YOU〜消失・閑話〜sideB
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 おい、と呼びかけた声に、学ランを着た男子生徒が振り向く。
 俺に向けられたその瞳には、まったくなんの感情もこもっていなかった。無関心、というものを絵に描いたら、こんな感じになるのだろう。
 光陽園学園でやっとみつけた、髪の長いままの不機嫌面のハルヒ。こいつの鋭い目つきときつい口調は、ある意味予想の範囲内だった。
確か、入学当初はこんな態度だったよな、なんてなつかしささえ憶えたくらいだ。
だけど、その隣から向けられた視線に……俺はいい知れないショックを受けた。
 そのへんにたっている電信柱やポストを見るのと、まるで変わらない表情。思えば、古泉のこんな顔を見るのははじめてだ。
やつは初対面のときから如才なく微笑んで俺に握手を求めてきたし、最初からずっと俺に好奇とも好意ともつかないまなざしを向けてきたから。
 長門の変化を目の当たりにし、朝比奈さんに怯えられ、鶴屋さんに怒られ、ハルヒのこんな態度を予想しておきながら、俺はなぜか古泉だけは変わっていないような気でいた。
俺のことを知っているとは思わなかったけれど……なんとなく、柔和な笑顔で接してくるこいつの姿以外は、想像がつかなかったというか。
 黒い学ラン姿の古泉は、北高のブレザーよりも少しだけ幼く見えて印象がだいぶ違う。
いや、制服の違いだけではなく、あの年中無休の0円スマイルがないせいで、まるで別人みたいだ。
俺はあいつの、すべてあきらめきったようなニコニコ笑顔は嫌いだが、だからと言ってこんな目で見られたいわけじゃない。
「……お前とも、初めましてになるのか」
 眉をしかめた俺の問いに、古泉はしれっと答える。
「そのようですね。どちら様でしたでしょうか?」
 どちら様、と来たか。
 普段はうさんくさいとしか思っていなかった敬語が、果てしなく冷たく、よそよそしく聞こえる。お前のこんな声を聞くのも、はじめてだな。
 ぐらり、と視界が歪んだ。



――ふと目を開けると、そこは病室だった。
 “機関”が用意した病院の一室だ。俺はどうやら、3日間の昏睡からようやく目覚めた……ということになっているらしい。夕方頃、目を覚ましたときに枕元にいて、アホみたいにリンゴをむき続けていた古泉が、そう説明してくれた。
『……おや、やっとお目覚めですか』
 オレンジに染まる病室で意識を取り戻し、ボンヤリとしていた俺の耳に届いた声。
 おそるおそる声の方へ首を振り向けた俺の目に飛び込んできたのは、北高の紺のブレザーを着て、いつものように微笑みをたたえた古泉の顔だった。
 そのときの安堵感は、ちょっと言葉じゃ表せそうにもない。ああ、俺の古泉だ……と心の中でつぶやいた気がする。

 考えてみりゃ、俺のってなんだよ。アホか。

 古泉はそのあと、3日前に俺に何が起こったかを教えてくれながら、やっぱりアホみたいにリンゴを剥き続けていた。長く長くつながる皮を眺めながら、何気なく皮剥くのうまいなと言ったら、古泉は妙な笑顔で、3日間の練習の成果です、と言った。
『なんだそりゃ。ずっとリンゴ剥いてたのかよ』
『ええ……まぁ』
 そのときの顔は、なんというか……あ、泣く、と一瞬思った。泣かなかったが。

