クロスロード
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 そういえば、彼の様子は数日前からおかしかった。

 2日前に僕の部屋で過ごしたとき、軽食を作る僕の背中をじっと見ていたかと思ったら、もう出来上がるにもかかわらずいきなりシャワーを浴びに行ったり、2回ほど終わったあとにいきなり僕のシャツをめくって、じっと腹の辺りを凝視していたり。
何ですかと聞いたら、なんでもないと答えてから、とったつけたように肌白いな、焼けない体質かなどと聞いてくる。
 そのあとはやっぱりいつものようにすぐに帰ってしまったが、間違えて僕の靴を履いていった。
まぁ、サイズが違うのですぐに気付いて、戻ってはきたのだけれど。
 そして今日、SOS団の活動拠点となっている文芸部の部室に行くと、彼は長テーブルの上に突っ伏していた。
「こんにちわ……あれ? どうされたんですか?」
 眠っているのかと思えばそうではなく、ただ向こうに顔を向けてテーブルに頭を乗せているだけだ。声をかけても反応はない。
「知らないわよ。授業中もずっと窓の外眺めてぼけーっとしてたし、深夜映画でも見て夜更かししたんじゃない?」
 涼宮さんは、何をしておられるのか熱心にパソコンの画面に見入りながら、そう解説してくれた。
お茶を持ってきてくれた朝比奈さんにお礼を言うと、彼女はトレイを胸元に抱え、心配そうにキョンくん病気なんでしょうかとつぶやく。
「彼はさっきまで、ずっと湯飲みをみつめていた」
 部屋の隅で、長門さんがふいに本から顔をあげて言った。自分から会話にくわわってくるなんて、めずらしい。
「5分34秒前にいきなり、そうか、と言って直後にその姿勢になった。その後、動いていない」
「長門ー。いらん解説はしなくていいぞー」
 彼が突っ伏したままそういうと長門さんは口をつぐみ、ユニーク、と一言つぶやいて、ふたたび本に目を落とす。
僕はお茶を一口飲んでから、いつも通りの笑顔を作って彼に話しかけた。
「具合が悪いのでなければ、どうですか、一局」
「……いや」
 ようやく身体を起こし、彼がこちらに顔を向けて僕を見た。
 わけもなく、ドキリと心臓が鳴る。
「ハルヒ」
 フイ、と目をそらして、彼は涼宮さんに話しかけた。
「頭痛がするんだ。今日は帰っていいか?」
 涼宮さんはモニタから視線をはずし、彼をじっと見つめてから腕を組んでため息をついた。
「しょうがないわね。仮病だったら許可しないとこだけど、なんかホントに具合悪そうだからいいわ。早く帰って寝ときなさい」
「ああ、悪い」
 そのまま彼はカバンを持って立ち上がり、僕の方には目も向けずに帰っていった。
後を追いたかったけれど、長門さんはまだ本を閉じず、したがって涼宮さんは活動を終えるつもりはないらしい。
立場上、彼女を置いていくわけにはいかない僕は、なんとなく落ち着かない思いを胸に抱えたまま雑誌を広げ、読むふりをし続けた。



