夏夕空
00
 いつから自分が彼をそんな風に見るようになったのか、正確なところはわからない。
初めて彼に会ったときは、いささか落胆した覚えがある。
涼宮ハルヒという特異な存在に唯一影響を与えられる人物、ということで、僕は彼に過剰な期待をしていたのかもしれない。 
そこにいた彼はあまりに平凡な、どこにでもいそうな男子生徒で、こんな普通の人間に世界の命運を握られていていいものかと、一瞬戸惑ったものだった。
 だけどつきあいが深まるうち、そんな気持ちは消えていった。
一見、常識にとらわれ過ぎ、視野が狭すぎるかのように思える言動が常な彼の、心のキャパシティの広さに何度驚かされたことか。
どんな事態に出会っても彼は、まず疑い、否定して、しばし考えたあと、あっさりと受け入れる。
そして受け入れた後は、もう揺るがない。そんな彼の態度に、自分がどれだけ救われていたのか、気づいたときにはもう遅かった。



「古泉?」
「あ……」
「何してんだ、こんなとこで」
 ちょっとだけ休憩するつもりで訪れた屋上で、気がつけば僕はかなり長い時間、そこでボンヤリとしていたらしい。
それは涼宮さんが不審に感じて、彼を探索に派遣するほどの時間だったようだ。

 そのころ僕は、あまりの激務に疲れ果てていた、と言っていい。
涼宮さんと彼が、涼宮さんが構築した新世界より無事の帰還を果たし、まだまだこの“仕事”は終わらないのだと判明してから、様々な雑務が山ほど発生していたのだ。
 涼宮さんが次々に思いつくイベントや、彼女が原因で発生する事態に対応することはもちろん通常業務。
その上で、野球騒動で判明した『彼女を長期間退屈にさせておくこと』の危険性を考慮した結果、
色々と仕込みをしておく必要にせまられてもいたからだ。
 まずは校内に対抗勢力を作るため、我々の息のかかった生徒会長を誕生させるべく、その根回し。
候補に選んだ人物はなかなかの難物で、僕はよけいな負担を被ることになった。
 そして夏休みに企画している、孤島でのミステリーツアー。
こちらも自分が言い出した企画であるがゆえ、細かい手配からシナリオ作りまで任されている。
 おまけに一体何が気に入らないのか、ここ数日、連続で夜中に閉鎖空間が発生しはじめた。
おかげでろくに睡眠をとることも出来なくて、さすがに体力の限界を感じていたのだ。
 ただそれを周囲に……特に涼宮さんに悟られるようなことは出来ない。
僕は普段通り、顔に笑みを貼り付けて、授業もSOS団の活動も卒なくこなしていた。
今のところ、教師にもクラスメイトにも気づかれずにうまくやっている自信はあった。
 だから僕は、ポケットに手を突っ込んだまま不機嫌そうな顔で見下ろしている彼に、いつもの笑顔を向けた。
大丈夫、彼にもばれてはいないはず。