「やれやれ……」
 小さくつぶやいてごろりと寝返りをうつ。それにしても、ウトウトするたびあっちの世界の夢を見るな。正直、もう勘弁して欲しい。
 と、カチャという音をたてて、病室のドアがあいた。
家族もハルヒたちも帰ったし、最後にやってきた長門も来たときと同じように音もたてずに病室から姿を消したはずだから、おそらく看護師の見回りだろう。俺はあわてて目を瞑り、寝たふりをした。
 だが、薄目をあけて見た侵入者は、いつも見慣れた顔だった。……古泉のやつ、なんでパジャマなんだ? 入院でもしてんのか。しかも北高のブレザーを上着代わりにはおっている。
 なんとなく寝たふりを続けていると、やつは足音を忍ばせて俺の枕元までやってきて、顔をのぞきこんできた。やばい、バレる。別にバレてまずいわけでもないが、気まずいので寝返りのフリをして顔をそむける。
 古泉は小さくため息をついて、俺の足下に腰を下ろした。なにしてんだこいつ。

 古泉と朝比奈さんには、ハルヒが席をはずしたすきに、ちょっとだけ今回のことを話してある。
くわしい説明は、ハルヒがすぐに戻ってきちまったんでできなかったけどな。
 そっとのばしてきた手が、俺の髪に触れるか触れないかのあたりで戸惑うように止まった。なんだかこそばゆい。
 ほんとになにしてんだよ、お前。



 そのまま、何分ぐらいが経過したんだろうか。
 古泉は結局触れることはせずに手を引っ込めて、一言も口をきかずにじっと俺を見つめている。
見えるわけじゃないが、なんというか視線が痛い。耐えきれなくなって、俺は寝返って上を向くと、ぱちりと目をあけた。俺をのぞき込んでいた古泉の目と、真っ正面で見つめ合う。
「……なんだ」
「起きて……らしたんですか?」
「今起きたんだ」
 そういうことにしておこう。それにしても、なんでこんな時間にお前がここにいるんだ。しかもそんな格好で。
「いやぁ、お恥ずかしいです。ちょっと気がゆるんで、倒れてしまいました。まぁ、ただの脱水症状なんで、念のために検査入院しただけです。機関の方で、いい機会だから健康診断していけと言われまして」
 古泉ははにかんだような笑顔で、肩をすくめてみせた。
「脱水症状だ?」
「はは。いえ……ちょっと食べ物が喉を通らなかっただけなんですけどね。たいしたことじゃないです」
「たいしたことないって、どれくらいの間だ」
「ほんの……3日ほどですよ」
 思わず、飛び起きた。3日って……俺が意識不明だった間、何も食べてないってことか。
「身体が受け付けなかったんです。点滴して栄養剤打ったので、もう大丈夫ですから」
「そんなことを、笑顔で言ってんな! バカかお前は!」
 そこで俺ははっと気がついた。俺が意識不明で心配していたのは、古泉だけじゃない。
家族はもちろん、朝比奈さんもたぶん長門も……そしてハルヒも。
「もしかして、閉鎖空間も発生してたな?」
「あー……ええ、まぁ」
「……っ!」
「でも今回は、涼宮さんはイライラというより不安でユラユラという感じだったので、神人もあまり暴れてはいなくて――」
 たいしてかわんねえよ!
 こいつはメシも食えず、恐らく眠ることもできず、そんな状態であそこに神人退治にいってたのか……。ホントに、バカじゃねえかこいつ。
「……古泉」
「はい?」
 俺は打ちのめされた気分で、シーツを両手で握りしめた。
「もしかして、お前はあのままの方がよかったか……?」
 あの世界でのお前は、正真正銘、ただの高校生だった。
 進学校に通い、学校一の美少女に恋したりする普通の高校生。
 得体の知れない“機関”に属して、自由なふるまいすら許されない超能力者なんかじゃない。
 生活を捨て、自分を捨て、希望を捨て、未来をも捨てて、灰色の空間で恐怖に震えながら化け物と戦ったりしなくてもいい。
 古泉。もしかしたらお前は、あの改変世界の方が幸せだったんじゃないか? 俺のエゴで、世界はまた書き換えられてしまったけれど。
「すまん、古泉。俺は……」
「いいんですよ。僕だって今のこの世界が、けっこう気に入っているんです。あなたと同じように、僕はSOS団の活動を楽しんでいますしね」
 本当にそう思っているのか、いつも通りの仮面のような笑顔からはうかがい知れない。
涼宮ハルヒという一人の女の機嫌に振り回されて、命さえも脅かされておきながら、お前は本当にそれでいいというのか。俺が選んじまったこんな世界で、お前は何を得られるっていうんだ。
 ふと、暗闇の中に見える古泉の張り付いた笑みに、さっきの夢にも登場したあいつの笑顔がかさなった。
 そして、そいつがはっきりと言ったセリフも。

