてくれる。
「気分は悪くないんだな? 水もっと飲むか」
 覆い被さるような体勢で、彼がのぞき込んでくる。
「だいじょうぶです……たぶん」
「酒くせえな、おい。どれだけ飲んだんだよ」
「さぁ……」
「ったく。二日酔いになっても知らんぞ。とりあえず、もう寝ろ」
 彼が、離れていく。ふわりと、シャンプーの香りが鼻腔をくすぐった。
そう思った瞬間、耳の奥にさっきの彼女の言葉がこだました。
(今度その子に会ったら、情熱的なキスのひとつもしちゃいなさいよ。腰が抜けるようなヤツ!)
 のんびりしてると、トンビに油揚さらわれちゃうんだからね!という言葉も同時に聞こえた気がして、気がついたら僕は彼の首に手をまわし、思いきり引き寄せて唇を奪っていた。
「んっ! ちょ、こいず……何を」
 後頭部に手をまわし、しっかりと彼の頭を抱え込んで、あわせた彼の唇を押し開き舌をねじこんだ。
「ん……っ……やめ……っ!」
 彼はしばらくの間ジタバタともがいていたが、やがてあきらめたのかなんなのか、暴れるのをやめた。
閉じていた目をうっすらと開いてみると、彼も目をきつく閉じている。されるがままの彼の様子に乗じて、僕はさしいれた舌で彼の舌をからめとり、しつこくなぶった。 
さんざん彼の口腔内を舌で荒らしているうちに、眠気が襲ってきた。このまま寝てしまっていいものかと一瞬頭に浮かんだが、強烈な眠気に逆らうことはできなかった。
 意識をなくす寸前、彼の声が聞こえた気がしたが、夢か現かは定かでない。

「……ったく、誰と間違えてやがんだか。香水の匂いぷんぷんさせやがって」


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(2010.02.26 up)

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