星の川を渡れ
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 聞き覚えのある声に顔をあげると、そこにいたのはやはり彼≠セった。
 乗降客の多いターミナル駅、雑踏の人いきれと発車案内のアナウンスが飛び交う中にもかかわらずその声を聞き分けられたのは、もちろんそれが彼の声だったからだ。
 聞き覚えのある、なんて表現はあまりにも軽い。
 それは僕が、この三年間聞きたくて聞きたくてどうしようもなくて、でも叶えられずにいたものだから。
「……変わってないな」
 懐かしい横顔を見つめ、そうつぶやいた。
 茫洋とした中に凛々しさを湛えたまなざし。少し退屈そうな表情。体格も顔つきも、髪型すら変わっていない。違っているものといえば、服装くらいだ。最後に見た彼はまだ大学生だったから、あんなスーツは着ていなかった。それだけが、離れていた三年の年月を思わせるものだった。
 しばらく様子を観察していると、僕が聞きとがめた彼の声は、誰かを呼び止めた際のものだったらしいとわかった。どうやら落とし物を拾い、落とし主に声を掛けたようだ。だからこの雑踏の中でも、僕のところまで声が届いたのか。
 見つめすぎたせいだろうか。落とし主らしき人物と話をしていた彼が、ふとこちらを見た。途端にその目が、丸く見開かれる。
 そして身を乗り出すように、彼は叫んだ。
「――古泉!」
 駆け寄りたいと、きっと彼は思っているだろう。
 三年前、突如として行方を眩まし、そのまま消息不明だった知人を前にすれば、当然そう考えるのが普通だ。しかも僕と彼は……ただの知人、とは、言い切れない間柄だったのだから。
 だけど彼は、その場に足を縫い止められたように動けずにいる。なんとか近くに来たいと思う彼の焦りが手に取るようにわかるが、物理的に無理な状況下であるとわかっているから、僕は余裕を持って微笑んでみせた。
 だって僕と彼の間には、電車の線路が横たわっている。
 電車待ちの短い時間、駅のホームの向かい側にたまたま立った。そんな偶然の邂逅だ。もちろん、ホームを少し下り方面に歩いて階段を下り、地下を移動してまた階段を上がれば、こちらのホームに上がることはできる。だがそういった階段はひとつきりではないもので、彼が下り方面に移動すれば僕は、逆に上り方面の階段へと移動して逃げられる。もちろん逆もしかりだ。
 きっと彼はそれがわかっているから、どちらに行くことも出来ない。ましてや常識的な彼が、ドラマや映画の如く線路に飛び降りて渡って来るなどということが出来るはずもない。だから結局、彼はなすすべもなく唇を噛んでいる。
 ふと、柱に貼られているデパートのポスターが目に入る。七夕大バーゲンセール、との文字に、今日が7月7日であったことを思い出した。
「七夕、か……」
 ふいに妙なことを考えて、くすっと笑みをもらした。まるでこの状況が、七夕伝説みたいだなどと、埒もないことを思ったからだ。
 僕らの間に横たわる線路は、天の川。渡るに渡れぬ川を挟んだ向こう岸とこちら岸で、アルタイルとベガは――ああ、この場合は彦星と織姫と言うべきだろう――神様に逢うことを禁止されて、思いを募らせる。今夜は一年に一度、逢瀬を許される日のはずだが、あいにく僕らの前に、川を渡してくれるカササギは現れない。
 単線の線路たった車両一台分の距離を挟んで、僕は彼の怒ったような顔を見つめ、三年前に想いを馳せた。



「お前は本気で、十六年も待つつもりなのか」
 彼が僕にそんなことを言ったのは、高校三年の七夕のことだったと思う。SOS団恒例、七夕の笹飾りの短冊に、例年通り世界平和などと当たり障りのないことを書く僕の手元を眺めながらだ。
「さて、世界が本当に平和になるためには、十六年など短い方だと思いますが」
「違えよ。お前の、本当の願いの方だ。しらばっくれんな」
 部室には、僕らの他には誰もいなかった。
 女性たち三人がどこに行っていたかは思い出せないが、確かにその時、僕らは二人きりだった。でなければあんな話になるはずもない。
「本当の願い、というと……」
「俺が欲しいんだろうが。いいかげん観念すりゃいいのに」
 さらっと言われた言葉に、思いっきり手元が狂う。ペン先をテーブルの上にまで走らせてしまい、あわてて手で擦ったが、油性のマジックで書かれた線は消えなかった。
「その、話は……」
 僕が目を逸らしつつ口ごもると、彼はわかっているとばかりに肩をすくめる。その頃彼は、ときどきそんな不意打ちをしてきて、僕を戸惑わせたものだ。
 僕が一年の頃から彼に抱いていた道ならぬ想いが、どうやら彼にばれていると知ったのはいつ頃のことだったか。悟ったときはあまりの事態に青ざめたし大いに狼狽えたものだが、そんな僕をさらなる困惑に陥れたのは、彼が僕のその想いを、あろうことか受け入れる気があるのだと言う事実だった。
