One Love
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『わりぃ、古泉。今日も飯作れないわ』
「はい、了解です。では買い物をしていきますね」
『すまん。頼む』
 それだけ言って切れた電話の声には、かなりの疲労が感じられた。今朝方、出社前にのぞいた彼の部屋の様子を思い出す。仕事用のデスクに向かっていた彼は、僕に気づいて振り返ってくれたが、その顔色はだいぶ悪かった。たぶん徹夜が続いているのだろう。あの様子では僕がいない間はろくに食事もしていないのではと心配になる。
 彼は仕事中にペースを崩されることを嫌がるので、僕もなるべく干渉しないようにしてはいるのだが、あまり無理をしているようならそうも言っていられない。
 残っていた仕事を手早く片付け、早々に帰り支度をする。外資系のうちの社は、あまり残業は推奨されていないから、フロアに残っている者も少ない。僕も気兼ねなく、帰宅の途につくことにした。
 高校時代の友人だった彼と恋人になり、一緒に暮らし始めてから4年ほどが過ぎた。ちょうどおつきあいをはじめた頃に小説家としてデビューした彼は去年、会社員との二足わらじだった状態を改め、文筆業一本で身を立てようとしているところだ。が、いまだペースがつかめないらしく、ときどき仕事を詰め込みすぎて、今回のように首の回らない状態になることがある。
 サラリーマンをやめたあと、彼は在宅業なのだからと家事のほとんどを負担してくれていたが、そんなときはさすがに余裕がなくなるようで家事に手が回らず、今回も何度もすまんと謝られた。だが、僕こそ普段ろくに家事に参加できないでいることを申し訳なく思っていたので、こういうときこそ頼って欲しいというのが本音だった。
 パートナーが大変なときには助けるのが義務であると思うし、なにより僕は彼にはいつでも楽しく日々を暮らして欲しいし、幸せを感じていて欲しい。僕と同じように。
 そんなわけで、いわゆる修羅場≠ノ突入して5日めの彼には、とにかく栄養をとってもらわねばならない。何か滋養のあるもの、かつ短時間で手早く食べられるものを供したいと考えるものの、あいにく僕の料理のレパートリーはたいへん少なく、ここ数日で早くもネタ切れだ。僕は帰りの電車の中で、同僚に相談して得たアドバイス通り、スマホでレシピを検索してみた。「簡単「手軽」というキーワードで出てきたレシピから、僕でも作れそうなものをチョイスする。
 よし、親子丼ならいけそうだ。


 味付けはつゆの素に頼り、玉子がだいぶ崩れたが、とりあえず食べられそうな親子丼が完成した。味噌汁は申し訳ないがインスタント、それに買ってきた漬け物ときんぴらとを食卓に並べ、彼を呼びに行く。
「夕飯できましたが、どうしますか」
 執筆がのっているときは、すまんあとでと言われることもある。が、今日はちょうど煮詰まっていたところだったらしく、そっちで食べるとリビングに出てきてくれた。
「おー、親子丼か」
「玉子をうまく半熟にできませんでした」
「いいよ。ちゃんと火が通ってるのも好きだし」
 いただきます、と手を合わせ、彼は箸を取る。が、仕事の方に気がいっているのか、食べながらもどことなく上の空だ。眠いのかもしれない。心配になって大丈夫ですかと声をかけると、料理の味と誤解したらしい彼は、うまいよと答えてくれた。
「お前もけっこう、腕をあげたじゃねえか」
「まぁ、味の方はつゆの素のおかげなんですけどね」
「使えるもんはうまく使うのが上達のコツだろ」
 つゆの素以外だったら、白だし使うと簡単に味が決まるぞと彼は言う。なるほどとうなずいて、次はやってみますと答えたら彼は、ふいに箸を止めてしまった。どこか浮かない表情で、眉を寄せている。
「どうしました? 火が通ってない肉でもありましたか」
