それはまるで夢のような
02

 
仲のいい兄妹がいるせいだろうか、それとも家族に囲まれて育ったせいだろうか。
一緒の生活をはじめて一ヶ月、わかったのは、彼はあまりプライベート空間に重きをおくタイプではないということだった。
部屋の鍵はかけないどころかドアはたいてい開け放っているし、寝るとき以外はそもそも部屋に戻らない。課題やレポートもリビングのテーブルにノートPCを持ち出してそこでやり、仮眠はソファでとる。
 それがどういうことかというと、部屋に帰ってきてリビングの照明をつけたとたんに、ソファでしどけなく眠る彼を見つけてぎょっとしたり、彼の部屋の前を横切ろうとして、ドアを開け放ったまま着替える彼の裸体が視界に入りそのまま壁に激突したりというささいな事故が多発するということなのだ。
 まったく彼は無防備にすぎる。いや、同性の友人相手に警戒心を働かすのも一般的に考えておかしな話ではあるのだが、僕の心情としてはもう少し、なんというか慎みを持って欲しかった。……慎み?
 違う違う、と僕は必死で頭を振る。
 いやいや、そんな乙女的な発想を彼に期待したわけではなく、ただ……必死で煩悩を押さえつけている僕のために、もうちょっとなんとかしてくれませんか、という話なのだ。僕のわがままであることは重々承知なので、そんなことを彼に言えるわけもないが。
 だがそんなささやかな願いも、むなしいものだったらしい。
「あなた……なんて格好してるんですか」
「ああ、すまんな。調子に乗って、シャツをみんな洗濯しちまったんだ」
 今日は休講だったのだといいながらキッチンでなにやら作っている彼は、ジーンズに上半身はハダカのまま、紺色のシンプルなエプロンをつけている。
なんとも中途半端な裸エプロン姿に、午前中だけだった授業を終えて帰ってきた僕は、床に鞄を落として硬直してしまった。
ベランダに視線を移すと、確かにたくさんのシャツ類が風にはためいている。
「そんなの……僕のを適当に着てくださっていいのに」
「そうだな。あとで貸してくれ」
 自分のプライベートには無頓着だが、僕の部屋に無断で入ったりはしない。
妙なところで律儀な彼にシャツを貸すべく、僕は溜息をついてから鞄を拾い上げて自室に戻った。まったく、心臓に悪い。
「これをどうぞ。春と言ってもまだまだ寒いんですから、風邪をひきますよ」
「ああ、サンキュ。そこに置いといてくれ。ヤキソバ食うだろ?」
 シャツをソファの背にかけながら、はいと返事をすると彼は、よし今日は豪華に目玉焼き付きだといいつつフライパンを振る。
 あんな格好のままで、油が飛んで熱かったりしないんだろうか。リビングの床に座り込んでソファによりかかり、僕はそんなことを考えながら彼のむき出しの背中を眺める。
たくましいというほどでもないが、それなりに筋肉のついた彼の背中。知り合った時分にはまだまだ子どもっぽかった体付きも、3年の時を経てすっかり青年らしいしなやかさが備わっている。さわったらどんな感触だろう、なんて思ったところでふいに彼が振り返った。
「古泉、皿」
「う、あ、すいません、今ちょっと立てません」
「は?」
「……足が痺れてしまいまして」
 アホかお前、とあきれたようにつぶやきながら、彼が食器棚の方へ移動する。
ホントすみません。実は足は大丈夫なんですが、もうちょっと上の方がヤバイ状態なので。立ち上がると大変なことになるので、すみません。
「ほら、食え」
 トンとテーブルに皿に盛った焼きそばが置かれた。彼がエプロンをはずして僕のTシャツを着込み、向かい側に座る頃には、なんとか自重の足りない下半身もナリひそめていた。いただきますと言って野菜たっぷりの焼きそばに箸をつけたところで、彼がふと顔をあげる。
「そうだ。今日、俺、夕飯いらねえから、適当に食っといてくれ」
「はい。お出かけですか?」
「サークルで新歓コンパだとさ。まぁ、飲み会だな」
 そういえば先日、誘われて文学系のサークルに入ったのだと聞いたな。本当になんとなく入っただけらしくて、活動内容もよくわからんと言っていたが。
「先輩たちとの顔合わせでもあるからって言われてさ」
 嬉しそうでも嫌そうでもない微妙な表情で、彼が答える。飲み会のような場は彼は嫌いではないはずだが、リアクションは大体いつもこんなものだ。
「そうですか。あなた、お酒強くないんですから、気を付けてくださいね」
「わーってるよ」
 箸で目玉焼きの黄身を潰してから、彼はおかしそうにフッと息を吐いて唇をひきあげた。
「どうしました?」
「いや、なんか」
 ククッと喉の奥で、彼が笑い声をたてる。
「亭主を心配する女房のセリフみたいだったからさ」
 ……何を言い出すんだこの人は。カッと熱があがったのが自分でわかって、僕はあわてて困ったような笑みを顔に貼り付けた。赤くなったこの顔を、ごまかさないとマズイ。
「新婚家庭を想像すると照れますね。可愛い奥さんに言われてみたいものです」
「だな」
 どうやらうまくごまかせたらしい。彼はちょっと肩をすくめて、焼きそばを口に運ぶ作業に戻った。



