LOST〜エンドレスエイト・閑話〜
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 夏休みも、残すところあと2週間。
「はい、古泉です……プールですか? 今日これから?」
 電話の向こうから、はじけるように元気な涼宮ハルヒの声。
「10時ですね、了解しました。……はい、自転車ですか。ええ、いいですよ」
 ――やれやれ。涼宮さんは今日もすこぶる上機嫌。けっこうなことです。
 残りわずかな夏期休暇を、1滴残さず味わおうという勢いのハルヒにニコニコ笑顔で応対しながら、実のところ古泉一樹は落ち着かない心持ちだった。
原因ははっきりしない。思い出せそうで思い出せない映画のタイトルのように、ずっと頭のどこかにひっかかる違和感。モヤモヤとしたすっきりしない気分が、ずっと続いている。
 電話を切って、溜息をつく。ちょっと疲れているのかもしれない。ここ数日の間に、間をおかずに小規模な閉鎖空間が出現し続けているのだ。たぶん彼が田舎に帰省しているせいで、連絡がとれなくなっていたからだろう。
 そういえば、昨日彼がこちらに戻ってきたようだと連絡があったな、と古泉は夕べの機関からの定時連絡を思い出した。それで今日のこのお誘いか。わかりやすい。
 くすっと小さく笑ってから、古泉はもう一度溜息をついた。
 もちろん今日のイベントには、彼も参加するだろう。しかもプールだというなら、当然水着だ。ちょっと楽しみで、同時にちょっと苦しい。平静を装うことは得意だけれど、本当に平静でいられるわけではないのだ。
 古泉は、一人暮らしの部屋のベッドに寝転んで、じっと自分の手を見つめた。

 孤島の館の密室で、思いがけなく彼から触れられ……というか、押し倒されて首をしめられかけたときのことが、脳裏によみがえる。もちろん彼が本当に自分を殺しにかかっているとは思わなかったけれど、自分はそのシチェーションに……。
 ――実際、やばかったな。あれは。
 
 あの瞬間、はっきりと彼に欲情した。

 ベッドから見上げる彼の顔。締め上げてくる両手。そのシチュエーションに一瞬、倒錯じみた陶酔を感じた。
 彼が欲しい。その身体と心が欲しくてたまらない。
常にギリギリで押さえていた欲望が、その時、臨界点を越えかけた。
 なんとか踏みとどまれたのは、あのあと彼の妹が部屋を訪れてくれたからだ。ノックの音で我に返らなかったら、何をしでかしたかわからない。
 じっと見つめていた手に、古泉は唇を寄せた。本当に、危なかった。
 ごろりと寝返りをうつと、ふと、ベッドサイドに置いてある小さな瓶が目に入った。香水の瓶のようなシャレたデザインの、紫の瓶。中身はほとんど減っていない。
(ホンモノの媚薬だぜ? コレ)
 この秋の生徒会長選挙で、手を尽くして生徒会長に当選させる予定の男がくれたものだ。
6月あたりに仕事を依頼し、交渉や打ち合わせを繰り返すうちに、いつの間にか古泉が秘めていた本心を読み取ってしまっていた。
 そんな彼が、なんのつもりかニヤニヤしながら強引にコレを押し付けてきたのだ。
(そのへんのインチキ通販で売ってる子供だましじゃねえの。違法じゃないけど日本には売ってない、本場モノ。これ飲ませればマジで一発だぜ? ……ああ、試した方が早いよな)
 実際、そのあとに本当に飲まされて、酷いめにあった。彼への“報酬”の支払いではだいたい酷いめにあうのだが、そのときは後半の記憶がない。自分がどうなったのか知りたくもなかったので、教えたそうな会長を徹底的に無視して帰ってきた。
「つまり、これを使って強引にモノにしろって?」
 バカバカしい。そんなことをしたら、その後の任務に差し支える。彼に嫌われてしまっては元も子もないし、もしも機関に知られたらどうなるか。貴重な戦力ゆえ解雇されることはないだろうが、おそらく転校させられて、以後彼らとの接触を禁じられるだろう。ほんのひと時の悦楽のために払う代償にしては、大きすぎる。
 それでも、これを持ち帰って、こうしてときどき眺めてしまうのは何故だろう。
もしこれを使ったら……何もかも、終わらせることができるのだろうか。
たった一度の思い出と引き換えに、彼と離れて、想いのすべてを封じることができるだろうか。
 任務のためと考える思考とは矛盾する思い。そんなあやうい誘惑に浸るために、自分はこれを手放せないのかもしれない。
 古泉は瓶に手を伸ばし、握り締めて目を閉じた。
これを使ったら、彼はどんな姿を見せてくれるだろう。あの唇からもれる息は、自分を呼ぶ声はどんなだろう。
「ん……」
 勝手な妄想が、脳内で展開する。そっとコットンパンツのジッパーを引きおろし、手を中に滑り込ませる。
 すみません……と小さくつぶやいて、古泉は午後の約束までの時間、ひと時の悦楽に身を任せた。



