耳もとにRefrain
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  ふと時計を見るのと、部下が声をかけてきたのが、ほぼ同時だった。
「会長、そろそろ“彼”の覚醒タームが終了するころですが」
「ああ、わかった」
 部下の声に促され、なぜだか所内で“会長”というあだ名が定着している彼は、やっていた仕事を止めて席をたった。書きかけの書類はまだ半分も埋まっていなかったが、どうせ急を要するものではない。“彼”の覚醒を待つ間の時間つぶしに、手を出したにすぎない仕事だった。
「ちょっと行ってくる。あとはまかせた」
 軽く手を挙げドアに向かえば、部屋のそこここから、部下たちが了解の声をあげる。彼はこの研究所に来てまだ日は浅かったが、もとはアメリカにある同系列の研究所から引き抜かれてきた人間なので、すでに数人の部下を持つ身だった。
 ただし、今、彼が白衣を着たまま早足で向かおうとしている場所は、彼のチームとはあまり関わりがない。研究分野としてまったく専門外というわけではないけれど、本来なら彼が首を突っ込む必要はない案件だった。ただ、妙ないきさつで関わり合いを持ってしまったがために、そのままなんとなく関わらざるを得なくなった、という類の話だ。

 指紋と声紋によってロックされたドアをあけると、すでに覚醒プログラムは終盤のようで、数名の技術者たちがあわただしく動き回っていた。さして広くない薄暗い部屋の中央で、白いカプセルが淡い光を発している。正式名称はちゃんとあるが、普段は単に“再生槽”と呼ばれている代物だった。
「森さん。どうですか」
 カプセルの前で計器類を見ていた女性が、顔を上げて振り返る。カプセルの発する青白い光に照らされた彼女の顔は、無表情だった。
「体機能に異常はないわ。傷はふさがっているし、内蔵にも問題なし。意識もそろそろ戻るでしょう」
「そうですか」
 バイタルの数値を読み上げるコンピューターの音声が、機械的に響く。会長はその声を聞きながら、カプセルに近づいて中をのぞき込んだ。培養液の排出はすでに済んでいるようだ。カプセルの中には、一糸もまとわぬ姿の成年男性が、目を閉じて横たわっていた。
 今はしっとりと濡れている色素の薄い髪が、閉じた目蓋にかかっている。顔立ちは端正に整い、傷一つなくなった細身の身体も均整がとれている。それだけに、血の気の失せた状態で身動き一つせずに横たわっている姿は、まるで大理石で作られた彫刻のようだ。よくできたマネキンだな、と、会長は口には出さずにつぶやいた。
 だが、もちろん彼は人形ではなく、生きている人間だった。よく見ればかすかに胸が上下していて、呼吸をしているのがわかる。カプセルにつながっている機器に脳波や心電図が表示され、彼の生命活動を伝えていた。

 彼の名は、古泉一樹という。
この研究所で人工授精にて誕生し、人工的な操作を受けつつ成長した実験体だが、会長がこの研究所に来たときにはすでに、諸般の事情により行方不明になっていた。それをたまたま発見したことが、現在、会長が彼に関する諸々につきあわされている実情の発端だ。
不本意ではあったが、無関係だと切って捨てることもまた、会長にはできないでいた。
(本当に、傷は見事に消えているな。古傷らしきものも完全に)
 会長は組んだ片手をあげて眼鏡のブリッジを押し上げつつ、古泉の全身を検分した。このカプセルに入ったときは、背中から肺に達するほどのひどい刺し傷と、その他に火傷の痕や放置したままふさがった傷の痕、色素の沈着したアザ、さらに不自然に癒着した骨折の痕までがあった。古傷はいずれも、行方不明になっていた2年の間に出来たものだろう。彼本人が語ったその間の生活は、かなりひどいものであったようだ。
 そして再生槽に入る原因となった背中の刺し傷は、普通の人間なら即死してもおかしくないほどのものだった。が、古泉は成長過程で体機能に強化がほどこされているため、ギリギリで命を拾った。ただし重傷にはかわりなく、再生槽内での治療が必要になったのだ。
 治療を開始して、すでに2ヶ月が経過している。
回復は順調で、おそらく身体の方はもう心配ないだろう。問題なのは“中身”の方だった。
「脳波正常。δ波からθ波へ移行」
 覚醒が進んでいる。会長は難しい表情で、少しずつ頬に赤みのさしてくる青年の顔を見守った。
 ――“中身”とは、つまり記憶のことだ。
 古泉一樹は記憶分野の実験の後遺症なのか、記憶障害に似た症状を持っている。元から脳内にインプットされた情報や知識はともかく、実体験で得た記憶が長く保たないのだ。
 古い記憶からというわけでもなく、おそらく彼本人の感情に由来するものと思われるが、基準ははっきりしない。ただ彼は、様々なことをすぐに忘れてしまうのだ。
 会長の脳裏に、ある青年の姿がよぎる。周囲の人々には、会長と同じように、キョンというあだ名でのみ呼ばれていた青年。数ヶ月前にとあるいきさつで古泉と知り合い、紆余曲折を経て、どうやら古泉と恋愛関係を結んだと見られる人物だ。そしてまた彼は、古泉が瀕死の傷を負うこととなった原因でもある。古泉は彼をかばい自らの身体を盾として、彼を守ったのだ。
 だが、そんなにまで想った恋人のことさえ、古泉は忘却している可能性がある。基準がはっきりしない以上、覚えているかどうかはまさに賭けのようなものだった。
「科学の敗北だな……」
 そのうち、解明できるようになるかもしれない。というか、会長の本来の仕事は、その点を解明しないことには進展しない。正直、あと何十年かかるかさっぱり目処がたっておらず、まぁそれでいいと思っていたことだが、今となってはそれがくやしかった。