 自室にこもって課題を片付けていると、デスクの上の携帯がうなりをあげた。
閉鎖空間が出現した気配はない以上、おそらく彼からの着信だろう。ディスプレイに彼の名前を確認すると、僕は通話ボタンを押して携帯を耳に当てた。
「はい。どうしました?」
『あー、あんたコイズミさん?』
 だが電話の向こうから聞こえてきたのは、聞いたことのない男の声だった。
「はい、そうですが……あなたは?」
 電話の向こうの男は、自分は彼の入ったサークルの者だと告げ、彼が飲み過ぎてつぶれたので迎えに来てやってくれないかと言った。
『駅前の居酒屋の……そう、知ってる? そこの座敷にいるからさ。俺たちは女の子たちも送っていってやりたいんで、頼むよ。藤川で席とってるから』
「わ、わかりました。すぐにうかがいます!」
 まったく。あれほど飲み過ぎには気を付けろといったのに!
 僕はあわてて上着を羽織り、財布と携帯のみをポケットにつっこんで部屋を出た。彼の大学がある3つ隣の駅までは、とりあえず電車で移動する。彼が歩けないようなら、帰りはタクシーを利用するべきだろう。
 出かける前に彼が言い置いていったチェーンの居酒屋に入って、店員に藤川という名前を告げると、奥の座敷を示された。店内にいるのは学生の集団が多く、そこそこの混み具合だ。
「あの、古泉ですが、彼は……」
 なんだ……? 座敷にいるのは男女とりまぜて7人ほど。一番奥の席で、彼が壁にもたれて眠っているのが見える。ただ寝ているだけらしい彼の様子に安堵しながら、僕は他の6人が押し黙って僕を凝視しているのにとまどった。
「あの……?」
 首をかしげたところで、3人いた女性陣が小さく声をあげた。その声に我に返ったらしい眼鏡の男が、ああ悪いと苦笑する。おそらくこの男が、藤川氏だろう。グループのリーダー格らしく、他のメンバーには藤川先輩と呼ばれていた。
「ちょっとびっくりしたんだ。あ、座って。なんか飲む?」
「いえ、彼を迎えにきただけですから……」
 そう言って固辞すると、両腕を女性たちにつかまれてまぁまぁ一杯ぐらいと座敷に上がらされた。おっちゃん生追加!と、グループの1人が声をあげた。
「あ、あの……」
「あんた、こいつの同居人なんだって?」
 眠っている彼を示しながら、藤川氏がそう聞いてくる。ええ、まぁと答えると彼は、さっきの自分たちの反応を、失礼だったと謝ってくれた。
「いや、飲んでるうちにドラマの話になってさ。そんであの刑事ドラマに出てるイケメン俳優いるだろ。えーと……」
 彼はそこで、最近テレビやCMでよく見る男性俳優の名前を挙げた。あまりテレビは見ない僕でも名前と顔ぐらいは知っている有名人だった。
「そいつがイケメンすぎてむかつくって話をしてたらこいつが、そうか?なんて不思議そうな顔でいうからさ。お前はそう思わないのかって突っ込んだら、俺は同居人で見慣れてるからいまさらだって」
 肩をすくめた藤川氏の代わりに、僕の両脇に陣取ったロングヘアとベリーショートの女性が話をつぐ。
「高校時代からずっとあのハンサム面見て過ごしてきたから、いまさら少しぐらいのイケメンじゃなんとも思わねえよって。ねー」
「そこまで言われたら、見たくなるじゃない? でも写メのひとつももってないっていうんだもの」
 それはそうだろう。写真といえばSOS団の活動の時に撮ったものくらいで、彼に個人的に写真を撮られた記憶はない。
「まぁ、友人の欲目ってやつもあるだろうから、話半分くらいに聞いてたんだけどな」
 藤川氏が再び口を挟んでくる。
「つぶれたこいつをどうやって帰そうかって算段してたら、古泉を呼べって携帯差し出したからさ。さっき言ってたイケメン同居人のことだってわかって、興味もあったから呼んだんだ。んで、いざあんたが現れたら……想像以上だったもんで思わず絶句したってわけだ」
「はぁ……それは、どうも」
 届けられた生ビールジョッキにおざなりに口をつけ、僕はなんとなく居心地の悪さに身をすくませた。僕のいないところで、彼が僕のことをそんな風に話すなんて、嬉しいというかくすぐったいというか、困るというか。
 僕の両側にいる以外の、もう1人の女性が彼を揺り起こした。ふわふわしたロングヘアの彼女は、雰囲気がなんとなく朝比奈さんに似ている。
「ん……ああ、寝ちまったか。すみません、藤川先輩」
「いや、別にいいさ。それよりほら、お迎え来てるぞ」
 彼のとろんとした目が、僕をとらえた。
「おう、古泉。悪いな」
「あれほど飲み過ぎないように言っておいたのに、しょうがない人ですね、あなたは」
「すまんすまん」
「こちらにいらしてください。手をお貸ししますから」
「ん」
 精算がすむのを待つ間に、僕はふらふらしている彼の身体を支えて上がりかまちに腰をかけさせ、跪いて片足ずつ靴を履かせた。スニーカーの紐を結んだりと、なんとなくいつもの調子でそんな世話を焼いていたら、またしても視線が集中しているのを感じて顔を上げる。
「何か?」
「いや……」
 苦笑いの藤川氏が、僕と彼をみくらべる。
「お前ら、高校の同窓生で同居人だって聞いたけど、ホントにそれだけの関係か?」
「はぁ?」
「……どう見えます? 俺たち」
 少々ろれつの廻っていない口調でそう言って、彼が顔をあげて振り返った。藤川氏はほかのメンバーと顔を見合わせて、どうって、なぁ?と肩をすくめた。
「そうだなぁ……いいとこの坊ちゃんと召使いというか……」
「えー。どちらかっていうとあれじゃない?」
 ベリーショートの女性が、両手を握り合わせて目を輝かせる。
「姫君とその騎士!」
 またまたさっきまで僕の両脇にいた2人が、きゃーっと歓声をあげた。なんなんだ。
彼は困ったように肩をすくめ、やめてくださいよと笑う。
 そして僕の方を振り返りもせず、切り捨てるように言った。
「――こいつには、ちゃんと守るべき姫君がいるんですから」
 俺はそのオマケみたいなもんです、という彼の言葉が胸に突き刺さる。僕は思わずその場に両膝をついてしまった。
「古泉くん、彼女いるの!? やっぱり?」
「い、いません!」
 女性陣の問い詰めるような声に、反射的に言い返す。彼が言っているのは涼宮さんのことだとはわかっている。だが何故、こんなところで、こんな話の流れで。
「いないの? じゃあ、フリー?」
「……好きな人はいますよ」
 思わずそう言ってしまうと、彼女たちは勝手になにか誤解したようだった。
「じゃあ、その姫君は片想いの相手なんだ! 信じらんない!」
「そうだよね〜。あたしなら、即オッケーなのに〜」
 おいおい、と男性陣が苦笑いしているのが目に入る。朝比奈さんに似た彼女は話にくわわらずに笑っているだけ、藤川氏は首をかしげて僕と彼をみくらべていた。
「う〜ん、どうもしっくりくる言葉が見つからんなぁ」
 先輩氏はいまだに、僕と彼の間柄を言い表す言葉を探していたようだ。そんな藤川氏に、ワリカン代金の書かれた紙を渡しながら、もう1人がまぁいいじゃねえかとまとめに入る。
「高校からのダチでルームシェアしてる同居人なんだろ? 親友でいいよもう」
「親友……」
 彼がポツリとつぶやく。
 そして目の前にひざまづいたままだった僕を見下ろして、眉をしかめた。
「なぁ、古泉」
「はい?」
 酔っているはずの彼の目が、瞬間、冷たい色を帯びる。昔から、嘘ばかりの僕の嘘を見抜いたときに彼が見せる、冷えたまなざし。
「俺たちの関係って、何なんだろうな?」



