君の隣で
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「おっ、ブルーのステップワゴンだ」
 赤信号で停車したとき、たまたま隣に止まった車を見た俺の口からそんな言葉が飛び出したのには、特に深い意味があったわけではない。なんとなく脳裏をかすめた記憶が言葉になっただけであって、決して運転席でハンドルを握っているドライバーの黒歴史を思い出させようなどと画策したつもりはなかったのだ。が。
「……忘れてください」
「ん?」
 午後の日射しをはじいてメタリックに輝く車体から目を離し、運転席の方へと視線を向ける。と、今現在俺たちの乗っている車のオーナーでありドライバーでもある古泉は、視線をまっすぐ前方に固定したまま、まるで親戚のオバちゃんに、いつきくんは小さいころはホントに女の子みたいでねぇ、なんて暴露された高校生みたいな顔をしていた。
「なんですかその例え」
「だってそんな感じだぞ。大体、何を忘れろって? 俺はただ、お前が免許をとってはじめて運転したのが、メタリックブルーのステップワゴンだったっけという他愛もないなつかしい記憶を思い出しただけだぞ」
「ええ、わかっています。ですからどうか、それ以上のことは思い出さず、すみやかに件の車のことは忘れてください」
 前方の信号が青に変わり、古泉はブレーキから足を離してアクセルを踏み込んだ。一瞬高くなるエンジン音とともに、車体はすみやかに走り出す。件の車、とやらに乗っていた頃とは比ぶべくもない技量で運転しながらそんなことをいうものだから、かえって俺はその車にまつわる記憶のあれこれを大脳新皮質の奥から掘り起こす作業を無意識に始めてしまった。
 結果、古泉が忘れてくれと訴えるに該当すると思われる記憶を、発掘するに至ったのである。黙ってりゃ忘れてたってのに、ホントにアホだなこいつは。
「ああ、初ドライブのときのアレか」
 がくん、と車体が跳ねたのは、古泉の足がアクセルとブレーキを踏み違えたんだろう。幸いにして交通に深刻な影響を与える前にすぐに走行はスムーズなものに戻ったので事なきを得たが、危ねえなおい。
「申し訳ありません……ですが」
「いいから前見て運転しろ」
 見るからにしょんぼりしてしまった古泉の横顔をちらりと見てから、俺は助手席の窓から再び外を見た。どこかで道を違えたのかはたまた走行スピードや車線の流れの差なのか、すでに先刻のブルーの車体は見えない。俺は掘り起こしたばかりの記憶を反芻し、ついにやけてしまう口元を自分の指でつねってみた。

 あれはそう……確か高校3年の春先を過ぎた頃のことだったっけな。



 その頃の俺たちは、すでに団員全員(すでにご卒業あそばされていた朝比奈さんをのぞいてだが)が高校3年生という肩書きの他に、受験生という嬉しくもない身分を得ることが決定していた。
 だがその事件があった当時は、まだそれほどせっぱ詰まった時期ではなかったはずだ。ぼちぼち志望校を絞り、それに備えた勉強法を模索しようと考えていたそんな頃、相変わらずの団活を終えて、いつもの分かれ道でハルヒと長門の背中を並んで見送りつつ、突然古泉が言い出したのだった。
「実は先日、普通車免許を取得したんです」
「は?」
「ついこのあいだ18歳の誕生日を迎え、取得の条件が整いましたので」
 ハルヒの機嫌をとるのに都合のよさそうな資格のひとつであるので、とれるようになったのなら可及的速やかにとっとくようにとの機関≠ゥらのお達しがあったらしい。一応、国立のかなりいい大学を狙っているはずの受験生に、無茶をさせやがる。
「って、よく教習所に通う時間があったな」
 確かアレは、何ヶ月か教習所に通う必要があるだろう。一体、いつのまに。
「いえ、教習所には通っていません。運転技術の方は新川さんからみっちりと特訓を受け、筆記の方は過去問題集を1冊やってそれで」
