道の途中で僕たちは
01

 だらしなく結ばれたえんじ色のネクタイに手をかける。
シュ、と音をたたて引き抜いたそれを放り投げ、常に二番目まではあいているシャツのボタンをさらにはずしにかかった。
 シャツの前を全開にすると、健康的に日焼けした肌がさらけ出される。
うっすらと汗ばんで、呼吸にあわせて上下する胸に手を触れた。

「古泉……」

 彼が、僕の名を呼ぶ。
シーツの上で微妙に視線をそらしながら、ゆるゆると腕を上げる。

「はい……?」

 かがみこんで、首筋にくちづける。
ビクリとすくませる身体を押さえ込み、そのまま首筋に唇を這わすと、彼はさらに身を固くした。あげられた腕が、強く僕の胸を押す。
「古泉……古泉、やっぱダメだ」
「え」
 思わず手を止め、顔を上げた。

「やっぱ男相手は無理だ。すまんが中止にしてくれ」

 そう言った彼の顔には、まぎれもない嫌悪の表情が浮かんでいた。さっさと立ち上がり、冷たい目で僕を見下ろしながら身を翻す。
 そのまま二度と振り返りもせずに、彼が去っていったところで――目が覚めた。

 自分が見ているのが自室の天井だと認識してから、僕はベッドの上に身を起こした。
部屋の中は薄暗く、まだ夜明けを待つ時刻。ああ、夢だったのかとつぶやいて、額に浮いた汗をぬぐう。心臓はバクバクと激しく脈打ち、汗がびっしょりと全身を濡らしていた。



「おはよう……ございます」
「おは……って、どうした古泉。ひっでえ顔色だぞ」」
 トースターにパンをつっこんでいた彼が、僕を見るなりそう言って顔をしかめた。
「具合でも悪いのか?」
「いえ……少々、夢見が悪くて」
「夢ぇ? 怖い夢でも見たのかよ」
 まぁ、恐いといえばこれ以上恐い夢もありませんけど。心の中ではそうつぶやいたけれど、口に出したのは、ええ、まぁといういささか曖昧な言葉だけ。彼は、ふぅん? と言いつつ首を傾げて、食卓に朝食を並べる作業に戻った。
「まぁ、俺もよく、ゾンビに追っかけ回される夢とか見て、夜中にとびおきるけどな」
「はは、あなたのはゲームのやり過ぎですよ」
 そうかもな、と肩をすくめてから、彼は用意を手伝うために近づいた僕の顔を、見上げるようにうかがった。ほんの少しだけ彼の方が背が低いので、そんな体勢になるのだ。
「朝飯は食えるのか。食欲ないようなら、たしか冷蔵庫にヨーグルトがあったぞ」
「いえ、大丈夫ですよ。お気遣い、ありがとうございます」
 至近距離にきた彼の唇に、思わず軽くキスをする。
 すると彼はたちまち真っ赤になって、朝っぱらから何をしやがるこの馬鹿と罵倒しつつ飛び退いた。だが彼の顔に浮かんでいるのは、怒りでも嫌悪でもない。ただ、照れているだけだ。今朝の夢とは違う。
 ……そのはずだ。だって僕たちは、つきあい始めてまだ2ヶ月ほどの、できたてホヤホヤの恋人同士なのだから。

 大学への進学を機にルームシェアをはじめた僕たちは、2ヶ月前、紆余曲折を経てようやくお互いの気持ちを確認しあったばかりだ。知ってみれば双方とも、高校時代から密かにお互いに片想いをしていたという笑っていいのか泣いていいのかわからない結末で、僕にとっては信じられないどころかありえないような事態だった。
 どこかひとつ、ボタンを掛け違えれば、こんな幸せな朝は訪れなかっただろう。そんなことを思いながら、僕は素直に神様に感謝する。
 そう。文字通りの、僕にとっての神様≠ノ。

