Blue Moon
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 8月の最終日。
 仕事帰りに見上げた夜空には、皓々と月が輝いている。
 今夜は満月だ。それも、いささか特殊な。
「よう、古泉。待たせたか」
 駅前の雑踏の中、ショーウィンドに寄りかかりぼんやりと月を見上げていたら、待ち人の声がした。声の主の方に視線を向ければ、スーツ姿の彼≠ェ、初めて知り合った高校時代から一向に変わらぬ気怠げな表情で立っていた。僕は足下に置いていた鞄を取り上げ、にっこりと笑って応える。
「いいえ、時間通りですよ」
 彼はちらりと腕時計に目を落とし、そうだなと頷いた。
「時間前に来ても遅刻認定とか、懐かしくはあるが勘弁だな」
 高校時代、週末ごとに繰り返された、理不尽な待ち合わせを思い出したらしい彼が苦笑する。行こうぜ、とうながされ、僕は彼と並んで雑踏の中を歩き出した。



 高校を卒業し、SOS団の面々はそれぞれ大学へと進学した。
 卒業時にはすでに涼宮さんの物騒な力が消滅していたこともあり、長門さんが涼宮さんについていった以外は、全員がバラバラの進学となった。朝比奈さんに至っては、海外に留学するとの触れ込みで未来へと帰ってしまったので、その後の僕らは年に2,3回集まるのが精一杯の間柄となった。就職してからはますます機会を失い、あの輝かしき高校時代から8年が経過した今では、年賀状と電話やメールでのやりとりのみで、細々と繋がりを保っている有様だ。
「ハルヒはよく電話をよこすけどな」
 駅前の人混みを抜け、郊外へと足を向けながら彼が言った。彼女からの電話なら、僕もたまにもらう。大体が、海外から帰国したとの報告を兼ねてだ。
「長門さんは、律儀に半年に一回、現状報告のような長文メールをくださいますよね」
「朝比奈さんは神出鬼没だよなぁ。まぁ、なんかお仕事なんだろうけど」
 彼女たちとの繋がりは、その程度だ。そんな中で僕と彼だけが、こんな風に仕事帰りに待ち合わせて飲みに行くくらいには親交をあたためている。
 きっかけはと言えば、ただの偶然だ。
 ある日、ちょっとした事故で通勤に使っている電車が止まり、運行再開までの時間つぶしと夕食をかねて、目に付いた居酒屋に入った。だが店内は僕と同じような考えで入店したらしき客でごった返しており、連れのいなかった僕は相席を打診された。かまいませんと答えて案内された席にいたのが、彼だったのだ。僕らは思わぬ偶然に驚き、ひさびさの邂逅に話もはずんで近況を話しあった。そして、お互いの勤める会社がこの駅の近郊であることを知り、以来、たまに待ち合わせるようになったのだった。
「お、ここだ」
「へぇ、ショットバーですか?」
 今日は、彼が会社の同僚にすすめられたという店に連れ立ってやってきた。触れ込み通り、駅前の喧噪から離れた場所にある隠れ家的なバーだ。シックな木のドアを押し開けて、僕らは薄暗い店内へと足を踏み入れた。
 おさえたボリュームでジャズが流れる店内には、ちらほらと客の姿があった。僕たちはマスターにうながされるままに、カウンターに腰を落ち着けた。
「ふーん。カクテルもいろいろあるな」
 カウンターに置いてあったメニューを、彼が楽しそうにパラパラとめくる。彼は相変わらず酒はあまり強くないから、ショットバーのような場所にはあまりこないらしい。前に飲んだやつ、なんだったかなぁとつぶやいて首を傾げていた。迷っているようなので、助け船のつもりで問いかける。
「ベースはなんだったか、憶えてます?」
「ああ。確か、ブランデーだったかな」
「グラスはショートでした? ロング?」
「脚がついてるやつだった。いわゆるカクテルのグラスっぽいやつ」
 それじゃあこのあたりですね、とメニューを指さすと、彼は該当部分を熱心に眺めはじめる。名前だけじゃよくわからんとぼやく横顔を、僕はただ笑顔で眺めていた。何気ない会話をかわしながら、彼と過ごす時間。こんなひとときを持てることが、僕にはただ嬉しかった。