 その上で試験場に行き、運転技術と筆記試験で規定以上の点を得れば免許が取得できるというシステムがあると、聞いたことはあったが本当に可能なのだと初めて知った。しかも何回挑戦したのかと聞けば1回だという。なんだこいつ。
「そういうわけで機関の方から、SOS団での活動に利用するようにと、車を1台支給されたのですが……」
「アホかお前。いくらなんでも一介の高校生が、免許取ったからっていきなり車買うわけないだろうが。不自然極まりないぞ」
「はい。名目上は一応、叔父の車を借りたということになる予定です」
 それで、と古泉は続けようとし、ふいに言葉をとぎらせる。俺は思わず振り向いて、忌々しいことに少しだけ上空にある古泉の横顔を見上げた。古泉は俺に横顔を見せたままじっと地面を見つめていたが、やがて再び口を開く。
「……女性たちを乗せて走ることになる前に、その車に慣れておく必要があるといいますか、いちおう高速道路に乗り降りする練習をしたり、このあたりの道を調べたりしておきたいので、できれば助手席にておつきあい願えないかと思いまして」
「俺が?」
 古泉は俺の方を見ないままで、はい、とうなずいた。
「いや……いいけど、俺、免許なんて持ってないから高速の乗り方なんてわからんし、地図の読み方もくわしくない。とても役に立つとは思えんぞ?」
「いえその……ただ助手席に座っていただければ……」
 はじめてのドライブなので、と言いながら、古泉がようやく顔をあげてこちらを向く。その顔が、あたりを染める夕日のせいにできないほど真っ赤なのを見た瞬間、俺は遅まきながら古泉の要請の真の意味を理解した。
 つまり古泉は、ロマンチックなんだか少女趣味なんだかよくわからん発想でもって、初乗りの助手席にはぜひ恋人を乗せたい、という結論に達したのだろう。

 ……あー、まぁそうだ。そうなのだった。
 その頃の俺たちは、ちょうどお互いとの関係を示す単語を、友達から……恋人、同士、などという、冷静に考えればとても正気とは思えないものにシフトしたばかりだった。
 いやまぁ、いつの頃からだったかは正確には覚えてないが、俺たちは2年目の夏を迎えるころにはとっくに、お互いがお互いに向けている感情が友情なんてものを軽く凌駕していることには気づいていたんだ。が、それぞれの思惑や立場や性格や、さらに言えば常識や世間体や前提条件なんていうその他もろもろの重大かつくだらないものに縛られまくり、そのあからさまな事実についてずっと知らないふりをしていた。――うん。ほんの1ヶ月前まではな。
 1ヶ月前のある日、俺たちはささいなことでケンカした。原因は本当にささいなことで、そのささいさと言ったらもう俺も古泉も内容をさっぱり憶えてないくらいだ。ともかく2人きりの放課後の部室で嫌味の応酬としか言えないようなひどいケンカをして、ぶち切れた俺が勢いにまかせて告白した。いや、好きだと言ったわけじゃなかったな。お前俺のことが好きなんだろ、と詰め寄ったんだ。本当にひどい話だ。そうしたら売り言葉に買い言葉みたいな勢いで、古泉がその通りですよ大好きですよすみませんねと口をすべらせたのだった。
 まぁ、その後の気まずい沈黙は思い出したくもないな。
 それから俺たちは改めて互いの気持ちを言葉で確かめ合い、おっかなびっくりキスをして、その場で互いの呼び名を、恋人とかいうこっぱずかしいものにシフトチェンジすることに合意を得たのである。
 ちなみに、ドライブに誘われた時点で俺たちは、そっと唇を触れあわせるようなキス以上のことはしていなかった。その程度のキスだってするときはおそるおそるだったし、唇が、ちゅ、と音をたてただけで恥ずかしさのあまりに2mも飛び離れるような有様で、とてもとてもそれより先の行程に進めるとはお互いに思えなかったのだ。

「あー……えっと……いい、ぞ」
 だから俺は古泉のその誘いを、ふたつ返事でOKした。