「本当に大丈夫か、古泉。今日は寝てた方がいいんじゃないか?」
 コーヒーのおかわりをマグカップに注いで、彼が言う。悪夢の尻尾をいまだにひきずる僕を、気遣ってくれているようだ。
「悪夢は人に話しちまった方がいいらしいぞ。聞いてやろうか」
「いえ。……実はもう、内容はよく憶えてないんですよ。なんだか嫌な夢だったなと思うくらいで」
「そうか? まぁ、よくあることだが」
 本当は、夢の記憶は嫌がらせかと思うほどくっきりと脳内に焼き付いている。僕を押しのけた彼の冷たいまなざしも、吐き捨てるような拒絶の言葉も、着ていたのがなぜか北高の制服だったことまでもが、今でも鮮やかに再生できた。
 でもそんな夢の内容を彼に話せば、それは恨み言にしか聞こえないはずだ。彼はきっとそう受け止めるはずだと思う。僕にそんなつもりがなくても……。
 ―――本当に?
 そんな言葉が脳裏を横切る。
当たり前だ。そんなことで彼を恨むのはお門違いだ。わかっている。
 さわやかな初夏の朝。朝食の並ぶ食卓の向こうに、僕を気遣ってくれる最愛の人。こんな、幸せを絵に描いたような情景を前にして、何を贅沢なことをと自分に言い聞かせる。
 ……ああ、でも、ちょっとだけ。
ほんのちょっとだけ。溜息をつくぐらいは許してもらえるだろうか。

 あんな悪夢を見た原因はわかっている。
彼と恋人同士となって、そろそろ2ヶ月。
寝室は別々でも、同じ屋根の下に暮らしているというのに。
なのに僕らは一向に、キスから先へ進めないでいるのだった。



 20代の女性に聞いたアンケートでは、1ヶ月くらいというのがもっとも多い答えだという。
 なんの話かって? おつきあいを始めてから、次の段階……あけすけに言ってしまえば、セックスに踏み切るまでの期間のことだ。統計になんてあまり意味はないとわかってはいるが、そう聞いてしまえば、僕らはもう2ヶ月だなぁなんて考えてしまうのも無理ないだろう。
 僕は教室の後ろの方の席に座り、教授の講義を聞き流しながら、ボンヤリとそんなことを考えていた。悪夢のせいで睡眠が足りていないのか、ちっとも集中できない。高校の頃は、この程度の睡眠不足など日常茶飯事だったのに、平和ボケだろうか。

 先へ進めない理由は、ひとえに僕が臆病だから、というしかない。
彼との仲自体は順調だ。お互いに学業とバイトとで忙しくはしているが、彼のカフェでのバイトは週に3日ほどに落ち着き、帰りも11時をまわることはほとんどない。僕の方は例の“バイト”がほとんどないかわりに実験やレポートに追い立てられているが、それでも僕らは時間を調整しては一緒に夕食をとったり休日にはそろって出かけたりして、二人の時間を大切にしてきた。
 もちろん、キスはする。というか、むしろ互いの気持ちを確認する前から僕が卑怯な手段で奪っていたキスを、彼の了解の元にかわせるようになったわけだ。
 深く唇を重ね、舌をからめあって唾液と吐息をかわしあうキスは、それはもう気持ちよくて、もどかしい衝動が背筋を走る。このまま、もっともっと深くつながりたいと、身体と本能が叫ぶけれど、結局僕はそこで手を止めてしまう。彼がその先を望んでいるか否かの判断がつかずに、尻込みしてしまう。

 だが言わせてもらえば、この2ヶ月の間に、まったく何も努力をしていなかったというわけでもない。おそらく悪夢の直接の原因ともなった出来事があったのは、そう、数週間ほど前の、ある土曜日のことだ。