 最初の頃はよくやった失敗だ。だが彼はいいやと首を振り、再び箸を動かしはじめながら投げやりぎみな口調で言った。
「なんか、仕事が詰まるたびにお前に負担かけちまって悪いなって思ってさ。家事とかお前、苦手なのにな」
「そんなことは……」
 確かに僕は、仕事以外の部分ではわりと……というかかなり大雑把で、お世辞にも家事に向いている性格とはいえない。が、一人暮らしが長かったためできないわけではないし、なにより彼との暮らしの中で、彼と協力して家事をすることは苦にならないどころか、とても楽しんでいると言える。
 だが、どうやら煮詰まっているらしい彼は、仕事と家事をうまくさばけないでいる自分を不甲斐なく思っているらしい。去年、彼が会社員と作家の二足わらじに限界を感じていたころにも、よくこんな顔をしていた。事なかれ主義なのだと主張する割には自分が引き受けた負担を投げ出すことをよしとしない、彼の妙な生真面目さが災いしてしまう。こんなことが、たまにある。だから僕は、わざとおどけた口調で言う。
「さては、僕の料理の腕の上達ぶりに恐れをなしていますね?」
 きょとんとする彼に、ニヤリと笑ってみせた。
「フフフ、覚悟していてくださいね。すぐにあなたの舌を唸らせる極上グルメをご用意できるようになりますから」
 そんな僕の思惑に、彼も気がついたらしい。暗い雰囲気を払拭するように、殊更にあきれた様子で肩をすくめた。
「そこまで言うなら期待はしとくが、出来れば10年以内に達成してくれよ」
「……期待されてるのか見放されているのか、微妙なラインですね」
「普通に食えるもの作れるようになるのに10年ちょっとかかってんだから、妥当な線だろ」
 確かに、まともな料理が作れるようになったのはここ数年のことだから、何も言い返せない。ぐぬぬと押し黙る僕を見る彼に、やっといつもの笑顔が戻ってきた。
 そうするうちに、食器はすべて空になった。彼は丼と椀を重ね、その前に箸を揃えて置く。
「ごちそうさん、うまかったぜ。っと、洗い物は……」
「ああ、大丈夫ですよ。僕がやっておきます」
「悪いな。ここ乗り切ったら、なんでもお前の好きなもの作ってやるから」
 メニュー考えとけよと言う彼にうなずいて、僕は彼に笑顔を返す。
「悪いなんて思わないでください。僕としてはむしろ、もっと甘えてくださってもいいのにと考えてるくらいですし……ああ、でもお返しは期待したいところですね。ご褒美がある方が、やる気が出るというものです」
「ああ。ま、そんなたいそうなモノは作れないし、予算の都合はあるけどな。希望があるなら、リクエストしてくれ。出来るだけ期待に添うよう頑張ってみるさ」
「大丈夫。僕が一番食べたいものなんて、ひとつしかありませんから」
 食卓に身を乗り出し、彼の肩をつかんで引き寄せる。顔を寄せ、こそっと耳元で囁いた。
「……あなた、に決まってるじゃないですか。期待していますからね?」
「…………」
 彼の手が僕の方に伸びてくる。危機を察して身を引く前に、彼の強烈なデコピンが見事に額に決まった。思わず額を押さえ、しばし悶絶してしまう。
「痛いです……」
「アホかこんな宵の口から」
 心底あきれた表情で、彼はため息をつく。もちろんこの反応は想定内だったので、僕はわざとらしく泣き崩れてみせた。
「数年前のあなたなら、真っ赤になって恥ずかしがってくれたのに……すっかりすれてしまって」
「いい年こいて、いつまでもやってられるか」
「ちょっとくらい雰囲気に流されてくださってもいいじゃないですか!」
「どんな雰囲気だ。アホらしい、俺はもう仕事に戻る」
 さっさと食卓を離れようとする彼に、僕はさらに未練がましく手を伸ばす。
「待ってくださいよ。そういえば今朝は、いってきますのキスをしそこねたので、せめてそれを今日の分のご褒美に!」
「はいはい、あとでな」
 振り返りもせずひらひらと手を振って、彼はそのまま仕事用の自室へと戻って行ってしまった。