 つまりデートの誘いなんだろ? と、半ば沸騰した頭で思いながら、上の空でうなずいた。OKした直後、真っ赤な顔にものすごく嬉しそうな笑みを浮かべた古泉に一瞬見とれちまったのはかなり不覚だったが、きゅっと両手を握られてさらに意識は上空に舞い上がった。おーい、帰って来い俺。
 だが古泉の方も、どうやら俺と同じくらいにはうかれていた。満面の笑みのまま俺の手を上下に振り回しつつ、弾んだ声で聞いてくる。
「ありがとうございますっ! あ、あの、それでどこに行きましょうか。どこか行きたいところとか見たいものとかありましたら、ぜひリクエストしてください」
「ん、そ、そうだなえっと」
 返す返すもそのときの俺は、相当舞い上がっていて相当頭が悪くて相当考え無しだった。どこにしよう、どこがいいかとぐるぐると考えたあげく、つい
「じゃ、じゃあ、星でも見に行くか」
 なんて答えちまったんだからな。
 のちのち自分でも車の免許を取ることになり、その時のことをつくづくと思い返しては、鬼畜のごとき所行だったなと反省することしきりだ。いくらスーパー優良ドライバー新川さん直伝による試験場一発合格のテクを持つとはいえ、古泉は免許取り立てほやほやの、車体に若葉マークを燦然と輝かせる初心者であり、くわえて公道を新川さんのナビなしで走るのはほぼはじめてだったのだ。そんな相手に、星の見える場所に連れて行けとはもはや鬼悪魔とののしられても反論できない。
 なんとなれば星の見える時間といえば夜に限り、街の明かりが届かない星の観測スポットといったら山の上や湖のほとりなどの、いわゆる舗装道路や外灯が望めないかもしれない場所と決まっているからだ。本当に申し訳なかった。
 それでも古泉は一瞬だけ押し黙り、うかれるあまりに自分がそんな悪魔のごとき要求を示したことにまったく気づいていなかった俺に、にっこり笑って承知しましたと言ってのけたのだった。どう控えめに考えても馬鹿である。



「そこで無理だって言えば、可愛げもあったんだがなぁ……」
 徒然なるままに回想に耽りつつ、ついそんなつぶやきをもらしてしまう。隣からごほごほと咳き込む声が聞こえたから運転席を振り返ると、前方をにらみ付けるようにしているドライバーが涙目になっていた。どうした、何かにむせたのか?
「あなたって人は、ホントに悪趣味ですよね……!」
「自業自得ってもんだろ」
 今日のことに限らずな。
「まぁ、車の趣味は悪くなかったぞ。5人乗れる車にしちゃコンパクトで女性受けしそうなデザインだったし、メタリックブルーのボディもさわやかでお前に似合いすぎてて、妙に腹が立つくらいだったし」
「それ褒めてるんですか貶してるんですか」
 さあな、と肩をすくめて受け流し、俺はまた窓の外に視線を向けた。古泉がヤケクソのようにカーステレオをオンにする。車内に流れ出したポップスを聞きながら、俺はまた回想の続きへと舞い戻った。

 初ドライブの決行は、確かその週の土曜日だったっけな。空は朝から晴れ渡っていて、古泉によれば星の観測には邪魔な月もほぼ新月に近いとのことで、絶好の観測日和だって言ってた日だ。



 天体望遠鏡と防寒用らしき毛布を積んだ古泉のステップワゴンは、いいなーいいなーキョンくんずるいよあたしも連れてってと駄々をこね続ける妹を置き去りにして、我が家の前から走り出した。
 オフクロが用意してくれた、サンドイッチとあったかいお茶の詰まったランチボックスを抱えて助手席に乗り込んだ俺は、シートベルトをしてから荷物を後部座席に置くべきだったと気づき、ベルトをしたまま後ろへ身を乗り出そうとして失敗したり、荷物を置くためはずしたベルトをまたしようとして引っかけたりと、落ち着きのないことおびただしい行動を経てようやく助手席にきちんとおさまった。苦笑気味にそんな俺の様子を横目で眺めながらハンドルを握る古泉も、街中ではさすがに苦もなくスムーズに車を走らせる。