 夕食を終え、入浴もすませたあと、僕は冷えた缶ビールと借りてきたDVDを持って、リビングでくつろぐ彼に声をかけた。
「明日、特に予定はないですよね。ちょっと飲みませんか? こないだ言ってた映画を借りてきたんです」
「おう、いいな」
 気温的にもその日はビールがおいしく飲めそうな陽気だったし、翌日は日曜日だ。彼は酒にはかなり弱いが、自宅なのだからいくら酔ってもかまいやしない。……というか、有り体にいえばそれが目的だった。
 いい加減、硬直状態の僕らの仲を進展させよう、そのために、少々姑息ではあるが酒の力を借りよう、と、そういう魂胆だったのだ。思えば2ヶ月前に僕らの関係が変わり始めたのも、きっかけは酒だったようなものだ。ならば、もう一度頼むぞとそれに夢を託すのも、無理からぬことであると言えよう。言えるはずだ。うん。
 密かに緊張していた僕の頭をほとんど素通りしつつ、映画が終盤にちかづいた頃、彼がことんと僕に寄りかかってきた。見ると、酔いがまわったのか顔は真っ赤で、視線はどこか朦朧としている。手元の床には、かなりの数のビール缶が転がっていた。
「あれ……いつのまにそんなに空けたんです。大丈夫ですか?」
「ん? ああ……平気だろ別に」
 あきらかに平気でない口調で言って、彼は寄りかかったままで僕を見上げた。
ほんのりと上気した頬、とろんと潤んだ瞳、薄く開いた唇。色っぽいというか妖しいというか危険物というか凶器というかそんな表情で見上げられ、なんだか理性を試されているような気さえする。
 頭の奥で、ゴーサインだろうこれは、という声がした。心臓がバカみたいに躍り出す。顔が熱くなって、なんだかいろいろなものがはじけ飛びそうだ。
 ぐい、と肩を抱き寄せたら、彼は抵抗せずに身体を預けてきて、そっと目を閉じた。その仕草に誘われれるように、唇をあわせる。舌を入れようと唇をこじあけると、うっすらとアルコールの匂いがした。
 彼が差し出してくる舌を、舌でからめとる。湿った音をたてながら唇を触れあわせ、離し、また触れる。赤くなった唇の隙間からもれる息と声がだんだん熱を帯びて来たから、僕はもうエンディングの流れる映画などそっちのけで、彼の身体をソファに押し倒して首筋にキスをした。瞬間、彼の身体がビクリと震える。
「ん、ちょ……こいずみ」
「はい……?」
 顔をあげて、彼を見る。
と、そこで僕は、彼の表情に戸惑った。
「古泉……あのさ」
 嫌悪ではないと思う。恐怖でもない。
おそらく、困惑、というのが一番近いだろう。
どうやってやめさせよう。彼のその表情は、僕にはそう言っているようにみえた。
さっと、熱に浮かされていた頭が冷える。
「ああ……申し訳ありません。僕、ちょっと酔ってるみたいです」
「そ、うか」
 彼から離れて座り直し、手を差し伸べて彼が起き上がるのを助ける。彼はそれでもまだ、どこか困惑しているような顔をしていた。
「失礼しました」
 そう言って僕が作った笑顔は、機関のエージェントとしてのそれに近かったと思う。
いつもならそんな顔をしたら彼の叱責が飛ぶのだが、その日はただ、ああ、という返事が返ってきただけだった。


 そんな顛末をつらつらと思い出すしているうちに、講義はいつの間にか終わったらしい。
ざわめきながら退出していく生徒たちに紛れ、僕も教室を出る。ちょうどお昼だったので、学食で昼食をすませようと食堂の方に足を向けた。
 あの日以来、僕は彼にキス以上のことを仕掛けられないでいる。
彼が僕を拒絶しているわけではないのはよくわかる。相変わらず、僕が色めいたことを言えれば耳まで赤くして怒り出し、ふいうちで抱きしめたりキスをすれば鉄拳が飛んでくる。だがそれらはもちろん彼らしい照れの発動であって、ちゃんと時と場所を選べば、大人しく抱きしめられてくれ、キスも受け入れてくれる。
 でもそこでまた先に進もうとしたら、彼はまたあの困惑の目を僕に向けるだろう。そう思うと身体がすくむ。動けなくなる。嫌われたくないと怖じ気づく心が、今朝のような悪夢を見せる。
 臆病者だチキンだと言われても、僕に返す言葉はない。

