YOU〜消失・閑話〜sideA
00
 夕日がゆっくりと、病室をオレンジに染める。
 白いベッドの上には、目を閉じて横たわったままの少年。左腕から伸びるチューブの先では、点滴が音もなく彼の命をつないでいた。
布団のかけられた胸が、規則正しく上下して、耳を澄ませばかすかに寝息が聞こえる。
“機関”が用意した病院の個室で、身体のどこにも異常はないのに、彼……キョンと呼ばれる少年はただ眠り続ける。
 それまで彼を看ていた長門さんと交代してから、僕はずっとベッドの枕元の椅子に座り、
目を閉じて穏やかな寝息をたてている彼の顔をみつめ続けていた。
顔色はあまりよくないけれど、苦しそうな様子ではない。

 あの時。彼が部室棟の階段から転げ落ち、頭を打った瞬間を見た。
ガツッ! という恐ろしい音がして、そのまま動かなくなった彼を見たとき、全身の血が下がるのを感じた。
血が凍る、というのはあの感覚をいうのだろう、きっと。
 即座に反応できなかった自分より早く、冷静な長門さんが僕の胸ポケットから携帯を勝手に取りだして救急車を呼んだ。
血の気の失せた涼宮さんに気づき、取り乱した朝比奈さんが彼を呼び続ける声が耳に入ってきたときに、ようやく僕は我を取り戻した。
「朝比奈さん、ゆすってはいけません。頭を打っていますから」
「でもっ、キョンくんがぁ……」
「落ち着いてください」
 そう言って彼女の肩にかけた自分の手が、細かく震えていることに気づいて、すぐに引っ込める。
食い入るように彼を見つめたまま、ピクリとも動かない涼宮さんをちらりと見てから、僕は踵を返した。
「ここにいてください。誰か呼んできます……!」
 近くにいた教師に急を告げ、すぐにやってきた救急隊員を誘導し、救急車にみんなで同乗して病院に付き添い、診察を待つ間に彼の自宅と機関に連絡を入れ……という一連の行動をしている間の記憶は、実はほとんどない。
どうやらほぼ無意識に、身体を動かしていたらしかった。
 実感がともなってきたのは、処置室のランプを心細げに見つめる女性陣の横顔を見たときだ。
きっと大丈夫ですよとみんなに微笑んで見せ、彼の家族を入り口で出迎えてくるからと言い訳してその場を離れてから、こっそりトイレにこもって胃液を吐いた。

 それから3日。彼はまだ、目覚めない。
 彼のベッドの向こう側では、床に置いた寝袋の中で我らが団長が眠っている。彼女はこの3日、ずっと病室に泊り込んでいた。
口では色々言っていたが、つまり彼が心配でたまらなくて離れていたくないのだろう。
そんな涼宮さんのいじらしさは微笑ましく思うけれど……心の片隅に刺さるトゲのような思いが、どうしても消し去れない。

 ――涼宮さん。これは、あなたが望んだことでは、ないですよね?

 まさか、と思う。
 でももしかしたら、とも思う。
 だって、眠り続ける彼は、このままなら他の誰のものにもならない。
 自分のものにならないなら、いっそ誰のものにもなって欲しくないのではと思ってしまうのは、自分が歪んでいるからだろうか。
「何を考えてるんだか……」
 ふとため息をついて、僕は来る途中で買ってきたリンゴを袋から取り出した。
床頭台の引き出しから、誰かが持ってきたらしい果物ナイフを取り上げて、鞘から刀身を抜く。
病室に差し込むオレンジの夕日を受けて、薄い刃が生々しい光を反射した。
 眠り続ける彼の寝顔と、ナイフを交互に見比べる。
 ふと椅子から立ち上がり、彼の顔を上から覗き込む。かすかな寝息をたてるその寝顔は、どこかあどけない。
ナイフを左手に持ったまま、右手で彼のあたたかな首筋をたどった。動脈が生きている証を刻んで、規則正しく脈打っていた。

 ――自分のものにならないなら、いっそ……か。

 少しだけ開いた口唇から、浅い寝息がもれている。赤みのない口唇は、なんだか作り物のようだ。
 僕はそのまま顔を近づけて、彼の口唇に自分のそれをほんの少し、触れさせた。鳥がついばむよりも軽く、ただかすめるだけのキス。
もちろん王子でもない僕のキスで、彼が目覚めることなどない。それよりも。

 ――もし今、涼宮さんが目を覚ましたら、どうなるんでしょうね?