「お前の事情もしがらみも、俺は承知してるからな。出来る限りは待っててやる」
 彼にそのつもりがあると知っても踏み出せないでいる僕に、彼はそんな言葉をくれた。どうやら、僕が腹を決めるか、もしくは彼の忍耐が尽るまで、待っていてくれるつもりでいるらしい。あまりに僕に都合の良すぎる条件に動揺したが、一方で彼のそんな忍耐などすぐに尽きるだろうとも、その時は思った。
 涼宮さんの能力は、高校三年目にしてかなり落ち着きを見せていたが、それでも消滅の兆しは無かった。
 彼女の力がある限り、僕が彼とどうこうなることは絶対にありえない。そんなことは許されない。僕は僕のエゴで世界を危険にさらすことはどうしてもできなくて……つまり怖くて、だから彼に答えられる日が来るなど想像の外だったし、万が一その日が訪れるとして、それまで彼に待っていて欲しいなど、あまりに図々しい願いだろう。
 そんな状態が続いたまま、僕らは北高を卒業した。
 彼とは大学は離れたが、二人ともが一人暮らしを始めた場所が思いのほか近く、結局僕らは互いの部屋を行き来するようになった。
 が、依然として僕らの関係は友人同士のままだ。僕は彼への想いをこじらせてはいたが、頑なに彼に応えることを拒み続けていたから。それでも不思議なことに、彼の忍耐もなかなか尽きる様子を見せなかった。
「彼女、作らないんですか」
 大学生活にぼちぼち慣れ始めた頃、彼にそう聞いてみた。
 新学期のその時期なら、合コンやら新歓コンパなどで女の子と仲良くなる機会は多いはずだ。そうして欲しいわけではないけれど、僕との約束のせいで彼が機会を逃しているのだとしたら、あまりに申し訳ない。彼に言うべきことを言っていない以上、僕に彼を止める権利はないのだから。
「僕に遠慮することはないですよ。あんな口約束を、いつまでも気にしなくても」
 僕の部屋のリビングに寝転がっていた彼は、ちらりと僕を見やって、まぁ、他に好きな奴が出来たらそうするさと言った。……他に?
「他に、好きな奴って……」
「お前以外にな」
 また不意打ちを食らって、何も言えなくなった。嬉しさと申し訳なさが、同時に沸き起こる。何で彼は、こんなに優しい。何でこんな僕のことなんて、いつまでも待っていてくれるのだろう。
 ――もういいのではないか、と、その時僕は思ってしまった。
 涼宮さんの能力は、消滅したとの報告はなかったものの、ここ一年ほど発現の気配はなかった。朝比奈さんも長門さんも、友人としての繋がりは残しつつも彼女から離れ、それぞれの生活を営んでいる。世界は、すこぶる平和だった。
 だから僕は、もういいのではないかと思ったのだ。もう世界のことより、自分のことを優先させても許されるのじゃないか、僕は充分頑張った、などと。
 ……それが勘違いであったと思い知らされたのは、そのほんの数ヶ月後のことだ。


 7月7日が、涼宮さんにとって特別な日であることは、もちろん知っていた。
 ジョン・スミスと名乗った彼と初めて出会い、彼女の世界が変わった日。世界の有り様を、僕やその他大勢の運命を変えたことを本人は知らなくても、彼女にとってその日は、特別な日であることは間違いないのだ。
 その年の7月7日。SOS団七夕パーティと銘打った集まりを催した帰り道、彼女は彼に告白した。
 僕がその一部始終を目撃してしまったのは、誓って偶然だ。忘れ物をして、近道で戻ろうと入った脇道の先の小さな公園に、彼らがいたのだ。僕は動揺して逃げることも出来ずにその場に佇み、結果として、そのまま彼女が彼に振られるところまでも見てしまうこととなった。
「ごめん。俺、好きな奴いるんだ」
 そんな彼の言葉に、涼宮さんはしばらく沈黙した。
「……つきあってるの? その人と」
 少しだけ震える声で、涼宮さんはそう言った。
「それが、どうにもはっきりしなくてな。つきあってるような、いないような」
「なにそれ。あんた、それでいいの?」
「いいとは思ってないが、今のところどうしようもない」
 呆れるほど馬鹿正直に答えて肩をすくめる彼を、涼宮さんが不満そうに叱咤する。
 そして僕は、己の勘違いを悟った。彼女の能力は、消えても弱まってもいなかった。眠っていただけだったのだと。
「あんたバカじゃないの? そんなんじゃ、あたしがあきらめきれないじゃない!」
 ――閉鎖空間が、発生した。
 数年ぶりのそれは、かつて無いほどの規模だった。その日の内に機関≠フ会議が招集され、警戒態勢のレベルがAに切り替わる。原因の究明と、今後の方針の決定。みるみるうちに、僕らの世界が色を変えた。
 そして僕は、彼と彼女の前から姿を消した。



 それから三年だ。 
