I Love you からはじめよう。
01
「僕を拾ってもらえませんか?」

 そう言って俺を見上げているのは、もちろん犬でも猫でもなかった。
雪がうっすら積もりはじめた地べたに膝を抱えて座り込み、色素の薄そうなサラリと柔らかそうな髪にも、グレイの薄っぺらなセーター1枚に包まれて震えている肩にも、靴どころか靴下すら履いていない足にも雪を積もらせて、それでもそいつは笑っていた。
 年齢は、たぶん俺と同じくらい。
 にっこりと無邪気に笑うその顔は、赤黒く変色した血を唇の端にこびりつかせ、頬にも目元にも痛ましげなアザを浮かせながらも、どこのモデルか俳優っかてくらい端正に整っている。中性的と言えることは言えるが、まぁ、どこをどう見ても男には違いない。
「玄関先でも、キッチンの隅っこでも、どこでもいいんです。寝る場所だけ、くださいませんか。ご恩返しも、しますから」
 そんなことを言われてもな。
 普通に道を歩いてるだけでも、いきなり見知らぬ奴に刺されたりする現代日本だ。得体の知れない、胡散臭さ無限大の人物にそんな非常識なお願いをされて、ほいほい聞く奴がどこの世界にいるというのか。そんなのはよっぽどのお人好しか、考え無しの馬鹿か、もしくは何もかもどうでもよくなってる自暴自棄な自殺志願者だけだろうよ。

「……わかった。拾ってやるから、来い」

 淡々とそう言って、俺はアパートの部屋へと向かう途中だった足を再び動かした。
 言っておくが、俺はお人好しでも、馬鹿でもないからな。



 その日、俺の世界は終焉を迎えたばかりだった。
 俺には、大学生になってから2年、順調に付き合いを続けていた彼女がいた。入学早々、サークルの新歓コンパで知り合って、なんとなく始まった付き合いだったが、なかなか気があってそのままなんとなく付き合いが続いた。
 俺はそれほど恋愛にのめりこむタイプではないので、彼女に夢中というわけでもなかったけれど、同じサークルに所属して、デートを重ねて、キスやそれ以上のこともして、だんだん愛情もわいてきた。ちゃんと彼女を大切にしてきたつもりだった。このまま大学を卒業して就職が決まったら、結婚するなんてこともあるんじゃないか、なんて考える程度にはな。
 でも、彼女にとっては違ったらしい。今日、俺は彼女に喫茶店に呼び出され、お別れしましょう、と切り出されたのだ。訳がわからなかった。どうして、とつぶやくと彼女は、ほかにすきなひとができたの、と答えた。
「どうして」
 馬鹿みたいに繰り返したら、彼女は、ごめんなさいと答えた。いや、それは答えじゃない。
あなたは優しいけど、ほかの誰にも優しくて、私は自分があなたの特別だと思えない。私は、一番じゃなくちゃ嫌なの。誰より愛されてなくちゃ嫌なの。だから私は、私を一番だって言ってくれる人のところに行くの。ごめんなさい。
「バイバイ。いままでありがとう、キョンくん」
 そう言って去っていく彼女の行く先に待っていたのは、俺の高校時代からの友達で、親友だと思っていた奴だった。
 そうして俺は、恋人と親友を同時に失ったのだ。
世界ってのは、案外簡単に終わっちまうもんなんだな。