 苦い溜息をついたとき、カプセルの中で眠る青年の睫毛が、ふるりと震えた。脳波、β波に移行しました、という音声が聞こえる。どうやら、本格的に覚醒するらしい。
 目蓋がゆっくりと開き、その下から髪と同じく色素の薄い瞳が現れる。ぼんやりとあたりを見回していた視線が、やがて焦点を結んだ。彼の瞳が映しているのは、会長の隣で同じようにカプセルをのぞきこんでいた森の姿だった。
 まだ血の気の薄い唇が開き、かすれ気味の声がこぼれでた。
「ああ……お母……さん」
「おはよう一樹。身体の調子はどう?」
 古泉の教育係である森のことは、ちゃんと記憶にとどまっているようだ。森がほっと安堵の溜息をつくのを、会長は眼を細めて眺める。
「平気……です」
 カプセルの中でゆっくりと上半身を起こし、古泉は濡れたままの自分の身体を見下ろす。その仕草にはっとしたらしい森は、着る物をもってくるわね、と告げて、踵を返した。
 部屋を出て行く彼女を見送ってから、会長は古泉に話しかけた。
「おい。俺のことは憶えてるか」
 森の姿を追っていたらしい古泉の視線が、こちらを向く。しばらく自分を眺め、やがて首をかしげた彼に、会長はまぁそうだろうなと肩をすくめた。カプセルに入る前の古泉と顔をあわせたのは、ほんの2、3回にすぎない。しかもちゃんと話をしたこともなく、たしか自己紹介すらしなかったから、普通の人間だとしても憶えているかは微妙なところだろう。
「どなたでしたっけ……? すみません、僕、忘れっぽくて」
「いや、俺のことは別にいい。それより、こいつのことを……」
 会長は胸のポケットから、用意してきた写真を取りだした。キョンという、あの青年の写真だった。ひらり、と目の前に差し出されたそれに、古泉は視線を落とした。
「……憶えてるか?」
 キョンという彼のあだ名と、本名も伝えた。古泉はしばらく写真をじっと見つめていたが、やがて戸惑うような、困惑したような様子で微笑み、つぶやいた。

「……誰、でしたっけ?」

 すまん、と、会長は心の中で、思わず謝罪の言葉を発していた。誰に、といえばたぶん、古泉を運び込んだ病院の廊下で、心細げにしていたあの青年にだろう。
 自分のことでもなく、そんな義理もないのに、何故だか胸がキリキリと痛んだ。



「か・い・ちょーっ!」
「うわっ!」
 いきなり背後から覆い被さるように抱きつかれ、思わず持っていた書類を廊下にぶちまけそうになる。あわてて荷物を抱えなおし、会長はぺったりと背中に張り付く男をにらみつけた。
「いきなり何をする! 離れろ」
「嫌ですっ」
「遊んでいる暇はないんだ。あっちへ行け」
 シッシッ、と手を振って追い払う仕草をしてみても、ニコニコと笑顔のままの男……古泉はまったく引き下がる様子をみせない。
「今日は、午後から半休ですよね。一緒に、出かけませんか? 近くに、有名ケーキ店の支店が出来たんです。食べに行きましょう」
「遠慮する。甘い物は好きじゃないと何度も言ったろう」
「大丈夫です。パンとかキッシュとかも美味しいですから!」
「断ると言ってるだろうが! 忙しいんだから、休んでなんかいられん」
「でも、少しは息抜きした方が、仕事の能率も上がりますよ? そのくらい、会長ならご存じでしょうに」
 ええい、ああ言えばこういう、と会長は毒づく。
「ケーキ屋なんて、そのへんの女でもつかまえて連れてってやれ。お前になら、喜んでついてく女が1ダースはいるだろうが」
「えー。でも僕、会長と行きたいんですよ」
 さらにぎゅうぎゅうと抱きしめてくる腕を必死に引きはがそうとしながら、会長は心の内で勘弁してくれとこぼす。
「お茶にお誘いしても5回に1回くらいしか応じてくださらないし、部屋にお邪魔すれば追い出されるし……たまには遊んでくださいよぅ」
「俺はお前のお守りじゃない! いい加減にしろ!」
「あんまり邪険にすると……」
 がしっとすごい力で顎をつかまれ、顔が間近にせまってくる。ぞわりと、会長の背筋に悪寒が走った。
「ちゅうしちゃいますよ?」
「やめろと言っている! ……わかった! わかったから離せ、この馬鹿力め!」
 付きあってやるからさっさと離せと言うと、古泉はぱっと顔を輝かせた。ようやく解放された腕をさすりつつ、会長は深々と溜息をつく。
 古泉が再生槽から出て2週間。どういうわけか会長は、彼にすっかりなつかれてしまっていた。優しくした憶えなどまったくないのに、何故だかまとわりついて離れない。さすがの会長も、かなり辟易ぎみだった。
「お付きあいくださるのは嬉しいですが、そんなにキスを嫌がられるのは心外ですねぇ」
「あいにく、男とキスする趣味はないんでね」
「僕、上手いですよ?」
「そういう問題じゃない」
「試してみませんか。……なんならその先も」
「力いっぱいお断りだ」
 残念です、とさして残念そうでもない調子でいう古泉に背を向けて、会長は書類を置きに自分のラボへと向かった。なつかれてるんだか口説かれてるんだかわからん、とぼやきつつ、彼はそれでも古泉を突き放しきれない自分にもうんざりしていた。