 プールの翌日から、盆踊りにセミ採り、ビラ配りのアルバイトと立て続けにハルヒ立案の遊びに引っ張りまわされ、そのまた翌日は天体観測だった。
 マンション屋上のコンクリの床にぺったりと座り込み、キョンはさすがに疲れた顔で星空を見上げている。古泉はその横に腰を下ろした。
「お疲れですね」
 ちらりと古泉に視線をくれて、キョンは面白くなさそうな口調で答える。
「さすがにこれだけ連日遊びまくれば疲れるだろ。普通の人間ならな」
「まったくです。涼宮さんのバイタリティには、毎度感心させられます」
「いい迷惑だぜ」
 やれやれとため息をついてから、キョンはハルヒとみくるがのぞいている天体望遠鏡をあごでしめした。
「あれはお前のなのか?」
「ええ、幼いころは天体観測が趣味だったんですよ。なつかしいですねぇ」
「今は違うのか」
「まぁ……そうですね」
 珍しく歯切れ悪く、古泉は言いよどんで空を見上げた。
「あの星たちが、涼宮さんの創作物じゃないと確信がもてるなら、またはじめてもいいですが」
 それを聞いたキョンは、眉をしかめて口唇をひんまげた。
「いくらなんでもそりゃねえだろう」
「どうでしょう……」
 それきり口をつぐんで、古泉は空を見つめ続けた。キョンはしばらくの間そんな古泉の横顔を眺めていたが、やがて彼の視線を追うように空へと顔をむける。
 ふたりの間に沈黙が落ち、聞こえるのはハルヒのはしゃぐ声とみくるの歓声のみ。聞くともなしにその声を聞いているうちに、古泉は、やがて腕に重みを感じて視線をおろした。いつの間にかキョンが、彼の肩に身をもたせかけて寝息をたてていた。
「おやおや……」
 無防備な寝顔にふと笑みをもらしてから、古泉は口唇を引き結んで彼を見つめる。
 軽い寝息をたてながら寄りかかってくる体の、その重みとぬくもり。
早くなる動悸に気づかれないよう注意しつつ、古泉の胸のうちには苦い思いも広がっていた。
(まったく。警戒心のかけらもない人だ。あれだけあからさまに迫ったりちょっかいかけたりしているのに、少しくらいは危機感を持たないのかな? ……まぁ、普通は同性の友人を警戒なんてしないか)
 自分は毎晩のように、妄想の中であなたを組み敷いて服を脱がせて、あんなことやこんなことをしているんですけどね、と心の内だけでつぶやく。
 こんなに無防備に体重を預けている人間が本当は何を考えているか、知ったらあなたはどんな顔をするでしょうね……。

 魔が差した、としか言えなかった。
 本当に、直前までそんなつもりはなかった。
 ただその瞬間、夏前の屋上でのひとときがフラッシュバックし、あのときに触れ損ねた彼の唇に目が吸い寄せられた。
 ちらりと見た女性陣は3人とも、望遠鏡と星空に夢中でこちらをまったく気にしていない。
 きっとバレない。
 そう見て取った瞬間、古泉は彼の唇に自分のそれを触れあわせていた。
 軽く押しつけるだけの、それでも充分に意図が伝わるようなやり方で。

「……何してんだ」

 間近から聞こえた声に、あわてて飛び退く。
いつの間にか目を開けていたキョンは、眉をしかめたいつも通りの表情で、こちらを見ている。古泉はさっと血の気が引くのを感じた。
「すっ……すみませ……」
「……」
 しばらくの間、キョンはじっと古泉を見つめていた。が、やがて肩をすくめて、立ち上がる。
「あの……っ」
「……悪ふざけも大概にしとけ」
 流された、と理解した。
 我ながら、ちゃんとした意図を含めたキスだったと思う。決して、ふざけてとか、ついうっかりとか、そういったたぐいのものではないと、確かにわかったはずだ。
 その上で彼は、それを冗談で片付けたのだ。驚くことも問い詰めることも、怒ることすらしなかった。
 つまりそれは明確な、しかも向き合うことすら拒絶した、拒否だった。
「古泉くーん! 次、土星の輪が見たいわ!」
 座り込んだままの古泉を見下ろして、キョンが口を開こうとしたとき、ハルヒがはしゃいだ声で古泉を呼んだ。
「あ、はい。了解です。少々お待ちください」
 たちまち笑顔を取り戻した古泉はハルヒに返事をし、さっと立ち上がる。
じっと見つめるキョンの視線を背中に感じながら、彼から早足で距離をとった。
そうでもしないと、このまま柵を乗り越えて、飛び降りてしまいそうだった。