 ――あの日の偶然の再会は、僕が胸の深いところにやっとの思いで眠らせていた想いを、目覚めさせてしまった。
 高校時代に自覚し、胸の奥で燻らせていた想い。それは何重もの禁忌に縛られていたから、自覚したからと言ってどうすることも出来ず、ただ眠らせておくしかなかったものだ。同性であり、世界を守るためには触れてはならない存在であり、そして悲しませたくない人の想い人でもあった彼への、幾重にも禁じられた恋愛感情――。
「決まらないなら、僕のオススメをどうですか?」
 選びかねている彼に、また横から口を挟む。彼が頼むと言ったので、自分の水割りと一緒にオーダーした。心得たようにうなずいてシェーカーを取り出し、マスターは氷を砕きはじめる。その手もとをのぞき込む彼の目が興味津々といった風に輝く。可愛いなと思わず笑い声をもらしたら、彼は僕の方へと視線を向けて、少し不機嫌そうに眉をしかめた。
 サイドカーです、と告げられてグラスに注がれたのは、きれいな褐色の液体だった。スタンダードなカクテルだ。バリエーションが多くて、ベースを変えるだけで違った名前のカクテルになる。彼はグラスを揺らし、ほぅ、とつぶやいてから、そっと中身に口をつけた。
「お、美味いな」
「前に飲んだというのは、それではなかったですか」
「んー、よくわからん。これだったような、違うような」
 まぁいいか、美味いし、とつぶやいて、彼はさらにグラスを傾ける。ずっと以前に1度飲んだきりなら、そんなものかもしれない。
「お口にあいました?」
「ああ、飲みやすくていい。名前のサイドカーってあれのことか? バイクの横についてる二輪の車みたいなやつ」
 カクテルの名前に興味をもったらしい彼がそう聞いてくる。僕がうなずいて、女殺し≠ニいう意味でつけられたとされてますよと説明したら、目を丸くした。
「昔、サイドカーが流行っていた頃、事故を起こしたときなどは、運転手は無意識に自分の身を守ってハンドルを切るので、結果的に側車……つまりバイクの横についている二輪車側に乗っている人間が亡くなりやすかったんだそうです。そして側車乗るのは、やはり女性が多かった……というエピソードから、女性でも飲みやすいこのカクテルに、飲ませて酔いつぶしやすいという意味をかけて女殺し≠ニいう……まぁ、シャレですね」
 そう言って肩をすくめてみせると、彼は手にしたグラスを目の高さに掲げ、中身をじっと見つめて目をしばたたいた。
「けっこうえげつねえな」
「由来には諸説あるようなので、そのうちの一説ですが」
 少々えげつないと思えるようなエピソードがあることも、このカクテルの人気の理由なのかもしれない。カラリとグラスの中の氷を鳴らし、僕は小さく笑って余計なひとことを付け加えた。
「まぁ、これを勧めたからといって、あなたをつぶしてどうこうしようと思っているというわけではないので、ご安心を」
 一瞬だけ、彼の動きが止まる。そしてグラスをカウンターに戻し、渋い顔で溜息をついた。
「……お前はまた、そういうことをだな」
「ふふ、冗談ですよ」
 僕はそれにさらに笑ってみせて、自分のグラスの中身をあおった。
 最近の僕はこんな風に、赤裸々なセリフを何度も彼に囁いている。冗談だとは言っているが、ちゃんと本気なのだということは彼も承知だ。なぜなら、再会して何回めかの時に、少々酒を過ごしてしまった僕が、酔いに任せて告白をしたから。あれは、本当にうかつだった。
 告白を聞いた彼は驚いたようだったが、しばし沈思黙考したのち真面目な顔で、返事はいるのかと率直に聞いてくれた。笑い飛ばしたり気持ち悪がったりせず真剣に聞いてくれたのは嬉しかったけれど、僕は結果のわかりきった答えは聞きたくなかった。なので、自分の弱さとわがままを承知の上で、出来ればこのまま曖昧な関係でいたいと彼に頼んだ。
 シュレディンガーの猫だ。結果を確認するまでは、可能性は残されている。例え、密封された箱の中で猫が生きていることなど、万が一にもありえないとわかっていても。