「……僕は、少なくとも友人のつもりでいましたよ」
 大通りでタクシーを降り、マンションの玄関までの路地。足取りのあやしい彼に肩を貸して歩きながら、僕はそうつぶやいた。彼は聞こえているのかいないのか、下を向いたままよろよろと歩を進めている。
「親友、というのはおこがましいにしても、あなたの親しい友人の範疇には、入れてもらえていると思っていました。あなたにとっては、違ったんですね……」
 僕の声は、独り言に近かった。
 確かに僕は機関の手先として、彼を監視し牽制するために北高に派遣された。出会いは作為的で、しかも秘密と嘘と誤魔化しに固められた笑顔だけで、僕は彼に相対してきた。彼は最初の頃、僕に対しては猜疑と警戒をほどくことがなく、確かに友情を育める関係だったとは言い難い。
 それでも3年間をともに過ごし、修羅場もくぐり抜けて、少なからず彼との友情をつなぐことができたと思っていたのは僕の自惚れだったのか。それとももしかして……いつの間にか僕が抱いていた劣情が、見ぬかれはしないまでも、彼にさらなる警戒心を芽生えさせていたのかもしれない。
「じゃあなんで、ルームシェアに同意なんてしたんですか……」
 友人とすら思っていないなら、何故。
「……親友にだなんて、なろうとしないのはお前の方だろう」
 半分眠っているかに見えた彼が、下を向いたままぼそりと言った。
「え?」
「お前にとって俺は、いまだに観察対象なんだろう?」
「な、にを……」
 彼はずっと下を向いたままで、その表情は見えない。
「俺だって友達だと思ってたさ。お前が、ルームシェアなんて言い出したときまではな。だけど、機関が喜び勇んであんな立派な部屋を用意して俺にあてがってきたときに、ああそうかって気がついた。……学校が違っちまって俺を監視できないのは困るから、お前は一緒に住もうなんていいだしたのか、ってな」
「ち……違……っ」
 ――違わない。実際、僕は彼のプライベートの動向を、機関に報告している。以前ほど、一挙手一投足が彼女に影響を与えるわけではないが、彼に何かあれば不測の事態が起こる可能性はまだ、否定できないのだ。
 僕はそれ以上言葉を続けることが出来ず、声をつまらせた。
「まぁ、俺にとっちゃありがたい申し出だったよ。親に、あんまり無理は言いたくないんでな」
 そのとき、ちょうど僕らはマンションのホールに到着した。省エネのためかホールの照明はひとつふたつしか点いておらず、あたりは薄暗い。彼がするりと僕の腕を抜け出し、ちょうど一階にいたエレベーターに乗り込んだ。
 箱の中の照明が逆光になって彼の表情を隠す。彼はホールの薄闇に立つ僕をじっと見ているようだった。
「さっき、好きな奴がいるとか言ってたな」
 どくん、と心臓が鳴った。
 もちろんそれは彼本人のことだが、今、知られてはまずい。いや、あらぬ誤解を受けるくらいならかまわないかもしれない。でもそれで彼の気が変わって、ルームシェアを解消されてしまうのは嫌だ。だけど、でも。
 そんな堂々巡りな思いが、一瞬で脳内をかきまわす。
「そ、それは……」
 だが、続いた彼の言葉は、僕の思考を停止させるのに充分だった。