 その夜、長門のマンションに泊まることになっても、キョンは古泉と同室で寝ることに拒否は示さなかった。
 あたしたちは寝室で寝るから、あんたたちはリビングね! と言うハルヒの宣言に、はいはいわかってるよと答え、古泉に向けて肩をすくめてさえ見せた。
 けれど彼は毛布を持って部屋の隅に待避して、壁に背をあずけて膝を抱える体勢で就寝にはいった。夏前の屋上やさっきのように肩にもたれることも、床に横になることもしなかった。
 近づきすぎないように、でも不自然に避けないように。そう、気遣う心が伝わる距離。反対側の壁の前に座り込んで、古泉もまた膝を抱える。
 暗い部屋の隅、真綿で首をじわじわとしめられるようで、いっそひと思いに息の根を止めて欲しかった。



 怒る筋合いでも、悲しむ筋合いでもない。
 むしろ、気持ち悪いと避けないでいてくれて、感謝しなければならないくらいだ。そんなことはわかっている。わかっているが、それで納得できるほど、自分は大人ではないらしい。
 翌日、バッティングセンターでの活動中、何事もなかったように話しかけようとしてきた彼を不自然に避け続けた。
 自分がこんなにも臆病だということに、あらためて気づいた。
 苦しい。あんなに好きだった彼の顔も声も仕草も、今は目に入るだけで心臓が痛い。
「どうしたの古泉くん。お財布忘れてくるなんて、あなたらしくないじゃない」
 支払いの段階で財布を忘れたことに気づいた古泉に1000円札を差し出しながら、ハルヒが怪訝そうに問いかける。
「すみません……。ちょっと寝不足でして。暑さのせいですかね」
「だいじょうぶですかぁ? 顔色、悪いですよ」
 心配そうに見上げてくるみくるに張り付いたような笑顔を向けて、古泉は大丈夫ですとうなずいてみせた。キョンはハルヒの後ろに立ったまま、何も言わずに古泉を見つめている。
「じゃあ、明日はハゼ釣り! その次は花火大会だからね!」

 まだ遊ぶつもりかこの女。 
 つい、そんな悪態が胸のうちをよぎる。あわててそれを取り消しながら、古泉は自らを叱咤した。
だめだ、このままではきっとそのうち、とんでもない失態をおかしてしまう。
「花火大会にはキョンも古泉くんも、今度は浴衣でくるのよ。いいわね!」
「ああ……」
「了解しました」
 案の定、ハゼ釣りでは借り物の竿をなくし、花火大会では待ち合わせに遅刻した。古泉らしからぬ失態の連続に、ハルヒとみくるのみならず、長門までが奇異なものを見る目を向けてくる。
「古泉くん、もしかして夏バテ? 調子悪いなら、無理してつきあわなくてもいいわよ?」
 さすがに心配になったのか、ハルヒが集合場所に遅れて現れた古泉にそう言った。
 ご心配なく、と笑う古泉に、ハルヒはさらに言いにくそうに耳打ちしてくる。
「……浴衣が右前になってるわよ」
「あ……」
 指摘された古泉はあわてて駅のトイレに駆け込み、浴衣を着なおした。だがあせっているせいか、なかなかうまく帯が結べない。
(何をやってるんだ……)
 寝不足なのは本当だった。眠れなくて、ベッドの中で何度も寝返りをうつ。明け方にうとうとしては悪夢にうなされ、飛び起きる。そんなことを繰り返し、まともな睡眠が取れているとはいいがたい日々が続いていた。
 もたもたと帯を巻きなおしていると、その帯を後ろから引く手があった。
 振り返った目の前にグレーの浴衣を着たキョンがいて、さっさと手を伸ばして古泉の乱れたあわせを調える。
「ほら、俺が結びなおしてやるから、ここおさえてろ」
 意外と器用に、キョンの手が古泉の胴にまわり、焦げ茶色の浴衣にあわせた深緑の帯をしめる。
彼に抱きしめられるような形になって、古泉の胸に苦い思いがこみ上げた。
「……着付けができるんですか。意外ですね」
「妹にねだられるんでな。ついでに自分でも着られるようにしといた」
「そうですか……」
 シュ、シュ、と衣擦れの音がせまい空間に反響する。駅前のトイレは薄暗く、利用者はいないようだった。
「例の閉鎖空間が連日大発生……ってわけじゃ、ないよな?」
「ええ。ここ最近は、涼宮さんも上機嫌なようですよ」
 そこでいったん言いよどんでから、キョンは下を向いたまま続けた。
「……俺のせいか?」
 この間のあれか、と言外に聞かれ、古泉は苦笑した。
「いいえ。僕の自業自得です。……伝わってますよね、あれの意味」
 なんのことだ、とはキョンは言わなかった。ただ顔をあげずに、ああ、と答えた。
「申し訳ありません。突然、あんなことを。……驚かれましたよね」
「まぁな……」
 予告ぐらいしろよな、とつぶやいたのはきっと、拒否する暇を与えろという意味だろうと、古泉は解釈した。確かに、いきなりすぎたのは認める。本当に、魔が差したとしか思えない。
 後ろ向けといわれて、キョンに背を向ける。帯を結んでもらいながら古泉は目を閉じた。
 背中に、腰に、感じる彼の手の熱。意味のない接触だとわかっているのに、動悸がおさまらない。
心臓が痛くて、吐き気すらこみあげてくる。もう限界だ。いろいろと。
「お前、今日は帰ったほうがいいんじゃないか。だいぶ具合が悪そうだ」
「いえ……平気ですよ。涼宮さんを放っておくわけにはいきません」
 外で待っていた女性陣のところに戻るころには、古泉はすっかりいつもどおりの笑顔を取り戻していた。キョンの着付けが意外にもプロはだしだと褒め上げると、女性たちの関心は彼のほうにうつる。困り顔のキョンを囲みつつ、彼女らは花火大会の会場へ続く人波に合流した。
 ニコニコとその様子を眺めながら4人のあとをついていく古泉は、心の中でつぶやいていた。

