将棋でモノノケを退治する話
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「これで、いかがですか?」
 パチ、と盤上に置かれた駒が鳴る。
 古泉の細くて長い指が、駒を離れてひらりと動く。俺は盤面をじっくりと眺め、舐めるようにさらに眺めてから、重いため息を吐き出した。
「……負けました」
 俺の言葉を聞いた古泉は満足そうにうなずき、腕を組んで椅子にもたれかかる。
「これで僕の何連勝めでしたっけ。……まだやるおつもりで?」
「…………」
 打ちはじめてからどれほどの時がたったのか、もはや時間の感覚を失って久しい。窓の外はさきほどからずっと夕暮れのまま、放課後のはずなのにチャイムどころか物音のひとつも聞こえない。頭の芯ばかりが妙に冴え、何時間も飲み食いしていないにもかかわらず、空腹すら感じない。
 俺は唇を噛んで顔を上げ、眼の前で微笑んでいる顔を見返して、無言で盤面に駒を並べ直す。フッと、やつの口元が満足そうにほころんだ。
「ふふっ……そうこなくては、ね」


                            ***

 今日、いつものように俺が、SOS団拠点基地たる文芸部室に顔を出したとき、そこにいたのはめずらしくも古泉ひとりだった。留守番かと聞くと古泉は曖昧に微笑んでうなずき、一局どうですかと、用意していたらしい将棋盤を指し示す。
 めずらしい。いつもなら、ハルヒ始め他の部員たちが今どこで何をしているか、知る限りのことを一方的にまくしたててくるのが古泉ってやつなのに。だがまぁ、どうしても知りたいわけでもない。きっとハルヒのやつが朝比奈さんと長門を連れ出して、どこぞでろくでもないことをやっているに決まっている。
 やれやれと肩をすくめ、俺は古泉の向かいの椅子に腰掛けた。それじゃ一局なと駒の入った箱に手を伸ばし、いつものように打ち始めた。……の、だが。
「王手、ですね」
「お、おお……?」
 思わぬところから攻め込まれ、あれよと言う間に追い詰められた。盤面をとっくりと眺めても、どうやってもこれ以上指す手がない。完敗だ。
「ま、負けまし、た……」
 不承不承そう言うと、古泉の野郎は俺の駒を手にしたままにこりと笑う。
「ふふ、これで僕の3連勝ですね」
「む……」
 ありえない。古泉相手に3連敗。しかもほぼ手も足も出ずの完敗なんて。あまりのことに俺は、眉をしかめたまま、つい聞いてしまった。
「古泉……お前、どうかしたのか?」
「どうか、とは?」
 手にした駒をもてあそびつつ、古泉は笑顔を崩さない。そんなうさん臭さや掴みどころのなさはいつも通りのこいつなんだが……。
「いや……」
 おかしい、おかしいぞ。
 俺がこんなに立て続けに、しかもこんなに一方的にこいつに負けるなんて、さっきも言ったがありえない。古泉のやつが、こんなに強いはずがないんだ。
 いや、決して負け惜しみなどではないぞ。このSOS団の部室ではじめて対局して以来、俺はもうどれだけ打ったか憶えてないくらい、こいつと対局してきたんだ。力量以外にも、指し方の癖とか好きな戦法なんかまで、イヤってほど知りつくしている。
 だからわかるのだ。実は最初の一局から、なんだかおかしいと思っていた。今日の古泉のこの指し方、最初から最後までどうにも“古泉らしくない”。
 そう……たとえば、こいつがハルヒの行方を把握していないという、そのことひとつをとっても、だ。
「……どうしました。もう一局、やりますか?」
 片手で顎を支えた姿勢で俺を眺めながら、古泉は……いや、“古泉に似た何か”はニヤリと笑う。――こいつは一体、誰なんだ?
「そうだな。もう一局……いや、一局と言わず、俺が勝つまでつきあってもらおうか」
 そう言い放った俺が再び駒を並べ始めると、そいつは一瞬驚いて見せ、そして満足気に目を細めた。
「ほう、それは重畳……いえ、大変嬉しいですね。お相手いたしましょう」
「……はじめるぞ」
 そうして、いつ果てるとないゲームは、始まったのだった。


