君と浴衣と独占欲
00
 どこからともなく聞こえる祭り囃子。
 参道を行く人々の喧噪。
 テキ屋の呼び込みの声。
 それらが溶け込む夏の空気は、湿気を帯びて蒸し暑い。参道の両脇に軒を連ねる屋台の黄色っぽい灯りに照らされて、夜空には星の姿もあまり見えなかった。
 雑多な人混みの中を並んで歩く僕の連れは、さっきから無言のままだ。
 どこから見ても不機嫌な仏頂面で、屋台をひやかすふりでずっと僕から目をそらしている。着慣れない浴衣と履き慣れない草履のせいで歩くのがままならず、そのせいで不機嫌なのかと考えてみるが、その推測が当たっているかどうかはわからない。
 さて。つきあい始めて数ヶ月めの僕の最愛の恋人は、一体何を拗ねているのでしょうね?


 とにかく浴衣! 浴衣なのよ! という涼宮さんの提案は唐突だったが、彼女の提案が唐突でなかったためしはあまりない。いつものことだ。
 そしてこちらもいつものごとく、突然何を言い出すんだお前はと律儀に突っ込む彼と、夏といえば浴衣に決まってるでしょと応酬する彼女の微笑ましいやり取りに、僕もいつものごとく横やりを入れた。
「まぁまぁ、お二人とも落ち着いて。涼宮さん、それでは今週末の夏祭りか花火大会のスケジュールを確認しますか?」
「さっすが副団長ね! わかってるじゃない、そこの雑用係と違って!」
 夏休み、SOS団のミーティング会場となった喫茶店。奧の席から身を乗り出して、涼宮さんは満足そうにうなずいた。恐縮ですと頭を下げれば、彼が嫌そうな顔で、けっと吐き捨てそっぽを向く。
「できればどっかのお祭りがベストね。花火大会にはこの間行ったし。あのときはみんな普通の服だったから、今度は全員浴衣を着るのよ!」
「待て、ハルヒ。全員って俺たちもか?」
「当然よ! みんなそろって浴衣で歩くことに意義があるの。じゃあ、みくるちゃんと有希! これから今年の浴衣を見に行くわよ!」
 おい、俺たちはどうすんだと聞く彼に、涼宮さんは男の浴衣なんて見に行っても地味なのばっかでつまんないと言い放ち、適当に選んどけばとの言葉を残して、朝比奈さんと長門さんを連れて店を出て行ってしまった。
「やれやれ……相変わらず勝手なやつだ」
 テーブルに当たり前のように残されている伝票を手に、彼が溜息をつく。僕はさっそく夏祭りを行っている場所の確認と浴衣の調達の段取りを頭の中で組み立てつつ、いいじゃないですかと笑ってみせた。
「涼宮さんが楽しそうで何よりですよ。今年もまた、夏休みを15000回繰り返されても困りますしね」
「不吉なことを言うんじゃない。それにしても浴衣か……めんどくせえな」
「そうですか? 僕は楽しみですよ」
 今日は僕がもちましょうと言いつつ、伝票を奪うふりをして彼の手を握る。彼は一瞬、振り払うかどうか迷う仕草をしたが、結局そのままテーブルの上に手をおろした。手の甲をなでると、ぴくりと小さく肩が震える。可愛い。
「ま、まぁ……朝比奈さんの浴衣姿は、何度見てもいいもんだよな。長門も、ハルヒも、似合うし、な」
「そうですね。僕の目当ては別の人ですけど」
 僕の言っている意味は充分わかっているくせに、わざとそんなとぼけたことを言うものだから、負けじと反撃。彼ははぁ、と溜息をついた。
「……男の浴衣姿なんて、たいして面白くねえだろうが」
「そんなことはありませんよ?」
「渋い趣味だな」
「あなた限定ですけどね」
 すると彼はいきなり僕の手をふりほどき、アホか、と吐き捨ててそっぽを向いた。耳が赤く染まっているのが見える。まったくお前はいつもいつもとぼやく横顔を苦笑しつつ眺めて、つい彼の浴衣姿を想像した。
 おそらく、あのストイックな衣装は、彼のしなやかな肢体によく似合うだろう。色はやはり黒だろうか。紺やグレーでもよさそうだ。……なんてことを考えながら、彼のいまだ赤い耳から夏らしく日焼けした首筋、肩、二の腕へと視線を下ろしてゆくと、彼が身動きする度に、半袖の袖口からちらりと白い肌がのぞくことに気がつく。だが、そこから服に隠れた部分を覗き見などするまでもなく、彼の日焼けは半袖と短パンから見えている範囲だけで、その他の部分はいまだ白いままだということなど、僕はとっくに知っている。もちろん、直接見たからだ。