 結局、会長は午後の半休を、古泉に引っ張っていかれたケーキ屋で過ごすことになった。
 周囲の視線が痛い。ケーキ屋に男の二人連れはめずらしいのだろう。さすがに居心地の悪さを感じつつ、会長はエスプレッソをすする。もちろん周囲の視線は、片やモデルと見まごう華やかな美形である古泉と、エリート然とした怜悧な美貌の会長の組み合わせによるビジュアルに因るものが大半なのだが、その点には鈍い二人だった。
「会長は、何か食べなくていいんですか?」
 2つめのケーキに挑みながら、古泉が尋ねてくる。会長は素っ気なく、ああ、と言った。
「腹は減ってない」
「美味しいのに……ちょっと味見しません?」
 あーん、とか言いながら差し出してくるフォークから、ふざけるなと顔を背ける。古泉はそれをパクリと自分の口に入れて、不満そうに唇を尖らせた。
「もー、なんで会長は僕に、そんなに冷たいんですか」
「普通だろうが」
「冷たいですよ。……まぁ、あなたのそんなところも好きですけど」
 隣のテーブルで、女子高生の団体がきゃーっと声をあげた。会長は額を指で押さえて、やれやれと溜息をつく。
 好意を向けられることが不快というわけではない。だが古泉のその好意が、彼自身も自覚なく、会長を通して違う人物に向けられていることがわかっているから、やりきれない気がするのだ。
 他の職員たちの古泉に対しての態度は、子供にするように優しく接するか完全無視を決め込むかに二分される。彼の生い立ちに憐憫を感じている人々は前者であり、実験体に人権を認めない人々は後者なのだ。そんな中で会長は、優しくせずに突き放す態度を取りつつも、邪険にしきれないというあいまいな対応になりがちで、古泉はどうやら彼のそんな部分が気に入ったらしい。それが、あのキョンという青年が古泉に対してとっていた態度に近いのだということは、簡単に予想できた。
(忘れているはずなのに、妙なことだ……)
 見る見る減っていくケーキと古泉を眺めつつ、会長はつい数日前に、森があいまいな笑顔で言ったことを思い出す。
『前は、特にケーキが好きってこともなかったのよ? 古泉は憶えてないけど、彼と一緒に暮らしていたときに働いていたのがケーキ屋さんだったから、そのせいなのかしらね』
 そこまで無意識の断片を残しているのに、2週間たっても、古泉の記憶は戻らない。
自分が2年間、外の世界で放浪するような生活をしていたこと自体は憶えているが、そのころの記憶はところどころ歯抜けになって整合性がない。あのキョンと呼ばれる青年とのことも、出会ったところからキレイさっぱり憶えていないのだ。
 だから会長は、彼との約束を果たせない。古泉の記憶が完全なら、必ずお前のところにいかせてやると言った、あの約束を。

