とあるいくつかの記念日
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 とある5月23日の昼下がり。
 ノートPCでネットを見ていたらしい彼が、へぇ、とふいにつぶやいたので、僕は読んでいた本から顔を上げた。
 せっかくの日曜日だというのに外は雨で外出もできず、昼食を終えてしまえば特にすることもない。僕らはそんな貴重な休日を、のんびりと自宅で過ごしているところだった。
退屈かと言えばそんなこともない。彼と一緒なら、こんな休日も悪くはないものだ。

 僕の視線に気がついて、彼はPCの画面から目を離してこちらをみる。
「5月23日は、恋文の日なんだとさ。お前、知ってたか」
「ええ、聞いたことはありますね。語呂あわせなんでしたっけ?」
「そうらしいな。5でコイ=A2でフ=A3でミ≠ナコイブミ。ちょっと無理やりだな」
 そう言って彼は、苦笑に似た笑みを浮かべた。
 僕は読みかけの本にブックマークをはさんで座っていたソファに置き、彼の側に寄ってパソコンの画面をのぞきこむ。
 彼が見ているのは、どうやら文具メーカーのサイトのようで、恋文の日にちなんで募集した、思い出の恋文コンテストなる催しの発表ページだった。ざっと目を通したところ、最優秀賞をとったのは、若い頃の思い出をつづった79歳の男性の作品のようだ。まぁ、妥当なところだろう。
「へぇ、戦時中の話か。面白いな」
 彼もそれを読んでいたらしく、画面を注視したままそうつぶやいた。後ろからのぞき込む僕は彼の身体にぺたりとくっつき、肩に顎をのせるような姿勢だが、なぜだか何も文句を言わない。普段なら絶対ここらで、重いの暑いのと邪険にする頃なのに、めずらしいこともあるものだ。
「ラブレターか。そういやお前はよくもらってたよな、高校んとき」
 ちらりと、彼が視線だけをこちらに向けてそんなことを言った。
「ええ……まぁ」
「くわしくは知らんけど、呼びだされたりなんだり大変そうだったな」
「はい……」
 彼が一体なんのつもりでそんなことを言い出したのか、読み取れなくて、ついあいまいな返答になる。彼の視線はもうパソコンの画面に戻っていて、マウスをカチカチいわせながらコンテストの他の作品をクリックしては画面に呼びだしていた。読んでいるのかどうかはわからない。
 確かにあの頃は、かなりの頻度で女生徒から手紙をもらったり、呼び出しをうけて告白されたりしていた。が、もちろん涼宮ハルヒ観察という大事な役目中の身で、そんな好意を受け入れられるはずもなく……いや、正直に言おう。当時の僕にはどうしようもないほど好きな人がいたから、他の人間なんて眼中になかったのだ。もちろんその人のことは、今でもさらに、どうしていいかわからないほど好きなのだが。