 おつきあいを始めて数ヶ月。僕たちの仲は、そういうところまで進んでいる。……まぁ、彼の好奇心につけこむ形で進めたことなので、彼がそれを本当に望んでいたかは不明だし、今のところ彼から誘ってくれたことも一度もないから、そこに不安がないと言えば嘘になるのだけれど。それでも僕は毎日が、まるで夢の中にいるかのようだった。
 この夢がはじまったのは、春休み直前のある日。とはいえ、時期にはあまり意味はない。僕はかなり前から、いずれ自分が彼への想いを抑えきれなくなる日がくることを予測していたし、それがたまたまあの日だっただけだ。予想外だったのは、てっきりスパッとふってくれると思っていた彼が、なぜか僕の告白を受け入れてくれたことだろう。予想外すぎて、しばらくなんの反応もできなかったことを思い出す。
 なんだドッキリとかか、と首を傾げた彼を、まさかと叫んであわてて抱きしめたあたりまで思い出してニヤニヤしていたら、彼の方からおしぼりが飛んできた。
「ニヤけてんな。キモイ」
「すみません、つい……そういえばあなたは、浴衣は用意できそうですか?」
 これ以上妄想を続けるとろくでもないことになりそうだったので、わざと思考を切り替えて質問する。彼はまだ眉をしかめた顔のまま、ああ、とうなずいた。
「去年だか一昨年だかに、ばーちゃんが送ってくれたのがあるはずだ。まだ袖も通してなくて悪いと思ってたから、ちょうどいい」
 もしかしたら去年のアレで、着た回はあったのかもしれんが、とつぶやく。確かに、15000回以上も繰り返したなら、浴衣を着たことくらいはありそうだ。しばし黙って、繰り返した夏に思いを馳せていたらしい彼が、思い直したように顔をあげた。
「そういうお前は持ってんのか? 浴衣」
「いえ。ないのですぐに手配しますよ。あなたも持っていなければ、一緒に用意しようと思ったんです」
「あー、そうか。んじゃ、着付けはどうするんだ」
「え、男性用浴衣って、羽織って帯締めるだけじゃないんですか?」
「まぁ、そうなんだけどな」
 女性の浴衣は、お端折りやらなにやらがあって面倒そうだが……男性用は前合わせさえ間違えなければなんとかなると思っていたのだが。
「オフクロがそういうのくわしくてな。男の浴衣も着るだけならそれでOKなんだが、やっぱり格好良く着るにはコツがいるんだとよ。あと帯の結び方もいろいろあるらしい」
「そうなんですか……」
 古泉一樹、の役割としては、それなら浴衣も格好良く着こなさなくてはなるまい。すぐに着付けできる人員を手配しなければと、心の中で算段をつける。
「教えて下さってありがとうございます。それではあなたは、お母様に着付けしてもらえるんですね?」
「ん、ああ。まぁな」
 あいまいにうなずく彼に、それはよかったと微笑んでみせる。彼の浴衣姿ならどんなでも楽しみに決まっているが、どうせなら格好良く着こなした姿が見たい。彼の母親がそれなりの腕前なら、かなり期待がもてるだろうな……と思ったところで、僕はとうとう湧き上がる欲望に逆らえなくなった。
「あの」
「ん?」
「夏祭りはこれから探すのですが……」
 予定が決まったら、みなさんとの待ち合わせよりもちょっと早く会えませんか、と恐る恐る聞いてみる。せっかくの彼の浴衣姿なのだ。ぜひとも、涼宮さんの目を気にせず、じっくりと鑑賞したい。
 彼はしばらくきょとんとしたあと少し笑って、ああかまわんぞと僕のわがままを受け入れてくれたのだった。


 そういうわけで、全員で繰り出す予定の夏祭りの日。僕らは涼宮さんたちとの集合時間より2時間も前に、会場となる神社で待ち合わせた。しかも遅れてはならじと約束の30分前に着いてみれば、そこにはすでに彼の姿があったのだ。
 妹がうるさいから帰ってくる前に家出ただけだと、言い訳めいた口調で言い捨てた彼は、黒っぽい生地に白い乱縞の浴衣を着ていた。うっすらと暮れ始めた空の下、境内に張り巡らされた独特の黄色い電灯の光に照らされてすっきりと立つその姿は、まさに予想以上だ。
 もともと、和風の顔立ちだなとは思っていた。華やかさはないがきりりと涼しげな眉とシャープな顎、長くて細い首筋。そして普段、制服をだらしなく着ているせいで目立たないスタイルの良さ。それらの長所を渋い色の浴衣が引き立て、しかもいつも通りのどことなくだるそうな雰囲気が不思議な色気を醸し出している。