 それから3日間、彼はSOS団の団室に姿を見せなかった。
 当然、我らが団長はおかんむりだ。
「なんなのキョンったら、無断欠席なんていい度胸じゃない! こうなったらもうただじゃすまさないわよ。今度出てきたら、全員を10回笑わすまで一発ギャグの刑だからね!」
「まぁまぁ。何か事情があるのかもしれませんし、一応理由を聞いてからにしませんか?」
 などと涼宮さんをなだめながら、僕は内心焦燥を感じていた。この様子では彼は、教室でもろくに涼宮さんと話をしていないようだ。
彼女の中に、イライラがたまってきているのがわかる。このまま放置することはできない。
「生半可な理由じゃ許さないわ! キョンなんか平団員のくせに、生意気よっ!」
「わかりました。僕が理由を聞いてきましょう。彼の自宅に行ってみますので、早退の許可をいただけますか?」
 明日は這いずってでも団活に出るよう伝えてきなさい! という団長命令を拝領して、僕は一足先に帰途につき、彼の家に寄り道した。
応対に出てくれた彼の妹さんは、僕の顔をみるとバタバタと階上へ上がっていった。キョンく〜ん、古泉くん来たよー! という声が聞こえてくる。
入れ替わるように玄関先に出てきた彼の母君にうながされ、僕は靴を脱いで家の中へと上がらせてもらった。
「こんにちわ」
 彼の部屋に足を踏み入れ、ベッドに腰掛けている彼ににっこりと笑いかける。
眠っていたわけではないらしいが、まるで寝起きのように不機嫌な顔で、彼はああ、とうなずいた。
「お加減が悪いというわけでは、なさそうですね?」
「まぁな」
「それはよかった。――ですが、そろそろ涼宮さんの怒りが心頭に達しそうですよ。団長殿が完全にご機嫌を損ねられる前に、団の方に顔を出してはもらえませんか」
 そこで彼は、一瞬黙り込んだ。怒っているのとも違う、微妙な表情だった。無理に感情を押し殺しているような、そんな顔。
「わかってるよ。あんまりイライラさせると、閉鎖空間ができちまう、ってんだろ」
「話が早くて、助かります」
 わざとすました顔で、そう答える。
 さすがに彼ももう、涼宮さんが閉鎖空間を生み出す原因の一端が、自分の言動にもあるということを理解してはいる。
だが未だに彼はそれを認めたくないようだ。
 そこで母上がコーヒーを持ってきてくださったので、いったん話は途切れた。
興味津々の妹さんにしばらく部屋に入らないようにと告げて、彼は僕に座るようにとうながした。
「わざわざそんなことを言いに来たのか。ご苦労なこったな」
「いえいえ。これも業務の一環ですから」
 そうかい、という言葉はため息のようだった。彼は顔も上げずに、ただ飲みかけのコーヒーを見つめている。ここに来て以来、まだ彼とは一度も目があっていない。
「よろしければ、理由をお聞かせ願えますか」
 そう尋ねてみても、彼は黙ったまま。僕は少し首をかしげて、言葉を継いだ。
「ご家族から、早く帰ってきて欲しいとの要望でも?」
「別に」
「では、どうしても見たいテレビ番組でもありましたか?」
「特にない」
「何かアルバイトを始めたというわけでも、ないですよね?」
「いいや」
「それでは」
 僕はもう一度、いつもと同じに見えるよう、そつのない笑顔を顔に貼り付けた。

「――僕に会いたくない、と、そういうことですね」

「……!」
 やっと、彼が顔をあげた。目を見開いて、じっとこちらを見つめている。
 この春から、涼宮さんがそう望んだのか、特進クラスの僕と上級生の朝比奈さん鶴屋さん以外の友人たちが、すべて5組に勢ぞろいした。
彼が朝比奈さんに含むところがあるとは思えない以上、学校ではなく団室に来たくないということは、つまりそういうことなのだろう。
「こいず……」
「わかってます。あなたは優しいですね」
 口元に微笑を貼り付けたまま、彼の言葉をさえぎるように続ける。
「最近、僕の部屋にいらっしゃるとき、よく何か言いたそうな顔をされていましたよね。そろそろ、こんな関係はやめたいと思っていたのでしょう? 僕がショックを受けると思って、なかなか言い出せずにいたんですよね。気を使わせてしまって、申し訳ありません」
「な……」
 彼が立ち上がった拍子に、マグカップが床に落ちた。まだたっぷり入っていた中身が、フローリングの床にぶちまけられる。
「……早く拭いた方が、いいですよ?」
「いい。そんなことよりなんで」
「なんでわかったのかと聞きますか? そりゃあ、ことのはじめからあなたの本意ではなかったことですからね。僕が強引に引き込んで、あなたの優しさにつけこんで、ずるずると続けさせてきたんですから、そう長くは続くはずないと最初から覚悟していましたよ」
 側にあったティッシュを何枚か取り、床にこぼれた液体の上に広げた。じわじわと、白い紙が琥珀色に染められてゆく。その様子から目が離せない。
 来ることをずっと恐れていた、執行日。死刑執行官の訪れを待つことに疲れて、自ら裁きの間を訪れた。
「……僕が遠因で涼宮さんの機嫌がおだやかならざる様相を見せるのであれば、本末転倒というものです。もう二度とお誘いはしませんので、どうかあなたは涼宮さんと、いままでのように友好な関係を保ってください。お願いします」
 そう言って、頭を下げる。
 本当は団をやめることにしたいが、機関の一員としての任務がある以上そうもいかない。明日からはまた、彼とはただの友人に戻ろう。
彼が僕の部屋に足を踏み入れることは、おそらく二度とない。そうするうちに、彼と涼宮さんがうまくいってくれればいい。
 これでいいはずだ。すべて、思惑通り。すっぱりと振ってもらえて、ありがたい。
「では、僕はこれで」
「待てと言ってる! 話を……」 
 追いかけてくる彼の声に背を向け、ドアへと急ぐ。おためごかしも言い訳も、今は聞きたくなかった。
いつも通りの笑顔の仮面を、かぶっていられる自信がない。
 振り切るようにドアに手をかけた、そのとき――。