 標準装備だというカーナビの案内で、目指すはそれほど遠くもない小高い山の頂上だ。ゆるやかにカーブの続く山道の果てには、ささやかな駐車場と展望台があるらしい。なかなか穴場の、観測スポットなんだそうだ。
「暗いなぁ、このへんの外灯」
 山道をのぼりはじめてまもなく、このあたりの外灯は道を皓々と照らすものではなく、途切れ途切れに目印のごとく立っているものらしいと気づいた。しかも半端な幅の道路は一応舗装はされているがかなり路面は古くて荒れており、時折ガタガタと車体が激しくバウンドする。道幅は前述の通り半端なので、対向車が来たときはどちらかが広めの場所で待機して、互いにうまくすり抜けてすれ違わなければならない。初心者にはなかなか困難な、高度な技術と言えるだろう。
 最初のうちは楽しげだった古泉は途中から無口になって、前傾姿勢でハンドルに覆い被さるようにしながら前方に目を凝らしはじめた。緊張がこっちにまで伝わってくるような余裕のない横顔を見て、俺はそこでようやく自分が、初心者ドライバーにはあまりに酷なドライブを提案してしまったことに気がついた。
「古泉……無理しなくていいぞ」
 あまりに必死な古泉の姿と、助手とは名ばかりのポジションで手をこまねくだけの自分に心細くなってそう言ってみても、古泉はあからさまに無理やり作った笑顔で首を振るだけだった。
「いえ、大丈夫です。行けます」
「しかし……」
「幸い一本道ですし、カーナビもありますから、道に迷うことはありませんよ」
 一生懸命な古泉にそれ以上は何も言えず、俺はせいぜい前方や後方に注意を凝らすくらいしかできなかった。
 その甲斐あってか俺たちのステップワゴンは、なんとか無事に頂上までたどり着くことができた。春と言ってもまだまだ夜風は寒いせいか、他に人影は見えない。閑散とした駐車場のど真ん中に車を止めて、俺と古泉は荷物を持って展望台へと移動した。
 それから俺たちはしばし時間も帰りのことも忘れ、ひとつの毛布に二人してくるまって、サンドイッチを食べあったかいお茶をすすりながら星空を見上げた。
 星座盤とつきあわせつつ星をつないで、夜空に縫い止められた星座たちと彼らにまつわる神話を聞き、宇宙と惑星と流星群とその観察方法についての蘊蓄を聞いて、やがて話題は宮沢賢治の書いた物語のことへと移行した。
「俺、あの話の主人公って、ずっと猫だと思ってたんだよなー」
 星の海をゆく蒸気機関車。不思議な名前の停車駅と、乗り込んできた友達。俺の中にある少年たちのイメージは、なぜか二足歩行の猫の姿をしている。
「ああ……そういえば、主人公を擬人化した猫に置き換えたアニメーションがありましたねぇ」
「最初に見たのがそれだったから、イメージが固定されちまったんだな」
 そんな他愛もないことを話しながらくすくすと笑っていたら、いつのまにか、わずかな隙間さえ許せないというほどにぴったりとくっつきあっている自分たちに気づいた。にわかに赤面して互いに目を見合わせたものの、お互い離れるつもりがないのはなんとなく伝わってくる。
「寒いか?」
「いいえ……とっても、あたたかいです」
「そか」
 満天の、というには少々物足りない都会の星空の下で、俺たちはその日ようやく、触れあうだけよりもう少し深く、強く、長い時間、キスをかわしたのだった。

 ――まぁ、そこで話が終わっていればな。
 気恥ずかしくもくすぐったくなつかしい、青春の1ページとして俺と古泉の胸に刻み込まれて、いい思い出になったんだろう。少なくとも、片割れが早く忘れてくださいと涙目になるような黒歴史としてアカシックレコードの片隅に刻まれるような事態にはならなかったんだろうよ。
 帰り道は下り坂で、もはや対向車もなかったものの、上ってくるときより確実に闇が深かった。古泉は慎重に慎重をかさねてハンドルを操り、俺はやっぱり何も出来ずにただ隣で固唾を飲んで古泉を見守った。悪いことに山の中腹にさしかかったあたりから霧が発生し、視界はさらに悪くなった。