「チキンね」

「…………っ」
 ああ……言われてもしょうがないと思ってはいたけれど、実際に言われると存外に傷つくものですね……って。
「す、涼宮さん……」
 定食の乗ったトレイを手に空いている席を探していた僕に、いきなりとどめを刺した声の主は、涼宮さんだった。例の事件の後、髪をばっさりと切った彼女の背後にはひっそりと、長門さんの姿もある。
「何、そんなにショック受けたような顔してんのよ。今日のA定食はチキンなのねって言っただけじゃない」
 ああ、そういうことか……。本日の学食メニュー、安価で人気のA定食のメインはチキンソテーなのだ。涼宮さんは、背伸びして僕のトレイをのぞきこみ、チキンもいいけど今日はカレーの気分なのよねと言った。
「ちょっと買ってくるから、古泉くんは席とっといてね! 有希、行きましょ」
 長門さんの手をとって、元気よく窓口に走って行く後ろ姿を眺める。なし崩し的に、今日の昼食はお二人とともにとることに決まったようだ。まぁ、別に否やはない。
 席を3人分確保して待っていると、涼宮さんは宣言通りにカレーライス、長門さんは大盛りのパスタの乗ったトレイを手にやってきた。
「席、ありがと! ……古泉くん、相変わらず食が細いのね。普通、あたしたちぐらいの年齢の男子って、定食プラスカレーかうどんくらい食べない?」
 席に座るなり、涼宮さんは定食だけがのった僕のトレイをのぞきこんで、そんなことをのたまう。
「そうですか? こんなものだと思いますが……」
「少ないわよ。有希の方がよっぽど食べてるじゃない」
 気持ちいいほど豪快にカレーを口に運びつつ、そんな無茶なことを言う涼宮さん。長門さんは隣でもくもくと、山のようなミートソースを攻略にかかっている。
 学生基準のここのメニューは、飛び抜けて美味しいわけではないがとにかく量が多い。大盛りともなれば、皿の上に小山のように盛り上げられた料理が出てきてびっくりする。僕が注文した定食のライスのサイズは小だが、それでも食べ物屋で出てくる普通盛りくらいはあるのだから、食べる量としてはごく常識的だろう。……長門さんが特殊なのだと思う。
「まぁいいわ。毎日、ちゃんとご飯食べてるんでしょうね?」
「もちろんです。ひとり暮らしをしていた高校の頃よりは、よっぽど充実した食生活を送っていますよ」
「そうなの? キョンと一緒に住んでるんでしょ?」
「ええ。彼の料理の腕も、だんだん上がってますし」
 惚気にならないよう、口調に細心の注意を払いつつそう答える。
 僕らの仲は、少なくとも涼宮さんにだけはバレてはならない。彼女はついこの間、彼に告白して失恋したばかりだ。好きなやつがいるから、という理由でふられた彼女が、その“好きなやつ”が目の前の僕だと知ったら……彼女のあの力がどうのというよりも、ただうしろめたい。
「へぇ。あのキョンがね。意外な才能ね」
 ズボラで大雑把なやつだと思ってたわと、彼女はわざとのように毒づく。
「家事なんて絶対母親まかせだったろうから、ひとり暮らしなんてしたら、部屋中ゴミためにするタイプよね。まぁ、古泉くんはきれい好きそうだから、その点は大丈夫なのかしら」
「ええ……まぁ、そうですね……」
 ああ、謝りたい。涼宮さんにも彼にも。確かに高校時代の僕は、そんなイメージのキャラを演じていたからしょうがないと言えばしょうがないのだけど、実際にズボラで大雑把なのは彼以上に僕の方だ。部屋をゴミためにしないように、あの頃は極力、物を増やさないようつとめていたくらいなのだ。今でも僕は、しょっちゅうリビングに脱いだものやら本やら雑貨やらを放ったままにしてしまい、そのたびに彼に大目玉をくらっている。
 ニコニコと笑顔のまま、内心で冷や汗をかいていたら、いつの間にか長門さんが僕の方をじっと見ていた。……彼女にはやっぱり、すべてお見通しなんでしょうか。
「あ、そういえば」
 ふいに涼宮さんが、カレーを食べる手を止めた。コップの水を一口飲み、顔を上げる。
「留学先、決まったのよ」
「ほう、どこですか?」
「イギリスよ。ケンブリッジ。有希も一緒に行くの!」
「へぇ。長門さんも」
 もちろんとっくに知ってはいたが、僕はことさらに驚いて見せた。まずは短期留学でしたっけ?と聞いてみると、涼宮さんはにっこりと笑ってうなずいた。