 ふいに、あの感覚が襲ってきた。
 ぞわりと全身が総毛立つような、あの。
 一拍おくれて入る、携帯メールの着信。
「古泉?」
 僕の様子に気付いたらしい彼が、不審そうに問いかける。
「……閉鎖空間が発生したようです」
 ついに、涼宮さんのイライラが頂点に達したらしい。ひさびさのことだ。
メールを見るまでもなく、頭の中に閉鎖空間の規模と進入経路がすうっと浮かび上がる。
「すぐに行かなければなりません。失礼します」
「待て、古泉!」
 彼の手が、僕の腕をつかんでいた。唇を引き結んで、その目が鋭く僕をにらみつけている。
「……俺も行く。連れて行け」



 彼の手をひいて、閉鎖空間への侵入を果たす。
 不吉な灰色に染まった世界は、いつ見ても不思議な静寂に包まれている。
止まったままの自動車たちを避けて、僕は彼を安全なビルの屋上へと導いた。
「ここからなら、神人も見えるでしょう。むやみに動かないでくださいね」
 ふと見ると、いつの間にか前方に、ボンヤリと青く発光する巨人がいた。
目とも口ともつかない光源をちかちかと瞬かせながら、腕を振り回してビルや鉄塔を破壊する。
赤い発光体に見える同志たちが、神人のまわりを飛び交い始めた。
「では僕も、いってまいります」
 力を解放する。プラズマとともに光り出した赤い燐光をまとって、中空に舞い上がる。彼は声もなく、それを見上げていた。
 自分の数十倍もの大きさを持つ神人=B無差別に腕をふりかざし、泣き叫ぶように破壊する。
それが明確な敵意をぶつけてくることはないけれど、まるでまとわりつく蚊やハエを追うように振り回される腕に巻き込まれれば、無事ではすまない。
「古泉、上空が薄い。そちらにまわれ!」
「了解です」
 機関≠フ戦闘部隊にも指揮系統はある。下っ端の僕はもちろん、隊長の指示にしたがう一兵卒だ。
指示通り上空に旋回し眼下で暴れる神人を見たとき、ふと忍び寄るのは、しばらくぶりの感覚だった。
3年前、まだ中学生だったころ。戦いに否応なく借り出され、恐怖に震えながら戦っていたあのころには、よく考えていたこと。

 このまま、何も考えずに突っ込んでいったら、死ねるだろうか。
 一瞬で、なにもかも終わらせることが出来るのだろうか。
 もうどうでもいい。
 全部、壊れてしまえばいい。

 ――古泉!

 ふと、彼の声が聞こえた気がした。
「古泉! 何をボサッとしている! しっかりしろ!」
 怒鳴りつける隊長の声に、はっと我に返ったとき、目前に青い巨体がせまっていた。あやういところで振り回された腕をかわし、降ってきた瓦礫を避ける。
自分のまとう赤い燐光が強く発光して、フレアのように吹き上がった。直後に、同志たちの手によって神人は腕と足を切断され、悲しげな声をあげて崩れ落ちていった。
 神人が消えると同時に、同志たちも散っていく。僕もそのまま、彼が待っているビルの屋上へと戻る。
今回ばかりは自分のせいで生まれた閉鎖空間だと自覚があるんだろう。責任を感じて見に来たに違いないから、彼もさぞほっとしていることと思う。
「おまたせしました……」
 屋上のコンクリの上に、ふわりと着地する。燐光が消えて顔をあげると、彼がずかずかとこちらに近づいてきた……と思ったら。
「この……バカ野郎が!」
 いきなり殴られた。
「え……っ?」
「お前、今、途中で投げようとしやがったろ。攻撃も逃げるのもやめて! 何考えてやがる!」
 殴られた頬を押さえ、僕は目をしばたたかせる。きっと呆けた顔をしていただろう。
「って……、よく僕がわかりましたね? ここからでは、全員赤い発光体にしか見えないはずじゃ」
「あ? そういやなんでわかったんだろうな。……まあ、わかったもんはわかったんだよ。そんなことよりお前」
 ガシっと、彼の手が僕の肩をつかむ。その顔が、なんだか今にも泣きそうにゆがんだ。
言いたいことがたくさんあるのに、言葉にできないもどかしさがその表情から伝わってくる。
 彼はやがて、震えるようなため息をついた。
「――もういい。認めることにする。……お前のこと、ほっとけない」
 彼はそう言うとのびあがって、唇を重ねてきた。
 その瞬間、灰色だった空にヒビが入り、そこから光がもれてきた。
神人の消滅にともない、閉鎖空間が崩壊したのだ……なんてことを認識したのは、ずいぶんあとになってからだった。
 そのときの僕には、一体何が起こったのか、さっぱりわかっていなかったのだ。