 それでも古泉は必死に運転を続け、ようやく山道を脱した。田舎道ながら外灯が明るく照らす平地の道路にほっと安堵の溜息をついたとたん、気が抜けたのかくらりと頭を揺らす。つられてハンドルも揺れたのか、車がわずかに蛇行してヒヤリとした。
「す、すみません」
「大丈夫か古泉。少し休むか?」
「いえ……このへんにはドライブインもありませんし……」
 そうは言っても、極度の緊張が続いたせいか、古泉の顔には疲労の色が濃い。元はと言えば俺が何も考えずに無謀なドライブを提案してしまったせいでもあり、俺は焦りつつもどかしい思いで、どこかに休める場所はないかとナビの画面と車外の風景とを見比べた。
 と、ナビの画面にとある印を見つけ、前方にまさにその場所を示すらしき看板とネオンを発見した。迷わなかったと言ったら嘘になるけれど、その逡巡はわずかな時間だったと思う。早く決めないと、通り過ぎちまうし。
 ごくり、と唾を飲み込み息を吸ってから、俺は古泉、と呼んだ。
「はい?」
「あそこに入ろう」
 俺の指さしたものを見極めようと、古泉はスピードをゆるめてその看板に近づき、ナビの画面と見比べる。そしてその看板が何を示しているかに気がついて、妙な声をあげた。
「あ、あの、違いますよあれは」
「わかってる。別に俺は間違えてない」
 やけにキラキラしい照明に照らされた、どうにも薄っぺらな豪奢さを醸し出すその建物は、一応名目はホテルだ。施設の名称らしきカタカナの下には、ご休憩とご宿泊、二種類の料金体系が明示してある。
「……いわゆるラブホテルってやつだろ。最近は、ブティックホテルとかいうこともあるらしいけどな」
 微妙に目をそらしつつ、ほら、さっさと入れよと促す。でもとかあのとか言ってる古泉を、今の状態で運転なんか続けたら、絶対事故るぞと脅しつけた。
「金なら大丈夫だ。オフクロが、もしも車で何か困ったことになったらすぐにディーラーとかガソリンスタンドに入って助けてもらいなさいって、このお金使っていいからって持たせてくれたんだ。疲れて運転が困難になったってのが理由なんだから、車のトラブルと言えないこともないだろ」
 必要以上に饒舌なのは、俺だって緊張してるからに他ならない。
 だって、ここは用途のはっきりした、そういうことをするための場所なんだ。そしてまがりなりにもデートの真っ最中である、一応まぁ、性別的には組み合わせが一般的ではないにせよここにはいる権利は有している今の俺たち。
 そんな関係の俺たちが、この建物に入るということ。それが何を意味しているのかなんて、もちろん、充分すぎるほどわかってるんだからな。

 しばらく固まっていた古泉は、やがて慎重にアクセルを踏んで駐車場の中へと車を滑り込ませた。男同士で入って拒否されたりしないのかと密かに恐々としていたのだが、そこは従業員と顔をあわせなくていいシステムらしく、淡々とボタンを押したりなんだりするだけで、無事に部屋の中へと案内された。
 なかなかの破壊力で目前に鎮座するダブルベッドから、あわてて目を逸らす。すると、あとから部屋に入ってきた古泉と目があってしまった。すでに真っ赤なその顔が、困ったように笑う。
「あの……本気、なんですか?」
「あたりまえだろ。それともお前は、嫌なのか?」
「とんでもない……」
 夢を見てるみたいですよ、とつぶやく唇に、かすめるみたいに唇で触れた。古泉はびっくりしたように目を見開いて、おそるおそる俺の身体に両手をまわして抱きしめてきた。もう一度、あらためて重ねられた唇を、何か生温かいものがそっとノックする。思わず薄く開けてみたら、口の中に舌が入ってきて俺の舌をベロリと舐めた。
「んぅっ……」
 ぞくりと、背筋から尾てい骨にかけて戦慄が走り抜ける。それがどうやら強烈な快感だと気づいたときには、足から力が抜けていた。
