BRIGHTER DAY
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 うーん、といううなり声を聞いて、僕は読んでいた本から顔をあげた。声の方を見るとデスクの前に座っている彼が、腕を組んで眉間に皺を寄せ、パソコンのモニタ画面をじっとにらみつけている。
 真剣なまなざしだ。まるでそこに、親の仇がいるのだとでも言うように。だがそこに表示されているのは、おそらくただのテキストエディタの編集画面だと思う。
 何故かと言えば、彼の職業は小説家であり、今はなじみの編集者から頼まれた雑誌用のエッセイを書いている最中のはずだからだ。すぐに書き終わるというので、このあと一緒に食事に行く約束をしている僕は、こうして彼の仕事部屋のソファで待機をしている。
 読みかけの本を閉じ、はずした眼鏡とともにソファの座面に置いてから、よっこいしょとかけ声をかけつつ立ち上がる。年寄りじみているなとは思うが、五十歳の山が見えてくると、ついついそんな声も出てしまう。
「どうしました。詰まりましたか?」
 書きかけの文章をのぞき込まれるのは好きではないらしいので、僕は彼の横からそう声をかけた。順調に見えたが、何かひっかかることでもあったのだろうか。
「んー……いや、大丈夫だ」
 彼はなおもうなりながら目をすがめて画面をにらみつけていたが、やがて組んでいた腕をほどき、再びキーボードをたたき始めた。肩が凝りそうな前傾姿勢と、ときおり眉間をもみほぐす仕草。ああ、なるほど、と思い当たって、つい小さく笑ってしまう。
「なんだよ」
 キーボードをたたく手を止め、彼がじろりと睨めつけてくる。拗ねたような仏頂面が可愛くて、僕はさらににやにやと口元がゆるむのを感じた。彼だって僕と同じ年齢だというのに、本当にいつまでも可愛らしくて困る。僕は彼の背中側にまわり、椅子の背もたれごと抱きしめて耳元で囁いた。
「……そろそろ、あきらめてはいかがです?」
 キーボードをたたいていた手が、一瞬止まる。すぐに何事もなかったように打鍵を再開しながら、彼は咳払いをした。
「なんのことだ」
「無理はよくないですよ?」
「無理なんてしてない」
「認めたら楽になりますよ」
「うるさい黙れ。……まだ平気だ」
 頑なに言いつのり、彼は黙々とキーボードをたたく。僕はゆるむ頬を制御しきれないまま、壁にかかったカレンダーを横目でちらりと確認した。彼のスケジュールが並ぶカレンダーの今日の欄には、赤いペンで書かれた大きな花丸がついている。その横に僕の字で書き込まれた、「Birthday」の文字。
 今日のこの日は、彼がこの世に生を受けた日……つまり彼の誕生日なのだ。
 このあとに予定のディナーはそのお祝いのための席で、1週間前にはすでに予約を入れてあった。でも、実はプレゼントはまだ、用意できていなかったのだ。
 ――が、どうやらこれ以上、頭を悩ませる必要はないようだ。



 結婚、という明確な形はとれないながら、それに準ずる関係を維持しつつ彼とともに暮らし始めて、早二十年という年月が過ぎた。
 決して平坦な道ではなかったと思う。高校で出会い、一度は別れ、再会してすれ違い、紆余曲折あっての現在。恋人となり家族となってからも、ささいな喧嘩をしたり彼の仕事や僕の転職で悩んだりなど、波乱は幾度もあった。それでも僕の中の彼への想いは、薄れることも減ることも一度としてなく、彼の方も僕を見限るような素振りがあったことは、幸い一度もない。どうやら僕は、このまま彼と人生の終焉を迎えることができるのだとの実感を得たのが、十年ほど前のことだ。
 遅いわ!と、そのことを告げたとき彼は叫んで、心底あきれたといいたげなため息をついた。怒っているかと恐る恐る聞いてみれば、彼はフッと微笑み、わかってるよと答えてくれた。
 そりゃ昔なら怒ったろうが、もう今更だ。どうせいろいろめんどくさいこと考えてたんだろと、笑みを含んだ声で言われて頭をこづかれた時のことは、今思い出してもくすぐったい気持ちが胸に蘇る。