 ――もう、終わりにしようか。



 新学期と同時に、北高生としてハルヒを監視する任務から離れたい。
 そう告げると、上司である森園生はしばし押し黙ったあと、ため息をついた。理由を聞かれたので、そうしてはならない人物に、個人的な興味を抱いてしまった、と告げた。思わず婉曲な表現を使ってしまったが、要するに惚れてはならない人物に惚れて、任務の遂行が困難になったせいだと、彼女ならすぐに察するだろう。
 まさかその相手がキョンだとは思わないだろうから、きっとハルヒその人かみくるあたりだと思ったかもしれない。
 あなたも普通の高校生だったわね、忘れてたわ。そう言われたあと、希望は受理された。新学期早々に、古泉一樹は再び、謎の転校生として北高を去ることとなるだろう。
(これでいい……)
 今日は8月31日。夏休みの最終日。そしてSOS団副団長・古泉一樹の最後の日だ。
 ハルヒの夏休みプランも一通りやり終え、今日は一日休みとなっている。明日からはまた、通常のSOS団としての活動がはじまるのだろう。
 古泉一人をのぞいて。

 古泉は携帯を取り出し、番号を呼び出して通話ボタンを押した。呼び出し音が数回鳴ったあと、相手が電話口に出る。
「古泉です。これから家にいらっしゃいませんか? ……お話があるんです」
 相手はわかった、と短く答え、場所はどこだと聞いた。そういえば、彼をこの部屋に招くのははじめてだった。簡潔に場所を伝え、部屋番号を告げて通話を終えた。
 ―――数十分後、彼……キョンは古泉の部屋を訪れた。マンションの一室に一人暮らしだということに驚き、広い部屋にまた驚く。機関の持ち物だと言うと納得したようだが、部屋の生活感のなさにさらに驚いたようだった。1LDKの部屋には、ベッドとノートPCの載ったデスク、クローゼット、本棚、ソファ、あとはミニコンポがおいてあるだけだ。
「座っててください。お茶入れますから。アイスコーヒーでいいですよね」
「ああ、助かる。外は暑いぞ」
「クーラー入れましたから、すぐ涼しくなりますよ」
 床に転がっていたクッションに腰をおろし、キョンは部屋をものめずらしげに見回している。
喉が渇いていたのか古泉が差し出したアイスコーヒーを一気に飲み干して、何もない部屋だなとつぶやいた。
「こんなとこに住んでるのか、お前。長門の家と同じくらい殺風景だな」
「北高に通うための仮の宿でしたからね」
 でした、と過去形で語る古泉の言葉に引っかかったのか、ふとキョンが剣呑な目つきで古泉の視線を捕らえた。
「……話って、もしかしてそれか」
「さすが、察しがいいですね」
 微笑みながら答える古泉をじっと見つめ、キョンは空のグラスを床に置いた。
「転校、するのか?」
「ええ、そうなります」
「……俺のせいなのか、やっぱり」
「違いますって。自業自得です」
 そういって古泉は、微笑を苦笑にかえた。
「……あなたを好きになってしまった、自分のせいですよ」
「古泉……俺は」
「ああ、謝らないでくださいね。あなたは何も悪くないですし、僕はもうあきらめることにしましたから。
今日を限りに、僕は二度とあなたの前に姿を現しません。……いままで、気色の悪い思いをさせて、すみませんでした」
 キョンはもどかしそうに、グラスを握り締める。苦悩するように眉をしかめ、古泉から視線をそらして床を見つめた。
「……俺は、どうすりゃよかったんだ、古泉。何か間違えたのか、俺は」
「いいえ。あなたは充分過ぎるほどの優しさをくれましたよ」
「だけど、お前は……」
 もどかしげに言葉を探すキョンの様子を、古泉は観察するようにじっと見つめている。そして、薄く微笑みを刻んだままの唇を開いた。
「言ったでしょう? あなたは何も悪くないんです。悪いのは僕です。今までのことも……それから、これからすることも。あなたは僕を許さなくていい」
「え?」
「……そろそろ、効いてくるころですね」
「何だって……?」
 床についていたキョンの手が、身体を支えきれずにくにゃりと曲がる。
床に倒れこむ形になったキョンは、あわてて立ち上がろうとするが何故か身体に力が入らなかった。
「な……なんだ……これ……」
「さっきのコーヒーに、これをちょっと入れさせてもらいました。媚薬って言ってわかります? ……欲望を解放するクスリですよ」
 香水瓶のように華奢なデザインの、紫の瓶をふってみせる。
意味を理解したのかどうかわからないが、自分の身に危険がせまっていることは察したらしい。必死で身体を動かそうとしているものの、うまくいかないようだった。
「人体実験済みなので、安全性は保障します。最初は体中の力が抜けるんですよね」
 床に這いつくばる形になっているキョンの肩に手を触れる。とたんに、ビクリと身体が震えた。思わぬ感覚が襲ったらしく、彼はうめき声をあげた。
「それから、だんだん身体の奥が熱くなってくるでしょう? ちょっと触られるだけで、すごく感じるようになっているはずです」
「お……まえ……」
 見知らぬものを見るような目が、古泉をとらえる。
 だんだん頬が上気して息が荒くなり、目が潤みはじめた彼の変化をつぶさに観察していた古泉は、やがて昏い笑いを浮かべた。
「さて、それじゃあそろそろベッドにいきましょうか?」
「ベッ……って……なにを」
 ろれつも少々あやしくなっている。
 床を這いずろうとしてその摩擦が刺激になって身悶える姿を、古泉は微笑ましげといっていいような表情で眺めていた。