 いつの間にか、彼は黙り込んでしまっていた。気をひかれるものがあったのか、掲載されている作品を読んでいるようだ。どれを読んでいるのだろうとのぞきこもうとしたら、彼はひとつの作品を指しながら笑顔で言った。
「これ、メールで出したラブレターの話だ。文具メーカーへの投稿なのに、いいんだなこれでも」
 楽しそうなその様子に、さきほどの質問に何か含みがあるというわけではなかったのかとほっとしつつ、僕は首を傾げて話を継いだ。
「メールですか。今時って感じですねぇ」
「お前は、メールでもらったことはなかったのか」
「ありませんでしたね、そういえば」
「考えてみりゃ、今時はなんでもメールなのに、なんでラブレターだけはアナログなんだろうなぁ」
「さぁ……その方がロマンチックだからでしょうか。そう言うあなたは、どうです?」
 つい聞きかえして、しまったと思った。
「俺か? 生憎、その手のものはもらった試しがねぇな。殺害予告とか、未知との遭遇へのご招待ならあったが」
「ああ、朝倉涼子でしたっけ。TFEI端末の」
「あと、朝比奈さん(大)からな」
 もちろん彼は、ラブレターをもらったことなどあるわけがないのだ。涼宮さんへの影響を恐れて、彼へのその手のアプローチは、機関がひっそりと、だが確実につぶしてまわっていたのだから。このことはきっと、隠しておいた方がいいのだろうなと考えている僕の耳に、彼の何気ない口調でのつぶやきが聞こえた。
「まぁ、万が一もらったとしても、断ったろうがな」
 それが、僕と同じ理由であるということを、今の僕は知っている。急にこみあげてきた幸福感に、思わず後ろから両腕を彼の腰にまわし、きゅっと抱きしめた。
「……なんだよ、急に」
 今日は一体どうしたのか、彼はそれでも嫌がる様子もなく、左手で肩口に顔を埋める僕の頭をなでる。もしかしたら、意識がよそにいっているせいかもしれない。彼はコンテストの作品を、まだ読んでいるようだった。
「これもいいな。旦那の死後、奥さんが遺品から自分が昔に書いたラブレターを見つけたって。ああ、アナログがいいのは、こういうことがあるからかね?」
 確かに、メールよりは残りやすそうだもんなと納得したようにうなずくから、僕はつい笑ってしまった。
「何がおかしいんだ。失礼な奴だな」
「いえ、あなたも充分ロマンチックだなと思いまして」
 途端に、アホ抜かせ、との悪態とともに髪をぐしゃぐしゃとかき回された。やめてくださいと抵抗はしてみたものの、抱きしめた腕を離す気がなかったから結局されるがままだ。あきらかに照れ隠しの表情で、彼はわざと僕をにらみつける。
「お前も結構、とっとくタイプだろ。こういう思い出の品とか。まさか、今までもらったラブレター、大事にとってあったりしないだろうな?」

「え」

 しまった。再びの失言に、あわてて口を閉じる。が、時はすでに遅かった。
「……ほう。とってあるのか」
 彼の声色が、一気に零下にまでさがった気がした。腰を抱いていた腕を引きはがされ、顔をぐいと押されて身体を離される。
「俺はお前に、そういった類のものを渡した覚えはまったくない。ということは、お前は他のやつからもらったラブレターを、後生大事にとっといてるってことだな」
「あ、あの……っ」
「まぁ、別にいい。過去の交際履歴を、どうこういうつもりはない。お前にだって、捨てられない恋の思い出の十や二十あるだろうからな」
 ぱちっとノートPCを閉じて、彼は立ち上がった。そのままそれを小脇に抱え、自室へと向かおうとする。普段、寝るとき以外めったに戻らないのに。
 僕は大いにあわてて彼を追い、ドアにかけた彼の腕をつかんだ。
「待ってください! 誤解ですっ」
 彼は振り返りもしないで聞き返してきた。
「何がだ。本当はとっといてないのか?」
「いえあの……それは」
 あるわけないじゃないですか、と言えればよかったのだろうが、なぜか僕の嘘はすぐに彼にバレてしまう。なので言いよどんでいたら、彼は深く溜息をついた。
「……だから、別にいいって」
 手を振り払われそうになって、僕はその腕に必死ですがりつく。
あまり知られたくなかったのだが、こうなってはもう仕方がない。僕は彼の反応を予測して覚悟を決め、わかりましたお見せしますと宣言したのだった。