「すみません。ちょっとボンヤリしてました」
 さて、そろそろ業務に戻らなくては。あまり油を売っていると、また彼女の機嫌を損ねてしまう。
 立ち上がろうと身体を起こしたとき、何を思ったか彼が、いきなり僕の隣に腰をおろした。
立つタイミングを逃して、僕はもう一度座り直すことになった。
「風が気持ちいいな」
 そう言って彼は、南から吹く初夏の風に目を細める。放課後とはいえ、この季節の日は長くて、ようやく傾き始めたところだ。
「戻らなくていいんですか? 涼宮さんが待っているのでしょう?」
「少しぐらいサボったってかまわんさ。そうそうあいつのご機嫌ばかり伺ってられるか」
 僕のメイン業務は、まさにそれなんですけどね……。
そんなことを考えて思わず苦笑すると、彼がこちらを見ているのに気がついた。どきっと心臓が脈打った。
「……なんです?」
 平静を装って、笑ってみせる。もう最近は、彼を見るたびに感じるこの気持ちが何に由来するものなのか、気づかざるを得ない状況だった。
 でもそれを彼に告げる気などはなかったし、まして彼とどうこうなりたいなどと願うものでもない。
世界のためにも彼は、涼宮ハルヒと結ばれねばならない。僕はそれを、後押ししなければならない立場なのだ。世界のために。
 何度も繰り返し自分に言い聞かせているその呪文を、また繰り返す。せかいのために。
「疲れてるだろ、お前」
 ふいに、彼が真面目な顔でそう言った。
「え……」
「何をやってるのかは知らんが、少し休んだ方がいいぞ」
 気づかれていた? 彼がそれほど注意深く、僕を見ているとは思えないのに。
「……どうして、そう思います?」
 彼は、さっきまで僕がそうしていたように、屋上の端に張り巡らされた金網にもたれ掛かって、暮れ始めた空を見上げる。
「別に。なんとなくだ」
 彼が勢いをつけて寄りかかったせいで、ガシャと金網が鳴った。
「それにハルヒのヤツ、ここ数日妙にイラついてるからな。理由はわからんが。……もしかしたら、例のアレが発生してるんじゃねえかと思ってな」
「ご明察……と言っていいんでしょうね」
「寝不足か?」
「いささか」
 しかたなく僕は、大きくため息をついて、彼と同じく金網にもたれ掛かった。なんでわかったんだろう。彼には本当に、かなわない。
「……っていいぞ」
「え? なんですか?」
 そっぽを向きつつ彼が何か言ったが、よく聞こえなかった。思わず聞き返すと、彼は怒ったような顔で、もう一度繰り返した。
「肩を貸してやるって言ったんだ。ちょっと寝とけ」
 ほら、と彼が自分の肩をたたく。普段、内緒話をするのに顔を近づけるだけで、近いの気持ち悪いのと騒ぐのに、どういう風の吹き回しだろう。
 思わず目を見開いて、彼の顔をまじまじと観察する。と、彼はさらに不機嫌そうに顔をしかめた。
「なんだよ、男の肩じゃ不満か。言っとくがそれは俺だって同じだからな」
「いえいえ……身に余る光栄ですよ」
「アホか」
 彼が照れているのだということがわかって、僕は思わず笑ってしまう。――どうして彼は、こんなに優しいのだろう。
僕のことは、多分にうさんくさいと思っているはずなのに。
 まぁ、答えはわかっている。彼はもう僕を、仲間として受け入れたのだ。一度受け入れたものに関しては、彼は揺るぎない。
「では、お言葉に甘えて」
 彼の肩に頭をのせ、目を閉じる。風が吹いて、彼の髪かららしいシャンプーの香りが鼻孔をくすぐった。
トクトクと、心臓が通常より速く鼓動を刻み出す。それに気づかれないように注意しながら、僕はしばしまどろんだ。



 ふと目を覚ますと、あたりはすべてオレンジ色だった。
 沈みかけた夕日が、空も校庭も校舎の壁も、何もかもをオレンジに染めている。
それほど長時間眠っていたわけではなさそうだ、と思ったとき、寄りかかっていた肩の上から、かすかな寝息が聞こえてきた。
どうやら僕に肩を貸すうちに、彼もうとうとしてしまったらしい。
金網に大胆に上半身を預けた彼はかなり本格的に寝入っているようで、僕がそっと身を起こしても、目を開けなかった。
 意外とあどけない彼の寝顔を、これ幸いと眺める。
 不機嫌なしかめ面が基本の彼だが、実は表情はかなり豊かだ。
彼の反応が面白くて、ついつい過剰なコミュニケーションを仕掛けては、派手に拒絶されたりあきれられたり。
そんなやりとりは結構楽しい。近寄るなだの気持ち悪いだのさんざんなことを言うくせに、彼が決して本当の拒絶はしないこともわかっていた。
ずいぶんと人外な部分も見せたし、つい偽悪的な言い方をしてしまうことも多いのに、本当に彼のキャパは底なしだ。

