It's Raining
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『……ああ、こっちは雨が降ってるぞ。今朝からずっとな』
 電話の向こうから、彼の声。
そうか、日本は……彼の住むあの街は今、雨なのか。
「そうですか。風邪を、ひかないように気を付けてくださいね」
『バーカ。こんな夏のはじめに、雨に降られたくらいで風邪なんかひくかよ』
 優しい声でそう言う彼の背後からは、雑踏のようなざわめきが聞こえている。きっと、あの街のどこかを歩きながら、肩に挟んだ携帯にささやきかけるように話しているのだろう。2年もの間会わないでいても、その姿は在り在りと思い浮かべることができる。
 僕はコードレスの子機を持ったまま窓際に寄り、ブラインドを上げて、サンタモニカの晴れ渡った空を見上げた。天候は違っていても、小さなアパートの3階から見るこの空は、間違いなく彼の見ている空とつながっている。
『そっちはどうだ? ハルヒは元気にやってんのか』
「ええ。相変わらずですよ。最近は研究室に詰めっきりで、あまりお会いしていないんですけどね。様子は長門さんが伝えてくれてます」
『はは。根詰めすぎて身体壊すなよって、伝えといてくれ。長門にもな』
「了解しました。お伝えしますよ」
 あなたのお仕事はどうですか、という質問には、彼はまぁ順調だぞと答えてくれた。ガキどもは生意気だけど可愛いしな、と笑みを含んだ声で言う彼には、塾の講師という職業は、意外と天職だったのだろう。
『そういや、写真届いたぞ。データでいいのに、ちゃんとプリントしたやつをエアメールで送ってくるなんて、ホント、お前らしい』
「その方が、写真ぽくていいでしょう?」
『まぁな。……髪、切ったんだな』
「去年の夏に、あんまり暑いので切ったんですよ。かなり快適だったので、それ以来」
『そっか。まぁ、似合ってるぞ。……なぁ、ホントに俺の写真は、送らなくていいのか』
「ええ……」
 いいんです、と僕は答える。
写真でだけでもあなたの姿を見てしまえば、逢いたくて仕方なくなるから。
その姿を見て、抱きしめて、キスをしたい気持ちを必死にこらえながら、自分を騙し騙し、毎日を過ごしているのに。
ひとめでも見てしまえば、想いがあふれてどうしようもなくなってしまう。
 せっかく2年前のあの日、心の半分を殺すような思いで、彼を日本に置き去りにしてきたというのに。