 そんなことを思いながら、 ソファに戻って読書を再開しているうちに彼の仕事が終わり、僕らは予定通り外で食事をするために外出の準備をした。上着を羽織り荷物を持って玄関を出ると、ささやかなポーチに設置した犬小屋から愛犬が顔を出す。ちぎれんばかりに尻尾を振るラブラドールの頭を撫でて話しかける彼を横目に、僕は数年前に手に入れたマイホームのドアに鍵を掛けた。
 振り返ると彼が、犬小屋の前にしゃがんだまま僕を見上げていた。
「こいつの散歩、もう行ったのか?」
「はい。あなたがお仕事をしている間に」
「そっか。サンキュ」
 ちょっと出かけてくるな、と愛犬に言い置いて、僕たちは小さな門扉を開けて道路へ踏み出し、連れだって歩き始めた。
 古い賃貸マンションの一室から始まった彼との暮らしは、共同で買った分譲マンションを経て、今はこの一戸建てにて落ち着いている。分譲マンションのローンを払いつつ住んでいた頃に彼の作品がアニメ化され、それが大ヒットとは言えないまでもなかなかの好評を得たおかげで彼の収入が増えた。それを期にマンションを売却し、一戸建てに住み替えたのだ。引っ越し直後に彼の希望を入れて犬を飼い始めてから、そういえば高校の頃に適当に書いた七夕の短冊への願い通りになったなと彼が笑ったことを思い出す。言われてみれば地球から25光年離れたベガに、ちょうど僕らの願いが届いた頃だった。
「犬が飼える一戸建てなんて、あの頃は自力で買えるとは思ってなかったがな。願っとくもんだ」
「人生、何がどうなるかわからないものですよ」
 僕だってまさか、老いの坂を下り始めるこんな歳まで、彼といっしょに過ごせるなんて、あの頃は夢にも思わなかった。というか、夢にみることすら罪悪だと思っていた。彼と一戸建てに住み犬を飼うのは涼宮さんであろうと考えていたし、よしんばそうでなかったとしても、彼の隣にいるのは彼にふさわしい気立てのよい女性だと疑いもなく信じていた。
 本当に人生、何が起こるかわからない。
 彼と暮らすようになって数年は、本当にこれでよかったのだろうかと悩んだものだが、今ではこの人生以外に選択肢はありえなかったと思える。僕は彼とともに生きるために生まれてきたのだし、彼もまた僕とともに歩むためにここにいてくれるのだ。後悔はない。
 やがてたどりついた行きつけのビストロで名前を告げると、店の人にお待ちしていましたと笑顔で迎えられた。
 リザーブ席には、顔見知りのマスターの心遣いらしきバースデイカードとワインの小瓶。マスターは常連である僕たちの事情を知っており、いつも何も言わなくとも僕らのために、奥まった目立たない席を用意してくれる。そんなさりげない気遣いのおかげで、僕らはいつもとても居心地のいいひとときを過ごすことができるから、ここ数年、彼の誕生日を祝うときは、大体この店に席をとっている。
「そういえば」
 いつもよりささやかに豪華なディナーが終わり、食後のコーヒーを楽しみながら、僕は家を出る前から考えていたことを切り出してみた。
「誕生日プレゼントのことですが」
「ああ、そういや何が欲しいか考えとけって言われてたな」
「もし、まだリクエストが決まっていなければ、差し上げたいものがあるのですが……帰りがけに、買いに行きませんか?」
 彼は軽く目を見開いて僕を見つめ、やがて苦い顔になった。飲んでいたコーヒーのせいではなく、意味を察したせいだろう。出てきた声は、あからさまに嫌そうだった。
「……もしかして、眼鏡屋か」
「ご明察です。今はなかなかっこいいデザインのものもありますよ。――老眼鏡も」
 彼が意地で避けていた単語を口に出すと、彼の眉間の皺がますます深くなる。僕は今度こそ吹き出し、声をあげて笑ってしまった。
「往生際が悪いですね! いつも、何事もあっさりきっぱり決断するあなたらしくもない」
「うるさい黙れ。認めるには、微妙なお年頃なんだよ」
 手元やパソコンの文字が見づらそうだとは、けっこう前から実は気がついていた。そんな症状と僕らの年齢を考えれば、それは近眼ではなく老眼の兆しであるとは、彼だってとっくにわかっていたはずだ。それなのに頑なに認めようとしなかったのは、まぁ……気持ちはわかる。
「でもあなた最近、パソコンに向かっているときとても姿勢が悪いですよ。あれでは早晩、肩や腰を痛めます。頭痛もするのでは?」