 ヤバイ。あまりにヤバすぎる。なんだあの人、なんで浴衣を着て立ってるだけなのに、こんなにエロいんだ。犯罪だ。
「どうした古泉。具合でも悪いのか」
「いえ、別に。……お似合いですね、浴衣」
 正直に感想を言ったら確実に引かれるので、控えめにそう伝えた。本音を言えば、今すぐそこらへんの暗がりにでもひっぱりこんで、いろいろしたい。抱きしめたりキスしたり襟とか裾とかに手を入れたり首筋に跡をつけたりそれから……などと決して口に出せない欲望を必死に胸の中に飲み込んでいると、彼は少し眉を寄せ、僕の全身を上から下まで眺め回してから不機嫌に言った。
「お前に言われるとなんか腹立つ。イヤミかそれは」
「とんでもない! 本当に素敵ですよ。見ているとなんだか……」
 不安になってくる、という言葉を飲みこんだ。なんだよと首を傾げる彼にはただ、いつも通りの笑顔を見せた。
「まったく。お前は時々、わけがわからんな」
 ほら早く行くぞと彼に促され、参道に足を踏み入れる。待ってくださいとその背中を追いかけながら僕は、さっき飲み込んだ言葉が胸の内にもやもやと、いつまでもわだかまっていることに気づいていた。行き場のないその感情はやがて胸の奧で形になり、結局はいつもの、誠に始末に負えない想いへと帰結して、そこで内なる嵐を巻き起こすのだ。
 前をゆく、すっきりとしなやかな後ろ姿。短い髪の隙間から見えるうなじ。ときおり振り返る横顔。浴衣からのぞく首筋、日に焼けた手首、素足に履いた草履。彼のそんなすべてを――僕以外の誰の目にも触れさせたくない、などと。
 やっと恋人と呼べる存在として彼を手に入れたというのに、それでも僕はそんな気持ちを捨てられない。いや、恋人になったらさらに、それはもてあますほどひどくなった。
 だって彼は、僕のものだ。この僕だけの。
 彼をどこかに閉じ込め、隠してしまいたい。世界中の誰の目も届かない場所、僕だけしか知らない場所に。誰も彼を見ないで欲しい。誰も彼に触れないで欲しい。誰も彼を、僕から奪わないで――。
「古泉! 遅いぞ」
「あ、はい」
 振り返って待つ彼の傍まで、小走りで追いつく。隣に並んで、堂に入った歩きっぷりですねとからかったら、彼からはお前が鈍くさいだけだとお叱りを受けた。
 まぁ、わかってはいる。こんなわがままを言ってみても、すべては戯れ言だ。彼は僕だけのものには決してならないし、そうしてはいけない存在だ。僕のこんな醜い独占欲なんて、誰にも知られるわけにはいかない。彼本人にだって、知られたらきっと引かれる。
 だから僕はまた、さりげない微笑みと冗談に下に気持ちを押し込めて、そっとフタをする作業を繰り返すのだ。
「人が増えてきましたねぇ」
「この暑いのに、みんなよく来るよな」
「人のこと言えないでしょう僕らだって」
「ハルヒが言い出さなきゃこねえよ」
 そう嘯く彼に、妹さんにねだられれば連れてくるでしょうにと言い返す。彼はむっとした顔でそっぽを向くと、まぁなと言い捨てた。
 いかにも不機嫌そうな答えだったが、思い返してみても、この時点ではまだ彼の機嫌は、そう悪くなかったと思う。ただ、隣を歩きながら頻繁に、ちらちらと僕の方へ視線を向けてくるのが気になった。
「どこか変ですか? 僕」
 あまりに何度も見てくるので、思わずそう聞いてしまう。
 一応、合わせも間違っていないし、帯も緩んでいない。大丈夫なはずだが……と思っていると、彼ははっとしたように目をしばたたき、なんでもないと首を振った。
「浴衣、ちゃんと着れてるなと思って見てただけだ。誰にやってもらったんだ?」
「自分で着たんですよ。練習しまして」
「へぇ? 本当かよ」
 疑わしい、という感想をあからさまに顔に浮かべている彼に、失礼ですねと言い返す。確かに、普段さんざん僕の不器用さを見ている彼が疑うのも無理はないが、今回はちゃんと着付けの出来る人にレクチャーを受け、何度か練習して、自分で着られるようにしてきたのだ。
 だって、困るではないか。もしも不測の事態が起こり、彼が浴衣を着崩れしたり、帯が緩んだり、ましてや浴衣を脱がなくてはならない事態になったときのことを想定したら!