(――起きないな)
 じっと彼に注ぐ視線は、ついつい彼の唇や、ネクタイをゆるくしめた襟元へと移ってしまう。
少し開いて寝息を吐き出す唇を見つめ、こみ上げる衝動を抑えるために、僕は顎を支えていた自分の手の小指に歯ををたてた。
 高校生ともなればもう、好きという気持ちは純粋ばかりではいられない。
友情と愛情の境は、肉欲があるかないかだと何かで読んだことがあるけれど、その理屈で言うなら彼への気持ちはもうとっくに友情ではありえないとわかっていた。
 だからというか……さっきの過剰なコミュニケーションの話だが、彼に拒否されることで、心のバランスをとっている部分があることも否めない。
想いが暴走しないよう、とんでもないことをしでかさないよう、ちゃんと拒んで欲しい。境界線を踏み越えぬよう、止めて欲しい。
そのためにこそ、彼が嫌がるのを承知で近づくことを止められない。自分勝手だとは思うけれど、それが本音だったと思う。
 あたりを染める夕日のオレンジが、いまだ目覚めない彼の寝顔に、濃い陰影をつけている。
眠っている彼は、近づいても見つめても拒否はしない。嫌な顔もしない。
だから、そのせいだったのだろう……きっと。
 じっと見つめるうちにこみ上げてきたのは、えもいわれぬ愛しさだった。
いや、一言にまとめるとそうだろうが、もっといろいろと絡み合った感情が押し寄せて、僕はそっと彼の唇に自分のそれを近づけた。
 彼の吐息を間近で感じる。
 あとほんの数センチ、というところまで近づいたとき、突然彼が小さくくしゃみをした。どうやら僕の髪が、鼻のあたりをくすぐったらしい。
 いきなり我に返って、僕は彼から飛び離れた。幸い、彼の目は開くこともなく、寝息ももとに戻る。
よかった、起きなかった。ホッとして、思わず溜息をつく。

 まったく、何をやっているんだ、僕は。バカじゃないか。
 いつの間にかオレンジの空は上空を紺に染め変え、あたりも薄暗くなってきている。さて、そろそろ起こした方がよさそうだ。
僕は彼の肩に手をかけて、軽く揺すった。
「起きてください。さすがに風邪ひきますよ」
「……ん?」
 彼が目を開ける。むくりと身を起こして、あくびをしながら背筋を伸ばした。
涙の浮いた目尻をこすりながら、彼がしまった寝ちまったかとつぶやいた。
「悪いな。ついつられちまった」
「いえ。おかげさまで、かなり楽になりました」
 いつもの笑顔を貼り付けて、お礼を言う。と、彼はふいに僕の方を見て顔をしかめ、手をあげて僕の頬をつかんだ。びっくりした。
「な、なんですか」
「無理に笑うな。疲れるだろ」
 なんで彼には、バレるんだろう。完璧なはずなのに。
「……癖なんですよ」
 そうかい、と言い捨てて、彼は手を離して立ち上がった。
夕日はすでに、残光だけを残してビル群の向こうに消えている。強くなってきた風を避けるようにしながら、彼は校舎への入り口に向かった。
「帰ろうぜ、古泉」
「はい」
 もうハルヒたちも帰ったかもしれんな、とつぶやく彼のあとから階段を下りていく。
こんなことで機嫌を損ねないといいんだがと続く声が、僕を気遣ってのことだと気がついた。
「……僕は大丈夫ですよ? 今ので、ずいぶん寝不足も解消されましたし」
「お前の心配なんかしてねえ」
 そんな見え見えの照れ隠しを言って、彼は階段を下りる足を速める。
誰よりも優しいくせに、誰よりも意地っ張りで、そんなところが涼宮さんと似ている。

 ――本当に、お二人はお似合いですよね。

 さっきの一次接触が成功しなくてよかった、と思いつつ、彼の背を追いかける。
すると彼が、ふいに階段の途中で立ち止まった。
「どうしました?」
 そう声をかけると、彼はふりかえり溜息をついて言った。
「お前な。もうちょっと素を見せたって、俺は困らないぞ」
「えっ?」
「……なんでもねえよ」
 そのまま振り返らずに、彼はさらに足を速めて文芸部の部室へと再び歩きはじめた。
僕はその意味をはかりかねて、しばらくそこに立ち尽くしていた。


                                                   END
(2009.10.09 up)

連作の1話目にあたるけれど、書いたのはけっこうあと。
キョンは起きてないです。