 それからどれだけの時間、そこでボンヤリしていたのか。
閉店です、と言われて喫茶店を追い出され、店外に出ると雪が降っていた。もう三月だってのに、道理で寒いわけだ。
 春の雪は儚くて、落ちる側からアスファルトに吸い込まれて消えてゆく。それでも植え込みやポストの上や、置き去りにされた自転車のサドルの上にうっすらと積もりはじめている雪を眺めて、踏んだり蹴ったりっていうのはこのことか、なんてのんきに思った。
 結局、俺は傘を買う気にもならず、そのままとぼとぼと歩き始めた。どこへ行こうと考えたわけではないが、足はいつのまにか、ひとり暮らしの自分のアパートへと向かっていた。たぶんこれが、帰巣本能ってやつなんだろうな。
 アパートが近づいて人通りも少なくなってきた頃、俺の頭はようやく動き始めた。でもそれは、このまままっすぐ家に帰っていいんだろうか、という漠然とした思考だった。
 こんな空虚な、何もかもどうでもいいような気分で、誰もいないひとりぼっちの部屋に帰って大丈夫だろうか。メシなんて食いたいと思う気持ちはカケラもわかず、たぶん横になってもろくに寝られやしない。何をする気にもならない。もしかしたら俺は、そのまま一人でひっそりと死んじまうんじゃないだろうか。誰にも知られないままで。
「……まぁ、いいか。それでも」
 もう、それすらもどうでもいい。
 田舎から都会に出てきた大学生、アパートで孤独死、なんて、別にいまどきめずらしくもないニュースじゃないか。両親は泣くかもしれんが、まぁ、親孝行は妹にまかせよう。
 そんな思考をだらだらと巡らしながらたどり着いたアパートの階段の下で、妙なものを見つけた。階段の、下から2段目に腰を下ろし、膝を抱えて裸足のままで、顔を伏せている若い男。上着すら着ていないその肩にも髪にも雪が降り積もり、いかにも寒そうだ。
 そこを上らないと自分の部屋に行けないこともあり、俺はそいつに声をかけた。
「おい。そこをどけ」
 まさか死んでるんじゃないだろうな、と思ったが、そいつは俺の声に反応して顔をあげた。
ドキ、と心臓がはねあがったのは、そいつがやけに綺麗な顔をしていたからじゃなく、その顔がまるで理不尽な暴力にあったかのように、アザだらけだったからだ。よく見ると髪もくしゃくしゃで、着ている服もどことなく撚れている。
「なんだお前……カツアゲにでもあったのか」
 顔をしかめてそう聞くと、そいつは思いがけない表情になった。
俺にむかってにっこりと無邪気な笑顔を見せ、そして言ったのだ。
 ――僕を拾ってもらえませんか? と。



「とりあえず、風呂にはいれ。冷え切ってるだろ、そんな薄着で」
「え、あの」
「服はとりあえず、俺のを貸してやる。……ちょっとお前の方がでかそうだが、まぁ我慢しろ」
 部屋に入るなり風呂の用意をして、とまどった顔をしているそいつを風呂場に追い立てた。あんなガタガタ震えられてちゃ、こっちが落ち着かない。とにかくあっためて着替えさせて、話はそれからだ。そういや、メシは食うんだろうかと思い立って、俺は冷蔵庫を開けてみた。
 俺の部屋は、まぁ一般的な単身者向けアパートだ。
ワンルーム、ユニットバス付きで、少々古いかわりにほんのちょっと広め。ベッドを置くと狭くなると思ったが、どうせ万年床になるに決まってるんだから同じでしょと母親に言われ、そりゃそうだと納得したのでパイプベッドが部屋の隅に置いてある。あとあるものと言ったら、ノートPCの載ったローテーブルとビニール製のクローゼット、教科書やら雑誌類が詰まったカラーボックス、その上に載った先輩のお下がりの古いテレビくらいのものだ。彼女はあまりこの部屋にはこなかったから、部屋の中に彼女を思い出すようなものはあまりない。こうなってしまった今となっては、それはありがたいことだった。
 冷蔵庫から昨夜の残りの肉じゃがを出してレンジに突っ込もうとしたとき、ふと思った。
なんだ俺、メシなんてとても食う気分じゃないと思ってたのに、なんでこんな甲斐甲斐しくメシの支度なんてしようとしてんだ?
 あなたは、誰にでも優しいから、という彼女の言葉がまた、脳裏によみがえった。
冗談じゃない。俺はそんなお人好しじゃない。ただ……ただ、そうだな。ひとり暮らしが寂しい奴は、猫を拾って飼ったりするじゃないか。それと同じだ。たぶん。飼うかどうかはともかくとして、拾った以上は、責任もって面倒を見てやるべきだろう?
「あの……」
 背後から声をかけられて振り返ると、俺のスエットを着たそいつが所在なげに立っていた。さっきまで真っ白だった肌に赤みが差している。アザは痛そうだったが、傷はひどいものではなさそうでよかった。せっかくの綺麗な顔に、傷が残るのはもったいないからな。
「腹は?」
「え、なんですか」
「腹減ってないのかって聞いてる」
「あ、すいて……ます。ごめんなさい」
「? 何、謝ってんだ」
「いえ、あの」
 困ったような顔をしているそいつに、あっち座ってろとテーブルを指さす。素直にそれに従うそいつを見送ってから、俺はあっためた肉じゃがと冷凍してあった白飯と、家から送られてきた救援物資の中に入ってたニシンの缶詰を開けて出してやった。足りないかもしれんが、ありあわせだとこんなものしかない。
「ほら、食え」
 なんとなく、ぽかんとしていたそいつが……ああ、忘れてた。
「お前、名前は?」
 顔をあげて、そいつは目をしばたたく。
「名前だよ。あるんだろ?」
「あ、はい。えっと、古泉です。古泉、一樹」
 こいずみ、か。俺も名前を教えたが、まぁ、本名を呼ぶ奴はあんまりいないからな。
「キョンでいい。みんなそう呼ぶから」
「は、い。あの……」
「食えって。腹減ってんだろ?」
 いただきます、と古泉は言って、箸をとった。俺も、さっきまではとても食えないと思ってたが、目の前で食ってる奴がいると食欲が出てくるもんだな。自分の分の箸を持ってきて、相伴することにした。
 古泉は一生懸命、箸でじゃがいもをつかもうとしているが、何度もすべらせ取り落として、なかなか口まで運べないでいる。……ヘタクソだな。箸の使い方というか、根本的に持ち方が間違ってる。
「ああ、もう!」
 見ていられなくて俺が立ち上がると、古泉はびくっと身をすくませた。
「ご、ごめんなさ……」
「待ってろ」
 洗い物が入れてあるカゴからフォークとスプーンを取ってきて、渡してやる。行儀がいいとは言えんがまぁ、家の中だしかまわんだろう。これで食え、と言うと古泉は不思議そうな顔で俺とフォークを見比べてから、おそるおそる受け取って、フォークを使って肉じゃがを食べ始めた。
「うまいか?」
「はい! 僕これ、初めて食べました」
「肉じゃがを?」
「にくじゃがって言うんですか……おいしいです」
 肉じゃがなんてめずらしい料理でもないのにな? 変わったやつだ、と思ったが、うまそうに食ってるので追求しないことにした。まぁ、世の中には肉じゃがを作らない家庭だってあるだろうさ。
 その時点で、俺は古泉の素性とか、どうしてあんなところにいたのかとか、傷はなんでできたのかとかを聞き出す気はなかった。だって、大の男があんな状態でいる事態なんて、ろくでもない事情に決まってる。深入りはしないほうが利口だろう。俺はごく普通の一般市民で、普通の枠からはみ出す気なんて一切ないんだ。普通が一番という持論は、俺のアイデンティティとも言える座右の銘なのだ。
 それにたぶん古泉だって、言う気はないんだと思う。いかにも訳アリっぽいし。もしかしたら、明日の朝目を覚ましたら、置き手紙を置いていなくなってるってことだって、充分ありえる。よくあるだろう、そういうの。映画とか小説とかに。