『僕は……そうですね。僕は、涼宮さんが好きなんですよ』

 あの世界は長門が創造した世界だったけれど、人の気持ちまであいつが作ったとは思えない。
なら、あっちの古泉が持っていた気持ちを、こっちの古泉が持っていてもおかしくないんじゃないか?
 そうか。もしかして、そうなのか。
 だから、こんなになっても、お前は笑って命を差し出せるのか。
 ……なんか、ますます苦しくなってきたな。なんでだ。



 俺がそのまま黙っていると、古泉はさて、とつぶやいた。
「それでは僕は、自分の部屋に戻ります。明日は涼宮さんが朝イチで来るそうなので、寝坊しないであげてくださいね」
 本当に何をしに来たんだか、古泉はそう言ってベッドから降りた。そのまま羽織ったブレザーの肩を引き上げ、踵を返そうとする。去ってくその背中に向けて、俺は思わず口走っていた。

「お前、ハルヒが好きなのか?」

 瞬間、古泉が動きを止めた。息を飲んだのがわかる。
 ああ……やっぱりそうなのか。
「なぜ……そんなことを?」
「あっちの世界のお前が、言ったんだ。ハルヒが好きだってな」
 もしそうなら、俺はお前にどんな顔をしてやればいいのかわからない。今のところ俺の中のハルヒへの気持ちは、たぶん恋愛感情ではないと思うが……世界を壊さないために、俺とハルヒを結びつけようとするのは、つらい任務だよな。
 そんな同情めいたことを言うのも気が引けて、俺は黙って古泉を見た。
 古泉の瞳は、ひどく傷ついた色をしていた。俺は自分の失敗を悟った。……言うんじゃなかった。気がつかないふりをしていてやるべきだった。
「……すまん」
 あっちの世界の古泉が俺に向けていた、冷たい瞳が思い出される。
 自分の好きな女を馴れ馴れしく呼び捨てし、妙に親しげにふるまう見知らぬ男に向ける視線。嫉妬の視線。憎しみの視線。
 そうか。俺は古泉に、同じような感情を向けられていてもおかしくないじゃないか。
あいつがあの笑顔の下に隠しているのは、もしかしたらその類の感情だったのかもしれない。
 そう思いついたら、なぜだか酷く胸がしめつけられた。なんでだ。……そりゃ、少しは友達だと思ってたからな。それが実は憎まれていたかもしれないなんてことになれば、嫌な気分にもなるさ。
「すまなかった……俺が言っていいことじゃなかったな。何もかも、俺が悪い。お前は俺を恨んでもいい立場だ」
 古泉がこちらへ向き直った。もしかしたらお前、俺に恨み言のひとつもいいに来たのか? 
俺はこっちの世界を選んだことを後悔はしていないが、お前になら恨み言のひとつやふたつ、なんだったらパンチのいくつかをもらったってかまわないぞ。
 ああ、出来ればちょっと手加減してくれると嬉しい。けっこう鍛えてるんだろ、お前。
「どうして、そんなことを言うんです……」
「お前にはそうする権利がある、と思うからだ」
 古泉は下を向いた。ぎゅっと握った拳が震えている。
「俺を殴ってお前の気が少しは晴れるんなら俺は」
「出来ません……」
 そうだな。いきなり言われても困るだろう。だけどな。
「ハルヒのことは、俺がどうこう出来ることじゃないんだ。わかるだろ?」
「出来ません……!」
「古泉。お前がハルヒを好きだっていうのは……」

「……違う! 涼宮さんじゃありません、あなたです!」

 は?
 俺が、なんだって?
「だから! あなたなんです! あちらの世界の僕が何を言ったかなんて知りません。知りませんが、僕が好きなのは涼宮さんじゃなくて……っ!」
 あなたです、ともう一度言って、古泉は言葉をとぎらせた。
 そのまましばらく、沈黙が続いた。俺は混乱する頭の中を整理して、古泉の言葉を分析する。好きって、あれか? その、恋愛的な意味で?

