変わる世界
00
「僕だってそろそろ人畜無害な仮面を脱ぎ捨てて、いつの間にか固定されてしまったこのキャラ性を一新したくなる頃だと思いませんか? 同級生相手に丁寧口調を続けるのも、けっこう疲れるものなんです」

 こいつがそんなくだらんことを言ってたのは、いつのことだったっけな。
 あれは冬休み前の……ああ、そうそう。中川のラブレター事件があったときだな。部室の大掃除のときのヨタ話だったか。
 たしか俺は、そんな愚痴だかケンカ売ってんだかわからん戯れ言に、じゃあやめればいいとか言ってやったはずだ。それで返ってきた答えと言えば、俺のあるかなきかの思いやりを完全否定するものだったよな。

「そうもいきませんね。今の僕こそが涼宮さんの望む人物設定でしょうから」

 アホらしい。まったくもってくだらん。
 お前が敬語をやめたからって、ハルヒが世界を変えちまうとでもいうのか? そんな馬鹿なこと、あるわけがない。



「――どうしました? めずらしく長考の構えですね」
「ん、ああ。すまん」
 別のことを考えていたという正直な申告はせず、俺は目の前の将棋の盤上にパチリと自分の駒を置いた。そんなに考え込むほどの手でもない。古泉の考えてそうな展開なんて、大体読める。
 俺の一手を受け、腕を組んで考え込み始めた対戦相手から目を逸らし、俺はいつもの部室の中をなんとなく眺めた。
 窓際で、動かすものと言えばページをめくる指だけの風情で、じっと本を読む静かな横顔。その隣の流し台で洗い物をするメイドさん。正面の席でパソコンのモニタをにらみ、難しい顔をしている団長殿。2年目のSOS団は、本日も通常営業だ。春になって学年が変わり、クラス替えなんぞもあり、新学期早々ちょっとした騒動もありはしたが、とりあえず俺たちの間に大きな変化はない。……少なくとも、表面上はな。
 その時、盤上を眺めてうなっていた古泉が、ふと何かに気づいたかのように、胸のポケットから自分の携帯を引き出して液晶画面をちらりと見た。鳴った音も聞こえなかったし震えた様子もなかったが、どうかしたのか? ハルヒも難しい顔をしちゃいるが、それほど機嫌が悪いようには見えんのだが。
「いえ……ご心配なく。バイト≠フ呼び出しではありませんよ」
 俺の無言の視線の意味を察したのか、古泉は携帯を元通りに胸ポケットに収め、苦笑した。
「実は、ここ数日わりと頻繁に、悪戯電話がかかってくるんです。それかな、と思いまして」
「悪戯電話? あれか。パンツの色を教えろとかいってくるやつか?」
「違いますって」
 何がおかしいのか古泉はさらに笑って、肩をすくめた。
「ただの無言電話です。公衆電話からなので、同一人物からなのか特定はできないのですが……大抵、こちらが一言二言返すと切れてしまうので、そう悪質というわけでもなくて」
「そんなの、出なきゃいいじゃねえか」
「それが、バイト♀ヨ連の電話が非表示や公衆電話からかかってくることも多いので、とらないわけにはいかないのですよ」
 そうかい。そりゃご苦労だな。
「番号変える……ってわけにもいかんか。いい加減にしろとでも怒鳴ってやればやめるんじゃないか?」
「ダメよキョン! わかってないわね!」
 いきなり俺たちの会話に割って入って来たのは、いつから聞いていたのか知らんが、目をキラキラさせた我らが団長殿だった。ハルヒは立ち上がり、机に片手をついて身を乗り出している。
「そんなの、相手は古泉くんに片思いの女の子に決まってるじゃない! どこからか番号を入手してかけたはいいけど、恥ずかしくてしゃべれないのね。でもちょっとでも古泉くんの声が聞けるんなら、って思って、ついつい無言電話になっちゃうんだわ」
 さすが我が団の副団長、モテるわね! とハルヒは納得顔で頷いている。
「そんな健気な彼女に、怒鳴ってやれなんてとんでもないわ! そんなんだからあんたはモテないのよ、キョン」
「ほっとけ」
 片思いだか健気だか知らんが、えらい迷惑じゃねえか。下手したらストーカーだぞ、それ。
「あの……今のところ、迷惑というほどでは」
 思わぬ成り行きに困惑したのか、古泉があいまいな微笑みを浮かべてそう言う。だが、そのストーカーの正体を探ろうとでもいいだすかと思ったハルヒはそれ以上の追求はせず(さすがにそんなことをしようというなら止めるつもりでいた)、俺がいかにモテないダメ男かを追求する方向に興味が向かったので(それはそれでムカつく)、話はそこでおしまいになった。