「まずは様子見よ! 面白かったら来年からちゃんと行って、SOS団の海外支部を作るつもり。そしたら、日本の本部は古泉くんに任せるからね!」
「光栄です。そのときは謹んで拝命いたしますよ」
 頼んだわよ、と言い放ってから、彼女は腕を組んで難しい顔をした。
「そうなったら、しょうがないからキョンが副団長に格上げかしら。みくるちゃんはマスコットだし……有希はあたしと一緒にくるのよね?」
「行く」
 間髪入れずに、長門さんはうなずいた。まぁ、そうだろう。
「ああ、でもキョンに副団長なんて務まるのかな……あいつってば頼りない……し……」
 急に言葉をとぎらせて、涼宮さんの表情が沈んだ。ぽつりと、でももうあたしが心配するようなことじゃないのかしら、とつぶやく。失恋の事実を思い出したのだろうか。
「ねぇ、古泉くん」
 いきなり呼ばれて、僕は思わず目をしばたたいた。
「は、はい?」
「キョンの好きな人って、誰だか知らない?」
 ズバリと直球で切り込んでこられて、僕は思わず噛んでいた鶏肉をまるごと飲み込んでしまった。あわてて、水で喉にひっかかった肉を奥に流し込み、なんとか答える。
「えっと……すみません」
 しらを切るのもなんだか気が引けて、僕はただそれだけを口にした。幸い涼宮さんは、その答えを、知らないという意味にとってくれたようだ。
「そう……。誰かなぁ。問い詰めても口を割らなかったってことは、あたしの知ってる人かしら」
「…………」
 なんだか、ものすごくいたたまれない。高校時代ならきっと、罪悪感と背徳心で死にたくなっていたところだろう。あの頃の僕にとって彼女に背くことは、イコール、世界を見捨てることだったから。
 彼女は右手にカレースプーンをぶら下げたまま、頬杖をついて物憂げに続けた。
「キョンってさ、ボーッとしてやる気なさそうに見えるけど、実はすごく他人のことよく見てるのよね。ときどき何もかも見透かされてる気がしてびっくりするわ」
 面白くなさそうな顔でぼやく彼女に、僕は無言でうなずいた。
 よくわかる。そんな彼の洞察力に何度も驚かされ、そのたびに見える彼の気遣いや優しさに何度も癒された。そしていつのまにか、僕は彼から目が離せなくなったのだ。
「でも、そのくせ自分のことには、ものすっごく鈍感なのよねぇ。……ううん、違うわね。わかってるけど、なかなか認めたがらないのよね。あたしと一緒」
「涼宮さん……」
「だからね。そんなキョンが、その人を好きだって認めたのって結構すごいことだと思うの。よっぽど悩んで悩んで、やっと認めたんだと思うわ。きっと」
 涼宮さんはそこで頬杖をついたまま顔を上げ、スプーンの先を僕に向けた。
「あたしはまだキョンをあきらめる気はないんだけど、でも、がんばって欲しいとも思うのよ。好きなやつがいるんだって言ったときのキョンの口ぶりだと、なんかあんまりうまくいってなさそうだったけど、今はどんな感じ?」
 同居人なら様子はわかるでしょ? という彼女の質問に、僕は少し考えた。そのときの彼の懸念は、その後、僕と想いを通じ合わせたことで解消されたはずだ。が、今はまた別の問題で、彼は悩んでいるだろう。
「そうですね……このまま進んでいいものか、迷っているような様子です」
 たぶん、そういうことなのだ。
彼が、僕のことを好いてくれているのは確かだと思うけれど、それとセックスは別問題だ。僕らはなんと言っても同性同士なのだから、とまどう気持ちもわかる。彼は僕を受け入れられるかどうか、迷っているのだろう。
「そう……。キョンって、悩んでてもあんまり人に相談しないわよね。自分の中で考えて考えて、ある日いきなり行動に移すの。古泉くん、キョンのこと見守ってあげてね。迷ってるように見えるんなら、きっと今は考えてるのよ。結論が出たらたぶん走り出すから、見ていてあげて!」
 高らかに告げて笑った涼宮さんの顔は晴れやかで……ちょっとだけ寂しそうだった。あのとき閉鎖空間に現れた、神人だったらしい彼女のように。
 カレーとパスタをそれぞれ平らげ手を振って立ち去る彼女らを、僕はまぶしく見送った。本当に、我らが団長にはかなわない。