 下をむいたまま、唇を噛んで身を震わせていた古泉が、やがて、ふう、と溜息をついて肩を落とした。ふせていた顔を上げると浮かんでいたのは、いつもよりちょっとだけ困ったような笑顔だった。
「……言っちゃいましたね。一生、言うつもりはなかったんですが。すみません」
「えっと……それは、マジなのか。冗談とかじゃなく?」
「マジです。この上なく。ああでも……」
 憑きものが落ちたようなさっぱりした顔で、古泉はまた笑う。
「返答は、いりません。忘れてくださってもけっこうです。……そうですね。伝えられるうちに伝えられて、よかったかもしれません」
 伝えられるうちにって、お前それは……。
「いつ、あの空間から帰ってこられなくなるか、わかりませんしね」
 なんでもないような顔で、俺が大嫌いなあのいつもの仮面みたいな笑顔でさらりとそう言って、古泉は今度こそ部屋を出て行こうと踵を返した。
「まぁ、あまり気にしなくていいです。あなたはいままで通りでいてくだされば。――それでは、おやすみなさい」
「ちょ……待て、古泉!」
 そのまま話も聞かず、振り返ろうともせずに部屋から出ようとする古泉を追いかけて、あわててベッドから降りる。だが3日間使っていなかった体機能は思ったより萎えていたらしい。床に足をついて踏みしめたとたん、がくりとヒザが砕けた。
「うわ……っ!」
「あ……!」
 派手に転んだ俺のもとに、古泉があわてて戻ってくる。抱き起こして大丈夫ですかと聞く古泉に、俺は顔をしかめてヒザを打っただけだと答えた。
「念のため看護師さんを……」
「だいじょぶだって」
 俺はそのまま、古泉を逃がさないようがっちりと腕をつかんだ。びくりと、古泉の身体が震えた。
「……離してください」
 さっきまで張り付いてた、仮面の笑顔がはがれ落ちる。たぶん必死で取り繕っていたのだろう。くずれかけた半端な笑いだけが、残っていた。
「逃げるなよ」
「……」
「お前ってやつは、いつも俺の話を聞かないんだな。本当は俺にどうして欲しいんだ」
 古泉は下を向いたまま、俺と目をあわせようとしない。
「……あなたは、涼宮さんと幸せになってくれればいいんですよ」
 絞り出すような声で、古泉は言った。
「お互い、憎からず思っていることは、端から見ていてもわかります。あなたにとっても涼宮さんにとっても……世界にとっても、それが一番正しいことです」
 俺の気持ちは無視なのかよ。ハルヒのことは嫌いじゃないが、そう勝手に決められても困る。あいつだって、俺にそんな気持ちを持ってるとは思えんし。