 6年前、北高の卒業式を迎えたあの日。
卒業証書の入った筒を抱えたまま、風にざわめく桜の下で、彼に告白をした。
 高校の3年間を過ぎても、涼宮さんの力は弱まりこそすれなくなりはせず、僕は任務続行の指令とともに、彼女と同じ大学への進学が決まっていた。違う大学に合格していた彼とはもうあまり会う機会もないだろうと考えて、最後に約3年間抱えていた想いを告げたのだ。
「ずっと、あなたのことが好きでした」
 微笑みながらそう伝えた僕を、彼は目を見開いて凝視した。しばらく無言だったが、やがて眉をしかめつつ、それは友情的な意味か、それとも恋愛的な意味かと問い返してきた。
「恋愛的な意味です。申し訳ありませんけど」
 ここで友情だと答えれば、もしかしたら卒業後も縁が続くのかもしれない。ときおり一緒に飲んで、近況を語り合うくらいの交流は続けられるのかもしれないと、思わなかったと言えば嘘になる。でも僕は、3年間積み重ね燻らせ、そして恐らく昇華することのないこの気持ちを、この北高に埋めていきたかったのだ。
 だが、気持ち悪いなとか、すまん無理だとか、それだけでも言って欲しいなと考えていた僕への彼の答えは、思いもかけないものだった。
「そうか。じゃあ、俺と同じだ」
 眉間にシワを寄せたままで、彼はあっさりとそう言った。一瞬、意味がわからずに、僕はワンテンポ遅れて間抜けな声を出したものだ。
「……えっ?」
「俺もお前が好きだった。もちろん、恋愛的な意味でな」
 ようやく意味を理解して絶句する僕に彼は、俺が言うつもりだったのに、先を越されたなと溜息をつく。そして腕を組んで、バカみたいに呆然と立ちつくしていた僕に言った。
「お前がどういうつもりで言ったのかは知らんがな、俺はちゃんとこの先のことも考えて告るつもりだったぞ。勝率は正直、五分五分だと思ってたが」
 彼は、僕が彼に過剰な好意を向けていることには、気がついていたらしい。それがあくまで友情なのか、それとも恋愛方面に振れているのか、それが五分五分だと思っていたのだと。
「そんなわけで、俺は自分との賭けに勝った。俺としてはこの先をつないでいきたいと思ってるんだが、お前はどうだ」
 僕はもうその時点で、これは夢なんじゃないかとか、ドッキリ的な何かなのかとか、もしかして死亡フラグかもだとか一通りネガティブな想像をめぐらせきって、最後にはもうなんだろうかかまうもんかと開き直っていた。神様だろうが宇宙人だろう未来人だろうが、いくらでもかかってくればいい。
 僕は卒業証書をその場に放り出し、彼を強く抱きしめた。
「僕も、出来ればあなたと……このまま未来を繋ぎたい」
 そうして僕らは、桜の花びらの舞う中で初めてのキスをかわし、新しい関係を築き始めた。
未来に対する不安がないわけではなかったが、そのときの僕はただ、幸せだった。

 その日からはじまった僕らの交際は、覚悟していたよりは順調に続いた。
 涼宮さんの力がなくなったわけではない。高校卒業以降も彼女の力は微弱ながら存続し、宇宙人や未来人やその他の勢力間の争いの種もまた、つきることはなかった。それでも涼宮さんの精神は思春期を通り過ぎたせいかかなり安定し、ささいなことで暴発することはなくなった。とは言えその分、もしも彼女の精神を大きく乱すような事件が起こったときに何が起こるか予想がつかなかったから、前以上に慎重に警戒は続いていた。
 そんな警戒の目の中をかいくぐり、僕らは大学に通いつつデートを重ね、お互いを深く知り、小さなケンカくらいはしつつもそのたびに仲直りして、いつのまにか4年という歳月を重ねた。同性同士である僕らには結婚というゴールはないけれど、そのころの僕はもしかしたら今後もずっと、彼と一緒にいられるかもしれないという夢を抱けるほどにはなっていた。
 ――だが大学を卒業し、僕は機関関連の会社に就職、彼はバイトをしていた塾の講師になって、お互いに仕事にも慣れ始めたある日……事態は急変したのだ。