 ウェイトレスにエスプレッソのおかわりを頼みながら、会長はなんとなく不思議な思いに捕らわれる。自分は何故、2人にこうも同情的なのだろう。
 たまたま、本当に偶然、行方不明だと言われていた古泉を街中で見かけ、声をかけた。ただそれだけの縁だ。なりゆきでしてしまったあの約束の履行が不可能と判明した今、もう彼らに関わる必要はないはずなのだ。N.Y.に長く住んでいたせいか同性同士の恋愛に特に偏見はないが、だからといって積極的に応援するほど思い入れがあるわけでもない。それなのに。
 ……大した意味があるわけじゃない。ただなんとなく、だ。
会長は、そう自分に言い訳しつつ、そろそろ2つめのケーキの攻略が完了する古泉に声をかけた。
「古泉」
「はい?」
 フォークを咥えたまま、古泉が顔をあげる。
「お前、いつからそんなにケーキが好きなんだ?」
「え……っと……どうでしたっけ。確か……」
「2ヶ月前からじゃないのか。あのキョンという青年と暮らしていたとき、お前はケーキ屋で働いていたそうだぞ。そのせいなんじゃないか」
「…………」
 古泉の顔から、表情が消える。この話題になると、古泉の反応はいつもこうだ。カチャ、と音を立てて、フォークが皿の上に転がった。
「……思い出さないか。まだ」
「すみません……あたまが」
 苦しそうに眉を寄せ、古泉はテーブルに伏せて頭を抱えた。そんな古泉に心配そうに声をかけてくるウェイトレスに、会長はちょっとした持病なので少し休めば大丈夫ですと言って、古泉の隣に移動して背中をさすってやった。
「大丈夫か」
「はい……」
 テーブルに顔を伏せたまま、古泉は苦しい息の下から声を絞り出す。その声は、まるで泣き出す直前のように震えていた。
「僕は……その人のことを、どう思っていたんでしょうね」
「さぁな、俺が知っているわけがない。だが、お前は身体を張ってそいつを守ったんだから、それなりに大切だったんじゃないか」
「そうですよね……」
 どんな人なんだろう、と、古泉はつぶやく。人となりは説明したが、会長にしても彼とは数回しか会ったことがないから、ちょっとした印象しかわからない。古泉が知りたいと思っているような部分までは、知りようがなかった。
「思い出したいか」
「…………」
 それでも古泉は、はいとは言わなかった。
「怖いのか」
 会長の言葉に、小さくうなずく。何が怖いのか、とは、おそらく本人にもわからないのだろう。
 あの青年に関する記憶について指摘されるたび、古泉は頭痛を起こし、気分の悪さを訴える。一度、それは記憶回復の前兆なのではないかとさらに追求してみたら、全身をガタガタと震わせてしゃがみこみ、嘔吐した。
 他の記憶については、そんな反応を見せることはない。彼を刺した男の写真を見たときでさえ、古泉は不快そうに眉を寄せて、誰かは知りませんけど、僕、この人嫌いです、と言うだけだった。
 だから会長は、結論づけた。
 ――古泉はあの青年に関する記憶を、他の記憶と同じように忘れてしまったわけではない。ただ、“思い出したくない”だけなのだ、と。
 何かが、彼を思い出すことを阻んでいる。だがそれが何なのかはわからない。記憶に関しては会長の専門分野ではないし、それ以上のことはそれこそ専門家に任せるべきだろう。帰ったらさっそく、古泉の主治医ともいうべき研究者に相談してみようと、会長は心に決めた。

 店内で騒ぎが起こったのは、その時だった。
食器の割れる音と、椅子がガタンと倒れる音、そして男の怒鳴り声が店内に響く。ざわっと周囲にさわめきが起こった。
「……っざっけんな! 俺は別れねえぞ!」
「ちょっとやめてよ! 迷惑でしょ!」
「うるせえ!」
 別れ話がこじれたのか、と会長はそちらを見て、眉を寄せた。N.Y.にいたころには割とよく遭遇した光景だが、日本ではめずらしい。派手めのシャツを着た男はなだめようとする女の言葉にますます激高して、脚でテーブルを蹴倒した。店の奥から、店長らしき男が駆けつけてくる。
「お客様! 他の方々に迷惑なので……」
「うるせえ! オレに指図すんな!」
 男がポケットから何かを取り出す。それが刃物だということが判明すると、あたりは悲鳴とざわめきで騒然となった。
(まずいな)
 会長は今だに気分の優れなさそうな古泉を抱え、そっと騒ぎを起こした男から距離を取ろうと動いた。が、男のターゲットとなった女がじりじりと後ずさり、やがて踵を返して逃げ出して、あろうことか真っ直ぐに彼らの方に駆け寄ってきたのだ。二人の他はみな女性客ばかりだったから、当然と言えば言える事態だった。
「た、助けてっ!」
 女は会長にすがりつき、その背に隠れようとする。男は会長と古泉の姿を見るとさらに頭に血が昇ったようで、ナイフを振りかざして詰め寄ってきた。
「…………っ!」
 自慢ではないが、会長はインドア派だ。特に武道を習っているわけでもない。とっさに対処できずにいると、男がデタラメに振ったナイフが会長の腕をかすめた。
「痛っ……!」
 シャツが切れて、痛みと共にじわりと鮮血が滲み袖を染める。店内に、さらに悲鳴があがった。
 そのとき、背後から、女のものとは違う叫び声が聞こえた。とたんに身体がぐいと後ろに引き倒され、目の前に立つ背中が視界をふさいだ。背中の主は、ナイフを振り回す男に飛びかかり、たちまり男をねじ伏せて床に押さえつけた。
「古泉……!」
 男にのしかかってナイフを取り上げた古泉の顔は、ひどく青ざめていた。
やがてパトカーのサイレンが近づいて、店内には何人もの警官が駆けつける。彼らが男を連行する間も、古泉はただ呆然と立ちすくんでいた。彼を支える会長の手に、がくがくと身を震わせる感触が伝わってきた。
「――――!」
 自らの両手を見つめ、震える古泉の唇が動く。かすれた声で絞り出すように、何かを叫ぶ。そこから漏れた人の名らしき言葉が誰を示すのか、会長は知っていた。