 大体、古泉。お前だって、それじゃ、同じじゃないか。
 好きな相手がハルヒじゃなくて俺になっただけで、お前がつらいのは変わらない。
しかもその場合お前は……一体、誰を恨めばいいんだ。ハルヒか。
「涼宮さんを、恨んではいませんよ。彼女があんな力を持ったのは、彼女のせいじゃない。あなたが鍵であることも、涼宮さんのせいではありません」
 彼女はただ、恋をしただけ。僕と同じです。
 そう言って古泉は、唇だけで笑う。
「僕は、誰も……何も恨んでいません」
 イライラする。なぜだかはわからない。今までも、こいつを見ているときに時折わきあがっていた苛立ちが、加速してふくれあがる。
「ふざけんな!」
 さらに強く、腕をつかむ手に力をこめる。さすがに痛いのか、古泉の顔が歪んだ。
「ハルヒが俺に恋してるとかいう妄言は、とりあえず置いておく。だがな、少なくともお前が、学ラン着た普通の高校生になりそこねたのは俺のエゴのせいだ。俺が、こっちの世界を選んじまったせいなんだ。だからお前は、俺を恨んでもいいんだよ!」
「痛……っ」
 激昂するうちに、さらに力がこもったらしい。古泉がもらした声にはっと我に返って、俺はあわてて手を離した。パジャマの袖をめくってみると、くっきりと手の痕がついていた。
「す、すまん」
「いえ……」
 古泉は呆然とつぶやきながら、その痕をさすった。痛むからというより、大切なものを愛おしむようにゆっくりと。
「あなたを恨むなんて、できませんよ」
 そのまま腕をさすりつつ、古泉はぽつりとつぶやいた。
「むしろ、お礼を言いたいくらいです。こちらの世界を選んでくれたことを」
「普通の高校生活より、こんな過酷な毎日の方がいいってのか。マゾかお前」
 けっこう痛いであろう手の痕を、なんだか嬉しそうにじっと見てるしな。
「……そうかもしれませんね」
 肯定すんな。



「だったらお前、もうちょっとわがままになってみろ」
 頭をかきながら、俺は溜息まじりにそう言った。いつも通りというか、俺の中の激昂や苛立ちは、すみやかに終息している。我ながらなんという切り替えの早さだ。
「したいこととか欲しいものとか、なんかあるだろ。俺のエゴを恨めないっていうんなら、自分のエゴも主張しろ。悟りひらいてんじゃねえよ。俺たちはまだ高校生なんだぜ?」
「……そういうことでしたら、僕はあなたが欲しいと主張することになりますが?」
 う、それは……ちょっと。
「それについては……保留にさせてくれ。俺の脳の処理能力がおっつかない」
 くす、と古泉がかすかな笑い声をたてた。
「そうですか。なら、待ちましょう」
 ふと、古泉の瞳がゆれた。やつは何度か目をしばたたいてから、溜息をついた。
「わがままに、ですか。助言はありがたく受け取っておきましょう。――でも、なかなかそういうわけにもいきませんね」
「古泉……?」
「3年間……こうやって生きてきましたから、いまさら変えられないんです。……この、偽りだったはずの性格設定を、もう元に戻せないようにね」

 機関の能力者たちの中で、涼宮ハルヒと同年代なのは自分だけだったのだと、古泉は言った。
 いずれ接触する日がくるという前提で、ハルヒ好みの性格と立ち居振る舞いの訓練を受けた。
当時、古泉は中学生になったばかり。自意識が強くなる過渡期だった少年は、無理に鋳型にはめ込まれ、その型どおりに成長した。
「もう僕は、生まれ持った性格がどうだったか、思い出せないんですよ……」
 昔の知り合いに会ったら、僕だとはわかってもらえないかもしれませんね。
そうつぶやいて、古泉は俺がつけた手の痕に自分の手を重ね、ぎゅっと握りこんだ。まるで、そうすることで別の部分の痛みをごまかそうとするように、目を閉じる。
 俺はそんな古泉をじっと見つめてから、やがてその手にそっと触れた。
「思い出せないんなら、もうこのお前がお前なんだろうさ」