「で、なんだこれは」
「ですから……保管しているラブレター、です」
 あまりマメな方でない僕にしては精一杯のマメさで、ファイルに綴じてある紙切れたち。そこに、大抵は一言か二言、走り書きのようなシャープペンかポールペンでの筆致が見える。
 招き入れた僕の部屋で、渋々渡したそれを彼は読み上げた。
「『メシは冷蔵庫の中。温めて食え』『今日はバイトで遅くなる。先に寝てろ』『いつものスーパーで卵と牛乳が特売だから買っておけ』……って、俺が書き置いてった伝言メモじゃねぇか! これのどこがラブレターなんだよ!」
「だって! あなたから僕へあてた手紙であることは間違いないでしょうが!」
「うるさい! お前、キモイ!」
「失礼ですね! だから言いたくなかったんですっ!」
 もちろん、過去にもらったことのあるラブレターや告白への呼び出しレターなどは、片がつくと同時にさっさと捨てた。捨てることができないでいるのは、彼からの伝言が記されたこの紙片たちだけだ。
「こんなもんをよくもまぁ……」
「大事に扱ってくださいね。僕の宝物なんですから」
「バカだろうお前」
 クリアファイルのビニール製のページをパラパラとめくりつつ、彼がうなるようにつぶやく。なんとでも言え、と開き直ってその様子を見ていたら、ページを繰る彼の手がふいに止まった。
「これ……」
 のぞき込むと、そこに書いてある文字が見えた。
『しばらく実家に戻る。メシはちゃんと食え。あまり散らかすな』
小言じみたその伝言を自分がいつ書いたのか、彼は憶えているようだった。

「お前、こんなの……とっておくなよ」
 彼の表情が、悲しげに歪んだ。
無理もない。それは大学に入学したての頃、互いの気持ちを誤解しあっていた僕たちの、苦い思い出をよみがえらせるものであったから。彼が大学の先輩とつきあいはじめたのだと思った僕が彼を追いつめ、想いがすれ違ったままで、彼がこの部屋を出ていったときに、残したメモ。
「捨てちまえ、こんなの」
 ファイルから紙片を取り出した彼の手を止める。そんな記憶のカケラでも、捨てることはできないわけがある。
「ダメですよ。それはあなたが初めて、僕だけにあてて書いてくれた手紙なんですから」
 紙片を握りつぶそうとしていた彼が、怪訝そうな顔を向けた。
「……そうだっけ?」
「そうですよ。あなたときたら、用事はおろか年賀状すらメールですませていたでしょう? 僕は3年間、あなたの直筆をノートやら書類やら七夕の短冊やらでしか、見たことがありませんでしたよ」
「そうだったかなぁ……」
 なんとなく申し訳なさそうにつぶやいて、彼は困った顔で手元の紙切れを見つめている。捨ててしまいたい、とその表情は訴えていたが、僕はだめですとかたくなに拒み続けた。

 やがて根負けしたように、彼は溜息をついた。
「わかった。……ちょっとペンを貸せ」
「ぐしゃぐしゃにしたりするのは、ナシですよ?」
「わかってるよ」
 ペンを渡すと彼は僕に背を向けて、デスクの上で何やら書いていた。そして紙片を元通りにファイルに戻し、パタリと閉じて僕に手渡してからさっさと部屋をあとにする。
「古泉、コーヒー淹れてくれ」
 それはおそらく、仲直りしようという彼のシグナルに違いなかった。
 僕は、はいと返事をして、ドアが閉じたのを確認してからファイルを開く。問題のメモに彼が書き加えたらしい一言が、真新しいインクの色も鮮やかに目に飛び込んで来た。
『しばらく実家に戻る。メシはちゃんと食え。あまり散らかすな』という元の文章の、そのあとに新たに書かれていたのは、

『すぐに帰るから』

 ……そんな言葉。
胸の奥に、小さな灯火がともる。
それはじわじわと僕の内側を暖めて、やがてほわりとしたぬくもりが僕の全身を包み込む。
 5月23日、恋文の日。
この日、僕は世界一の幸せ者だったろう。
世界中の誰よりも大好きな人から、何よりも暖かなラブレターを、もらったのだから。



 ファイルを片付け、彼の待つリビングへと戻る途中、僕はそういえば、と思い出した。
5月23日には、もうひとつの記念日があったはずだ。
たしか、日本ではじめてそのシーンが登場する映画が封切られたことを記念した日。
 ――『キスの日』。
こちらもぜひ、この日にふさわしい行動をしなければなるまいと、僕ははずむような足取りで、彼の元へと向かうのだった。


                                                      END
(2010.06.06 up)
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なんという残念な男(笑)

キョンは、年賀状くらいはちゃんと出しそうな気もしますが。
自分からは出さなくても、もらったら返すタイプかなー。