 笑いを納め、にわかに真面目な声になってそう忠告すると、彼もまた苦り切った顔でうなずいた。僕が本当に彼の健康を気遣っていることは、ちゃんと伝わっているはずだ。
「わかってるよ……確かに最近、やたらと肩が凝る」
 もうあちこちにガタが来る年齢だし、ちゃんと気にしとかないとな。そう言って彼は、左手で右肩を揉むような仕草をしてみせる。ふたりだけの暮らしなのだから、できる限り健康に気を遣って、他人の手を煩わせないようにしようとは、彼とたびたび話し合っていることだ。
「老眼鏡か……俺もとうとうそんな歳か」
 そうつぶやきながら、彼の視線が手元に落ちる。そういや白髪もけっこう目立つようになってきたしなと言う声は、心なし疲れて聞こえた。
「気分的には、何も変わった気はしねえのに」
 ぼやく彼の視線の先、薬指に銀のリングが填る彼の左手に、僕はそっと手を重ねた。同じデザインのリングが、店の照明を受け並んで光る。
「……老眼鏡を、英語ではなんというかご存じですか?」
 めずらしく僕の手をのけようとせず、彼は少し考えて首をかしげた。
「そういや知らないな。老眼鏡だから……オールドグラスか?」
「いいえ」
 僕は微笑み、右手の指でテーブルに文字を綴ってみせる。
「リーディンググラス。ただの、読書用眼鏡ですよ。――そう老け込むこともないでしょう」
「…………」
 彼が、目をしばたたいてじっと僕を見る。僕がただ笑っていると、やがて彼は口元に苦笑を浮かべ、やれやれと肩をすくめた。
「お前には、負けたくなかったんだがなぁ……」
「何がです?」
「お前より先に老眼鏡かけるのは避けたかったんだよ、なんとなく」
 体力で負けてんのにくやしいだろと、彼は言う。もともと基礎が違うのだから仕方ないと思うのだが、彼としては忸怩たる思いがあるようだ。それで、あんなに頑なに認めようとしなかったのか。
 ついつい盛大に口元がゆるんでしまった僕を軽く睨み、彼はそろそろぬるくなったコーヒーをすする。怒ったふりをするそんな表情が、本当に可愛らしい。
「なんだよ、笑うな。どうせくだらん意地だよ」
「いえ、そうではなくて」
 僕は胸のポケットにさしてあった眼鏡を、右手で取り出した。
「ご存じなかったんですね。僕のコレ、もうとっくに老眼鏡なんですよ?」
「えっ!? そうなのか?」
 心底びっくり、というように、彼が目を見開く。僕はその眼鏡をかけてみせて、嘘じゃないですよとうなずいてみせた。
 僕のその愛用品が近眼用から老眼用に変わったのは、確か去年の秋くらいのことだ。自覚と同時に急いでそれを手に入れたときの自分の心境が恥ずかしくて、つい言いそびれていたのだった、そういえば。
 眼鏡をかけた僕の顔をつくづくと眺めながら、彼はなんで言わないんだと眉をしかめている。拗ねているのがわかって、僕は首をすくめた。
「すみません。気がついたのは去年なんですが……自覚したその日のうちに、つい喜び勇んで買って来てしまったんです。老眼鏡、なんてものが必要になる年齢まで、あなたと一緒に過ごせたんだなぁと思ったら嬉しくて」
 それが彼と過ごした時間の長さを証明しているようで、幸せでたまらなかった。今更そんなことではしゃいでいるのかと笑われそうで言えなかったのだと正直に告げ、なのでこの勝負はあなたの勝ちですよ言うと、彼は笑わず、代わりに深くため息をついた。
「なんだこの、試合に勝って勝負に負けた感……」
 こだわってた俺が馬鹿みたいじゃねえかとぼやき、しばしカップの中に残ったコーヒーを見つめる。が、やがて彼はそれを勢いよく飲み干し、よし、とつぶやいて伝票を手にした。
「コーヒー飲み終わったろ。出よう」
 さっと立ち上がり、レジへと向かう彼の背中を僕も急いで追いかける。会計しようとするのを慌てて止めて僕が払いをすませると、彼はごちそうさん、と言ってくれてから店のドアを開けた。
 そして表に足を踏み出しながら、僕の方を振り返る。
「行くぞ、古泉。本屋の隣にある眼鏡屋でいいんだろ」
 ニヤリと笑って、行き交う人々の中へと颯爽と歩き出す彼の背中。何歳になっても変わらずに格好良いと、僕は何千回目かもわからない感想をまた抱くのだった。