 電話の向こうで、テレビの深夜映画を見て寝過ごしたという話をしていた彼が、思い出したように言い出した。
『ああ、映画と言えばこないだ、妹と歩いてたときにさ、お前がハマってたあの映画やってたぞ。シリーズ物のオールナイト3本立て』
 彼は、僕が日本にいるときに気に入って飽きるほど観た映画のタイトルを口にした。観たのかと問えば、いいや看板を見かけただけだと答える。他愛もない、どうでもいいようなことをだらだらと話すのが、この頃の彼と僕の電話だった。
 休日の午後にこんな電話をするようになったのは、1年ほど前からだ。彼を置き去りにしてしばらくの間、彼は電話はおろかメールの一通もくれなかった。よほど怒っているのであろうことは僕も理解していたから、ときおり送る近況メールへの返事は期待していなかった。
 ようやくポツポツと返信がくるようになり、ある晩彼からの電話が来たときには、1年振りに聞いた声に、思わず涙が出たのを覚えている。
「なつかしいですね……。こちらはDVDのレンタルが安くていいのですけど、デッキが壊れやすくて困りますよ」
『日本製品買っておけって。高いけどさ』
「まぁ、そうなんですけどね」
 それでも、どれがオススメだなんて話には発展しない。僕も彼もただなんとなく、身にもならないこんな会話をかわすのが心地いいのだとわかっている。
『くそ……片手だと傘が持ちにくいな』
「気を付けてください。濡れないように」
『ああ……わかってる』
 かすかに入ったノイズは、彼が受話器を挟む肩をかえた音だろうか。
 ふと会話が途切れると、逢いたいという気持ちが喉からあふれそうになる。
心から愛しいと、逢いたいと思える人が同じ空の下にいるならそれでいいと、普段ごまかしている心が軋む音をたてる。
 だから、決して口には出さない。出したらきっと、あふれてしまうから。
 こらえるためにぐっと唇を噛んだとき、受話器から聞こえる彼の声がためらいがちに告げた。
『そういやさ……オヤジがやっと、帰ってきたんだ。赴任先から』
「……!」
 僕は無意識に受話器を握りしめた。彼の父上についての話題が彼の口に上るのは、この1年ではじめてだ。今までお互いに、なんとなく避けていた。
 何故かと言えば、それこそが2年前、僕が彼を日本に置き去りにした理由であり、つきあい始めてから最大で最悪のケンカとなったきっかけでもあったから。



 事態急変のはじまりは、涼宮さんへの一報だった。
 長門さんとともに大学院に進んでいた彼女のもとへ、とある海外のシンクタンクから誘いが来たのだ。涼宮さんは在学中に、長門さんを助手としていくつかの論文を発表しており、それに目をとめた研究機関からの招致だった。彼女はその誘いに大いに興味をしめし、持ち前の行動力でもって、即座にアメリカへと渡ることを決めた。そのことを聞いた朝比奈さんが妙にほっとした顔をしていたから、おそらくそれは彼女の未来へと続く時間軸に置いて、規定事項であったのだろう。
 そして僕のもとへも、機関から、彼女についていくようにとの指令が下った。助手として長門さんが同行することはもう決定しているので、せめて身近に彼女の知り合いたる僕を配置しておかねば、宇宙人勢力に遅れをとるとの理由だったようだ。涼宮さんが行く予定の研究所の近隣に、住む場所と機関の関連企業のポストも用意してあると聞いて、相変わらずの手回しのよさに苦笑した。どうやら断れる類のものではないらしいと、半ばあきらめに似た気持ちで理解した。
「彼とのこと、どうするの?」
 あのころから4年たっても一向に外見のかわらない森さんが、そう言ってくれたのを今でも憶えている。彼女は僕と彼の本当の関係を知る、数少ない味方の一人だった。
「彼があなたと一緒に行きたいと言うなら、機関の伝手で働き口を用意することもできるわよ。連れて行く理由は、涼宮ハルヒへの予防線だとかなんとか言えば、ごまかせるかも」
 住むのはあなたと同じ部屋でいいでしょうし、と森さんは気を回してくれたが、僕は彼を連れて行くことにためらいを憶えた。
 それが、彼の父上がアジアのある国に、半年ほど前から単身赴任しているせいだったのだ。しかもいつ戻ってこれるかは、未定なのだと聞いていた。
 一緒に来てくださいと言えばきっと彼は、実家が母上と高校を卒業したばかりの妹さんの二人きりになってしまうことを気にするだろう。一家の男手が両方とも海外に出てしまうなんて、不安に思うことは想像に難くない。恐らく彼は、僕への想いと家族への愛情の狭間で、激しく悩むことになる。
 だから僕は、彼に嘘をついた。
「大丈夫ですよ。聞いたところ、そう長期ではないそうなのですぐ帰ってこれます。だから心配しないで、あなたはご家族の側にいてあげてください」
 なに、何年もかかったりはしませんよと、気軽さを装って彼に告げた。ためらいつつうなずいた彼は、恐らく本心では母上と妹さんが心配だったのだろう。困ったように、それでもほっとした顔で、笑ってくれた。家族思いの彼を悩ませずにすんでよかったとは、今でも思っている。
 浮気すんじゃねえぞと冗談めかして言われて、僕はこのときだけは本心で、あなた以外に心を動かされることなんて、あるわけがありませんと答えた。
 彼が真実を知ったのは、僕が日本を発って一週間ほどが過ぎたころだったようだ。時差を考えていない夜の夜中に、彼から怒り心頭に達したという声で、電話がかかってきた。
『古泉っ! お前、実は帰ってこれるまで何年かかるかわからないって、本当なのか!』
「ああ、聞いたんですか。……ごめんなさい。本当です」
『この馬鹿が……! なんで、すぐ帰れるなんて……!』
 彼の怒りはもっともだと思う。だけど僕は、僕のことで彼を悩ませたくはなかったのだ。彼がもし僕についてきてくれたとしても、きっと彼は家族が心配でずっと憂うことになるだろう。彼にそんな思いをさせるくらいなら、僕が我慢する方がいい。
『だからってお前……』
「大丈夫です。離ればなれでいたって、僕のあなたへの想いは、揺らぐことなんてありませんから。……ずっと、愛してます」
『馬鹿野郎……っ!」
 彼の声が、震える。嗚咽をこらえているのか、それとも怒りを抑えているのか、しばし声をつまらせたあと、彼は叫ぶように言った。
『……俺が、お前を待ってなんていられねぇかもしれないとは、思わないのかよ!』
 それもまた、覚悟の上だった。僕は激昂する彼の興奮を抑えるように、静かな声で言った。
「あなたを縛りつける権利なんて、僕にはありません。離れて暮らすうちに、あなたに他に好きな人ができても、仕方ないと思います。だから……」
 誰かに心ひかれることに、罪悪感なんて感じなくてもいい。彼と恋人同士として過ごした4年間が、幸せだったから僕は大丈夫。
「……本気で言ってんのか」
「ええ、本気です。僕の気持ちは、おそらくかわらない。だけどあなたは、僕に縛られることなんてないです。……僕は大丈夫ですから」
『お前は……っ』
 彼はそれきり黙り込んでしまった。
やがて僕の耳に、彼の忌々しげな溜息とともに、低く吐き捨てるような声が飛び込んで来た。