 再びそのことを思い出したのは、坂の下で女子組と別れ、いつも通りなんとなく古泉と並んで、自転車置き場まで歩いているときのことだ。
 ぴく、と古泉が顔を上げ、足をとめて胸ポケットから携帯を取り出した。
「なんだ。例のイタ電か?」
「いいえ、違います。普通に業務連絡のメールのようです。機関≠ゥらの」
「そうか」
 それきり古泉は口をつぐみ、メールに目を通しているようだった。読み終わると返事をかえすこともせず、再び胸のポケットに携帯をすべりこませる。内容については、何も口にしない。俺から尋ねることも大抵ない。聞いたって、たいしたことじゃありませんよ、としか返ってこないのはわかってるし。
 だが今日ばかりは、まだ夕焼けの残る道を黙々と歩くその横顔が何事か考え込んでいるように見えて、俺はつい聞いてみる気になった。
「……イタ電のこと、機関には報告してんのか」
 はっとしたように顔を上げ、古泉は思わぬことを聞かれたというような顔をした。
「え? いえ、業務に差し支えるほどではありませんので、特には」
 本当に、無言なんですよ、と古泉は肩をすくめる。
「ただじっと、こっちの言うことを聞いてるだけなんです。少しでもしゃべってくれれば、性別くらいならわかると思うのですが……」
 性別だ? もしやコイツ、ハルヒが言ってたことを本気にしてんのか。っていうか、それって。
「……もしかしてお前、彼女欲しいのか?」
 思わずそう聞いたら、古泉は怪訝な顔で目をしばたたいた。
「は? なぜそんな話に?」
「イタ電の相手が、お前に片思いの女ストーカーだったらいいのにって意味だろ?」
 ああ、と納得したように笑って、古泉はキザったらしく肩をすくめる。
「涼宮さんが言っていたあれですか。そんな、まさか。単に、性別がわかれば正体をつかむための手がかりになるかもしれないと思っただけですよ」
 そのまま視線を前方に戻し、何が楽しいのかにこにこしながら、古泉は言葉を継ぐ。
「それは、恋人が欲しくないのかと聞かれれば、僕だってごく普通の男子高校生ですから、欲しいですねと答えますよ。あなたも知っての通り、僕の業務は、四六時中常に気を張っていなければならないものですからね。せめて気の許せる恋人に、癒されたいなと思うときもあります」
 まぁ、SOS団の活動は楽しいので、どうしてもってわけではないですけど、なんて言い訳じみたセリフを付け足しつつ、古泉は足下に視線を落とす。自転車置き場は、もう目の前だった。
「――気なんて……抜いてみればいいじゃねえか。俺たちの前でくらい」
「え?」
「いまさら誰もなんとも思わねえよ。ハルヒも長門も朝比奈さんも……俺だって。その人畜無害面の仮面外して、敬語をやめてみればいい」
 古泉はピタリと足を止めた。気がつけばそこは自転車置き場の入り口で、いつもそれじゃまたなと手をあげて別れを告げる場所だった。だが古泉は、定番の別れの言葉すら口にせず、静かな微笑みをたたえて俺を見ていた。
「古泉?」
「できませんよ」
 微笑みを崩さないまま、古泉はそう言った。
「以前にも言ったでしょう? 今の僕こそが涼宮さんの望む人物設定なんです。僕が何かしらの変化を見せるときは、それはよくないことの前兆です、と」
「大げさだな」
 ポケットから自転車の鍵を取り出して、俺はそれを手の中で弄びながら溜息をついた。
「お前が敬語をやめたくらいで、世界の何が変わるっていうんだ。馬鹿馬鹿しい。そうやって肩肘張ってるから、疲れちまうんだよ」
 まったく。どこまでも要領の悪い奴だ。
「どうせお前のこったから、イタ電の相手にまで、そのバカ丁寧な敬語でしゃべってんだろ?」
「え、ええ……まぁ」
 がしゃん、と自転車置き場の入り口の柵を開け、俺は古泉に背を向けて敷地内に足を踏み入れた。柵を閉じる前に、仏頂面で振り返って忠告してやる。
「そんなんじゃ、相手を調子に乗らせるだけだぞ。手始めに、そいつに向かってタメ口で怒鳴ってればいい。ああ、受け答えは丁寧語で、ここぞってときに怒鳴りつけてやれば、かなりびびるんじゃないか」
「ふむ……」
 古泉は何やら考え込むように、顎に手をあてて首を傾げた。
「……あなたは、それが効果的な作戦だと思われるんですね?」
「ああ。大いに推奨するね」
「そうですか」
「なんだ。何か不満か」
「いえ」
 くすっ、と小さく笑い声を上げて、古泉は俺の方に意味ありげな視線を向けてきた。
「万が一、そのストーカーが本当に僕の好みのタイプだったら、どうしましょうね?」
 知るかそんなもん。
「意外と乱暴口調の方がウケるかもしれんぞ。女は強引なタイプに弱いそうだからな」
「そうなんですか?」
「知らん。谷口の受け売りだ、あまり信用しない方がいいかもしれん」
 ひどいですね、と古泉は苦笑した。
「わかりました。次に機会があれば、試してみましょうか」
「そうしろ。そのくらいのことで、世界は変わったりしやしねえからさ」
 それじゃまたな、といつも通りに手を振って、俺は駐輪してある愛車を引き出しに、自転車置き場の中へと入っていった。