 その後彼は、眼鏡屋で店員とも相談しつつ、何本もの眼鏡を試着した。
 候補に残った数本の中から最終的に彼が選んだのは、僕が強く推薦した1本だ。他のものより少々高価だったせいか渋っていたのだが、せっかく誕生日プレゼントなのだから僕の意見も入れてくださいと言ったら、やっと承知してくれた。
 加工をすませて受け取った眼鏡を、家に帰ってあらためて彼に渡す。サプライズ的な要素はないが、ちゃんと彼に必要なものを贈ることができるのは、単純に嬉しいものだ。掛けてみてくださいよと言うと、彼はさっそくそれをケースから取り出し、要望通りにしてくれた。
「……絶望的によく見えやがるな」
 デスクの上に乗っていた書類を取り、それに視線を落とした彼がうなり声をあげる。その妙な言い方につい笑ってしまったら、レンズ越しに睨みつけられた。
 よく似合っていると思う。
 細身なデザインの眼鏡はスタイリッシュで、とても老眼鏡には見えない。それを掛けた彼があまりに格好良いので、僕は思わず見惚れてしまった。
「とてもよくお似合いですよ。すごくセクシーだ」
「やめろって。いい歳こいて恥ずかしい」
「だって本当のことなのに」
「お前に言われたくねぇわ。お前こそ、老眼鏡のくせになんでそんなに」
 と、なんとなく眼鏡を掛けたままだった僕を見てそこまで言っておきながら、照れて言葉につまる。そんなところも、昔から変わらないなと思う。だけど僕は昔より少しは図々しくなったから、意地悪く言葉の先を促してみたりする。
「そんなに……なんですか?」
「うるせぇな、わかってんだろ」
「わかってますけど、聞きたいですよ」
「言わせようとすんな、恥ずかしいんだよ」
「そんなこと言わずに、ぜひ続きを!」
「あーうざい! お前マジうざい、このエロ眼鏡!」
「エロ眼鏡ってなんですか! もっと言い方があるでしょうが! 色っぽいとか、素敵とか、抱いてとか!」
「言うかアホ! エロ眼鏡で十分だ」
 そんなじゃれあいじみた応酬も楽しくて嬉しくて、ああ僕は本当に幸せだなと思う。このまま、次の誕生日もその次の誕生日も、ずっとともに過ごせたら。なんて願っているのは僕だけではないと、もう充分に理解している。
「はぁ……わかりました、もうエロ眼鏡でいいですよ。褒め言葉と受け取っておきます」
「わかればいいんだ」
 腕組みしてふんぞり返る彼の肩に手を回し、引き寄せる。向かい合う姿勢で腰に手を回したが、彼はめずらしくなんの抵抗もしなかった。
「では、あらためて。……お誕生日おめでとうございます」
 ディナーでの乾杯でも伝えた祝いの言葉を、もう一度繰り返す。彼がこの世に生まれてきてくれたことを言祝ぐのだ。何度言ったって、言い足りるものではない。僕のその主張はこれまで何年も誕生日のたびにしてきたから、もう彼もしつこいなどとは言わない。その姿勢で囁いても、苦笑してうなずくだけだ。
「おう。……プレゼント、ありがとうな」
「喜んでいただけて嬉しいです……ああ、でもしまったな」
「なにがだ?」
 首をかしげる彼に顔を近づけ、額同士をつきあわせる。ふたりとも掛けたままの眼鏡と眼鏡がぶつかって、カチャと音をたてた。
「キスをするには、ちょっと邪魔ですねぇ」
 彼が、あきれたように顔をしかめる。いつも通り、アホだのなんだのと罵声がくるかなと思ったが、彼の口から出てきたのは、不機嫌を装ったしごく有効なアドバイスだった。
「……はずせばいいだろ、馬鹿」
 そうですねと僕は答え、助言に従い彼の眼鏡に指をのばす。
 そして僕は、ふたりの間のささやかな障害物を取り除き、彼との距離を縮めるのだった。


                                                   END
(2015.06.06 up)
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双方アラフィフ!
さすがの古泉もすっかり落ち着いた感じです。
老眼鏡に萌えてみました。

社会人編は、また年代が前に戻ったりする予定なので、これで終わりというわけではないです。
オチが似た感じになってしまうのが困りものです。