 そんな事件があってからというもの、古泉の様子があきらかに変わった。
一見したところは、それまでとさして変化のない生活態度だったが、会長は彼の変化をありありと感じ取っていた。
「あれ、会長。休憩ですか?」
 休憩室で煙草を吸っているところに、たまたま古泉がやってきた。顔をあわせるのは、1日ぶりだ。あの事件から1週間。このごろ古泉は、頻繁にラボに押しかけてきたり無理やり休憩につきあわせたりということをまったくしなくなっていたから、そのせいだった。静かで結構なことだと会長は思っていたが、やはり変化の理由は気にかかる。
「コーヒー淹れますけど、飲みますか?」
「ああ、頼む」
 エスプレッソがお好きでしたよね、と言いつつカップを用意する古泉の後ろ姿を、会長は眼を細めて観察する。そういえば、口説かれてるのかと錯覚するような悪ふざけも、まったくしなくなったなと、胸の内でつぶやいた。
「どうぞ」
「ああ、すまんな」
 古泉はにこりと笑って、自分の分のカップを持って会長の向かいに腰を下ろす。そして会長の右腕にまかれた包帯に視線をやって、痛ましげに眉をひそめた。
「ケガの具合はいかがですか?」
「ん? ああ、もうなんともない。もともとかすり傷だからな」
 幸い、縫うほどのケガには至らなかった。あのあとすぐに病院で手当を受け、警察から事情聴取を受けたが、おそらく上層部から連絡がいったのだろう。古泉のことにはほとんど触れられず、通り一遍のことを聞かれただけで解放されたのだ。
 古泉はそっと包帯に手を触れたかと思うと、途端に熱い物を触ったかのようにびくりと手を引っ込めた。
「あなたが無事で、よかった」
「まぁ、お前のおかげだな」
「いいえ……僕は」
 怖くて、身体が動かなくて、と、何度も聞いた告解をまた繰り返そうとする。会長は咥えていた煙草を灰皿に押しつけて、じっと古泉を見つめた。
「古泉」
「はい?」
 美味しくもなさそうな顔でコーヒーをすする古泉が、顔をあげる。浮かない顔の表情の変化を見逃すまいとしながら、会長は口を開いた。
「戻ってるんだろ、本当は。……記憶」
 ぴく、と古泉の肩が揺れた。だが表情にはさして変化がない。
「……なんのことです?」
 そうくるか、と会長は小さくつぶやいた。
「どういうつもりか知らんが、お前はそれでいいんだな?」
「何をおっしゃっているのか、わかりません」
「そうか。ならいい」
 それきり話題を打ち切った会長の前で、古泉は押し黙ったきりカップにも口をつけない。半分以上も残ったまま、カップの中身は冷えていった。
(なんて顔してるんだか)
 テーブルに置いたカップを両手で抱え、古泉はじっと冷えゆく琥珀の液体を見つめている。その顔には、迷子になった子供が強がって必死に泣くのを堪えているような、そんな表情が浮かんでいて、会長は内心でやれやれと溜息をついた。
 古泉が瀕死の重傷を負ったあのとき、駆けつけた会長が見たのは、背中にごついナイフを生やして血まみれで倒れ込んでいる古泉と、その身体を抱きしめてやはり血染めのまま自失している青年……キョンの姿だった。キョン自身も確か、肩と腕にひどいケガを負っていた。てっきり、あの犯人ともみあったときに負った傷だと思っていたが、あれはもしかしたら。
 懐から出した煙草を再び咥え、火をつける。立ち上る紫煙の間から古泉を眺め、会長は小さく毒づいた。
 まったく、めんどくさい。