 ダメだ。立っていられない。がくんと、崩れ落ちるみたいにベッドに腰を下ろしたら、古泉が嬉しそうに笑って、かがみこむ姿勢でさらに口づけてきた。中に入り込んでくる舌はぬるぬると俺の舌をからめとり、水音を立てつつまるで別の生き物のように俺の口内でうごめいている。
 やばい。なんかすごい。信じられないくらい気持ちいい。ついさっき、ようやく触れるだけで飛び離れてたキスから卒業したばっかりだってのに、なんだこの順応の速さ。
「んっ……ふ……こいず……」
「は……」
 何度も何度も唇を押しつけては離れ、舌をからめては離れしながら、次第に身体がベッドの上に倒されていく。のしかかられて、さらに深く唇を貪りあいながら、どんどん靄がかかったみたいにぼーっとしていく意識の片隅で俺は、ああ、やっぱりそうか、なんてやけにのんきに考えていた。
 この1ヶ月、古泉とこのままつきあいを深めていくにあたり、当然行うことになるだろうあれやこれやについて、何度かシミュレーションしてみたことがある。あげくにたどり着いたのは、かような事態に陥った場合の役割分担として、どう考えても俺の方が女役に落ち着きそうだという予感だったのだが、まさに図に当たったらしい。まったく遺憾だがまぁ、仕方ない。仕方ないとは思うんだが……ホントに入んのかな、あんなとこに。
「……っ、ま、待て古泉!」
 具体的に、使用する予定の場所に考えが及んだとき、いきなり恐怖が襲ってきた。ちょっと待て。しばし待て。心の準備が足りない。
「どうしました……?」
「あ、あのな……し、シャワー浴びて来ちゃダメか……?」
 悪あがきだとはわかっている。ここまで来て、しかも自分から誘っておいて、いまさら無理だやめようなんて無責任なことは言わん。だが頼む、ちょっとだけ覚悟を決める時間をくれ。
 なんてことをはっきり言ったわけではないが、古泉は俺の様子から何かを察したらしい。一瞬、情けない顔で何かを言おうとした。が、次の瞬間には表情は微笑に切り替わり、はい、わかりましたと頷いた。
「ちゃんと清潔にしておいた方が、いいですよね。僕もあとで浴びて来ますね」
 古泉の手が離れた途端に跳ね起きた俺は、一目散にバスルームとおぼしき個室に飛び込んだ。服を脱ぎ捨て、シャワーを強めに出して、頭から湯を浴びる。あまり認めたくはないのだが、やっぱり期待とか嬉しさとかよりも恐怖の方が3倍くらい強くて、指が震える。
 ごまかすように全身をガシガシと洗いながら、ふと手を止めておそるおそる後ろを触ってみた。端から見ればさぞかし滑稽だったろうが、そのときの俺にとっちゃまさに死活問題だ。指が触れると不随意に収縮するそこをいろいろとしてみた結果、だんだんやっぱり無理なんじゃないかという気がしてきた。
 いまさら無責任だとは思う。思うがこれはどう考えても無謀な気がする。勇気と蛮勇は違うんだぞなんて、どっかで聞いたようなフレーズがぐるぐると脳内をめぐる。思い切って謝って、今日は勘弁してくれと頼もうか。なるべく早く決意を固めるから、それまで待ってくれないかと。
 でも、そんな悪魔のささやきが聞こえるのと同時に、夢を見てるみたいです、とつぶやいた古泉の声が耳によみがえる。ああ……無理だなんて言ったらたぶん、ものすごくがっかりさせちまうんだろうな。
 古泉はきっと、ここで俺が拒否しても、怒りも嘆きもしないだろう。ただ、わかりましたとさっきみたいに微笑んで、ではまたの機会に、なんてすかした顔で言うんだろう。受け入れることを拒否されて、内心でどれだけ傷ついたとしても、そんなことおくびにも出さずに。
「それは……ダメだろ……」
 口調から表情までがありありと想像できてしまって、とたんに胸が痛くなる。
 考えろ、俺。この痛みと、おそらく俺が享受することとなるそこの痛みとどちらがマシだ。心の痛みと身体の痛み、どちらがより耐え難い。