 ……はい。一部、不純な動機が混じっていることは否定しません。すみません。
「本当ですよ。帯だってちゃんと、自分で結べますし」
「ふぅん?」
 そう言って彼は、まだ信じていない顔で軽く首を傾げた。思えばそのあたりから、なんとなく口数が少なくなっていたような気はする。
 それでもしばらくの間は、はしゃいではいないというだけで、それなりに祭りを楽しんではいたはずだ。が、すっかり日が落ちあたりが暗くなって、涼宮さんたちとの待ち合わせまで1時間半を切った今、彼はむっつりと押し黙り僕と目も合わせない。一体、どうしたというのか。
「あの、もしかして疲れましたか? 少し休みましょうか」
 そう水を向けてみれば、彼はまるで睨みつけるように僕の方を振り返って、黙ったままうなずいた。人の流れをはずれ、境内の石段に腰掛ける。と、彼は間髪入れずに立ち上がり、飲み物を買ってくると言い置いて屋台の方へと行ってしまった。
 不機嫌の理由を聞く間も与えてもらえない。溜息をつき、しかたなくその場で彼を待っていると、ふいに声をかけられた。
「あのー、すみませぇん。カメラのシャッターお願いできますかぁ?」
 顔を上げるとそこにいたのは、華やかな浴衣姿の女の子二人組だった。見ない顔だからおそらく、他の高校の生徒だろう。小さなデジカメを差し出している方の、黒地に赤やピンクの花が描かれた浴衣の襟元には、最近の流行なのかレースの半襟が使われている。いいですよと気軽に引き受け、本殿をバックに場違いなポーズを取る少女たちをファインダーに収め、シャッターを切った。もうひとりの着ている浴衣は白地に紫の花柄だったが、レンズを通して見るに模様の花は大輪のバラのようだ。これも流行なのだろうが、僕としてはもうちょっとシンプルな、スタンダードなものの方が好みだなと思う。
「ありがとうございますぅ〜!」
 撮影したデジカメを返し、そろって礼を言う彼女たちからさっさと離れようとすると、バラの浴衣の方が僕の浴衣の袖を引いて呼び止めた。
「あのー、よかったらあたしたちと一緒に、花火見ませんかぁ?」
 そう言われて遅まきながら、ああ、逆ナンだったかと気がついた。
「一人でいてもつまらないじゃないですか〜。なんだったら、カラオケとかでもいいし」
「ウチらヒマなんで〜。オールでもいいし〜」
 内心でうかつだったなと反省しつつ、僕はにこやかに、すみませんが連れがいるんですよと遠回しに断った。こう言えば大抵は、彼女連れだと思ってくれる。彼女ではないが恋人と一緒なのだから、嘘ではない。
「え〜……」
 案の定、彼女たちは不満げな顔で引き下がりそうな様子を見せた。が、そこに運悪く、両手にペットボトルを持った彼が戻ってきてしまった。
「古泉? どうした」
 とたんに彼女たちのテンションが戻る。馴れ馴れしく腕をとられ、ぐいぐいと引っ張られた。
「なんだ、連れってカノジョじゃなくて友達なんじゃん? だったら2,2でちょうどいいし、ウチらとカラオケいこ!」
 それを聞いた彼は、すぐに事態を把握したらしい。ボトルをひとつ渡され、空いた手で腕をつかまれて、反対側に引っ張り返される。
「悪いが、このあと友達と待ち合わせなんだ。すまんな」
 そのまま女の子たちの返事も聞かず、彼は僕の手を引いてその場から遠ざかっていった。人の集まっているエリアからどんどんはずれ、鬱蒼と木々が生い茂る中に分け入っていく。かろうじて祭りの灯りと喧噪が届くあたりの境内のはずれで、彼はようやく足を止めた。
「……ったく、アホかお前は!」
 つかんでいた腕をふりほどき、振り返りざま彼は言い捨てた。持っていたペットボトルのキャップをひねり、中身をひと息にあおって、余計な汗をかいたと愚痴る。
「ちっと目ぇ離すとこれだ。油断も隙もねえ」
 ……もしかして誤解されているのだろうか。まさか、僕が彼女らに声をかけたと?
「そんな、誤解ですよ。声をかけてきたのはあちらの方です」
「当たり前だろうが!」
 俺といるときに……と言いかけて、あわてて口をつぐむ。半分ほど中身が残っているペットボトルのキャップを再び閉めて、彼はさらに怒った顔で僕をにらみつけた。
「お前、いいかげんにしろよ。ふざけんな」
「は、え……っと、何を」
 彼が何を怒っているのかいまいちわからない。首を傾げていたら、彼はますますいらついた様子で吐き捨てる。
「その浴衣が悪ぃんだ。もうお前それ脱げ。すぐ脱げ。どんどん脱げ」
 え、えええええええええええ……!?