「やだな。子供じゃあるまいし、ベッドの上でふたりですることなんて、ひとつしかないでしょう? ――もちろん、セックスですよ」

「な……!」
 力なく抵抗するキョンの身体を抱え上げて運び、古泉はベッドにその身を横たえた。
 続いて服を脱がそうとするが、クスリが効きながらも必死で抵抗する高校生男子の身体は、なかなか扱いにくかった。
「しかたないな……。こういうのはあんまり好きじゃないんですけど」
 まるでどっかのエセインテリ眼鏡みたいだ。心の中だけでつぶやきながら、古泉はキョンの両腕を前でそろえ、荷紐で縛り上げた。脱がせたTシャツがそこでひっかかり、さらに強固な枷になる。
「おま……え……古……泉! こんなこと……して……」
「だからさっき言ったでしょう? あなたは僕を、このあと一生許さなくていいんです。二度と会いたくないって、思ってくれていいんです。……僕も、二度とあなたに顔向けできないって、そう思えますから」
 着ていたシャツを脱ぎ捨て、ベッドにあがった古泉は、いましめたキョンの腕をあげさせてベッドのヘッド部分にさらに縛り付けた。あらわになった胸に触れると、それだけで彼は身体を震わせてのけぞった。
「ああ、いい感じでクスリが効いてきましたね」
「や……め……」
「大丈夫。きっと気持ちいいですよ」
 何度も何度も、こんなシチュエーションを思い描いた。いつも夢に見て、すべてが悪夢になってもやはり想像することをやめられなかった。その彼の身体が今、自分の前で羞恥と屈辱に震えている。ぞくぞくと背筋を這いのぼる昏い悦びが止められない。
「……以前、もっと素を見せてもいいと、おっしゃってくれたことがありましたね」
 夏休み前、屋上でのことだ。あれはどういう意図だったのか、いまだにわからないけれど。
「すみません。素の僕は、こんなヒトデナシだったんですよ」
 にっこりと、最大級の作り笑いを彼に向けた。彼がぞっと身をすくませるのをみて、さらに笑いがこみ上げてきた。
 わななく唇に、くちづける。必死で食いしばるが、あごを押さえると舌はするりと中にもぐりこんだ。
彼の舌をとらえてからめると、一瞬自分の舌に彼の歯があたる。そのまま噛み付けば多少なりとも反撃できるはずだったが、わずかに躊躇する気配のあと、歯の感触は離れていった。古泉は唇の端だけで笑う。
(それでもあなたは、僕を傷つけられない。優しいのか臆病なのか……)
 唾液の糸をひいて、唇が離れる。うるんだ瞳でにらみつけるまぶたにくちづけ、額から鼻に、あごに、そして耳に唇と舌を這わせた。
 クスリで敏感になっている身体からは、はじめてでも楽に快感を引き出せる。首筋をたどった舌がやがて胸で淡く色づいた突起にたどりつくと、彼はこらえきれないように声をあげた。
 ぎしっと、彼の手をつないだベッドヘッドがきしむ。
「んぁ……あ……っ」
 片方を舌で刺激しもう片方を指で弄ぶと、びくびくと身体がはねる。重ねた体の下、胸にあたる感触は、彼のものがすでに形を変えつつあることを教えていた。
 古泉は舌での刺激を続行したまま、彼が履いているジーンズの上からそこを引っかいた。
「うあ……! や、やめ……」
 やめろ、とうわごとのように声はこぼれる。熱にうかされるように繰り返す。
 意味のないその言葉を聞き流して、古泉は彼のジーンズのジッパーを下ろし、片手と足を使って下着ごとジーンズを剥ぎ取った。
「気持ちいいんですね……ほら、すっかり硬くなってますよ」
 解放されたそれは完全に勃ち上がり、先端から透明な蜜をあふれさせていた。
 キョンは羞恥に頬を染めて硬く目をつぶり、歯を食いしばっている。それでもはいのぼる快感はおさえようもないらしく、身体は小さい痙攣をくりかえしていた。Sだ変態だとののしっていたが、生徒会長の気持ちが、わかるような気がした。
「あなたも、たまには自分でしますよね? ……どのへんが好きですか?」
「……」
 もちろん彼は答えない。だが、いい場所は大体決まっているものだ。