 幸いというべきか、通常空間に戻っても、遊具すらないデパートの屋上に人影はなかった。
 重ねていた唇を離したあと、彼は怒ったように僕に背を向けて、金網に手をかけた。ガシャンと音を立て、意味もなく金網を蹴飛ばしている。
何がどうなったのかよくわからなくて僕が黙っていると、彼は少しだけ振り返った。
「……なんか言え」
 その声に、僕はやっと我に帰る。
「え……と。今のはどういう……?」
「そのまんまの意味だろ、バカ」
「そのまんま……というと」
 要領を得ない問答に切れたのか、彼がくるりと身体ごとこちらを振り返った。
「お前のいつぞやの告白に答えたんだろうがっ! いつもの察しのよさはどこに行ったって? 出張中か? それとも実家に里帰りか。ああそうかい、もっとはっきり言わないとわからんのか。俺もお前が好きだって認めるって言ったんだよ、わかったかこのバカ!」
 やっと、彼の言った言葉の意味が頭の中で形をなす。と同時に僕は、力がぬけてその場に座り込んでしまった。彼があわてて飛んでくる。
「古泉! やっぱどこかケガでもしてんのか」
「いえ……ちょっとびっくりして」
 ヒザをついて僕の顔をのぞきこみ、彼は眉をすがめる。
「自分のことにはホント鈍いな、お前は。しかも思考が後ろ向きすぎだ」
「すみません。でもまさかあなたがそんな……」
「ああ……まぁ、今回は俺も悪かったよ」
 彼はそう言って、頭をかいた。そしてまた視線をそらす。
「ずっとさ、不公平だなと思ってたんだ。言いたかったのは、それだ」
「は?」
「いや、その……してるときにさ、俺ばっかり気持ちよくて……お前に何もしてやらなかったろ。悪いとは思ってたんだが、俺にはやりかたもよくわからんしな。言い出すのも恥ずかしくて、挙動不審になってたのは認める」
 な……何を言い出すんだろう、この人は。
「せめて早く処理させてやろうと思って、終わったらさっさと部屋を出てたんだが……そのくらいのことしか出来なくて、すまなかった」
「はぁ……」 
 あまりにピントのずれた彼の気の使い方に、さらに脱力する。てっきり、後ろめたさにいたたまれないんだとばかり……。
僕がずっと悩んでいたのは、なんだったんだろう一体。
「それでな。ここ数日ずっと、なんて言い出せばいいのか、行動に移したところで俺になんとか出来るものなのかとかいろいろと考えてて、3日前にはたと気が付いたんだ」
 3日前、というと、彼が団活動を早退していったあの日だろう。