「そ、そう、言われましても着替えも何もありませんし……あと、浴衣でないと涼宮さんのご機嫌が」
 彼の眉が、さらに不機嫌にしかめられる。それから手を伸ばして僕の左腕を取り、腕時計をのぞきこんだ。
「……あと1時間弱くらいか」
 待ち合わせの時間まで、だろうか。彼はよし、と小さくつぶやき、持っていたペットボトルを地面に置いた。そして、上に向けた人差し指で、来い来いと手招く。
「な、なんでしょう」
 近づいた僕の手からもボトルを取り上げ、そのへんに置いてから彼は、ぐいと僕の浴衣の襟をつかんで引く。額が触れあうくらいの至近距離で、彼は囁くような声できっぱりと言った。
「するぞ」
「……は?」
「早くしろ。あんま時間ねえ」
 一体何を、と問い返す前に彼の腕が首の後ろにまわり、力一杯引き寄せられ、唇が重なった。だけでなく、ぬるっと舌が入ってきた。
 ……って、ちょっと待てぇえええええ!


 遠くから、風に乗って聞こえる祭り囃子。
 賑わう祭りの喧噪が届かない暗がりに、押さえた息づかいと、時折漏れる声だけが響く。
「もう……なんなんですか急に……あなたらしくもない……」
 寄りかかった木の幹に、立ったまま彼の身体を押しつける。見回してみても、座れるような場所はどこにもないのだから仕方ない。彼は背後の木に半ば体重を預け、腕は僕の肩にまわして身体を支えていた。
 周囲は鬱蒼と樹木に覆われているし、灯りやお囃子は聞こえるものの参道からは大きくはずれているから、誰かが通りかかる危険は少ないとは思う。が、皆無ではない。普段は外で手を握ることすら嫌がる、ごく常識的な良識の持ち主である彼がとる行為とは、とても思えないのだが……。
「うっせぇな……したく、ねえのかよ」
 はぁ、と熱い息をついて、彼が不機嫌にそう言った。上気した顔に浮かぶけだるげな表情に、視線が吸い寄せられる。
 日は落ちたとはいえ、夏の宵はまだまだ蒸し暑い。しどけなくはだけた浴衣の襟元に、つうっと首筋を伝い汗が流れこむ。ついそれを目で追ってしまい、彼の身体を隠しているが、たった1枚の布だという事実を今さらに思い出した。軽く帯を引くだけ、裾をめくるだけですべてがあらわになる危うさに、やけに興奮する。
「いえ、まさか」
 首筋から胸へと舌を這わせ、浴衣の裾から手を入れて腿をなでた。大胆に誘った割には、彼はその行為だけでびくっと身体をすくませ、目元を赤く染めて僕を見上げる。
 ぞくぞくする。そんな姿と表情で煽られれば、彼らしくないなんて感想は簡単にふっとぶに決まっていた。
「……こんな素敵なお誘い、断れるわけ、ないじゃないですか」
 だって仕方ないではないか。僕が浴衣の着付けを熱心に憶えたのも、こんなシチュエーションがあったらと夢見たからであって、今まさにその夢が叶っているのだ。現実となった妄想を目の前にして、止められるわけがない。
 腿を撫でていた手を、さらに上へとずらす。今日はボクサーかと余計な感想を抱きながら触ると、シチュエーションに酔ったのかそこはとっくに固い。素早く下着を引き下ろして直接握り込んだら、彼の身体がびくりと跳ねた。
「っあ……っ!」
「いつもより、興奮してますね……?」
 耳もとでそう囁いて、ついでに耳朶を甘噛みする。彼が弱いのを承知の上で、舌で耳を責めながら握り込んだ手を動かした。先走りですべりがよくなったそれを、ぐちゅぐちゅと音をたててしごき上げる。彼は必死に声を押し殺しながら、力の抜けそうな足を支えていた。
「ん……っ、ひぅ、う、んぁ、あっ」
 彼が身もだえるたび、浴衣はさらに乱れる。性器を刺激しつつ肩が出るほどはだけた襟元をさらに広げ、胸の突起を舐めたり噛んだりしてみる。と、彼は僕の頭を抱きかかえて、びくびくと身体を震わせた。
「こいず……そこっ……は」
「ここ? もっとですか?」