 古泉が目をあけて俺を見る。
「いくら訓練したって、魂の形までねじ曲げられるわけじゃない。どんな性格だって、お前は、きっとお前のままだ。……今からだって、いくらでも変われるさ」
 しばらくの間、古泉は何も言わなかった。唇が震えたけれど、出てきたのは泣き声ではなくて、小さな溜息だった。
「酷いですね、あなたは」
「は?」
 なんでだよ。
 古泉の顔には、自然な笑みが戻っていた。微苦笑っていうのが、一番近そうな表情だ。
「あきらめたいと思っているし、そうしなくちゃいけないのに、側にいると……どんどん好きにさせられてしまう。本当に酷い人だ」
 そんなこと言われてもな。答えられずに俺が黙っていると、古泉はちょっと考える仕草をして、また笑った。
「そうですね……。ではあなたの忠告にしたがって、ちょっとだけわがままを通させていただいていいでしょうか」
「えっ?……あ、ああ」
 なんとなく、流れでやばいような気はした。が、ここで拒否するのも悪くて思わずうなずくと、わぁやっぱり!
 羽織っていたブレザーをベッドに置き、古泉がすっと近づいてきた。と思ったら、俺はあっと言う間にやつの腕の中に抱きしめられていたのだ。
「ちょ、古泉! そういうのは保留だっていったろうが!」
「だから、わがままですよ、僕の。大丈夫です、何もしませんから」
 してんじゃねえか!
 思わず抵抗しようとしたが、やつの抱き方がなんというか……すがりつくような感じだったから、俺はとまどってしまって動きを止めた。ぎゅっと古泉の手に力が入る。
「おや……抵抗ナシなんですか?」
「茶化すな。ナースコールするぞ」
 男に抱きつかれてじっとしてるなんて、俺的大サービスだ。おとなしくしてろ。
 心臓の音が、やけに大きく聞こえる。少し肌寒い12月の夜気の中で、古泉の体温が伝わる場所だけがあたたかい。
 どうしてだろうな。俺はそっちの気はまったくないと思うんだが、今は別に気持ち悪くもなんともない。……たぶん、寒いからだな。うん。



「あちらの世界の僕ですが……」
「うん?」
 ふいに何かを思い出したように、古泉がつぶやいた。不本意ながら、その声は俺の頭上から降ってくる。ヤツの方が背が高いんだからしかたない。
「その世界は、長門さんが創ったものなんですよね?」
 そう言ってたな。長門本人が。
「なんだか僕、長門さんにすごいライバル認定されてませんか?」
「はぁ?」
「だって、わざわざ9組を消失させて光陽園を共学にして、そこに放り込まれたんでしょう?朝比奈さんや鶴屋さんはそのまま北高にいたのに。
しかも涼宮さんを好きになっていたりと、ある意味、涼宮さんより念入りに、あなたから引き離されてません?」
 何を言ってるんだお前は。さっぱり意味がわからんぞ。
「そうですか。……まぁいいでしょう」
 やがて古泉は俺の身体を離して、満足したように微笑んだ。
「ありがとうございました。なんだか今夜は、いい夢が見られそうです」
 そうかい、よかったな。
 古泉はなんとなくすっきりした顔で、そろそろ病室に戻りますと言った。
 廊下に続くドアを開け、そっと身体を隙間に滑り込ませる。そして最後に俺に向かって、ささやくような小声を届ける。
「待ってますから……ぜひ、早めに振ってくださいね」
「お前なぁ……」
 振られること前提なのか。後ろ向きだな。
 俺がそう言う前に、にっこりと、いつも通りの笑顔が古泉の顔にひらめいた。
「おやすみなさい……」
 そして扉が閉まり、人の気配が消える。古泉はおとなしく自分の病室に戻っていったようだった。やれやれ……寝るか。



 ああ、しまった。もう1度、あいつのちゃんとした笑顔をしっかり見ておくんだったな。
 たぶん寝たらまた、あの夢を見る。消失したあの世界の。
 どういうわけなんだか、繰り返し見るのはいつでも学ランを着たあの古泉が出てくる場面ばかりなんだ。
 冷たい視線とか、とげとげしい口調とか、あと……ハルヒが好きだと言うところとか。よっぽどショックだったのか、俺。
 ……まぁこの件に関しては、あまり追求したくない。しない方がいいな、たぶん。




                                                   END
(2009.10.09 up)

sideAの続き。
どうにも書きたいことがまとまらなくて、ぐだぐだです。
映画見て思うところがあったら、改訂するかもしれません。

「俺の古泉」はあれです。原作の。
正確には「俺は俺のハルヒと古泉と長門と朝比奈さんを取り戻す」でしたっけ? なんで古泉が2番目なのかと。