 そして僕は彼の優しさに甘え、時折こんな風にからかい混じりに彼に絡み、許容を含んだ拒絶をもらっては彼との微妙な距離を楽しんでいる。もちろん、もし彼に本気の相手ができたならそのときは、ちゃんと言って欲しいとは伝えてある。完全な友人関係に戻るか、それとも親交自体をやめるかはまだ決心できてはいないのだが。



「そう言えば今日は、何かお話があったのではないのですか」
 しばし他愛のない雑談を交わしたあと、2杯目のグラスを傾けながら、僕はそう切り出した。彼からのお誘いのメールに、ちょっと相談があるのだと書かれていたのを思いだしたからだ。いや、正確には思い出したのではなく、待っていても彼が一向にそれらしいことを言い出さないので、水を向けてみたのだ。
 彼は、先ほどのサイドカーのベースをジンにかえたホワイト・レディを飲みながら、ああ、とうなずいた。が、結局それきり黙り込んでしまう。最初からずっと関係ない話ばかりをしているところから察しても、よほど言いづらい話題なのだろう。僕が返事を待っていると彼は視線を泳がせて、グラスに半分ほど残っていたカクテルを飲み干してしまった。ジンが喉に来たのか、げほげほとむせている彼の背中をさすろうと手を伸ばす。触れた途端、彼はびくっと肩を揺らした。
「……そういえば今日は、8月31日ですね」
 さりげなく手をひっこめて、話題をそらす。彼はちらりと僕の方を見て、僕がカウンターの上に置かれているメニューの方へ視線を向けていることに気がついたのか、ほっと息をついてそういえばそうだったなと話に乗った。
「毎年この日は、ちょっと落ち着かないな。もう9月が来ないなんてことがないのは、わかってるんだが……」
「僕もですよ。日付が変わる瞬間を迎えるのが怖くて、毎年この日だけは必ず12時前に就寝することにしています。なかなか寝付けないですけどね」
「へぇ。お前でもそうなのか」
 あれからもう、10年がたっている。繰り返した夏の日々、残り続ける記憶の残滓の不快さはもうあまりよく憶えていない。ただ、8月31日を迎えるたびに、忘れたはずの絶望に似た何かが胸に湧き上がって、わけもわからず気が塞ぐのだ。
「もしかしたら、自分では感知し得ない記憶の奥底に、残っているものがあるのかもしれませんね」
「ああ……」
 物憂げにうなずく彼の手が、無意識にかメニューに伸びる。目的もなくその手がページを捲り、ちょうどカクテルのページに達したところで、僕はタイミングよく、ところで知っていますかと問いかけた。
「今夜は、ブルームーンなんですよ」
 はた、と彼の手が止まる。それはおそらく、メニュー上にちょうどブルームーン≠フ名前を見つけたからだろう。メニューと僕を見比べる彼が無言で続きをうながしていることを悟って、僕はまた蘊蓄を語り出す。
「ブルームーンというのは本来は、大気中の塵の影響で実際に月が青っぽく見える現象のことだったんです。けれど1946年にある天文雑誌がした誤解により、今ではひと月のうちに満月が2回巡ってくる場合もそう呼ぶようになっています。もともとの意味でのブルームーンを見ることがとても難しかったため、ブルームーンには極めて稀なこと∞あり得ないこと≠ニいう意味があるんですよ」
「ふぅん……」
 彼がしみじみとメニューの文字を眺めているカクテルの方のブルームーンは、名前通りの青い飲みものではない。バイオレットリキュールを使っているので、色は薄紫だ。カクテルの中でも、屈指の美しさを誇っている。
「転じて近年では、ブルームーンを見ると幸せになれる、などという言い伝えが囁かれていますね。根拠はあまりないらしいのですけど」
 待ちあわせの時に見上げていた、見事な満月が脳裏に蘇る。夏の夜空に輝く月は怖いほど美しくて、言い伝えはどうあれ、僕には不吉の象徴にしか思えなかった。
 ――さて、彼が僕に相談したいこととは、一体なんでしょうね?