                           ***


 何度目の対局なのか、数えるのはとうにやめていた。数十回……あるいは百に届いていたかもしれない。もっとかもしれない。
 何度やっても勝ちどころか、攻める手すら見いだせない。定石通りに攻めても、思い切って奇策に出てもムダ。古泉に似たものはただこの上なく楽しそうに、挑んでくる蟻を愛でるかのような表情で指し続ける。まるで大きく強固な壁を、マチ針一本で崩そうと目論んでいるかのようだ。手応えがない。
「ああ、いい手ですね。でもほら、こうすれば」
「くっ……」
 脳がしびれる気がする。空腹は感じないが、手足がなんだかだるい。自分の指が、こまかく震えているのに気がついた。
 ……もう駄目かもしれない。俺はこのままここでずっと、こいつと将棋を指し続けることになるのかも。食べることも寝ることも、死ぬことすら忘れてただ、永遠に。どこかでそんな話を、読んだ覚えがある。どこでだったろう。図書館……学校……がっこう、ってなんだっけ?
「……っ」
 そのときだった。盤上に置かれた駒の音が、ふと耳についた。
 目の前の男が駒から手を離した瞬間、かすかに眉を寄せたことに気づく。
「……どう、した?」
「いえ、別に」
 ほんのわずかな違和感だった。盤に目をやった瞬間、脳がものすごい勢いでフル回転を始める。思考が冴え渡る。信じられないほど先の手までも見通せる。
 ──ああ、ここだ。この一手。こいつはミスをした。読み違えたんだ。
 見つけた小さなほころびに、俺はまっすぐに攻め込む。やつの顔に焦りの色が浮かぶのを初めて見た。一手、また一手、打ち続けるごとにその色は濃くなり、とうとうやつの手が止まった。

「………………負け、ました」

 くやしそうに、本当にくやしそうに、そいつは言った。
 その言葉とともに、ザワリとそいつ……古泉の中から、影のような何かが抜けていくのが見えた。


                           ***


「いやぁ、まいりましたよ。状況はわかっているのに、自分の意思では指一本自由に動かせなくて」
 さすがに疲労困憊といった体で、古泉はため息をつく。先程までの違和感はキレイに消え、今は元通り、いつも通りの古泉だ。
 影が抜けたあと、古泉が椅子から崩れ落ちるのと、あたりに音が戻るのが同時だった。駆け寄って抱き起こしながらちらりと時計を見ると、時計の針は俺がこの部室に来てからほんの1時間分しか移動していなかった。何時間もたった気がしていたのに。
 幸いにも古泉はすぐに意識を取り戻し、何が起きたか説明しようとする俺に、すべて見ていたから大丈夫だと答えたのだ。
「あれは一体、なんだったんだ……?」
 使いすぎたのかズキズキと痛む頭を冷たい濡れタオルで冷やしつつ、俺が首をかしげると、古泉は大仰に肩をすくめてみせた。
「さぁ……はっきりしたことはわかりませんが、この世のものでないことは確かでしょうね。いわゆる妖怪や、モノノケの類でしょう」
「元凶は、そいつなのか」
「ええ、多分……」
 俺たちの視線の先では、俺がさっきまで取り組んでいた将棋盤が無残な姿を晒している。なぜ無残かといえば、なぜか真ん中から真っ二つに割れてしまっているからだ。俺達がいつも使っているものと似ているが、よく見るともっと古く、使い込まれている様子が見て取れる。
 こいつは今日、古泉が部室に来た時にはすでに長机の上に置いてあり、自分の持ちものとは違うものだと気づいてよく見ようと手を触れた途端、古泉は何者かに体を乗っ取られたのだという。
「これに宿っていた何者かが、そのとき僕に取り憑いた、と考えるしかないかと」
 古泉は割れた断面に指を這わせながら、何を思い出したのか、ぶるりと身を震わせる。
「感覚でしかありませんが、あれはけっこう強いものだった気がします。無理に僕の身体から追い出そうとしても、ダメだったでしょうね」
「それは、普通のお祓いとかじゃムダだったってことか?」
 古泉は真剣なまなざしで、こくりとうなずく。
「はい。──おそらく、勝負に勝たねば祓えないタイプのモノノケだったのではないでしょうか。あなたが勝ってくださって、本当によかった」
「……あっちがミスしたおかげだがな」
 あの一手がなければ、勝てたかどうかわからない。精神的にも体力的にもかなりギリギリだったし、ラッキーだったとしか言えないな。
「いいえ。そのミスを引き出したのはあなたの粘りですし、チャンスを活かしきったのもあなたの力です。たいしたものですよ。ありがとうございました」
 馬鹿丁寧に頭を下げる古泉に適当に手を振って見せ、俺は濡れタオルを額に乗せて目を閉じた。
 これは僕の方で処分しておきますねと言いつつ、古泉が割れた将棋盤を片付ける音が聞こえる。どうするつもりなのかは知らんが、できればどこぞに封印でもしといてくれ。当分は、将棋盤も駒も見たくもない。
「そうですね。仕方ないのでしばらくは、トランプや双六などで遊びましょうか。まぁ、先に上がらなければ祓えないという双六に宿ったモノノケが、いないとも限りませんけど」
「お前なぁ……」
 クスクスと笑いながら不吉なことを言いやがるニヤケ面をじろりと睨みつけ、俺はうんざりと肩をすくめたのだった。


(2018.03.30 up)
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ツイッターでみかけた「古代中世に囲碁や双六、将棋でモノノケを調伏して病気治療をしていたことを書いた論文」についてのつぶやきを見て、なんとなく思いついて書いた短文をリライトしたもの。(元の短文はぷらいべったーに置いてあります)
論文の内容は見ていないので、内容的にはかすってもいないと思います。