 彼が考えている最中だというなら、いくらだって見守ろう。
確かに、あの意地っ張りな彼が自分の恋心を―――しかも相手は僕なのだ―――認めるのには、どれほどの葛藤があったのだろうと思う。おそらく彼のことだから、認めてしまえばあとはあっさりとしたものだろうが、そこに至るまでの懊悩はきっと激しかっただろう。
 それでも彼は、僕を選んでくれた。3年もの間、望みがないと思い込んでいた恋を、大事にしていてくれた。その喜びにくらべれば、たかが2ヶ月、セックスまで進めないくらいなんだというんだ。
 幸い理系の学生は忙しすぎるから、そちらに没頭すればよけいな煩悩は押さえられる。むりやりコトを進めようとして彼を傷つけるくらいなら、今はキスだけで満足して彼の考えが固まるのをゆっくり待とう。
 ……まぁ、キレイごとかもしれない。好きなら、身体ごと欲しくなるのは自明なのだ。セックス無しでもかまわないとはとても言えないのは、しかたない。そのへんに目をつぶったその決意が、僕の臆病から来る逃げ口上の一種でないとは言いきれないだろうが、それでも確かに愛はあるのだから大丈夫。僕は胸のうちで、そうつぶやいた。



「……もう、いっそ殺してください……」
 待とう、と決心してほんの数時間後。僕のその決心は、早くもぐらつき始めていた。
早すぎると誹られてもしょうがないとは思うが、言いたい人にはぜひ、目の前の惨状を見ていただきたい。
 夕食後、風呂からあがってリビングに戻ったら、彼がソファに寝そべって、すぅすぅと寝息をたてていた。しかもパジャマのズボンを履かず、上着だけを着込んだあられもない姿で。よっぽど暑かったのか、その上着もボタンが中程まではずされてはだけられ、胸のあたりに色づく突起……まぁ端的に言って乳首、までもが丸見え、脚は太ももまですっかりむきだしだ。少しだけひらいた唇から寝息がもれ、伏せられた睫毛はかすかに震えている。
 ……なんですか、この据え膳。
そんなに僕の理性にチャレンジしたいんですか。
あなたが風呂から上がって、パジャマのズボンを履かずに出てきたとき、僕は風邪をひくからさっさと下を履けと忠告しましたよね? あなたは、暑いからもうちょっと涼んだら履くと約束しましたよね? それなのに、なんだってそんな無防備な姿で寝てるんですか。襲われたいんですか。襲っていいんですか。
 混乱した頭を落ち着かせるべく、ひとしきり素数を数え、数式をいくつかさらってから、僕は彼に近づいてそっと肩をゆすった。
「起きてください。そんな格好でうたたねしてると、風邪をひきますよ」
「ん……」
 何度か繰り返すと、かれはむずがるように顔をしかめて嫌々をしてから、目をこすりつつ起き上がった。けっこうしっかり寝入っていたのか、まだボンヤリとしている。
「寝るなら、ベッドに行った方がいいですよ」
「ああ、古泉か。……そっか」
「どうしました?」
 溜息をついてつぶやいた彼の側にしゃがみこみ、顔をのぞきこむ。すると彼は、ふにゃっと擬音をつけたくなるような微笑みを、その顔に浮かべた。
「いや……。目が覚めて、最初に見える顔がお前って、なんかいいなと思っただけだ。同居の醍醐味だな、うん」