「ジンベースか……」
 つぶやいた彼が、それを注文する気になっているらしいと察する。僕はちょうどあいた自分のグラスをコースターの上に置き、彼の横顔に向けて、ただし、と付け加えた。彼が不審げに顔をあげるのに、にっこりと微笑み返す。
「そのカクテルの場合は、少し意味が違ってきます。本来のブルームーンのありえないこと≠フ転用から、叶わぬ恋∞出来ない相談≠ニいう意味合いで、女性が男性からのお誘いをスマートに断る方法として知られているのですよ」
 叶わぬ恋、と彼はつぶやく。
 僕の説明に、彼は何を思ったのだろう。じっとメニューを見つめる瞳が、やがて決意の光を宿す。彼の中で、何かが確固たる形をとったようだ。
 そして彼はマスターを呼び、注文した。――ブルームーンをふたつ、と。



 薄い紫が光に映える、美しいカクテル。ここではレモンジュースの代わりに生のレモンを絞って使っているらしく、鮮烈な香りが鼻孔をくすぐった。
 目の前に置かれたグラスを前に、僕は動けないでいた。
 彼が今日、言い出そうとしてなかなか言えなかった相談≠ェ何か、やっとわかった。これがたぶん、その答えなのだろう。僕がずっと聞くことを拒んでいた、僕の告白に対する彼からの返事。彼には、僕にそれを告げる必要性が生じたということだ。
「……ハルヒが、とうとうアメリカに永住するって言い出してな」
 ブルームーンで唇を湿らせて、彼がぽつぽつと語り出す。今日の本題を、ようやく話しはじめることが出来たらしい。
「発表した論文が認められて、あっちのシンクタンクで本格的に研究をはじめるんだそうだ。それで俺に、自分が移住する前にちゃんとケジメつけろって」
「ああ……そうなんですか」
 彼と涼宮さんは、おつきあいをしているというわけではなかったはずだ。数年前から涼宮さんが、ほとんどアメリカに行ったきりになっていたから、それほど頻繁に会うことも出来なかったと思う。だけど、今になって彼女がそんなことを言い出したというなら、実はちゃんと電話やメールなどで彼らは交際を続け、結婚の話が出るくらい愛を育んでいたということなのだろう。
 返事を拒んでいたのは僕自身だけれど、どれだけ滑稽だったかといまさらに思い知る。
「おめでとうございます。それではあなたも、アメリカについていかれるんですか?」
 もうこうして飲むこともできなくなりますね、さびしくなりますと、言葉が滑らかに口からこぼれ落ちる。だが僕は自分でも、今自分が何を話しているのかわかっていなかった。録音済みの音声データのように、まるで言葉が途切れると何かが壊れてしまうとでもいうように、僕は蕩々と流れるように話し続けた。……が。
「古泉」
 彼の呼ぶ一言で、いきなり声が詰まった。途端に胸を刺し貫く鈍い痛みに、ぐっと唇を噛んで耐える。涙なんかは出なかった。
 彼は溜息をついてから、マスターをちらりと見上げたようだ。察したらしいマスターが、無言でカウンターの向こう端へと離れていく。彼はそれを確認して、僕の手元からグラスを遠ざけた。
「悪かった。ちょっときつい冗談だったな。……これは、そういう意味じゃないんだ」
「……えっ?」
「ハルヒにはさ、ずっとお前のことを相談してたんだ。俺が、高校時代から引きずり続けて、いまだにぐだぐだと煮えきれずにいるいろんなことをな。あいつは毎回ぶつぶつ文句言いながら、愚痴につきあってくれてたよ」
 グラスを軽く指ではじき、彼はそっぽを向いたままさらに溜息をつく。
「お前だって悪いんだぞ。返事は聞きたくない、曖昧な関係のままがいいなんて言うから、好きって気持ちはあっても、恋人、みたいな関係になるのは嫌なのかとか悩んじまって。でもだからといって俺の方にその覚悟があるかっていうと自信もなくてさ……そんな堂々巡りの愚痴を、ハルヒはよく聞いてくれてた」
 うざかったろうになぁ、と彼は笑う。僕はなかなか彼の話が理解できず、ぼんやりと聞くばかりだった。
「アメリカに移住することを決めたときに、あいつは言ったんだよ。もうあんたの愚痴にはつきあってあげられないから、あたしがいなくなるまえに、ちゃんとケジメつけてきなさいってな」
 彼は自分のグラスを片手で掲げ、店内の灯りにかざした。抑えたオレンジの光を受け、紫のカクテルが複雑な色に染まる。
「なぁ、古泉。今夜の月は、ブルームーンなんだろう? だったら今夜だけは、このカクテルもそっちの意味でいいと思わないか」
「そっちの意味、というと……?」
 すると彼は少し困ったような、照れたような顔に苦笑を浮かべて、まだ口もつけていない僕のグラスに、自分のグラスの縁を触れあわせた。
「見ると幸せになれる青い月≠セろ? 俺と一緒に見るんじゃ不満か?」
 8月最終日の今日がその日だったのには、なんだか運命を感じるなと彼は言う。
「俺はたぶん、今後もこの8月31日を心穏やかに迎えることはできないし、お前だってそうだよな。だったらこれからのこの日は、一緒にこいつを飲みながら過ごす日にするのも悪くないんじゃないか……って、おい泣くな古泉!」
 目の前が涙でぼやける。それでも僕は泣いてませんと言い張って、減らないままに少しぬるくなったであろうカクテルをひと息で飲み干した。

 カウンターの上でもう一度グラス同士が触れあい、透明な音を響かせる。
 ふと見れば腕時計の針は天頂で重なって、日付が9月1日に変わったところだった。





                                                   END
(2012.09.09 up)
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8月31日のブルームーンを眺めつつ妄想。
カクテルのエピソードとブルームーンについては、wikiを参照しました。