 朝比奈さんと彼がじゃれあっているところを見たとき、この世界を捨てて新しい世界を創りはじめた涼宮ハルヒ。
もし今の光景を彼女が見たら、何が起こるだろう。
また新世界の構築? それとも、僕だけが跡形もなく……それこそきれいさっぱり、存在がこの世界から消え去るのだろうか。
 だけど結局、彼女が目を覚ますことはなかった。僕は肩をすくめて、再び椅子に座りなおす。
ナイフを右手に持ち替え、意味もなくリンゴの皮をむき始める。どうせ食べるわけではない。あのときから、食べ物は何も喉を通らない。
シャリシャリ……という音が、静かな病室に響き始めた。



 ――涼宮さん。幼く、未熟で、残酷で、なおさらに魅力的な、我らの神。

 僕はあなたのために、あらゆるものを捨てました。
 過去も、現在も、未来も、自己も、望みも。そしてきっといつか、命をも。
 あなたのことは、嫌いではありません。初めの内こそ憎んでいましたし、恨んでいましたが、
SOS団に入り身近に接するようになって、あなたが優しくて聡明な、ごく普通の少女だと知り、憎む気持ちはなくなりました。
神のごとき力を持ってしまったのは、あなたのせいじゃない。普通の学生生活を知らなかった僕に、
かりそめとは言え楽しい毎日をくださったことは、感謝しています。
それは、すべてを捨てた僕への、あなたからのプレゼントなのかもしれませんね。

 でも……すみません。
 そんなあなたの慈悲にも報いず、僕にはひとつだけできないことがあります。

 僕は、あなたのために死ぬことはできません。

 僕が死ぬのは、彼のため。
 彼のいる、この世界を守るため。
 あらゆることを捨てたけれど、この気持ちだけは捨てられないのです。
 皮肉にもそれが、あなたに対する最大の裏切りなのだとは知っていますが。
 ……いいえ、安心してください。
 裏切りを形にすることは、決してありません。
僕は心の内だけに、この捨てられない気持ちを隠して、あなたに残るすべてを捧げます。

 だから、もしも今、彼を閉じ込めているのがあなたならば。
 彼を返してください。
 この世界に。
 僕が守る、この世界に。
 どうか。



 リンゴの薄黄色の身が、半分ほど姿を現したころだろうか。僕はふと、何かの気配を感じて顔をあげた。
ドキリと心臓が脈打つ。ベッドの上で、彼が目をあけて、ボンヤリと天井を眺めていた。
 ――ああ、返してくれた。
 とっさに思ったのは、そんな言葉だった。
「……おや」
 自分の声は、いつもどおり冷静だろうか? 無様に震えてはいないだろうか? 
「やっとお目覚めですか。ずいぶん深い眠りだったようですね」
 一瞬の動揺がおさまったあとの口調には、我ながらあからさまな安堵が滲み出している。
彼はゆっくりと枕の上で首をねじまげ、視線をこちらに向けた。どうしていいかわからなくて、僕は馬鹿みたいにリンゴの皮をむき続けた。
「お早うございますと言うべきでしょうか。夕方ですけど」
 無意識にナイフを動かしつつ、結局いつも通りの穏やかな微笑を浮かべた。ボンヤリしていた彼の瞳が、やっと僕を認識する。
そしてなぜか僕の全身を上から下まで眺め回したあと、気のせいか彼の表情がほっとしたようにゆるんだ。
 お前か、古泉。いたんだな。そんな彼の声が聞こえた気がして、ふいに泣きそうになった。
ちょうどリンゴの皮がむき終わったので、あわててそれを皿にのせて床頭台のテーブルに置き、紙袋から2個めをとりだしにっこり笑ってごまかした。

 本当は、力一杯抱きしめたい。
 無事でよかったと、戻ってきてくれて嬉しいと、叫びたい。
 でも……すぐ側に、彼女がいる。眠ってはいるけれど、万一にも彼女に動揺をあたえるような行為はできない。
だから僕は冷静に、古泉一樹らしく言葉を継ぐ。そして。
「目を覚ましていただいて助かりました。本当に……どうしようかと思っていたのですよ」

 とりあえず今は、彼を返してくれてありがとう、とお礼を言おうと思う。
 本当は誰に言えばいいのかは、わからないけれど。



                                                   END
(2009.10.09 up)

だが犯人は長門。

原作でキョンが目覚めた直後、そんな場合じゃないのに、リンゴをひたすら剥き続ける古泉が可愛くて書いたもの。
可愛すぎる。