 まぁな。そんなのあたりまえだろ。
 古泉に好きなやつがいようがいまいが、キャラ一新して敬語をやめようが、そのくらいで世界が変わるだなんて、そんな馬鹿なことがあるわけない。
 そうそう簡単に変わったり壊れたりするもんじゃあ、ないさ。



「……と、思っていた時代が、俺にもありました、ってね」
 深夜、といって差し支えのない時間。夜の早いうちの家族が寝静まったあと、俺はひとりでこっそりと家を抜け出した。
 目的地はそれほど遠くないから、自転車は使わない。ポケットに入っているのは、最近は雑誌の懸賞なんか以外では、あんまり見なくなったテレホンカード数枚のみ。向かうのは、人通りの少ない小道に街灯に照らし出されて立つ、これまた今時はあまり顧みられることも少なくなった電話ボックスだ。
 鼻歌を歌いながらボックスに入り、受話器をとってスリットにテレカを飲み込ませて、もうすっかり暗記しちまった番号を押す。コール数回目で、通話が繋がった。
『……はい、古泉です』
 おお、さすがに警戒心バリバリの声だな。
 俺は密かにほくそ笑みつつ、その応答にただ無言を返した。受話器の向こうから、あきれたような溜息が聞こえてくる。
『また、あなたですか? 本当に何が楽しくてこんなことしてるんです。僕はそれほど暇じゃないんですよ?』
 気持ちはわかるがな、古泉。無言の悪戯電話相手にそんなに反応してやったら、逆効果だぞ? こういうのは大抵、ただ相手してもらえるのが嬉しいだけなんだから。まぁ、俺の目的は別にあるが。
 そんなことを考えつつじっと受話器を耳に当てていたら、古泉の声は次第に剣呑な色を帯びてきた。
『一体、何が目的なんです……?』
 あれ? もしかして、対立してる組織関連のナントカかと思ってんのかな。だとしたら、今日やった助言という名の誘導は、方向性を間違えたかもしれん。ストーカーじゃなくて、そっち方向で行くべきだったかな。
 それじゃそっち方面で、と考えて、俺は念のために受話器にハンカチをかぶせてから、挑発するみたいな、あざけるような笑い声だけを聞かせてやった。俺だとわからないように、なるべく息だけで。
 受話器の向こうの古泉は、一瞬黙り込む。
 そして次に聞こえてきたのは、少しトーンを抑えた、抑揚の少ない声だった。