「――この、大嘘つきめ……!」

 憶えてろよ、と捨て台詞を残し、それきり通話は切れた。
その後、彼と再び電話で会話できるようになるまで、実に1年以上が経過することになった。

 それからのことは、先に語った通りだ。
彼からの返信はなかったが、それでも僕は定期的に彼にメールを送り、ときおり留守電にメッセージをいれた。離れていても一言も言葉を交わすことはなくても、僕の中の彼への想いはいっかな薄れる気配もなかったから、彼から決定的な別れのメッセージでも届かない限りは、一方的にでも消息を伝えることは続けようと思っていた。
 彼から1年ぶりにメッセージが届いた日のことは、今でもよく憶えている。まさか恐れていた決別の日が来たのかとぐるぐるしながら、丸一昼夜悩んだ末にメールを開いた。それが、最前に僕が送ったメールへの返信で、ごく普通の近況報告であるのを知ったときは、力が抜けて床にへたり込んだものだ。もちろんそのメールは一言一句、句読点の位置まで再現できるほど読み返し、あまりに早く返信しすぎるのも気持ち悪いかと、じたばたしながら2日ほど過ごしてから、何気ない風を装ってメールを返した。
 彼からのメールは、それからも1週間に1度くらいの割合で送られてきた。内容は他愛のない日常の報告だ。母親のこと、妹のこと、シャミセン氏のこと、塾の生徒たちのこと、共通の知人のこと、見つけた美味しい食べ物屋のこと、面白かった映画や本のことなどなど。飾り気のない言葉で綴られる彼らしいメールを読み、同じように他愛のない日常を返信して数ヶ月がたった頃に、突然彼から電話が入ったのだ。
 1年ぶりの彼の声は泣きたいほどになつかしくて、僕はまだこんなにも彼が好きなのだと再認識することになった。声を聞くごとに逢いたい気持ちが募って苦しくて、でも電話が終わって声が聞こえなくなるとなおさら苦しい。そんな風に彼に翻弄されたまま1年が過ぎた。
 そして今日初めて、彼がケンカのきっかけとなった事柄を口に出したのだ。
 彼は、何かを変えようとしているのだろうか。
 それは僕にとって、いいことなのか悪いことなのか。
 とても知りたいけれど、同じくらい知りたくなかった。