 だから俺は、貸してやった毛布にくるまってベッドの下に寝ていた古泉が、真夜中にむくりと起き上がったとき、ああ、出て行くのかって思ったんだ。
 いいよ。そのスエットはくれてやるし、上着の1枚くらいなら持っていってもかまわん。あいにく金はほとんどないが、必要なら俺の財布に入ってるやつを抜いていけばいい。ああ、カードは置いていってくれよ。仕送りがまだ残ってるんだ。
 お前のおかげで、失恋のショックで部屋に引きこもってのたれ死ぬ事態だけは避けられたから、その礼ってことでいいからさ。
 あばよ、古泉。なんて心の中でつぶやきつつ、寝たふりを決め込んでいたら、想像に反して、古泉はそのまま膝で歩いて俺のベッドに近づいてきたようだった。ぎしっ、とパイプベッドがきしむ。古泉がベッドの上に膝をついて乗り上げてきたせいだ。……な、なんだ!?
「ちょ、古泉? なんだよ?」
「あ、起きました?」
 何事かと、壁の方を向いていた身体を半転させて仰向けになると、目の前に古泉の顔があった。俺の両腕をはさみこむような形でベッドに両手をつき、上からのぞき込んでいる。
 なんだか……なんだか、非常に身の危険を感じる体勢だぞ。いろんな意味で!
「何してんだお前……というか、何をする気だ?」
 すると古泉は、にこっと、笑顔を見せた。まるで邪気を感じさせない、本気で悪気のない微笑みだった。
「えっと、拾っていただいた上に、お風呂とかごはんとかいろいろくださったので……ご恩返しをしようと思いまして」
「は?」
「あなたは何もしなくていいです。僕が、全部しますから」
 な、何を?
「だいじょうぶ。ちゃんと気持ちよくします」
「な……っ! 冗談はよせ! 意味がわからないし笑えない!」
 まぁまぁ、と笑う古泉は、やたらと力が強かった。押しのけようとした腕をつかまれたら、もうふりほどけない。いくら暴れても、やすやすとねじ伏せられる。片手で両腕を頭上にまとめて押さえつけられ、もう片方の手であごをつかまれて、古泉の顔が近づいてくる。
 冷たい感触の唇に自分のそれをふさがれた瞬間、俺の頭に浮かんだのは、しまった騙された、という言葉だった。

                                                    NEXT
(2010.04.22 up)

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中二設定満載のパラレル話。
うちにしては少々異色な古泉ですが、よろしくです。

「彼女」と「親友」は、原作キャラの誰と言うこともないです。