 その日の深夜。
日付が変わろうとするころ、古泉の私室にめずらしい訪問者があった。
消灯された廊下の暗がりの中、ラフな私服のポケットに手を突っ込んで、その人物は立っていた。
「よう。起きてたか、古泉」
「……会長? めずらしいですね、あなたが」
「まぁ、いいから入れろ」
 開けたドアの前から古泉が身体をずらすと、会長は彼の脇をすりぬけて部屋の中に足を踏み入れた。部屋の真ん中で足をとめ、中をぐるりと見渡す。
「なんだこりゃ。ひでえな」
 古泉の部屋の中は、ひどく散らかっていた。本や雑誌の類がうずたかく積まれてそこここで雪崩を起こし、雑多なガラクタや衣類などが床を埋めていて、足の踏み場もない。かろうじて空いているスペースと言ったら、ベッドの上ぐらいのものだった。
 古泉は拗ねたような声で、しょうがないでしょう、と言った。
「片付けるの、苦手なんですっ」
 実際、古泉はひどく手先が不器用で、それを知っている森などは、彼がケーキ屋でバイトをしていたことを聞いて、驚愕のあまり10秒ほど固まったまま動かなかった。ようやく我を取り戻したときには、寿命が10日縮んだわと大げさにぼやいたものだ。
 会長は部屋の中にある唯一のケモノ道を足で拡げながら進み、道の先にあるベッドに遠慮なく腰を下ろした。
「それで、僕に何かご用ですか?」
「お前は、用がなくたって俺んとこ来てただろうが。ああ、煙草吸っていいか」
「どうぞ。灰皿ないですけど」
 これでいい、と会長は転がっていた小さめのキャンディ缶のフタをはずした。中は空だったが、会長はフタを裏返して、そこを即席の灰皿にするつもりらしかった。
 古泉は所在なげにドアの前に立ったまま、煙草をくゆらす会長を眺めている。他に座る場所がないということもあるが、本当に途方に暮れているように見える。会長はそんな古泉を手招きで呼び寄せ、人差し指で自分の隣に座るよううながした。
 渋々という顔で古泉はそこに腰掛け、だがなるべく距離を取ろうとするように身体を硬くする。フッと煙を吐いてから、会長は口元に笑みを刻んだ。
「……なんだよ。さんざん人を口説いといて、いざとなったら逃げ腰か」
「くど……いていた、わけでは」
 放浪していた2年の間、古泉が他人から宿を得るために何を対価としていたか、会長は聞いていた。古泉自身は、それを相手への奉仕と位置づけていて、たとえば置いてもらうかわりに家事を引き受けるとか仕事を手伝うとか、そういうものとまったく同等のものと定義しているのだということも。歪んでいるな、とは思ったが、口を出すようなことではないとも思っていた。
「お節介だとは思ってるんだけどな。我ながら」
 組んだ膝に肘を置いて顎を支え、会長は顔を正面に向けて古泉から視線をそらした。視界の端で、古泉がこちらを向いたのが見える。
「お前の、記憶の話だ」
「……なんのことかわからないと、言ったはずです」
 硬い口調だった。昼間聞いたときより、さらに頑なな。
「それは本当か? 俺は、お前が記憶は戻っていないと言い張る理由について、ひとつの仮説を持っている。仮説はあくまで仮説だが、検証してみてもいいかな、程度のお節介さは持ち合わせてるんだ。自分でも驚愕の事実だがな」
「言い張っているわけではありません。あなたが言ってるのはおそらく、あの写真の男性についてでしょう? 彼に関する記憶は、たぶん消えてしまったんです。他の、いろんな記憶と同じように。彼のことだけが例外なんてこと、ありえません」
「思い出そうとするたび、頭痛を起こしていたろうが。そういや、あの頭痛はいつからしなくなったんだ?」
 びく、と古泉の肩が揺れる。
「ドクターにいただいた薬が、効いたんだと思います。ただの偏頭痛ですから」
「ほう。今はまったく問題ないのか?」
「はい。おかげさまで」
「なるほど。じゃあ、もうあの青年については、全然気にならないんだな?」
「……僕にとっては、知らない人、ですから」
「そうか」
 会長は溜息をついて、吸いかけの煙草を缶のフタに押しつけて消した。そして、目をあわせようとしない古泉の横顔をじっと見つめる。
 そんな泣きそうな顔で、声で、何を言っているのやら。説得力のないこと夥しいなと、会長は口には出さずにつぶやいた。手のかかる奴だと思う。まったくもってめんどくさい。
 まったく、俺もとんだお節介焼きだぜ、ともう一度心の中でだけぼやいて、頬杖をついた姿勢のまま、器用に肩をすくめた。
「わかった。なら、もういい。お前がそこまで頑なに拒むんなら、俺のお節介はここで終わりだ」
「…………」
 古泉は黙ったきり答えない。しばらくの間、部屋の中には気まずい沈黙が漂った。
「ところでな、古泉?」
 やがて、口調を妙な具合にあらためて、会長が声を発した。眼鏡の向こうの瞳をすっと細め、流し目、としかいいようのない目つきで彼を見る。
「もうひとつ、用事があるんだが……」
「な、なんですか?」
「こないだ言ってたが、上手いんだったよな」
「何がです?」
「キス」
「え」
「その先も試してみないか、とも言ってたな?」
 いきなりとんでもないことを言い出した会長を、古泉は目をしばたたいて凝視する。なんの冗談なんだろう、といぶかる顔だ。
「……一体、どうしたっていうんですか? 男とキスする趣味は、ないんでしょう?」
「別に。ちょっと興味がわいただけだ。まぁ、学術的探求心ってやつだな」
 そう言って会長はベッドの上にあがり、靴を脱いでそのへんに放りだした。あっけにとられる古泉を尻目に、さっさと上着を脱ぎ捨てる。枕を腰に足を投げ出して座った彼は、ほら来いよ、と手招きした。
 古泉はしばらくの間、逡巡するような顔で会長を見ていたが、やがて何かを決意したような顔できゅっと唇を引き結び、自分も靴を脱いでベッドに上がった。
 投げ出された足をまたいで枕に手を付き、覆い被さるような体勢で眼鏡に手をかける。されるがままの会長の顔から眼鏡をはずし、薄く笑みを浮かべる唇に口づけた。
「んぅ……っ」
 熱を持っていないかのように見える唇も、舌で内部に侵入すれば確かに熱い。差し出された舌と舌をからめあい、何度か角度を変えて口づけあってから、唾液の糸をひきつつ離れる。かすかに上気した顔で息を乱しつつ、会長はふうんとつぶやいて唇を舐めた。
「確かに上手いな。合格だ」
「なんですかそれ」
「まぁ、怒るな。さすがにこっち側ははじめてなんだよ、俺も」
 ああ、眼鏡に指紋をつけるなよ、と言われ、古泉は手にしていたそれを慎重にベッドサイドの本の上に置く。眼鏡のない会長の顔はいつもより印象が柔らかくて、若返って見えた。
「とりあえず、明かりは消せ」
「恥ずかしいんですか? 意外ですね」
「ムードが大切だろうが、こういうのは」