 くにっ、と舌で押しつぶすようにして執拗に舐め、転がすように弄ぶ。何度も抱きあう仲になってから、彼はいつの間にかここでも感じるようになった。上がりそうになる声を押し殺して、もどかしく腰を揺すっている。少し強めに歯をたてたら、ひっと息を飲んで全身が緊張した。
「っ、もう、出……っ、る……!」
 ぎゅうっと頭を強く抱かれた。耳元で彼が、小さく叫ぶ。彼のそれをしごいていた手に、びしゃ、と生温かい液体がかかった。
「は……」
 腕をほどき、彼はぐったりと木にもたれかかる。もうすっかり着崩れて、でもかろうじて身体の要所だけは隠している浴衣。蕩けきった表情の中、瞳を潤ませて肩で息をしている姿は限りなく無防備で、壮絶にいやらしい。とても我慢できなくて、まだ息の整わない彼の片脚を、ぐいと持ち上げた。
「あ……」
 彼の放ったものを指にからめ、奧を探ってみる。彼は一瞬、とまどうように眉を寄せたものの、抵抗はまったくしなかった。
「キツイですか……?」
「いや、だいじょう……っん」
 足を上げさせたまま、指でそこを丁寧にほぐす。いったばかりなのに、その刺激で彼の性器はもう反応しはじめている。それが嬉しくて、すでにすっかり臨戦態勢な自分のものを、そこに押し当て、彼の中にじわりとねじこんだ。かなり無茶な体勢でぐいぐいと身体を進めると、彼が喉の奥で、押し殺した悲鳴をあげる。
「んっ……あ、こいず……みっ」
「しっかり、つかまって……っ」
 背中に彼の手が回る。片脚を膝裏から支え、ほとんど抱き上げるような姿勢でしがみつかせて、下から突き上げた。ぐぷっぐぷっという淫猥な水音と同じリズムで、彼が声をもらす。押さえても押さえきれない快感がにじみ出る声色に、ますます興奮する。もっと声を聞きたくて、突き上げながら右手で彼の性器を握り先端をこすってみたら、彼はひときわ高く声を上げた。
 僕は、ふふっと意地悪く笑って、わざと彼の耳元に囁いてみる。
「あんまり大きな声を出すと……誰かに気づかれるかも、しれませんよ?」
「……っう」
 はっとしたのか、彼が息をつめる。緊張したのか、ぎゅっと中が締めつけられて、僕も思わず声を漏らした。ずり落ちそうになった身体をゆすりあげると、その行為で僕のそれが彼の中のイイ場所をえぐることとなったようだ。押さえようとしている声が、耐えきれずにこぼれてしまう。
「んっ、ふぁ……っあ!」
「ほら、聞こえちゃいますよ?」
「んなこと、言われても、きもち、よくて……っ」
 真っ赤な顔の彼が、潤んだ瞳で困ったように僕を見る。熱に浮かされ壮絶に色っぽい彼は、また訪れたらしい波にぎゅっと目をつぶった。
「ん……ぁ……っ」
「だめですって……」
 ゆすった瞬間、また声を出しそうになった彼の口をキスでふさぐ。ちょっとした意地悪で言ったつもりだったが、必死に声を出さないよう耐えている彼を見ていたら、それどころではない気持ちがまた湧き上がってきた。
 自分で言った言葉に捕らわれ、ひそかな焦燥が生まれる。
 本当に冗談じゃない。こんなに可愛くて綺麗で、しかも淫らな彼の姿、色っぽい彼の声を、誰かに見られたり聞かれたりなんて。
 もちろんセックスのときの姿だけじゃない。物わかりのいいふりで、彼を僕だけのものしてはいけないなんて言ってみても、本音は誰にも彼に指一本だって触れさせたくないし、誰にだってそういう目で見られたくはないのだ。
「っあ……ああ……」
「……んっ」
 浴衣なんてダメだ。
 とても似合うけれど、格好いいけれど、無防備すぎる。布地一枚、紐一本と帯だけなんて、あまりにも頼りない。露出はそう多くないから一見ストイックだけど、ほんの少し着崩れるだけでどうだ、この無防備なあやうい色っぽさ。しかも、ちょっと隙間から手を差し込むだけで、どこを触るにも支障がない。なんてことだ。
 ダメだダメだ。やばすぎる。涼宮さんがなんて言おうと、それで世界がどうなろうと、今後一切、彼に浴衣で外出なんてさせるものか!