「やれやれ……残念」
 昔から彼は淡泊な性質ではあったが、その点は今も相変わらずだ。キスもセックスも嫌いなわけではないだろうが、それほど熱心なようにも見えない。特に仕事に没頭しているときはそちらに気がとられるのか、さらにその傾向に傾きがち……というのを承知の上でからかったのだから、別に落ち込むようなことではない。
 ……が、やっぱりちょっと寂しいかなぁと感じるのは、仕方がないと思うのだ。


 ──が、僕はまだまだ彼を侮っていた。甘く見すぎていた。僕がそう悟るのは、その日の深夜のことだった。
 いつもの就寝時間が近づき、そろそろ寝支度をしようと本を閉じると、ちょうど彼の仕事部屋のドアが開くところだった。出てきた彼はソファに座る僕を確認するなり、まっすぐに近づいてくる。
「あれ。お仕事の方は終わったんですか?」
「いいや。まだまだだ」
 目処はたったんだが時間がかかる、とため息をつく。では、息抜きでもしにきたのだろうか。そう聞くと彼は、そうとも違うとも言わずに、だが何か言いたそうにしている。なにかあったんだろうか。
「いや、何かっていうか……お前、そろそろ寝るだろ?」
 ちょうど部屋に戻ろうと考えていたところだったから、素直にはいとうなずいた。すると彼は、それじゃあと僕の隣に腰を下ろす。何がそれじゃあだと首を傾げたら、彼は、ん、と言いつつ顔を上げて目を閉じた。ていうか、これは、あの、いわゆる、キス待ち顔、という、やつ、なの、では。
「どどどど、どうしたん、です、か、急に」
 滅多にない彼からのアプローチに、つい動揺してしまう。彼はその体勢のまま目をあけて、不機嫌さを装った表情で視線を逸らして、さっき、と言った。
「さっき?」
 首を傾げる僕に、彼はさらに気まずげに言葉を継ぐ。
「……あとで、って、言ったろうが」
「えっ」
「ご褒美なんだろ?」
 えっと、その『あとで』はもしかして、僕が夕飯のとき言ったおねだりへの、彼の返事のことか? 軽くあしらわれたと思ってた、あれ?
「約束したからな……。それとも、もういらんか?」
 はっと我に返った。面食らってる場合でも唖然としてる場合でもない。こみあげてくるものに窒息している場合でもない。
「いえっ! とんでもない、いただきますともぜひ!」
「じゃあ早くしろ、肩が凝るんだこの体勢は」
 そんな文句めいた言葉が照れ隠しなのは、さすがにもうわかっている。肩をつかんで顔を近づけると、耳までがほんのり赤かった。さっき彼のことを、すっかりすれてしまったなどと言った気がするが間違いだ。とんでもない。彼はいつまでも可愛くて、可愛すぎて、ホントなんなんだこの人。
「……反則ですよねあなたって」
「は? 何がだ」
「反則すぎです。ずるい」
「意味わからん。いいから早くしろ。……焦らすな」
 ああもう、だからそういうのが反則だというのだ。ホントに彼にはいつまでもかなわない。完敗だ。
 そんなことをぐるぐると考えつつ、僕は衝動に身を任せ、彼を思いきり抱きしめて、極上のご褒美をいただくのだった。


                                                   END
(2016.03.22 up)
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2016年春シティの無料配布。
なのですが、読み返したらあまりにもいろいろひどかったので、かなり書き直しました。
終わり方は相変わらずワンパターンです……。

再会から4年目あたり。キョンくんは脱サラして1年、古泉はこの2年後くらいに転職予定。
社会人編はざっと年表を作ってあるのですが、これを加工としていて計算を1年間違えていたことに気づきました。
どこかをこっそり直してあるのですが、発見しても気がつかなかったことにしてください orz