(なんというか……)
 生温かい舌が、首筋を這う。ゾク、と身体になんともいえない感覚が走って、会長は身を震わせた。
(なかなかいたたまれないな、受け身ってのは)
 古泉にあまり男臭さがなく中性的なためか、嫌悪感はほとんどない。ただ、身体のいろいろなところを触られたり舐められたりしているとき、どんな顔をしていればいいのか判断に困る。気持ちよくないわけではないが、そういうときの女の反応を参考するわけにはいかんのだろうななどと冷静に考えているあたり、学術的探求心だと説明した理由もまったく嘘ではないと思う。
「ふ……くっ」
 古泉が、慣れた手つきで下着を取り去り、性器に触れてくる。的確に快感を掘り起こすやり方に息を荒げつつ、なるほどな、と会長は頭の隅で分析した。同性なら、どこをどんな風にすればいいのかわかりやすい理屈だ。これが醍醐味なのかもしれん、と納得する。
 自分の手でするのとも女にされるのとも違う感触が、熱を煽る。粘着質の水音とともに、強弱をつけてしごきあげる手管に追い詰められていく。
「ん……っ、ぁあ……」
「…………」
 無意識に、のしかかる身体にしがみつく。ぐり、と先端をいじられて悲鳴をかみ殺したその時――ふいに、古泉の手が止まった。
「……古泉?」
 しがみついていた手を離してみると、古泉は会長の上にのしかかるような姿勢のまま、苦しそうに眉を寄せていた。こんな場面だというのに、なんだか泣き出しそうだと会長は思う。
「……すみません、会長。……できません」
「ふぅん? ここまでしておいて、それか」
「本当に、申し訳ありません。以前の僕なら、きっとあなたを気持ちよくしてさしあげられたのですけど……今はもう」
 汗で張り付いた前髪を手で掻きあげながら、会長は身を起こした。まだ上半身だけが裸の状態で、ベッドの上に正座してうなだれている古泉をじっと見つめ、やがて言葉のあとを継ぐ。
「今はもう、本当に愛する相手しか抱けない、か?」
「…………っ!」
「以前のお前と、今のお前の違いはなんだ。愛する相手ってのが、いるかいないかなんだろう? ……それは誰だ。古泉」
 黙り込んだ古泉の目に、やがて涙がにじんだ。ポロポロと子供のように涙をこぼしてしゃくりあげる彼の頭を、会長はやれやれとつぶやきながら軽く叩いてやる。
「何が気に入らなくて意地張ってんのか知らんが、いいかげんに素直になれ」
「だって……僕は、彼をこの手で……」
 傷つけてしまったんです、と叫ぶ古泉の言葉を聞いて、会長はやっぱりなと心の内でつぶやいた。あの青年が肩と腕に負っていた深い切り傷。あの傷のどちらかが、我を失った古泉によって負わされたものなのだろう。
 変貌した自分が人を傷つけることを、異様に恐れていた古泉。よりによって最も大切な相手を傷つけてしまった恐怖が、記憶を取り戻すことを阻んでいたのだ。そして、あのケーキ屋で受けたショックですべてを思い出した後も、認めることを頑なに拒んでいた。
 しょうがないやつだ、と会長は溜息をつく。
「まったくお前は馬鹿だな。救いようがない」
「……知ってます」
「記憶力じゃないぞ。想像力の方だ」
 泣きはらした赤い目で、古泉が顔を上げる。会長は毛布を腰まで引き上げてから煙草を咥え、火を付けて腕を組んだ。
「身体の傷なんて、治療すれば治る。お前だってもう、身体のどこにも傷なんてないだろうが。問題なのは心の傷の方だ。お前は知らんだろうが、今時、外科より心療内科の方が儲けてるくらいだぞ」
「でも……」
「あの男が、お前にケガさせられたって恨みに思っているというのか? それと、お前があの男とのことをなかったことにしていつまでも戻らないのと、どっちがより深い傷になる確率が高いと思うんだ」
 古泉は困ったような顔で黙り込んだ。
「よく考えろ。数学じゃない、国語の問題だ。まぁ、俺は国語は嫌いだったがな」
 答えが幾通りもあるってのはめんどくさくてたまらん、と、会長は眉をしかめて煙を吐き出す。ケホ、と咳き込みながら吹きかけられた白煙をあおいで、古泉は赤い眼のままようやく少し笑った。
「せっかくのいい場面が台無しじゃないですか……あなたって人は、もう」
「国語が得意だったら、俺は今ここにはいない」
「まぁ、そうでしょうけど」
 あまり納得していない口調で言って、古泉は自分の右手を見つめた。
あのとき、彼を傷つけたその手。記憶と共に、そのときの感覚までがよみがえって、それは古泉をひどく苦しめていたのだけれど。
「戻って、いいんでしょうか……僕は」
「知らん」
 会長の返答は素っ気ない。慰めようという気は、あまりないらしい。
「彼は、僕を許してくれるでしょうか……」
「知らん」
「僕はこのまま彼のところに……」
「知らん」
 カケラも同情する気を見せない会長の返事に、下を向いていた古泉がついにキレた。
「もう! なんだってあなたはそう、冷たいんですか!」
「ここまでしてやった俺のどこが冷たいというんだ。馬鹿者」
 心外だな、と会長は言う。さらに、俺にしては破格のお節介だぞとぼやくと、古泉は拗ねた声で言い返してきた。
「知ってますよ、あなたが本当は優しい人だってことは。素直にそれを出す性格じゃないってこともね。そのあたり、彼によく似てます」
「惚れても無駄だぞ。俺は男は趣味じゃない」
「惚れませんよ! 彼の方が、さらに何十倍も優しいし格好いいですからっ!」
「いきなりノロケか! まったくお前は趣味が悪いな」
「彼のよさがわからないなんて、あなたの趣味の方を疑います!」
「だったらさっさとあの男のとこに戻れよ、うっとおしい!」
「言われなくても、戻りますよっ!」
 売り言葉に買い言葉の勢いで言ってしまったらしい古泉が、はっと口を押さえる。
そのままほんのりと頬を赤らめながら、横目でジロリとにらみ付けてくる。やられた、とその顔は言っていたが、同時に憑きものが落ちたようにも見えた。
 ニヤ、と質のよくない笑みを向けてやったら、古泉は肩を落として溜息をついた。
「……あなたにはかないませんよ。会長」
「まぁ、勝つ気なら百年は早いな」
 ホントに意地悪ですよね、とこぼしつつ、古泉はふと窓の方へ視線を向ける。
ガラスに映った自分の顔をみつめながら、やがて彼はポツリと、僕、帰りますと言った。
「彼は、きっと待っていてくれてるはずだから。……だいぶ、待たせてしまいましたけどね」
 その言葉を聞いて、会長は安堵の溜息を煙草の煙にまぎらせてついた。なんとかなったな、と天井を見上げて煙の行方を目で追う。
(やれやれ。めんどうかけやがって……あやうく自分の許容範囲の可能性に気づくとこだったぞ)
 本当にめんどくさい、と、彼は短くなった煙草を即席灰皿に押しつけた。