「…………っ」
 首筋や胸のあたりを掻きながら、彼はふわぁと大あくびをする。そして、固まって動けない僕に気づいて首を傾げ、手を伸ばしてきた。
「古泉? どうした」
 彼の手が腕に触れた瞬間、僕はあわてて身を起こしてぶんぶんと首を振った。そして驚く彼に、風邪ひかないうちにズボン履いてくださいね! と叫ぶように告げて、自分の部屋に逃げ込んだ。
ああもう……ホントにいっそ殺してくださいよ……。

 彼の無意識の理性破壊工作は、それからも度々僕を襲った。
「古泉、口開けろ」
「はい? ……んむっ」
 呼びかけに振り返ると、口に何かが押し込まれた。思わずかみ砕いたら、シャクッという音と共に、みずみずしい味が口に広がった。
「キュウリですか?」
「農学部の前通ったら無人販売があったんで買って来た。無農薬だそうだ」
 彼が、シンクに張った水の中からキュウリを取り出してみせる。なるほど形はいびつだが、おいしそうな緑色に光っている。水の中にはトマトの姿もあった。
「夏野菜ですね」
「塩か味噌つけて食うとうまいぜ」
 彼はそう言って切らないままのキュウリを1本口に咥え、もごもごとさせながら野菜の水洗いを続けている。僕はもらったキュウリにヤケクソのように噛みつきながら、そんな彼の姿から想起される妄想を振り払った。
 それなのに彼は、
「あ、マヨネーズもいいな」
 などと言いつつ、咥えていたキュウリにマヨネーズをつけて、あろうことか舐めだしたりするのだ。お行儀が悪いですよとたしなめれば、彼は悪戯っぽく笑って、すまんといいつつ首をすくめてみせた。
……今夜のオカズは決定ですね。いえ、夕飯的な意味ではなく。

 わかってもらえるだろうか。
この惨劇に目を背けないでいられる強者がいるなら、ぜひその心得をご教授願いたいものだ。
彼が僕を信頼して、こんな無防備な姿を見せてくれているのだということはわかる。それは素直に嬉しいと思う。が、その反面、その無防備さが憎らしい。
 僕だって男なのだ。しかも、対涼宮さん用のさわやか好青年な仮面の名残で、いまだに敬語も抜けず紳士的なふるまいが習い性になってはいるが、どちらかと言えば狩猟本能が勝っているタイプだと思う。だからこその戦闘員だったのだろう。
こんな僕の前に、日々無防備な姿をさらす獲物が一匹というこの状況。忍耐の緒が切れて彼に牙を突き立てる日は、そう遠くない気がする。
 理性と本能がせめぎ合う葛藤の日々の中、自分の心の処理でいっぱいいっぱいだった僕は、彼の様子の変化に気がつかなかった。
 迷うようだった瞳の色が、いつのまにか寂しげな影に変わっている。
そのことに僕が気づいたのは、不覚にも涼宮さんが言った通り、彼が走り出し≠トからのことだった。


                                                    NEXT
(2010.03.28 up)

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初夜編前編です。
やっぱりぐるぐるする古泉。