 古泉はじっと彼の表情を見ながら、丁寧にそれをいじりはじめた。あふれる蜜を潤滑油に、さすりあげたりもんでみたり。彼はそのたびにびくっと身体を震わせる。やがて特に反応のいい場所に狙いを定めた古泉は、舌と指でその部分を重点的に責めてみた。
「ふぁ……あああっ……!」
「ココ……ですね」
「や……やめ……っ」
 ついにこらえきれず、彼は声をあげた。どうしようもないように、腰ががくがくと動く。
 彼に飲ませたクスリは、徐々にその効果を強くしていくものだ。そろそろ理性も飛びがちになるころだろう。硬さを増したそれの下から上へと舌を這わせて、手でやわらかい部分をもみしだく。後ろの部分にもときどき触れると、ひときわ声が高くなった。いままで聞いたこともない艶を含んだ声に、ぞくぞくする。
「あ……あ……あ……」
 やがて声が出なくなり、荒い息だけが聞こえてきた。察した古泉が深くそれをくわえて上下させながら強く吸ってやると、彼はたまらず足を突っ張らせた。
「や……だめだ……はなせ……出……っ」
「かまいませんよ……そのままどうぞ」
 くわえたままなので、ちゃんと発音は出来なかったが、そもそも聞こえているかどうかわからない。
「んああああ……っ! 出……るっ……!」
 古泉の口の中で、彼ははじけた。どろりと青臭い液体が口腔内にあふれる。
 のどを鳴らしてそれを飲み込んでから、古泉はあふれて腕に流れた分を丁寧になめとった。肩で息をしながら、キョンがそれを見ている。
「信じ……らんねぇ……そんなもの……」
「気持ちよかったでしょう?」
「知るか……」
 そう言って目をそらす。古泉は薄く笑ったまま、首をかしげた。
「あれ? まだずいぶん意識がしっかりしてますね。……量が少なかったかな」
 床に置いたままだった紫の瓶を取ってくる。怯えた表情でこちらを見ている彼によく見えるよう、振って見せてからキャップをあけた。
「このクスリには、飲ませるだけじゃなくて、こんな使い方もあるそうですよ」
 瓶を傾けると、中身はとろりとジェル状の液体だった。古泉は手のひらにその液体をたらしてから、一度放出して半勃ち状態の彼にたっぷりと塗りつけた。ひやりとした冷たさに身をすくめるキョンにかまわず、古泉の手がそれを扱き出す。ジェルのぬるぬるとした感触が新たな快感を生み出して、また彼のものは元気を取り戻した。
「や……あっ……なんで……」
 片手で彼を弄びながら、古泉が耳元でささやく。
「……熱いでしょう?」 
 ぬちゃぬちゃ、と聞こえる淫猥な水音が部屋に響く。いつのまにか空は濃紺で、星も瞬き始めている。部屋も薄暗かったが、カーテンもないせいで、外の明かりで充分互いの姿が見えた。
「疼きますよね? 身体の、奥の方が」
 古泉の言うとおり、キョンは握られたあたりに熱を感じていた。そこから何かが湧き上がり、腰を中心にむずむずと疼きだす。クスリの影響なのか知らないが、最初からどこを触られても気持ちよかったが、今度はそれをさらに上回っている。
「ほら……ここが、いいんですよね……?」
 耳に、熱い吐息とともに注ぎ込まれる声。
 いつのまにかキョンがもっとも好む部分が把握されていて、そこを責められると恐ろしいほどの快感に腰が動いてしまう。認めたくないが、極上といっていいほどの快楽だった。
――こらえきれない。どうにかなりそうだ。
 古泉の指がそのまま後ろの口にもぐりこんできて、キョンはびくりと体を跳ね上げた。ジェルを塗りつけるように出入りをくりかえす指を感じて、ぞっとする。思わず逃げようとする身体を押さえつけられ、刺激がさらに繰り返されるうちに、痛みや違和感をうわまわる快感が生まれてきた。
 どうもそういう作用も薬効のうちらしい、と最後に残った理性で考える。
 だんだん朦朧としてきた意識の中で彼は、両足が大きく割り広げられ、自分でも見たことがないような場所がこじあけられるのを感じた。
 何かが、自分の中に進入してくる。
「ぐっ……」
「ゆっくり……入れますから……」