「ひっ……あ……! こいず、みっ、きつ……」
 いつのまにか僕は、しがみつく彼の身体を強く抱きしめ、かなり激しく突き上げていた。彼の指が浴衣の布を通してギリギリと肩に食い込む。苦しそうな声を聞いても、僕は身体の内側を炙る熱を我慢しきれず、彼を苛む動きを止めることは出来なかった。
「ダメです……もう」
「な、にが」
「あなたの、浴衣、姿……かわいくて、いやらしくて……誰にも、見せたくない。もう二度と、僕の前以外では、着ちゃ、ダメ、ですから……ねっ」
 ついそんな言葉が、うわごとのように口をついて出る。
 けれど、快感に蕩け思考のままならない頭でも、こんな要求は無茶だとさすがに思っている。だから彼が急にしがみついていた腕をゆるめ、ぐいと身体を離して顔をのぞきこんできたときも、彼が言うのは何をアホなことをとか相変わらず気持ち悪いなとか、そんな罵声だろうと予想していた。予想はしていても、言わずにはいられなかったのだ。
 だが実際に彼の口から出たのは、ひどくもどかしげな一言だった。
「お前は……お前、だってな」
「えっ?」
「…………」
 彼はしばし、熱っぽい目で僕を見つめていた。が、急に言う気をなくしたように、むっと唇を引き結んだ。
「あの」
「うるさい、黙れ」
 ホントお前むかつく、と理不尽に罵り、目をしばたたいていた僕に再び抱きついてくる。そして、動きの止まっていた僕の耳に、早くしろと続きを促した。
「ゴムとか、持って来てねえし……浴衣についたら面倒だし」
 もっともなことを言い訳に、彼は僕の首筋に顔を埋めて早口でねだる。
「中、に……出して、いいから……はやく」
 そんなことを言われてしまえば、もうたまらなかった。こみあげる衝動に従い、不自由な体勢をものともせずに彼の中に激しく突き入れる。止まらない。
「っあ、や……ぁっ、あっ、あ……も、う」
 やばい、と彼が叫ぶ。びくびくと身体が震え、触れていなかった性器から白濁が噴き出した。こっちの対策はしてなかったなとちらっと考えたが、いまさら止められるわけがない。もう出ます、と申告し、僕はすべての精を彼の中へと注ぎ込む。
「っん……あ! ふぁ、あああ……」
「……っく」
 その感触にも感じたのか、彼は再び声をあげて身体をのけぞらせた。


「そっち押さえててくださいね」
「おう……」
 ようやく熱と興奮が収まったあと、僕らがふと気がついたのは、待ち合わせ時間が目前にせまっているということだった。
 いつまでも余韻に浸ってもいられないし、最中にはあんなことを言ったが浴衣を着ないわけにもいかない。僕たちはだるい身体をなんとか起こし、あわただしく身支度を調えはじめた。彼の放ったものが、僕の浴衣を避けて身体のみにかかっていたのは幸いだ。ペットボトルの1本が水であったので、ハンカチとティッシュを使って互いの身体に残る痕跡を拭った。
 そしてあとは、見る影もなくぐっちゃぐちゃに着崩れた浴衣の始末を残すのみ。そんなわけで僕は、今こそ練習の成果をみせるときとばかりに、彼の帯と腰紐をいったんほどき、憶えたばかりの着付けの腕を披露しているのである。
「こっちを、こうして……っと」
「…………」
「ここを、こう……」
 手順を思い出しつつ着付けを進める僕を、彼はじっと黙って見つめている。事後の余韻はまだ彼からは消えきっておらず、しどけなくだるそうな表情はやけに色っぽかった。なんだかひどく落ち着かなくて、僕はとにかく口を開いた。
「そういえば、結局、何が気に入らなかったんです?」
 腰紐を締めながら、聞いてみる。ずっと不機嫌だった理由と、ヤケクソのようにこんなところで誘ってきた真意。はじめての彼からのお誘いは嬉しくて夢のようだったが、それにしてもおかしすぎると思う。聞かれた彼は、ぷいと横を向いてしまった。
「僕の浴衣がどうとか、おっしゃってましたが……」
 それでも彼は、答えようとはしない。僕はしかたないと苦笑して肩をすくめ、さっさと帯を締めて仕上げにかかった。
 さて、彼の着付けが終わったら、次は自分自身の番だ。幾度も繰り返し練習したおかげで、自分の着付けは人のよりも手早くこなせる。彼に背を向けテキパキとやっていると、またも背中に強い視線を感じた。やりにくいなと思っていたら、彼がふいにぼそりとつぶやく声が聞こえた。
「ふぅん……ホントに、自分で着たんだな」
「えっ?」
 振り向いたら、独り言のつもりだったらしい彼が、ぱっと顔に朱を上らせてうろたえた。な、なんで。なぜ赤くなるんだ、そこで。
「何か言いました?」
「い、いや、別に。それより早く着ちまえ」
 ぱたぱたと、わざとらしく顔の前で両手を振る。ますます気になった僕は首を傾げて、身体ごと彼の方を向いた。
「なんですか。気になるじゃないですか」
「いいから! 待ち合わせ、もうすぐだぞ」
 それはまぁそのとおりなので、僕は不承不承再び彼に背を向け、手早く着付けを終わらせた。出来ましたと振り返ると彼は、ならさっさと行こうとそそくさと踵を返す。僕は彼の背後に素早く近づき、後ろから手首をつかんで、ぐいと引き寄せた。
「うわ! 何す……」
 抗議の声をものともせず、彼の襟元から中に手を入れる。途端に彼は身をよじり、逃れようとしはじめた。
「や、やめろ、どこに手ぇ突っ込んでんだ!」
「どこと言われましても」
「アホ! もう時間ないんだろうが!」
「わかってますよ。でも」
 まったく。浴衣というのは本当に無防備だ。すぐに手に触れた胸の突起を指先でこねるようにすると、彼はビクと身体を震わせますます身をよじる。
「言わないと、もっと悪戯しちゃいますよ?」
「ば……っ、お前」
 さらに裾からも手を入れて、内股をそろりとなでてやる。さっきまでの火照りが消えきっていない身体には、容易に火がつくことを僕は知っている。案の定、彼は小さく声を上げて肩をすくませた。
「ほらもう、こんなになって……。この状態のまま、涼宮さんや朝比奈さんの前に出てみます?」
「……っく」
 僕の手から逃れようとする身体を抱きすくめて、耳を軽く噛んでみた。彼はひゃっと悲鳴を上げ、涙目になりながらも耐えているが、すでに彼自身よりも彼の好きなポイントをよく知る僕の手の動きに、そう我慢が続くわけもない。
 なおもしばし躊躇してから、彼はちくしょう憶えてろと吐き捨て、ようやくしぶしぶと口を開いた。
「だって浴衣着せる時って、ほとんど裸じゃねえか……」
「は?」
「お前不器用なんだから……実は、森さん、とかに着せてもらったのかもと、思うだろ」
 真っ赤な顔ごと目を逸らし、彼はぼそぼそとそう言った。
「えっと……」
 つまり、彼がこんな場所でのセックスなんて暴挙に出たのは、僕が本当に一人で浴衣を着られるかの確認? 誰かに、裸同然の姿を見せたのではないか心配で?