『……誰なんだお前は。目的を告げろ』

 ゾク、と全身が総毛立った。
 心臓が、痛いくらいに激しく脈打つ。
 これだ。ただこれを聞くために、丁寧語をとっぱらった古泉の声を聞くためだけに、俺は度々こんな、ストーカーじみた悪戯電話をかけ続けているんだ。



 最初は、ただいくつかの偶然が積み重なっただけだった。
 先月、恒例の不思議探索の前夜に、いきなり田舎のばーちゃんが危篤だという連絡を受け、深夜にも関わらず一家総出で駆けつけることになった。まぁ、結果としてはそれは連絡の行き違いであり、大慌てで到着した田舎の家ではピンピンしたばーちゃんが出迎えてくれた。危篤だったのは、その家で飼っていた老犬だったというオチだ。
 安堵しつつも家族全員が脱力したものだったが、俺と妹にとっては幼い頃から一緒に遊んだなじみの犬だったから、死に目に会えたのはまぁありがたかったかな。
 ともかく、そんなこんなで翌日の不思議探索には帰宅が間に合うまいと思った俺は、団の誰かに連絡しなければと考え、そんな真夜中に電話をかけても大丈夫そうな相手として、当然ながら古泉を選んだ。が、あいにくばーちゃんちは田舎すぎて、携帯のアンテナがたたなかった。それで、しかたなくばーちゃんちの家電でかけることにしたわけだが……どういうわけかそこの電話は、向こうの声は聞こえるのに、こちらの声が届かないという妙な壊れ方をしていたんである。
 かくして俺は、そのつもりもないのに古泉の携帯に、無言電話をかけることとなってしまったのだ。
 はじめのうち古泉は、単純に間違い電話だと思ったらしかった。
『どちらさまですか?』
「俺だ古泉。……あれ、聞こえてないのか?」
『どちらかとお間違えですか? それとも悪戯のつもりです?』
「違うって! おーい、もしもしー」
『どちらにしろ、もう一度番号を確かめた方がよろしいですよ?』
 そんなかみ合わないやりとりをしつつ、俺はなんとかこちらの声を届けようと、受話器を振ったり叩いたりしてみた。その甲斐あってというかなんというか、向こうにはどうやらノイズじみた途切れ途切れの音声が届くようになったらしかった。
『……なんですか? よく聞こえません』
「俺だってば! 今、ばーちゃんちに来てるんだよ! 明日の探索行けそうにないから、ハルヒに……」
『はい? あなた、どなたですか?』
 まぁ、そこで俺は、あまりの話の通じなさに切れて、思わず耳から離した受話器に向かって悪態をついてしまったわけだ。「ああもう、このクソ電話! ぶち壊すぞ!」ってな。その悪態が、やっぱり途切れ途切れに、でも意味の通じる範囲で、古泉の耳に届いちまったらしい。次に聞こえたのは、それまで聞いたことの無いような、底冷えするほど冷たい古泉の声だった。
『……なるほど。それではこれは、悪意ある悪戯電話ということでよろしいですか』
「え、おい、古泉」
 ふぅ、と聞こえた溜息のあと、凄みのある低い声が、俺の耳朶を打った。
『そんなものに付き合うほど、僕は暇じゃない。……二度とかけてくるな』
「…………っ!」
 そのときの感覚を、なんと呼ぶべきなんだろうか。
 衝撃? 動揺? 感動? そのあたりの言葉が近いかもしれん。それきり古泉は一言も発さずに電話を切ってしまったが、俺はそのあとも受話器を握りしめたまま、かなり長いことその場に佇んでいた。
 その後も俺は、夜中に家を抜け出しては、たびたび公衆電話から古泉に無言電話をかけた。番号非表示の電話にもかかわらず律儀に電話に出る古泉は、やがてその無言電話が同じ人物からのものであるらしいとは感づいたようだ。大抵はいつも通りの丁寧語であしらわれ切られてしまうが、ときおり忍耐が切れたように、敬語をとっぱらった乱暴な言葉をたたきつけてくることがある。俺の目当ては、そのたった一言なのだった。