 沈黙が怖くて、僕はすぐに無難な相づちをうった。
「……そうですか、父上が。長かったですね」
『ああ。なんかすっかり日に焼けてさ、たくましくなってやがる』
「アジアのマーケットは活発だと聞きますし、いろいろ修羅場をくぐりぬけたのではないですか」
『ははっ。修羅場ったって、オヤジはただのサラリーマンなんだけどな』
 彼の話はそのまま父上が持って帰ったみやげものについてへと発展し、僕はなんとなく気が抜けた。彼は、2年前の僕との揉め事について言及する気はいまさらなく、ただの雑談の一環としてこの話題を選んだだけなのか。
 けれどそれは希望的観測に過ぎたらしい。彼の話しぶりに、ほっとしたのか残念なのか自分でもよくわからず、脱力してソファに腰掛けたその時……ふいに彼の声色が変わったのだ。
『だからさ。……それがどういうことか、わかってんのか。古泉』
「…………っ!」
 なんとなく、彼の声が冷たく響いたような気がした。ドキリ、と心臓が鳴る。
『やっと、機会が巡って来たってことだ。――2年前、お前は俺にひどい嘘をついたよな』
「…………」
 確かに僕は嘘をついて、彼を日本に置き去りにした。彼が激怒するだろうことを想定していながら、帰国まで何年もかかることを告げずにこちらに来てしまった。
『お前はもしかしたら、そんなこと忘れたかもしれない。だが俺はいまだにお前を、許しちゃいないんだぜ?』
 淡々と語る、彼の声。僕は沈み込んでいたソファから起き上がり、なんとなく窓を見た。確かに彼へと続いているはずの空は、まぶしいほど綺麗に晴れ渡っている。
 僕が黙っていると、彼は淡々と続けた。
『オヤジの帰国が決まったのは、実は去年なんだ。だからこの1年の間、俺はずっと考えてた。……お前に、きっちり仕返しをしてやろうってな』
 もしかしたら……いや、きっと、僕は思った以上に彼の心を傷つけていたのかもしれない。
 最悪の想像が、頭をよぎる。1年前といえば、急に彼が僕への返信を再開してくれた時期だ。もしあれが、彼の言う仕返し≠ヨの伏線なのだとしたら。
 目には目を、歯には歯を、嘘には嘘を。……裏切りには、裏切りを。
『ちゃんと、聞いてるか? 古泉』
「ええ……聞いてます」
 彼の声の向こうから、ざわざわと風が木々を揺するのにも似た音がする。あの街は雨だとさっき聞いた。ならばこれはたぶん、降りしきる雨が傘をうつ音だろう。
「雨は、まだ降っているんですか……?」
『ん? ああ、ずっと降ってるぞ。当分、やみそうにないな』
「そうですか……」
 風も強くなったな。傘持ってるのがつらい、と彼は言う。
 そんなやりとりをかわす短い時間で、僕は覚悟を決めた。
 ――仕方ない。彼にだったら何をされたってかわまない。どんな言葉で切り刻まれようが、手ひどく裏切られようが、すべて自業自得というものだ。僕はそれだけのひどい嘘を、彼についたのだから。
 ひとつ、息をついて受話器を持ち直す。
彼の仕返し≠ニやらを、僕は甘んじて受けなければならない。
「あの……」
『ん……?』
「それであなたは、僕に何を……?」
 そのとき、部屋のインターフォンが鳴った。なんだろうこんな時に。
そういえば、デリバリーを頼んだピザがまだ来ていなかったから、恐らくそれだろう。
「すみません、頼んでおいたデリバリーが来たようです。ちょっと待っててくださいね」
『ああ、早く出てやれ』
 タイミングの悪いことだと思いながら、僕は片手に子機を持ったまま、鍵を外してドアを開けた。