「それはそうと会長」
「なんだ?」
 突然、くるっと首をめぐらせて、古泉が再び会長の方を向いた。怪訝な顔にかまいもせず、再び覆い被さるようににじりよってくる。
「先ほどは、途中で放りだしてしまってすみません。つらいですよね」
「あ? いや、別に平気だが」
「そう言わずに。抱くのは無理ですが、抜いて差し上げることくらいはできますから」
 さっきまで泣いていたくせに、古泉はやけに楽しそうな笑顔を見せた。なにか含むところのありそうなその様子に、本能が危険信号をキャッチする。あわてて逃げようと後さじると、腕をガシリとつかまれた。
「い、いやいい。遠慮しておく、ってこらやめろ!」
「大丈夫ですよ。僕、上手いですからっ」
「こらどこを触っ、やめろおい、俺は本当にそっちの趣味は、っ馬鹿触るなうわ!」
「まぁまぁ、そう遠慮なさらず」
「触るなとこらこいず、やめっ……!」
 口ではともかく腕力ではとうてい古泉にかなわない会長が、その後どんな目にあったかは、本人と古泉のみが知る事実である。



 研究所の人々に行ってきます、と告げて、古泉は彼と暮らした懐かしいアパートへと帰ってきた。髪を揺らす爽やかな風の中、木漏れ日がキラキラとこぼれ落ちる。彼と離ればなれになって、すでに3ヶ月がたとうとする今、季節はもう初夏になろうとしていた。
 古泉はアパートの階段の下から2段目に腰掛けて、あのときと同じように膝を抱えて彼を待つ。彼との再会のとき、言うべき第一声はもう決めていた。
 やがて、遠くから見覚えのある人影が近づいてくる。
どんなに遠目でも、顔どころか性別すら判別できない距離でも、古泉がその人物を見間違えるわけがない。すぐにでも駆け寄りたい衝動をこらえ、いったん立ち止まった人影が、はじかれたように駆け出すのを待ち受けた。
 近づいてくる、なつかしい面影。会いたくて会いたくて、どうしようもなかった愛しい人が、もうすぐここにくる。やっとこの手で、抱きしめられる。
 彼がここに来たら、まず抱きしめて、そして傷つけてしまったことを謝ろう。それからキスをして、たくさん愛を囁こう。好きですと、愛してますと、気の済むまでくりかえし。彼はあのとき言いかけた言葉を、今度はちゃんと聞かせてくれるだろうか?
 息をはずませて、彼が古泉の目の前に立ち止まる。変わらないその姿に、そのまなざしに安堵しながら、古泉は座ったまま彼を見上げ、にっこりと微笑んでこう言った。

「――僕を、拾ってもらえませんか?」


                                                    END
(2010.07.03 up)
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というわけで、ぬるすぎる古×会でした。
本来の2人とはちょっと違う関係性を書くのが楽しかったです。お人好しすぎるよ会長(笑)
古泉が途中でやめなかったらどうしたんでしょうね。
意外と、まぁいいか興味深かった、で終わらせてしまいそうな気もします。←

そのうち、その後の古泉とキョンも書いてみたいものです。