 ホントに、この感覚はなんなんだろうと思ったよ。
 どう考えてもおかしいよな、ってさ。
 最初は、いつも仮面をつけたまま、素顔を見せようとしない古泉の素の部分を感じられるのが、嬉しいんだと思ってた。
 出逢った当初はいけすかないやつだと思ったけど、1年とちょっと一緒にすごして、様々な事件を乗り越えていくうちに俺は、古泉のことはけっこう気に入ってきてたからな。そろそろ親友とか呼ぶべきなんじゃないかと考えてたくらいだから、そんな乱暴な言葉遣いに、キャラを作っていない古泉の剥き出しの一面を感じて嬉しく思えるから、ついくり返しちまうんだって。
 でも、この頃はなんだか、それも違うと思うようになった。
『もう、いいかげんにしろ』
『なんのつもりだ』
『お前は何者だ』
 そんな言葉を聞く度に、ぞくぞくと身体が震える。心臓が高鳴る。もしかして俺はマゾっ気があるんだろうか。言葉責めに弱いのか? 
 ……なんて誤魔化すのも、もう限界なんだろうな。

 古泉が敬語をやめたくらいで、変わる世界なんてあるわけない。ラブレター事件のときだって俺はそう思ったし、古泉が言っている意味でなら、やっぱりそれくらいじゃ世界なんて変わりゃしない。
 だけど違った。こいつの敬語がなくなったせいで、ひとつの世界が変わったんだ。
 俺限定の、俺だけに見える世界≠ェな。
 こいつのことが、好き……恋愛感情で好きだと思う自分がいるなんて、そんな珍妙な世界があるとは思いもよらなかった。
 だけど仕方ない。もう誤魔化せないんだ。不毛だな。と、そんな言葉が頭をよぎって、ふっと溜息とともに自嘲の笑みをもらした、その時。
「っ!」
 いきなり、身体のバランスが崩れた。と、思ったら、運悪く倒れかかったのはドア側の壁で、そのままボックスのドアを押し開けて外に倒れそうになった。そのはずみで、つい声をあげちまったのだ。うわっとか、ぎゃっとかそんな不明瞭な声だったと思うが、握りしめていた受話器の向こうには、届いちまったかもしれない。俺はあわてて体勢を立て直して自分の手で口をふさぎ、そっと向こうの様子を耳でうかがった。
 古泉の声は聞こえない。もしかしたらもう切られたあとかもと思ったが、通話が切られたあとの信号音は聞こえていない。
 ヤバイ、と思った。あわてて受話器をフックに戻そうとした瞬間、見透かしたように声がした。
『切らないで』
 ふふっ、と、さっきまでとは打って変わった、楽しそうな笑みが響いた。