「……よう」

 目の前に立っている人物と、耳近くの子機から、声がダブって聞こえた。
彼≠ヘパチリと携帯のフリップを閉じ、2年前の記憶とそう変わらない顔でニヤリと笑う。
僕は受話器を床に取り落としたことにも気がつかず、ただ目を見開いて彼を見つめることしかできなかった。
「な……んで……。だって……雨が、降ってるって……さっきから」
 もともと雨が少ないのサンタモニカの空は、今日も快晴だ。もちろん彼自身も傘など持っておらず、雨に濡れた様子などみじんもない。あたりまえだが。
 なんで、だって雨が、とバカみたいにくり返す僕に、彼は悪戯っぽい笑みを見せ、だからさっき言っただろうが、ちゃんと聞いてたかと言った。

「2年前、お前には大嘘をつかれたからな。嘘には嘘の仕返し≠セ。……驚いたか?」

 ようやく、目の前に彼がいる現実が、頭に浸透してきた。
2年間ずっとずっと、死ぬほど逢いたいと想っていた人がここにいる。
いつの間にかあふれてきた涙をふくのももどかしく、僕は長く触れられないでいた最愛のひとの身体を、思い切り抱きしめたのだった。



 サンタモニカの街に、雨が降る。
 この季節に、こんなまとまった雨が降ることはめずらしくて、不満げな顔で空を見上げては、文句を言う人も多い。だけど僕は、雨の日が結構好きなのだ。
 降り続く雨の中、仕事を終えて家路につく僕の足取りは軽い。それはもちろん彼が、僕の小さなアパートで僕の帰りを待っていてくれるからにほかならない。

 あの再会の日から数ヶ月、彼はずっと僕の部屋にいる。その上、1ヶ月ほど前には日本語教室の講師の口まで自力で見つけてきて、帰国しない意志を示してくれたので、今の僕はすっかり有頂天だ。
「お前は、ヘタすりゃ自分のことすら気がつかない間抜けだからな。放っておけるか」
 そんな酷いんだか優しいんだかわからない言葉が、彼が日本に帰らない理由だという。
 僕はずっと、彼が怒っていた僕の嘘は、何年かかるかもわからないアメリカへの出向を、それほど長くかからないなどと告げたことだと思っていた。が、彼が本当に腹をたてていたのは、僕が、もし彼に他に好きな人ができても大丈夫と言った、あの言葉だったらしい。
 嘘のつもりはなかったのだという僕の言い訳は、だがさらに彼を怒らせてしまった。
「……本っ当に、お前は馬鹿だな! 自分で自分の嘘に気づかないとか、宇宙的規模の馬鹿すぎるわ!」
 思い返してみると、ずいぶん酷い言いぐさだ。だけどそのあと彼は、そんなだからお前はほっとくと心配なんだと言って、ぎゅっと抱きしめてくれた。
 そのときの彼の腕のあたたかさを思い出すと、つい頬が緩んでしまう。僕は必死に表情を引き締めながら、さらに足を早めて、彼と二人で暮らすアパートを目指した。

 サンタモニカは、雨の少ない街だ。
それでも僕は、雨の降る日を心待ちにしてしまう。
こんな日は街のそこここから、あの日以来僕が大好きになった、あの言葉が聞こえてくるから。
 ――It's Raining. ってね。



                                                   END
(2010.08.08 up)
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リクエスト、B’zの「It's Raining」をモチーフに、社会人で遠距離恋愛なふたり、でした。
イメージ通りになってるでしょうか……。社会人って難しいですねぇ。