「アホか。見せるくらいなら別にかまうかよ、男なんだから。ただ……俺はオフクロに着せてもらったけど、浴衣の着付けって、裸の下半身にこう……抱きつくみたいにしたり、だな、するだろ」
「それが嫌だったんですか?」
 彼は真っ赤になった顔を逸らし、ぐっと言葉をつまらせた。恥ずかしくていたたまれないと、その顔が語っている。
「だってあなた、そんな……」
「うるさいうるさい! 大体、お前が悪いんだよ! そんな浴衣なんて着てくるから!」
 顔をのぞき込もうとしたら、いきなり腕を振り払われた。彼は弾劾するように僕を指さし、怒っているのか泣きそうなのかわからない顔で叫ぶ。
「お前だって……お前なんか、ただでさえむかつくイケメン野郎だってのに、そんな似合いすぎの浴衣で! おかげで色んな奴らにじろじろじろじろ見られまくりで、あげくにちっと目ぇ離した隙にナンパなんてされやがって、ホント馬鹿だろお前。さっきは俺に着るなとか言ってたが、お前こそもう着るんじゃねえよ浴衣なんて」
 お前なんか、ずっと俺にだけ見られてりゃいいんだ、と吐き捨てて、彼は腕を組んで胸を張る。ちょっとバツが悪そうなのは、自分の言っていることがめちゃくちゃで理不尽だと、自分でわかっているからだろう。
 彼の言葉の意味が、じわじわと染みてくる。すっかり理解できたとたん、もうたまらなくなった。
「わ! ちょ、離……っむ」
 強く抱きすくめて、唇を奪う。何度もついばみ、やがて唇を割って、中に舌をもぐりこませる。まだ足りない。どれだけ深くくちづけても足りる気がしない。
 だって彼が、僕と同じ気持ちでいてくれたのだ。浴衣姿の彼を誰にも見せたくないなんて、自分勝手な独占欲だと思っていたのに。あんなに不機嫌になるほど、ナンパされた僕に理不尽な怒りをぶつけるほど、彼も僕を……。
 独りよがりだと思っていた。
 ただの空回りだと思っていた。
 彼にも独占欲があるのだなどと、それが僕に向いているのだなどと、考えたこともなかったのに。
 こんな幸せが、あっていいのだろうか。
「……っもう、いいかげんに離せ!」
「離せませんっ!」
 そんなの無理な相談だ。だって、他の何もかもを忘れてただ抱きあっているこの今だけ、腕の中の彼は全部僕のものだし、僕の全部も彼のものなんだから。離せるわけがない。もっともっと深く、混じりあいたい。いますぐに。
「って、この馬鹿。もうすぐ待ち合わせ時間だっての! せっかく着直したのに、脱がせるなアホ……っ!」
「ダメです! 止まらない」
「あ……あっ、や、……やめっ」
 僕の愛撫に、彼の抵抗もどんどん弱くなる。ついには嬌声しか出なくなった唇を唇でふさいで、僕はもう1度、彼の無防備な浴衣をひっぺがした。


 結局、僕が我に帰ったのは、けたたましく鳴り響く携帯の着信音によってだった。
涼宮さんからのお怒りの電話に真っ青になった僕は、大慌てで言い訳をし、彼からも盛大に罵声を浴びつつ身支度を調えて待ち合わせ場所に駆けつけることとなった。
 その日、とうとう彼が一言も口をきいてくれなかったのは、さすがに自業自得……ですよね。


                                                   END
(2012.08.29 up)
BACK  TOP  NEXT

まだ夏ですし! 8月ですしっ!
セーフです!

以前に書いた浴衣えろで、たいめんりついが書けなかったのが心残りだったんです。
書けて満足です。