『やっぱり、あなただったんですね。――さん?』
 古泉の声で聞こえてきたのは、あいつがいつも俺を呼ぶときの、俺の本名だった。



『どうしました? 悪戯電話は、おしまいですか?』
 からかいを含んだ声で、古泉はさらに言葉を重ねる。俺は乾いてヒリつく喉に無理やり唾を飲み込み、かすれた声で聞き返した。
「わかって、たのか……?」
 観念した俺は、汗ですべる受話器を握りしめ、ボソボソと先を続ける。無言の悪戯電話の相手が俺だと、こいつはいつから気づいてたんだ。
『3回目くらいでしたか、どうやら相手は同じ人物らしいと気づきまして。一番最初の不審な電話の番号が携帯に残っていたので、調べさせていただきました』
 そういえばあのときは、ばーちゃんちの家電から普通にかけたんだから、番号が通知されてて当たり前だよな。なんで忘れてたんだ、俺。
『それで、もしかしたらあなたなのかなと思っていたのですが、目的がわからなかったので……対抗勢力の罠である可能性も含めて、反応を探っていたのですよ』
「じゃあ、今日の団活で俺にイタ電について振ってきたのは、カマかけだったってことか」
『まぁ、そうですけど……おかげで、思わぬ収穫を得たようです』
「何がだ」
 目的がわかりましたので、と古泉は言った。たぶん、勘違いじゃないと思うんですと続けてから、その声は低く、甘く、囁くようなトーンになった。


『――僕のことが、好きなんだろ?』


 カッと頭に血が上った。
 足の力が抜けてよろけたはずみに、ボックスのガラスに背中を打ち付けた。そのまま座り込みそうになって、受話器にしがみつく。なんか……すごくダメだ。おかしいぞこれ。暴言に近いくらいの、タメ口が好きなんだと自分では思ってた。のに。
 ささやかれた言葉の甘さが、どうしようもないくらい心臓に響いた。立っていられない。
『どうした? 大丈夫か?』
「馬鹿やめろ。普通に話せ」
『あれ、こういう言葉遣いが好きなんじゃないのか?』
「慣れてないんだ。殺す気か」
 受話器の向こうの声は、もう一度楽しげに笑った。
『失礼いたしました……これでいいですか?』
 やっと、いつもの古泉だ。普段通りの敬語を聞いて、俺はようやくちょっとだけ息がつけるようになる。
 だけど、どうして。今日の会話だって注意してたし、そんなバレるようなことは言わなかったはずなのに。
『そうですねぇ。今日、やけに熱心にストーカー撃退法を勧めてきたからというのもありますが……僕もはっきり確信したのはたった今です』
 ……ちくしょう。はめられた。
「人の純情を弄びやがって。性格悪いぞお前」
『ふふ。どういたしまして』
 ああ、俺はこれからどうすりゃいいんだ。こんなことが、しかも本人にバレちまったなんて、もう古泉と顔をあわせられない。学校にもいかれない。
「くっそ……いっそ引きこもるか」
『なんでですか? せっかくあなたの忠告にしたがって、試してみたのに』
「は? どういう意味だ」
『言ったじゃないですか……悪戯電話のストーカーが、好みのタイプだったらって。これ以上ないほど好みの相手だったので、実行したんですよ?』
 それはお前、どういう意味だ。
 ふと気づいたら、テレカの度数が残り少なくなっていた。予備のカードはもうない。カウントダウンしてゆく数字は、あと少しでゼロになる。
『そういう意味です。だからあなたも、ちゃんと言ってください』
「待て古泉、テレカ切れる……」
『だったら、早く僕に』
 なんだか、くらくらする。ささやくような声が耳から脳に届く。視界に映る数字がどんどん減って、追いつめられる気分になる。
 とうとうカウントがゼロになった瞬間、また声が。

『……好きって、言えよ』

 プツ、と通話が途切れた。
 ピーッと耳障りな音がして、スリットからカードが吐き出される。カードを抜き取ることもできず、俺はそのままズルズルと電話ボックスの床に座り込んで頭を抱えた。

 ああ、もうダメだ。
 俺の世界はまた、変わっちまった。
 明日から俺の視界には――たぶんもう、古泉しか映らない。



                                                   END
(2011.08.22 up)
BACK  TOP  NEXT

ちょっと変なキョン。一体どうした(笑)

大変長らくお待たせしてしまいましたが、R様よりのリクエスト「タメぐちの古泉にときめくキョンくん」です。
敬語じゃないと古泉らしくなくなるので、けっこう難しかったです。
読んでいただけているかわかりませんが、R様いかがでしょうか〜。