「いや。お前がハルヒに惚れてるってことは知ってるさ」

 え……?
「告白も出来ずに、俺とくっつけようとしなきゃならなかったのは……まぁ、大変だったよなとしか俺には言えない。そんな状況でも、お前が俺を友達だと思ってくれてたのは、わかってるし素直にありがたいと思うよ。お前には、恨まれたってしょうがない立場だったのにな」
 彼はそう言って、肩をすくめたようだった。
「な、なぜ……」
「そうだな……1年のときに、長門が創った世界のお前がそう言ったってのもあるが……。それがなくたってわかるさ。ハルヒと一緒にいるとき、何度もお前の視線を感じたからな。あんな切なそうな目でみられて、気づかないほどは鈍感じゃないぜ、俺も」
 そうじゃない。隠ししても隠しきれなかった嫉妬の視線が向いていたのは、彼にではなく……彼女に、なんです。
 そんなことが言えたら、事態は変わるだろうか。喉まで出かかったその言葉を遮るように、彼が溜息とともに少し笑う。
「なぁ、古泉。ハルヒのヤツだって、いつまでも子どもじゃない。事実、あいつの力は安定してきてるじゃねえか。そろそろお前も俺の監視なんて任務からは離れて、ちゃんとあいつに向き合ってみろよ。……そうすりゃ俺だって」
 そこで彼は、言葉を途切らせた。途切るというより、飲み込んだみたいに聞こえた。僕は絞り出すように、いちばん聞きたくない質問を吐き出した。
「あなた、も……?」
 それに彼は、小さく「まぁな」と答えた。
 それは、僕の長い長い片想いに終わりを宣告する言葉だった。

 乗らないのか、とうながす彼を、僕はバカみたいに立ち尽くして見つめることしかできなかった。色んな事が頭の中でぐるぐると渦巻いて、息すら出来ない。
 彼は溜息をついて、先に帰ってるぞとつぶやきエレベーターのドアを閉めた。ホールの薄闇の中、順に点灯していく階数表示のランプを、僕は呆然と見上げていた。


                                                   NEXT
(2010.02.23 up)

BACK  TOP  NEXT

オリキャラ登場ご容赦。