 古泉、なんでおまえが泣きそうな顔してんだよ……泣きたいのはこっちだっての。
 ちらりとそう思ったのが、最後の理性だった。



 最奥への侵入を果たすと、古泉はキョンの身体を強く抱きしめた。彼の口から、悲鳴とも嬌声ともつかない声がもれる。だがクスリはちゃんと効いているらしく、初めてだろうが苦痛ばかりというわけではないようだ。痛いだけの思いはさせたくなかったので、少しほっとした。
 そう思う側から、自嘲の思いがわきあがってくる。何を偽善者めいたことを言っているのか。この行為そのものが、彼の身体よりもひどく心を傷つけているのに。
 そう、これはまごうかたなき、レイプなのだ。
「動き……ますよ」
 最初はゆっくりと、やがてだんだん激しく。荒い息とともにもれる声が艶めく。
 つながったふたりの間でゆれる彼自身が、幾度も白濁を吐き出して古泉の腹を汚した。
「あっ……あ……はっ……また……またイ……く……」
「気持ちいい……ですか……」
 意味がわかっているのか、彼が何度かうなずいた。もう必要ないと判断して、古泉は縛り付けていた彼の腕をほどく。自由になった両腕が、すがりつくように古泉の背中にまわりかき抱く。貪欲に快楽を貪ろうと、腰が淫らに動いていた。
「あ……んあ……っ……も、っと……」
 どうやらクスリが、完全にまわったようだった。自分もたしか、後半は何をしたか記憶がない。きっと今の彼のように、朦朧とした中で本能だけに忠実に行動していたのだろう。
「あ……あぅ……いい……っ、すごく……」
「僕も……いいです……すごいしまって……あっ、そろそろ……」
「ふ……ぁ……俺、も……またっ……あああ……っ!」」
 またイったのか、彼のそこが締め上げたとたん、すさまじい快感が襲ってきた。古泉はそのまま、己の激しい欲望を彼の中に放出した。
「ああああああ……!」
 自分の中に注ぎ込まれた熱がわかるのか、キョンがひときわ高く声をあげる。
 汗まみれの身体を重ねたまま、ふたりはしばし息を整えた。だがすぐに、古泉の下で苦しそうな声があがる。
「だめ……だ……足りない……もっとほしい……」
 泣きそうな顔でそう訴えるキョンの額にかかる髪をかきあげ、そこにくちづけてから、古泉は小さく笑った。もちろん、自分だってこれしきじゃおさまらない。
「ご心配なく。……まだ夜ははじまったばかりですから……」