「……よしっ」
 キュッとコックを閉めてシャワーを止め、俺は気合いを入れてバスルームから出た。もちろん、羽織ったバスローブの中には下着なんぞつけていない。どうせ脱ぐんだから、必要ない。
 戦場に赴くかのごとき勢いで脱衣所のドアを開き、俺は古泉の待つ部屋へと戻る。やわらかな間接照明が照らし出すベッドの上で、古泉が枕を腰にヘッドボードに寄りかかって、カラオケ屋にあるメニューみたいなファイルを眺めているのが見えた。
 忘れちゃいけないのは、俺は別に生け贄の子羊になるわけじゃないってことだ。強制されて、泣く泣く祭壇に捧げられるのとは違う。俺は俺自身の意志で古泉を選び、俺自身の欲望により今ここでこうしているのだ。
 そう、欲望だ。俺が、古泉とそうしたいと望んでいるんだ。だから。
「古泉。待たせたな」
 俺は逃げない。何があってもだ。
 ダブルベッドに乗り上げて、古泉に近づく。古泉もシャワー浴びるって言ってたから、その間にローション的なものとか(一応、やり方はネット等で調べておいたのだ)、コンドーム的なものとか、探しとこう。
「古泉。お前も早くシャワー浴びて……古泉?」
 完全に舞い上がっていた俺は、そのときようやく、古泉が不自然なくらい無反応なことに気がついた。俺の方を振り向きもしないし、開いたままのファイルのページはさっきからまったく進んでない。俺は首を傾げて、下を向いている古泉の顔をのぞきこんだ。
「こいず……」

 うわ……! こいつ寝てやがる!

 古泉はベッドに座って膝の上にファイルを広げた姿勢のまま、目を閉じてすぅすぅと安らかな寝息をたてていた。
「ちょ、おま……そこで寝るか普通!?」
 思わず肩をゆすって起こそうと、手をのばしかけた。が、肩に触れる寸前に思いとどまり、そこでピタリと動きを止める。
 至近距離で見る、古泉の寝顔。まぁ、別にそれまで見たことがなかったわけじゃないんだが……SOS団で泊まりで出かけるときは、たいてい同室だったしな。だけどこんなに間近で、こんなにじっと見つめたことはなかった気がする。……そうか。こいつはこんなにも無防備な、子供みたいな顔で眠るのか。
 まじまじとその顔を眺めているうちに、助手席に乗って欲しいと言ってきたときの真っ赤な顔が脳裏によみがえった。それとついさっき見た、初心者には厳しい夜の山道を、必死にたどってるときの余裕のない横顔も。
「ま……しょうがねえか」
 無理もないな、とつぶやいて、俺は溜息をつきつつ肩をすくめた。
 悪条件の中、ずっと緊張しっぱなしで、行きも帰りもハンドルを握り続けてたんだからな。そりゃ、疲れたろうよ。俺が適当に言った要望を叶えたい一心で、夜の山道なんて若葉マークには無茶な道のドライブをこんなになるまで頑張っちまうなんて、ホントに馬鹿だよな、お前は。
 つんと頬をつついてやってから、このままじゃなんだなと考えて、古泉の身体をそうっとベッドに倒す。襟元をくつろげてベルトを緩め、靴下だけ脱がせてやりながら、なんだか妹の世話をしてるような気分になって思わず笑みがこぼれた。風邪をひかないようにと布団の中に押し込んでやったとき、むずがるように身動いたもんで起こしたかと思ったが、古泉はよっぽど眠いのかそのまま寝返りをうって、布団の中でこっちを向いて丸まっちまった。
 くす、と小さく笑いをもらし、俺もその隣にもぐり込む。
 ま、いいさ。せっかくの決意が空回りに終わったのはちょっと残念だったが、こういうのだってなかなか悪くない。一緒に寝るとあったかいしな。
 ベッドサイドのスイッチで部屋の明かりを消し、もう一度布団にもぐり込みなおしてから、すやすやと寝息をたてている口元に、唇でちょっと触れた。
「おやすみ、古泉」
 頬に触れた古泉の髪が、こそばゆかった。



「僕としては、そこで無理やりにでもたたき起こして欲しかったです……」