 あの事があったあと、僕はすぐに大学を休学し、彼に何も言わずに部屋を引き払った。連絡先も探す手がかりも残さず、すべての消息を完全に断った僕が今日、ここで彼と再会したのは、完全なる偶然だ。
 原因であった僕が姿を消したせいかは不明ながら、涼宮さんの能力はあの後しばらくして安定した。以来、今のところはまるで消滅したかのように穏やかで、だからずっと遠い土地にいた僕も、時々はこちらに帰ってこれるようになった。
 が、また三年前と同じことを繰り返さないために、僕は二度と彼の前に姿を現す気はない。たまたま今日、こんなことになってはしまったが、もちろん僕はこのまま再び消息不明に戻るつもりだった。今日のことは、七夕の日の幻ということでいい。
 越すに越せない、線路という名の都会の天の川。向こう岸に立ち尽くす想い人は、怒っているような、泣き出す寸前のような顔で僕を見ている。
「古泉……! お前、いままでどこにいたんだ!」
 隣のホームの人間に向かって怒鳴る彼に、周囲の視線が集まる。そんなことすら気にならない様子で、彼は僕に向かって手を伸ばす。僕は何も答えずに、そっと首を左右に振った。
「帰ってきたんじゃないのか!? お前、連絡もしないで」
 僕が姿を消してしばらく、彼が必死に僕を捜そうとしてくれていたのは知っている。それなのに、さようならのひとつも言えなかったのは、僕の弱さに他ならない。
 そうだな。偶然とは言え今日はいい機会だったかもしれない。これでやっと彼と、本当に訣別できるような気がした。
「古泉!」
 電車の到着を報せる音楽に、彼ははっと顔をあげる。あせったように、もう一度僕に向かって指を突きつけた。
「いいか! もうちょいそこを動くな! 逃げるなよ!」
……番線に電車が入ります。白線の内側にてお待ち下さい……
 ホームに響き渡るアナウンスが、彼の言葉を掻き消す。僕が何も答えないうち、やがて僕らの間を遮るように、電車が滑り込んできた。
 七夕の夜に雨が降ると、天の川が氾濫して、その年、織姫と彦星の逢瀬は叶わないらしい。流れるようになめらかにホームに到着した電車は、まるで氾濫した川水みたいだと思った。
 さて、これで終わりだ。
 この電車が僕らの間にいるうちに、僕はここから立ち去ろう。都会の雑踏に紛れてしまえば、もう二度とこんな偶然もないと思う。久しぶりに彼の顔が見られて、声を聞けて、嬉しかった。
 さよなら、とつぶやいて、僕は歩き出そうと踵を返した。
 ――その時だ。
 電車の、ドアが開いた。しかも車両の両側のドアが、一拍おいてほぼ同時に。
「えっ!?」
 そういえば、彼が立っているのは降車ホームだった。ここは終点の駅だから、この番線に入る電車は到着すると両側のドアが開くのだということを忘れていた。
 などと思い出したときには、僕は真っ直ぐ電車の中を横切ってきた彼に、力いっぱい抱きしめられていた。周囲の目などまったく気にしない、彼らしくもない行動だった。
「……なりふり構ってられるか。この大馬鹿野郎が」
「は、なして、下さい……僕は」
「言い訳はいい。お前がどうしていなくなったかは、大体わかってる。だが、どれだけ俺を待たせりゃ気が済むんだ」
 たぶん長門さんに聞いたのだろうと思ったが、それはこの際どうでもいい。僕が驚愕したのは、これだけのことをして、それなのに彼がまだ待っていてくれたのだと言うことにだった。信じられない。
「うるさい。さんざん待たされたんだからな、俺はもう待たんぞ。腹を決めろ、今ここでだ。ちなみにペナルティとして、ノーという選択肢はなしだ」
 あんまりな逆転劇に、僕は完全に毒気を抜かれていた。めちゃくちゃだけれど必死な彼の言葉に、抵抗できる気がしない。観念しろ、という声が確かに聞こえたと思う。
「……今日は七夕でしたね」
 それがどうした、という顔で、彼が僕を見上げる。
 七夕の伝説に彼をなぞらえたのは、大きな間違いだったかもしれない。彼には神の許しもカササギも必要なく、川の氾濫さえ問題にならないのだ。
「氾濫した川に無理やり橋を架けるとは、思いもしませんでした……僕の負けですよ」
 なんのことだと首を傾げる彼に、僕はただ情けない笑みを向け、完全降伏してみせるしかないのだった。


                                                   END
(2013.7.14 up)
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2013年7月7日開催古キョンオンリー「笹の葉ラブソング」のペーパーラリーに参加した際の
ペーパーに載せたSS改訂版です。
1枚に収めるため、駆け足でわかりにくかった部分を補足したので、かなり別物になってます。