 もうすぐ、日付が変わる。
 自分がここに、彼のそばにいていい8月が終わる。
 ベッドの上に起きあがった古泉は、自分の横でぐっすりと眠っている彼をじっと見つめていた。
疲れきっているのか、目を覚ます心配はなさそうだ。
 それはそうだろう、と、古泉は考える。お互い何度絶頂を迎えたのか、5回目までは数えていたが、あとはもうどうでもよくなった。
 小休止をはさみながら、何度も何度も抱き合った。彼の身体の隅々まで、もう触れていない部分はないと思う。古泉の放ったものが、無数のキスマークに彩られたその身体のあちこちにこびりついていた。
 何度求めても、彼は拒まなかった。
 薬効の持続時間は知らなかったけれど、途中で逃げ出す様子もなかったので、最中には効き目はきれなかったのだろう。
 ときどき、妙に悲しげな目で見られているような気もしたが、それはきっと自分の罪悪感が見せた幻だったに違いない。
 古泉は眠るキョンの頬にそっとキスを落として、ベッドを降りた。そのへんに脱ぎ散らかしたままだった服を着なおし、時計代わりの携帯電話を拾う。液晶には23:47という文字が浮かび上がっていた。
(――これで、すべて終わった)
 目を覚まして我に返ったキョンは、古泉を憎むだろう。
 もうあんなやつの顔も見たくないと吐き捨てるように言って、今夜のことは忘れるようにつとめるだろう。それでいい。
 どっちにしろ今夜のことはすぐに機関にも知られて、自分は処分される。貴重な戦力ゆえに殺されたりということはないと思うが、監禁されるくらいはありえるかもしれない。
 二度とキョンたちと接触しないようにと。
 古泉は携帯をゴミ箱に投げ捨て、財布だけをポケットに入れてふらりと外に出て行った。
 このまま、この町から……彼の前から姿を消すつもりだった。どこへ行くあてもなかったが、とりあえず駅に向かって歩き出す。
 もう何をする気も起きなかった。このまま、消えられればいいと思う。
(――謝る気はありませんよ……一生、許さないでくださいね。僕を)
 歩道を歩く古泉を、時折車が追い越してゆく。歩行者信号が瞬く横断歩道まで来たとき、彼は車道を横切ろうと方向を変えた。信号はとっくに赤に変わっていたが、そのまま足を止めずに歩き続けた。
 クラクションと激しいブレーキ音が、けたたましく夜空に響く。
 正面から自分を照らすヘッドライトの光を、古泉はそこに立ちつくしたまま、ただぼんやりと見つめていた。

 ちょうどその瞬間。日付がかわり、8月が終わった。



 殺風景な部屋の中、深夜にもかかわらず制服を着たままの少女が、ふと顔をあげた。
無感情な瞳が、何もない空間を見つめる。
 少女の名は、長門有希。対有機生命体コンタクト用ヒューマノイドインターフェイス。
 彼女はそのまま空間を見つめ続け、やがてぽつりとつぶやいた。
「……時空間のループを確認。9936回目」



「………………っ!」
 いきなり目が覚めて、古泉はベッドの上で飛び起きた。
なんだか長い夢を見ていた気がしたが、内容はさっぱり覚えていなかった。
「あれ……?」
 目覚まし代わりにしている携帯を見てみる。今日は8月17日。時間は午前8時37分だ。
なんだか夏休みはもう終わった気がしていたが、実際はまだ2週間も残っていた。
そうだっけ? と思ったとたん電話が鳴った。表示されている名前は、涼宮ハルヒ。
「はい、古泉です……プールですか? 今日これから? ……10時ですね、了解しました。……はい、自転車ですか。ええ、いいですよ」
 どうやら市民プールへのお誘いらしい。上機嫌でけっこうなことだ、とつぶやいてから、また激しい既視感を感じて首をかしげる。
前にもこんなセリフを言わなかったか?
「……?」
 だがまぁとりあえず、ハルヒの要望にこたえることが先決だ。それが自分の仕事なのだ。まず自転車を用意しなければならない。あと水着も。
 ……そうか。プールなら、もちろん来るであろう彼の水着姿がまた見られるのか。それはちょっと嬉しい。
 古泉はベッドサイドに置いたままの、中身のほとんど減ってない紫の瓶をちらりと見てからベッドを降りて、あわたたしく準備をはじめた。



                                                   END
(2009.10.09 up)

壊れちゃった古泉のお話。
あわやBADENDのところを、ハルヒの夏休みループでセーフ。
ループにまったく気づいていないシークエンスです。

あ、おクスリは実在するものではなくて、ミラクル☆801薬なので、細かいことは考えちゃダメです。