 はぁ、と大きく溜息をつきつつ、古泉はブレーキを踏んだ。信号待ちの列の一番後ろに、車はゆっくりと並んで止まる。
「翌朝、目を醒まして事態を把握したときの絶望は、いまだに忘れられませんよ。トラウマものです」
「んなこと言っても、すげえ気持ちよさそうに寝てたんだもんよ」
「お気持ちは大変嬉しいんですけどね……」
 翌朝、俺が目を覚ましたとき古泉はとっくに起きていて、こちらに背中を向けてベッドに腰掛けていた。あからさまに落ち込んでいるオーラがにじみ出てたから、どう声をかけるべきかだいぶ悩んだな。1分くらい迷って、仕方なくなんのひねりもなく古泉、と呼んだら、はじかれたみたいに振り返ったこいつにすっげえ勢いで土下座されたっけ。
「まぁ、結局、その次の機会……っつーかちゃんとやるのに、なんだかんだいって半年くらいかかったんだよな」
「その間、何度そのときのことを繰り返し悔やんだかしれませんよ」
 信号が青になり、車はまた走り出す。郊外のホームセンターでまとめ買いした生活雑貨や食料品を入れた袋が、後部座席でガサガサと音をたてた。
「それで、思い出すのも涙目ものの黒歴史に成り果てたってわけか」
 アホだな。
「一言で切り捨てないでくださいよ! ひどいですね!」
 拗ねたようなふくれっ面で、古泉はそうぼやく。俺としてはあの夜のことは、わりといい思い出として記憶されてるんだがまぁ、面白いから黙っておこう。なんてことを考えつつ眺める横顔は、やがて何を思ったか小さく苦笑した。
「……まぁ、でも」
 そうつぶやくのと同時に古泉は、右側車線を走っていた車を、ウィンカーを出して左へと車線変更した。なんだ? いつもと違うルートで帰るのか、それともどっか寄るのか?
「あの時、あなたがそんな並々ならぬ葛藤を乗り越えてくださっていたとは、今まで知りませんでした。正直、忘れたい記憶だったのですが、聞いてみるものですねぇ」
「まぁ、我ながら頑張ったとは思うぞ、あの時は。おい、どこ行くんだ」
 いきなり帰り道のルートをはずれ、車は左折して脇道へと入り込んでいく。古泉は楽しそうに、前方に見えてきた凝った外観の建物を指さした。……古泉、お前な。
「……一緒に暮らしてんのに、なんでわざわざ」
「たまには気分を変えてみるのも、いいと思いますよ?」
「だからってお前、こんな昼間っからっ」
 車はますますスピードを上げ、そびえ立つ建物へと近づいていく。壁に掛け降ろされた垂れ幕に、ご休憩だのご宿泊だのの文字が踊っているのが読み取れた。冗談じゃない。なんだってこんな、休日の昼下がりにラブホテルで情事に耽らにゃならんのだ。昼ドラか。
 そう言って引き返せ馬鹿野郎とわめく俺にちらりと流し目をくれてから、古泉はにっこりと笑って言った。
「仕方ないでしょう? あなたが、思い出させたりするのがいけないんですよ。ぜひとも、あの日のリベンジをさせていただかないとね」
 ……ああ、なるほどね。
 そんなセリフを聞いた俺は、どうやらコレがこの男なりの、黒歴史をほじくり返した俺へ意趣返しなのだと悟る。まったく、やれやれだ。
 そして俺は肩をすくめつつ、悪戯に成功した子供みたいな古泉の横顔を眺めながら、盛大に溜息をつくことになったのだった。


                                                   END
(2011.05.22 up)
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シチュエーションとセリフの一部を、K様からのメッセージよりお借りしております。
初ドライブの初々しい二人の話のはずだったんですが、なんかこんな感じに(笑)
それにしても休日にホームセンターで生活用品と食料を買い込む男二人連れってどうよ。

あと、古泉の誕生日は捏造です。「戸惑い」の中の人準拠の誕生日が春先だったので。