「なんか俺、悩むところ違ってないか、ってさ」

 ここからが本番だと言うように、彼がこちらを向いて、じっと見つめてくる。真剣な瞳に、夕暮れの光が反射していた。
気が付けばあたりはオレンジ色に染まっている。
「さっきお前も言ってたけど、普通は、付き合ってもいないしましてや男同士で、そんなことしてるってことに悩むもんだろう? だけど俺は、そっちはあんまり気になってないってことに、そのとき気付いた。それで、俺はもしかして気がつかなっただけで、女子より男の方が好きな人種だったのかと思って、他の……たとえば谷口とかで想像してみた」
 そこで彼はひょいと肩をすくめた。
「まぁ、普通にキモかった……というか、それ通り越して笑えてきたぐらいでな。じゃあなんでお前だと平気だし、しかも何かしてやりたいなんて思うんだろうって考えたときに……ああそうかって思ったんだ。――古泉、お前だからなんだ……ってさ」
 彼の声が、僕の名を呼んだ。なにか、大切なもののことを口にするときのように。
「そしたら、直後にお前が団室に入ってきて話しかけてくるから、そっからもう恥ずかしくて顔も見られなくなっちまって」
 つまりそれが、3日間の欠席理由らしい。
僕の顔が見たくなかった、という推測は正しかったにせよ、理由はむしろ正反対だった……ということなのだろうか?
 彼はそこまで言うと、コンクリートの上に座り込んであぐらをかいた。
「だけど、俺がそんなことでぐるぐるしてるうちに、お前ってヤツはいきなりわけのわからん理由をつけて、明後日の方向にバック走で全力疾走していっちまうし」
「バ、バック走ですか……」
「そうだろう? 関係をやめたがってるとか、気を使ってるとか勝手に納得して、あげくに勝手に死にそうになりやがる。だからもう、これはほっといたらヤバイんだろうなと思ったわけだ。というか、またこんなことがあったら俺の心臓がもたん。そういうわけで俺は、お前を堂々と守れる立場に移行することにした。以上、証明終わり。Q.E.Dだ」
 正直なところ、途中から彼の言葉はあまり耳に入っていなかった。色々な思考が頭の中でとりとめもなく渦巻いて、はちきれそうだ。
「おい、聞いてるか古泉。お……いっ!」
 衝動のままに、彼を抱きしめる。勢いあまって僕は背中を壁にぶつけ、彼はつんのめって僕の腕の中に倒れこんだ。
バカ離せ、と暴れる身体を抱く手に、逃がすまいと力をこめる。
「古泉、こら離せって! 痛いから!」
「……嫌です。離しません」
「何言ってんだよ! ……わかったから。俺は逃げないから……泣くなよ」
「泣いてませんよ」
 そんな顔で何言ってやがる、とつぶやいて、彼は僕の腕の中でおとなしくなった。
 腕の中のぬくもり。早くなる鼓動。頭の中ではつい、これは本当に現実なんだろうか、と考えてしまう。もしかしたら、今この瞬間に目が覚めて、ああ夢だったのかと絶望するんじゃないか、なんて思ってしまう。
――そうか。こういうところが、後ろ向き思考だってことか。
「古泉……?」
 ずっと黙ったままの僕をいぶかって、彼が見上げてくる。僕は彼の髪に顔をうずめて、ささやくように言った。
「あの……」
「うん?」
「キスして、いいですか……?」
 すると彼は、一瞬驚いた顔をして僕を見つめた。その口元がやがて苦笑の形にほころぶ。
「そういや俺たち、さんざん不道徳なことやっといて、キスはさっきのやつがはじめてだな」
「一応、遠慮してたんですよ。唇へのキスは、恋人にするものだと思ってますから。……ええもう、好きなだけ笑ってくださって結構です」
 意外とロマンチストだと大笑いする彼に、憮然と答える。
本当は彼が階段から落ちて意識不明だったとき、ほんの少しだけ反則してしまったことがあるのだけど、それは黙っておこう。うん。
「そうか、わかった。それなら、もう堂々としていいってことだな」
 その言葉にドキッと心臓をはねあがらせた僕に気付かず、彼が笑いながら僕の頬に手を伸ばしてくる。
僕はその手を握って、目を閉じた彼の唇にそっと唇を重ねた。
 これがきっとはじめての、恋人としてのキス。
激しく高鳴る鼓動は一向におさまらない。人間、幸せすぎても死ねるのかもしれないなんてバカみたいなことが、頭の中をかすめる。
そして圧倒的な幸福感の中に混じり込む、かすかな苦み。

 たぶん今、この瞬間に、僕はこの世界を敵にまわしたのだろう。
エゴを手放せなかったばかりに、現実世界をかろうじてつなぎ止めているロープに、傷をつけた。
あとどれだけの間このロープがもつのかは、誰にもわからない。それでも。
 ただ重ねるだけのキスを数回くりかえしてから、僕は彼を抱く手にもう一度ぎゅっと力をこめた。……もう1度ちゃんと、言葉にして伝えておきたい。
「――あなたが、好きです。大好きです。もう二度と離しません……離せません」
 笑みを含んだ彼の声が、小さく答えてくれた。
「ああ……それでいいよ」


                                                   END
(2009.10.17 up)

ようやく! 晴れて両思いです。
な、長かった……。そして果てしなくグダグダだった……。

とりあえず、直後のお話に続きます。
もうこうなったら、やることやっとかないと!